早朝

 

 午前5時30分。川端西高校野球部のキャプテン、新月の朝は早い。大量の野球用具と申し訳程度の勉強道具を入れたかばんを肩にかけ、精力を全身にみなぎらせて野球部のグラウンドへと駆けていく。

 バタ西野球部は7時から始業30分前の8時まで、毎日朝の練習を行っている。その中で、新月はじめ一部の体力あふれる選手たちは、さらに早い時間から自主練習を行うのが日課になっていた。彼らはこの自主練習を朝練を超える練習、「超朝練」と呼んでいて、バタ西野球部の伝統となりつつある。

 新月がこの伝統行事に参加し始めたのは1年以上前、1年生の6月までさかのぼる。バタ西野球部に入って高校野球のレベルに圧倒されていた新月は、当時三年生のキャプテン浅越さんや二年生の島田さんといった先輩たちにならってこの「超朝練」に加わり始めた。

 浅越さんがいたころは、みな6時前後に集まっておとなしく練習をしていた。角田監督の歯止めが、キャプテンを通じて有効に働いていたからだ。

 監督はこの練習に反対の立場をとっている。ダラダラ長く練習して本来の練習に身が入らないぐらいなら、短い時間でも集中した方がはるかに効率がいいからだ。

 とはいえ寝る間も惜しんで練習しようとする球児たちの熱意は評価すべきであるし、その上浅越さんや島田さんなどは通常の練習でも他の部員より気の入った動きを見せていたから、監督としても頭ごなしに否定するわけには行かなかった。

 そういうわけで監督は、午前6時の開始時間の厳守を浅越さんに言い、暗黙の了解という形で一応「超朝練」を認めていた。浅越さんもまた律儀な人だったから、監督の言いつけをきちんと守って「超朝練」の運営を取り仕切っていた。

 夏の大会後浅越さんが引退し「超朝練」の中心者が島田さんに移ると、秩序が崩れた。島田さんが監督が決めた6時より早くに練習を始めるようになったのだ。

 参加メンバーは、通常の練習で少しでもたるんだ様子を見せたら自主練は即中止、という監督から出された条件を恐れて、島田さんの暴走を無視して練習を続けた。ただ一人、新月を除いて。

 暴走が始まる前から、島田さんと新月は同じく足を武器とする選手として、50m走、100m走、ベースランなどのタイムを争うライバルだった。二人の中で燃えさかる必要以上に旺盛な闘争心は、彼らを早起きの競争に駆り立てた。

 新月が島田さんの到着五分前、5時35分にグラウンドに現れたある日に、際限のない争いが始まった。

 5時30分、5時20分、5時10分……

 二学期の中間テストが始まって一夜漬け体制に入るといったん競争は静まったが、10月上旬にもう一人のライバル、当時二年生の土方さんが姿を現すと、火の手が再び上がった。

 三人とも体力は異常にあるものだから、そして授業を睡眠時間としてフル活用していたものだから、通常の練習でも動きはすこぶる軽い。それでも11月の中ごろ、島田さんと土方さんが午前4時20分にグラウンドに来ていたことが角田監督に知れると、さすがに雷が落ちた。

 以降、監督による秩序の再構築、三人による破壊、監督の落雷……といったスパンが何度か繰り返された後、島田さんたちは引退していった。

 キャプテンとなった新月は、その頃の自分の「若さ」を後悔している。

 もう少し大人にならなあかん。これからは5時30分の「超朝練」開始を自分が率先して守り、他のメンバーにも徹底していこう。

 相変わらず監督は難色を示しているものの、今のところ新月の決意は続いていた。

 

 まだ閉じている正門の前に着くと、その横にある扉の鍵を手に取る。0から9まで数字のついた南京錠だ。そのうち5つを押して鍵を開けるのだが、今日は先客がいるらしい、すでに開錠されていた。

 校内に入って野球部グラウンドまでたどり着くと、先客はバックネットの前でストレッチをしていた。

「あ、キャプテン、おはようございます!」

 左足首を両手で持ちながら挨拶をしたのは、一年生のキャッチャー道岡だ。

「おっす。ついに来たんか。今年の一年生では一番乗りやで」

 新月は後輩のやる気を歓迎した。今日は9月2日。一年生の6月に自主練習を始めた新月に比べれば遅い時期だが、それをもって単純に両者の意気込みを比べることはできない。

 新月が一年生だった昨年は学校の規制があって、他の部活と同じく夜6時半までの練習しか許されていなかったのだが、今年の春、バタ西野球部は見事初の甲子園出場を果たしたため、さらに遅い時間までの練習が認められるようになった。

 夜に練習時間が確保できるようになった分だけ、自然に朝の自主練習も徐々に廃れつつある。

「いや、昨日も来たんですけど」

「え?マジで?」

「はい。誰も来なかったんで寂しく動いてたんですけど……」

「……昨日はみんな宿題片付けるのに必死やったからなあ。徹夜で。え、お前はもう終わらしてたんか?」

「はい。夏大会が終わった直後ぐらいに一気にやっときました」

「へえ。見かけによらずまじめやなあ」

「藤谷さんに言われたんです。キャッチャーに一番大切な計画を立てる能力だ、そのキャッチャーが目の前の練習に追われて宿題を溜め込むようじゃダメだって」

 藤谷さんは三年生、他を圧倒する頭のキレと異常なまでのデータ収集、分析を元に、バタ西野球部を戦略面で支えた前の正捕手だ。道岡は偉大な先人として藤谷さんを心から尊敬している。

「……なんかうまく丸め込まれてる気がするぞ」

 新月はそう言うが、悪い方向に丸め込まれたわけではないから別に構わないだろう。

 ともあれ、二学期最初の「超朝練」はこの二人からスタートした。

 

 道岡がこの自主練習に加わったきっかけは、七条高校との練習試合中の何気ない会話であった。

 バタ西の攻撃中、高校野球界随一の速球で打者たちをなぎ倒す大河内はもちろんすごかったが、その彼に首を振らせずリードし続ける一年生キャッチャーの伏見もただものではなかった。

 その伏見に注目した新月は、その時隣にいた道岡に話しかけた。

「道岡、大河内の影に隠れて気づかんかも知らんけど、あの伏見ってキャッチャーはすごいで」

 ええ機会やから、お前もよう見て学んどけよ、と続けるつもりが、道岡から帰ってきたのは思わぬ言葉だった。

「そうですね。中学時代から普通じゃなかったですけど」

「あ、前から知ってたんか?」

「はい。僕らの世代で、中学時代にそこそこ強い軟式のチームにいた人だったら結構知ってると思いますよ」

 ちなみに新月は中学時代リトルシニアのリーグに所属、つまり硬式野球をやっていた。

「新潟の中学のキャッチャーだったんですけどね、そのチームが二年連続で全国大会の準優勝したときの中心選手が伏見だったんです。優秀選手にも二年連続で選ばれてました」

「準優勝なんや」

「だから余計に印象に残ってるんでしょうね」

「やっぱり七条ともなるとそんな選手ばっかり集めとるんやろなあ……」

 新月の言うように、強豪七条高校の野球部には軟式、硬式を問わず中学時代に輝かしい実績を残した選手たちがたくさん入部している。中には全日本の選抜チームで世界大会に出場していた選手もいるほどだ。

「一年生で七条の捕手をやってるくらいですからね。やっぱり素質が違いますよ」

 そんな発言に潜む道岡の逃げ腰な姿勢を、新月は見逃さなかった。

「いや、お前も頑張ったら今年中にレギュラー取れるだけの力は持ってると思うで」

「それはないですよ。後藤さんがしっかり構えてますし……あと一年頑張って、それから狙いに行きます」

「なんや、お前らしないなあ」

 道岡も道岡なりに悩んでいるのだろう。そんな時に勇気づけてやるのも先輩の役目だ。

「もう忘れたんか知らんけど、藤谷さん以外で土方さんの球を受けられる捕手はお前だけやったんやで。後藤も「手が痛くなる」って必死で逃げ回ってた中でよう頑張ってたやないか」

「まともには捕れてませんでしたけどね」

 確かに道岡は、揺れ動く土方さんの豪速球をはじいたり、体で受け止めたりと満身創痍でキャッチャーボックスに座っていた。捕球技術だけでなくさまざまなインサイドワークも、打撃も走塁も、現時点では正捕手後藤のほうが上だ。それでも新月は道岡に期待している。

「俺が言いたいのはな、あれだけの気合を持ってればレギュラーは決して遠くない、ってことや。一年とか弱気なこといわずに、今日からでも後藤にぶつかっていけよ」

「できますかね……」

「できるかどうかじゃなくて、やるしかない。そや道岡、新島帰ったら『超朝練』に参加せえへんか?」

「超……朝練?」

 こうして道岡は、新月が続ける朝の自主練習に参加することとなった。

 繰り返すが、新月は道岡に期待している。

 その理由は道岡が、浅越さん、島田さん、新月と続くバタ西の熱い血潮を受け継いでいる選手だから、一年生の中で一番の肩を持っているから、ということだけではない。バタ西の未来を決めるエース南条を真正面で支えられるのは、道岡のような強心臓を持った捕手だけだ、と新月は確信しているのだ。

 

 いかに特殊な時間帯とはいえ、まずはすべての基本であるランニングから始まる。グラウンドに隣接する裏山の道を黙々と走って10分ほど経ったとき、道岡が口を開いた。

「キャプテン、ペース速くないですか?」

 まだまだ道岡に疲れは見えない。この男の体力はチームの中でもかなり高いレベルにある。だからこそ、新月はこのトレーニングに道岡を誘えたのだが。

「おう、午後の練習のときよりは速いで。涼しいからな」

 9月に入ったとはいえ、日中はまだ暑い。夏のランニングの主たる目的は暑さに耐えられる体を作ること。ペースを無理に上げても効果は薄い。しかし早朝や夜間なら、速めに走ってスタミナをつけることもできる。

「どうや、まだいけそうか?」

「はい。大丈夫です」

「じゃあ普段のペースに戻すわ」

「え?」

 新月はさっと前に出た。これでも「新入り」に配慮してペースを抑えていたようだ。大丈夫だといった以上は、道岡もあわててついてゆく。

 そうして合計で30分ほど走った後、二人はグラウンドに戻った。道岡はしっかりと息を切らしていた。体力が足りないというよりは、この時間の運動にまだ慣れていないらしい。

 道岡がひざに手を置いたままベンチに目を向けると、中で何者かがうごめいていた。

「キャプテン、誰かが……」

「あれか? 具志堅やな」

 二人がベンチに駆け寄ると、確かに床に寝転がった具志堅が力強くバーベルを持ち上げていた。

「お、新月か。隣にいるのは……」

 具志堅はいったんバーベルを下ろし、視線を動かす。

「おはようございます!」

「お、道岡か。朝から感心だな」

 そう言うと、再びバーベルを持ち上げ始めた。具志堅もまた、昨年の冬ぐらいからこの自主練習に加わっていて、皆のいる中ではなかなかできない筋力トレーニングにほとんどの時間を割いている。

 道岡と新月はいったんベンチを出た。

「あのバーベルって、今年の正月に監督が仕入れてくれたって聞いたんですけど」

 太ももに手を置き、ランニング後のアキレス腱を伸ばしながら道岡がたずねる。

「そうそう。お年玉って言ってな。うちの監督もなかなかシャレとるやろ?」

「いや、シャレてるかどうかはわかりませんけど……あのバーベル、前にちょっと持ち上げてみたんですけど結構重いですよね」

「ちょっとどころかだいぶ重いで。あんだけ何回も上げられるんは具志堅ぐらいちゃうか?」

 新月は内ももの筋肉を伸ばしながら、ベンチの方に目を向ける。具志堅は相変わらずゆっくりと、より負荷のかかる方法でバーベルを持ち上げていた。道岡もまた具志堅の筋トレに驚異のまなざしを向けながら、同じ一年生の名前を出して答えた。

「張も結構普通に持ち上げてましたよ」

「あいつか。あいつも力あるもんなあ。そや、あいつも『超朝練』に呼んだろか。たぶん具志堅が面倒見てくれるわ」

 そうやそうや、と何度も繰り返して、新月は自分の「ナイスアイデア」をたたえた。

 実を言うと道岡はすでに、張をはじめ何人かの一年生に声をかけているのだが、新月があまりに浮かれた顔をしているのでそのことは黙っておいた。

 

 それから二人は短距離ダッシュをこなした。

 新月はよほどのことがない限り毎日ダッシュを行うよう心がけている。短距離の走力は多分に素質が影響する分野なのだが、俊足の陰にはこうした地道な努力が隠れていることを忘れてはならない。

 6時30分。練習開始から一時間がたった。二年生たちが何人か来ていた。そのほとんどは柴島、庄司など普段の練習でも突出した動きを見せている選手たちだ。伝統は崩れていない。

 そうした中で同じく二年生の刈田が姿を現した。

 刈田はベンチに荷物を置くと、ランニングもせずにバットを持って新月の元に向かった。新月は少しおびえながらも気合の入った顔をして待ち受ける。

 何が始まるんだろう、と道岡が彼らの動きを見ていると、刈田はとんでもなく近い距離で新月にノックをし始めた。

 監督が見ている中でやればとめられかねないし、実際に危険の伴う練習だが、新月はひるむことなく刈田の近距離ノックを受け続けた。打席の中とは見違えるほど正確なバットコントロールで鋭い球を打ち込む刈田と、しきりに受け損ないながらも決して距離を開けようとしない新月。

 グラウンドに九つしかないレギュラーの座を奪うということが何を意味するのか、道岡は新月が身をもって教えてくれているように思えた。

 できるかどうかじゃなくて、やるしかない。

 まずは秋大会だ。道岡は意を固め、鍛錬を続ける先輩たちの元に走っていった。

 

 

次へ

第六章メニューに戻る

小説目次に戻る

ホームに戻る

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送