千尋の谷

 

 秋季新島県高校野球大会一回戦、開会式の日の第二試合、川端西高校は新陽工業高校に15−1で勝利した。

 バタ西打線は初回から新月のスリーベースを皮切りに7得点の猛攻。先発のマウンドには南条が登板し、二回に死球とヒットで一点を奪われるも、すぐさま持ち直して後続を断ち切った。その後も打線の勢いが衰えることはなく、具志堅の1ホーマー4打点などもあり計15点を奪取。五回コールドで初戦を制したのだった。

 目の覚めるような快勝の後にも、ただそれに酔って満足しているわけにはいかない。バタ西の選手たちは球場に残り、直後に行われた試合、軒峰高校と川端高校の一戦を三塁側の内野席から偵察していた。この試合の勝者とバタ西が約一週間後の二回戦を戦うことになるだけに、グラウンドを見据える選手たちの目はいつになく真剣だった。

 両者ともここ数年、県大会で高い実績を上げている公立高校のチームだ。軒峰高校は昨年秋大会の優勝チーム。一方の川端高校は、一昨年の夏大会で準優勝、昨年の夏大会ではベスト4。ちなみにいずれの準決勝でも、川端高校はバタ西と対戦している。

 現時点での前評判は軒峰高校の方が上だという。その最も大きな要因をなしているのが、いまマウンドで川端高校打線を打ち取っている、左腕エース吾妻(あづま)の存在だ。サイドハンドながら直球の球速は130km/hを越え、大きく滑るスライダーは特に左打者にとって大きな脅威になる、とバタ西マネージャーの水本沙織は分析している。

 実際今日の試合でも、電光掲示板の球速表示は何度も130キロ台を記録していた。評判高いスライダーも、この内野席から正確に曲がり具合をつかむことはできないが、川端高校の打者たちにとってかなり打ちづらい球だろう。

 エースの存在を抜きにすれば、この両校に大きな戦力差はない。むしろ、守備力や打線のつながりは川端高校のほうが上だと言われている。試合は六回表を終わって2−1。一回戦らしからぬ緊迫した試合展開を、偵察のために神経を研ぎ澄ますバタ西の選手たちだけでなく、一般の観客も真剣な面持ちで見守っている。

 軒峰高校の内野陣がボール回しを終え、左打席に川端高校の五番打者が入り、六回の裏が始まった。吾妻はストレートで打者を早々に追い込み、外に逃げるスライダーでタイミングを外して今日五個目の三振を奪った。

「ふう」

 吾妻の鮮やかな奪三振に軽い歓声を上げるスタンドの中で、一人深刻なため息をつくものがいた。バタ西の打線の軸で、今日の試合でも3打点の活躍を見せた金田貴史だ。

「なんなんだよさっきから。うるさいぞ」

 繰り返されるため息に、隣に座っていた一年生、八重村が文句をつけた。位置付けとしては三番手投手の彼に、次の試合での出番は保証されていないが、それでも万一のことに備えて真剣に観戦している。集中力を切らされてはたまらない。

「いや、ここからじゃ球がよく見えないからな。ストレスがたまるんだよ」

「もっといい場所に行きたいってこと?」

「そういうこと」

 貴史の目線はバックネット裏の方に向いた。確かにそこなら、吾妻の球が今よりよく見えるだろう。

「じゃあ行ってきたら。別に強制されてここに座ってるわけじゃないんだから」

 八重村の言うとおり、選手たちは特にここの場所で観戦することを指定されているわけではない。ただ角田監督に先導されてスタンドに入り、監督が真っ先にここに座ったので、選手たちもなんとなくその周りに集まっているだけだ。

「冷たいな……そりゃそうだけど、一人だけ立つのもなんとなく気まずいしなあ……」

「はいはい、わかったよ。一緒に行けばいいんだろ」

「すまんな」

 一応監督に一声かけて、二人はバックネット裏まで歩いていった。アウトカウントは二つになり、吾妻は打者を2−2に追い込んでいた。

 バックネット裏は一番人の集まる席だ。とはいえまだ地方大会の一回戦。ガラガラとまではいえないが、二人が座るだけの席は十分開いていた。

 二人が腰を下ろした頃には吾妻がこの回最後のストライクを取り、試合は七回の表へと移っていった。

「あーあ、終わったか……」

「本当は最初からここで見たかったんだろ? 先に言っとけばよかったのに」

「いや、でもなあ。みんなあっちに座るから……」

 貴史には周囲を気遣いすぎるところがある。打席でのあの鋭利な視線と思い切りのいい打撃からは想像できないほど、普段の金田貴史は謙虚な男だ。それはあまりに自分を押し出しすぎた過去の苦い経験から来ていることでもあるのだが……ここではもう繰り返さない。八重村もそれをよくわかっているから、ブツブツいいながらも貴史の行動にすんなり従うのだった。

 七回の表、軒峰高校打線は川端高校から二点を奪いさらなるリードを取った。とはいえ2アウト二、三塁のピンチに追い込まれながらそれ以上の加点を許さなかったの川端の守備陣は、さすが優勝候補の一角とほめるべきだろう。

 試合を決定付けかねない二点のうちの一点を叩き出した、四番打者でもある吾妻は、七回裏のマウンドに颯爽と向かっていった。球数は80球を越えているはずだが、ストレートの球速はほとんど落ちていない。

「この様子だと今日はすんなり軒峰が逃げ切りそうだな」

 吾妻のピッチングに疲れは見えない。八重村は、おそらく球場の多くが抱いているだろう意見を口に出した。しかし貴史の考えは違っていた。

「いや、そうとも限らないと思う。そろそろ目も慣れてきてる頃だろうし」

「あのスライダーに?」

「それもある」

「そうか? ここから見ても曲がりがよくわかるほどの球だぜ、そう簡単には……」

「そう、ここから見てもよくわかるんだよ」

 貴史はグラウンドを見つめる目線をいったん八重村のほうに向けて言った。

「バッターボックスよりずっと向こうで曲がってるってことがな」

「え? どういうこと?」

「曲がりが早すぎるってことだよ。内野スタンドで見てたときからそうじゃないかと思ってたんだけど……ここから見たらさらによくわかるな」

 ここでようやく、貴史があれほどもどかしそうにしていた理由がわかった。内野スタンドからでは、特に変化球の様子をきちんと把握することは出来ない。

 ちょうど吾妻がピッチングフォームに入った。長い左腕からボールが繰り出される。左打者の外へ逃げるスライダー。

「早い……のかな」

 川端の打者はそれを見逃し次の球を待った。八重村の目には、そう言われてみれば早めに曲がっている気がしないこともない、という程度にしか移らなかった。

「打席から見ればもっとよくわかるはずだけど」

「へえ……」

「あれはもうすぐ捉えられるな。川端打線の振りも合ってきてるし」

 貴史がそうコメントした瞬間、グラウンドで快音が響いた。川端高校の打者がセンター前に痛烈な当たりを放ったのだ。

「ほんとだ……でも、ストレートもまだ速いし」

「確かに球速はあるけど、それほど威力はないんじゃないか?」

「いやいや、お前にとってはそうかもしれないけど。普通のバッターには……」

 八重村が続きを言いかけたところで、早くも次の打者のバットが再び軽快な金属音を鳴り立てた。初球打ちだ。

 引っ張った打球は高々と上がったが、定位置から数m下がった右翼手のグラブに収まった。

「ほらな。さっきからフライの飛距離が全体的に伸びてるだろ。手元での伸びが足りないんだよ。回が進むごとに三振の割合も減ってるし」

「そうかな……?」

 八重村は、貴史の言葉をこじつけに感じていた。いくら貴史でも、バックネット裏から、バッターボックスから優に10mは離れているこの場所から、ストレートの伸び云々まで判定することが出来るのだろうか。付き合いの長い八重村は、貴史の打者としての力量を十分認めていたが、それでも腑に落ちなかった。

 川端打線はその回さらに二本の安打を浴びせて一点を奪った。だが反撃もそこまでに終わり、八回以降は沈黙した。

 被安打や四球もあり完璧に抑えていたわけではないが、吾妻はテンポを崩さず9回を投げきり、4−2のスコアで試合終了となった。

 最後のバッターがショートゴロに打ち取られた瞬間、貴史は懲りずにこんなことを口にするのだった。

「……あれでも優勝候補か。情けない」

「お、おい、関係者に聞こえたらどうするんだよ」

「さあ? 本当のことなんだから仕方ないだろ」

「いや、だからさ川端打線がどうこうって言うより、やっぱり吾妻の球はそう簡単に打てないんだって。あっ、それより」

 八重村がふと内野スタンドに目を向けると、バタ西の選手たちが立ち上がって退場の準備をしている。

「そろそろ戻らないと。ほら、行くぞ」

「ふーん……」

 小首をかしげてグラウンドを見つめる貴史の袖を引き、八重村はチームメイトの方へと足を向けた。

 内野スタンドに向かうまでの間、貴史は川端打線の欠点を上げ続けた。しかし彼がどう評価しても、吾妻が六安打二失点の好投を見せた事実に変わりはない。それでも吾妻の力を認めようとしないかたくなな態度いらだち、八重村はつい言ってしまった。

「そういうお前はどうなんだよ、100%打てるって自信はあるのか」

 そう、貴史の評価が本物なのかどうかは一週間後の二回戦、吾妻との直接対決ではっきりとすることだ。

「ある」

「じゃあ、賭けようぜ。次の試合、吾妻から二安打以上打てたら飯おごってやるよ」

「打てなかったら俺がおごりか?」

「もちろん」

「ぬるいな」

「は?」

「そんなぬるい条件じゃ賭けにならない。ボーダーラインは三安打でいいだろ」

 最近の彼には珍しいぐらい自信にあふれた口調で、貴史はハードルを引き上げた。今日の貴史は明らかにおかしい、そう思いながらも、八重村は自分にとっては有利に働くだけの提案に乗った。

「よし、じゃあ三安打以上な。あとで後悔すんなよ。取り消しは無し」

「で、何をおごってくれるんだ?」

「そりゃあ、決まってるだろ」

 二人がこういう賭けをするのは初めてではない。中学時代にも数回、貴史があの投手を打てるか、ホームランを打てるか、八重村が何安打以下に抑えられるか、無四球ピッチングが出来るか、そういったことで勝負をしていた。

「……張の親父のラーメンか」

 彼らと同じ一年生の張は、親が中華料理屋を経営している。二人や他の仲間たちはその店を、こうした賭けの時だけではなく、昼食などによく利用しているのだった。

「そういうこと」

「まあいいけどな。食えないことはないし」

「うちの店のラーメンがどうかしたか?」

 いつの間にかスタンドのかなり上の方で立ち止まって話し込んでいた二人の間に、太目の男が割って入った。

「あ、張」

「そりゃあ、うちの親父の作った飯はあの通りだけどな、衛生にはちゃんと気を使ってるぞ」

「いや、別にお前んちのラーメンをどうこう言ってたわけじゃなくて」

 妙なタイミングで話に入られると流れがややこしくなる。八重村は少し頭を痛めながらも、張に事情を手早く説明した。

「……なるほど。貴史も相変わらずだな」

「そりゃどうも」

「で、何を注文するつもりなんだ?」

「それは決めてなかった。八重村、どうする?」

 思いがけないことを聞かれて、八重村は少し考え込んだ。いつもの「中華そば」でもかまわないのだが、たぶん自分が勝つ確率の高いこの賭けでは少しもったいない気がした。

「……よし、スペシャル中華定食でどうだ?」

「おっ、強気だな」

 貴史は軽く感嘆の声をあげた。スペシャル中華定食の値段は900円、彼らのサイフからひねり出すことを考えればかなり贅沢な値段といえる。そんな気前のいい注文に一瞬顔をほころばせかけた張だったが、はっと自分の役目に気付いて言った。

「……って、そんなことはどうでもいいんだよ! 監督が怒ってるぞ。さっさと帰ってこいって」

「あっ!」

「そういえば!」

 貴史と八重村は同時に声をあげると急いで階段を駆け下りた。「賭け」の話に夢中になるうちに、最初は頭にあったチームメイトのこともすっかりどこかに消えていたのだ。

 大きな足音を立てて監督の前にはせ参じると、案の定雷が落ちた。

「アホッ、何でモタモタしてたんや!」

「す、すいません」

「集団行動のときは時間を守れ! ここは人も少ないし県内の球場やからええけどな、甲子園とかやったらどうするんや。置いて帰るで」

「申し訳ないです……」

 さすがにラーメンをおごるおごらないの話をしていて遅れたなどとは言えず、二人はただ平謝りを重ねた。

「まったく……当分の間、球場で勝手な行動はさせへんからな。じゃ、帰るで。早よせんとバスが出てしまう」

「そうですね……」

「それと八重村」

「はい」

「お前、次の試合先発やから」

 叱咤を続けるそのままの調子で、監督は重大な決定を告げた。あまりに自然な口調で不自然なことを告げられたので、八重村は事態が飲み込めずに立ち止まってしまったが、その言葉の重さに気付くとすぐさま監督の下に駆け寄った。

「か、監督、先発って、先発マウンドに登るってことですか?」

「おう、それ以外ないやろ」

「先発マウンドって、あの、要するに、先発ピッチャーってことですよね?」

「そらそうや。おいおい、ちょっと頭を冷やせ。混乱しすぎや」

「いや、そう言われても……」

 心の準備ってものがあるでしょう、と八重村は心の中で監督に抗議した。せっかくのチャンスだからふいにはしたくないが、役目の重大さを考えると素直に喜ぶわけにもいかない。

「まあ、しゃあないか。だいぶ前の話やけど、初先発のときはワシも緊張したしな。何せ、自分が試合を作っていかなあかんねやから。その辺も考えて対策も打ってある」

「対策、ですか?」

「スタメンのマスクには道岡を使うから。中学時代は道岡相手に先発もしてたんやろ?」

 監督の気遣いに対し、八重村は何も返答しなかった。

 確かに今まで経験してきたマウンドに近い心境で投げられるという点で、中学時代からのバッテリーで試合に臨めばリラックスできる、と考えるのは自然なことだ。だが、道岡にマスクをかぶらせた場合、話はそう簡単に片付かない。道岡のリードは……極めて強気なのだ。彼は、高めのストレート、とりわけインハイの球を要求してくることが多い。

 中学時代も最後の方になれば基本に反したそのリードも功を奏していたのだが、初めての高校野球のマウンドでそんなリードをされてはたまらない。

「八重村、よかったな、おめでとう!」

 八重村の複雑な心境をよそに、後ろから張が祝福の言葉を投げかける。

「近いうちにお前が先発で投げるところ見られるんじゃないかと思ってたけど」

 張の満面に現れていた傍観者の気楽さはしかし、監督の一言ですぐに取り消された。

「そや、張も次先発な。7番レフトで」

「はい……はい!?」

「あっ、もうあと2分でバス出てまうがな、走るぞ!」

 質問のやり取りをする時間はもちろん、気持ちの整理をつける暇もないまま監督と三人の一年生たちはチームのメンバーが待つバス停へと全力疾走した。

 張が八重村と同じようにプレッシャーを感じ始めたのはバスのつり革をつかみ、ようやく荒くなった息が収まってからだった。普段明るい張が考え込んでいるのを見て、何人かのチームメイトが声をかけたが、バタ西近くのバス停まで言葉数も少なく立ち尽くしていた。

 

 トーナメント方式の性質として、勝ち進めば勝ち進むほど試合間隔は狭くなってくる。今年の新島県秋大会も、二回戦以降は最高でも一日の休暇のみで連戦が続いていく。ゆえにこの大会優勝を目指すバタ西にとって、一回戦から二回戦までの六日間は事実上最後の調整期間と言える。

 繰り返しになるが、貴史がどう評価しようと、次の対戦相手軒峰高校のエース吾妻が、今大会屈指の投手と目されていることに変わりはない。それだけに選手たちの練習にもいつにも増して力が入っていた。

 特筆すべきこととして、実戦形式の打撃練習では、エース南条や次の先発投手八重村よりも二番手の柴島がマウンドに登る機会が多かった。左腕吾妻のスライダーに対応するためだ。もちろん柴島と吾妻のスライダーは質が違っているから、スライダーそのものを打つためというより、変化球が来ても戸惑わずに好球を打っていく練習、という色合いの方が強かった。

 

 密度の濃い練習が続く大会中のこの時期、六日間はあっという間に過ぎ去り試合前日となった。

 先発起用を告げられてから数日、八重村は不眠に悩まされていた。

 いつもより集中力を高めて練習していたから、家に帰った頃には身も心も疲れ切っていた。にもかかわらずなかなか寝付けない。次の試合会場である川端南公園球場マウンドに登る自分の姿と、対峙する軒峰高校のバッター、ジャストミートされる自分のストレート、焦りが募っていくチームメイトたちの顔……そうしたネガティブなイメージが具体的に頭に浮かんできて、心をゆっくり休めることが出来ないのだ。

 自分はこんなに神経質な人間だっただろうかと、ある晩八重村は考えた。

 結論として、八重村は過去に、ここまで重要なマウンドを経験したことがなかったのだ。

 八重村が初めて先発をつとめたのは小学校五年生の頃。あの頃もそれなりに緊張していたとは思うが、経験が浅かったこともあり状況がよくわからないままがむしゃらに投げていた記憶がある。

 中学野球、川端チェスターズで初先発のマウンドに登ったのは二年生の夏だった。この時はちょうど、貴史がチームメイトとの軋轢からシニアリーグのチームをやめ、チームメイトだった八重村もついていくようにチェスターズに入団した頃だった。エースの三年生が怪我をして、他にいい投手もいなかったので運よく八重村が先発を勤めたのだが、シニアを辞めてから何となく野球に対するモチベーションが下がっていた八重村は、せっかくの先発マウンドに大きな意義を感じていなかった。

 今回は違う。この県大会を突破し、関東大会に出場してさらには春のセンバツ甲子園を狙うバタ西の――夏の雪辱を遂げんとしているバタ西のマウンドを譲り受けるのだ。半端な気持ちで立つことは許されない。

 そんなことを考えていると、八重村はまたも気の休まらない夜を過ごしていることに気付くのだった。

 大会前夜、八重村は午後9時に床へついた。そんな時間に寝ようとしても眠気はやってこないことはわかっている。しかし、精神を休めることが出来ないなら、少しでも肉体を休めるしかない。

 目を閉じていると、まぶたの裏にマウンドからの風景――試合が近づくにつれ鮮明になってきた風景がまざまざと浮かんできた。

 一回表、軒峰高校の攻撃。一番バッターが右打席に入る。審判の右手が上がってプレーボール。上半身をかがめ、道岡からのサインを覗き込む。

 二回表、三回表、四回表……試合終了。

 八重村は想像の中で完投を果たしてしまった。被安打15、失点7。ひどい。

 こんなイメージトレーニングをしても疲労がたまるだけだが、何も考えないようにしようと努力するほど心拍数は高まり、より気が滅入ってくるのだから仕方がない。不眠とは言っても一秒も寝ていないわけではなく、こうして悶々とした思考を続けているうちにいつの間にか浅い眠りに落ち、目覚まし時計の爆音で目覚めさせられるのがここ数日のパターンだ。

 今日もこのまま……寝られない。時計の針は12時を指している。明日は六時起床だと言うのに。

 絶望感にさいなまれながら毛布をかぶると、突然庭のほうから風を切る思い音が聞こえてきた。バットのスイングの音だ。

 八重村はその音に引き込まれるように布団から出て、庭に下りていった。ガラスのサッシを開け、素振りを続ける男――昨年からこの家に居候(実家から下宿代らしきものは出ているらしいが)している具志堅の背中をぼうっと見つめる。

「お、諭(さとる)か」

 具志堅はしばらくして振り返ると、縁側に座る八重村の前に歩いていった。

「どうした?」

「いや、音がしたから……」

「寝られないのか」

 明日先発なのに起きてたらダメだ、など月並みな忠告はしない。八重村のここ数日の不眠を、具志堅はよく知っているからだ。

「俺も緊張して寝られなくてな。ちょっと素振りをしてた」

「海兄ぃでも緊張するんだな。ずっと前からレギュラー張ってるのに」

「当たり前だろ。それだけ気合入ってるってことだ」

 具志堅は再び庭の中ほどに出てバットを構えた。

「プレッシャーかけてしまったら申し訳ないけど、明日はチームにとっても大事な試合だからな。県大会を突破できるかどうかのひとつの関門だ」

 そう言って、バットを一振りした。抜群の筋力が生み出す鋭いスイング音が、夜の静寂に響き渡る。

「そんな試合に」

 八重村もまた立ち上がり、具志堅の方に歩み寄った。

「なんで俺を使う気になったんだろう、監督は」

「お前に期待してるからだ」

「そうかな?」

「今のお前だけじゃなくて、未来のお前にも」

 具志堅はもう一度バットを振る。そうすることで言葉をつむぎだそうとするかのように。

「監督は常に、先のことまで考えてる。この大会の先の試合に、関東大会に、春のセンバツに、来年の甲子園に、お前がリリーフで、もしかしたらエースとして投げることまで考えて、こんな重大な試合を任せようとしているんだろうな。南条も俺も、新月も、他の二年生も……そうやって育てられてきた」

「なるほど……」

「悪い、やっぱり俺プレッシャーかけてるな。でも」

 普通より重いバットを下ろし、具志堅は八重村の方に向き直った。

「この先高校野球を続けてたら、特にピッチャーにとってはもっともっとしんどい重圧がかかる場面が出てくるはずだ。俺もそこまで経験があるわけじゃないから、確信を持っていえるわけじゃないけど」

 この先、か。八重村は、具志堅が口にした未来よりさらに後のことを考えた。

 今のままの戦力図が続けば、おそらく自分が次世代のエースとしてマウンドに登ることになるだろう。その時、もっと重大な試合で、口から心臓が飛び出しそうなほどの緊張感と戦いながら投げるような局面を迎えることになるかもしれない。

 その時自分が自分を失わずに投げ続けられるか。明日の試合は、その遠い道のりへの最初の試練なのだろうか。

 八重村は少し欠けた月を見上げて、一筋の冷たい息を吐き出した。

 

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