三分の一

 

 居酒屋の煤けた棚の上で、ごく小さなテレビがスポーツニュースを放映していた。横浜ポートスターズ対神戸ドルフィンズ、第20回戦のハイライト。
「しかしこの場面でリリーフの斎藤が仕事を果たせません」
 画面には、そのナレーションとともに、背番号34を背負った横手投げの左腕投手がライト線にツーベースを放たれた場面が映し出されている。これが決勝点となって今日の試合、神戸ドルフィンズは敗戦を喫した。
「何が『仕事を果たせません』だよ。あいつら、俺が打たれたのがさぞ異常なことだと思ってるようだな」
 たった今映し出された映像の主人公、斎藤建夫(さいとう・たてお)が、とっくりを傾けながら愚痴をこぼした。
「左投手は左打者を抑えて当たり前、左投げなのに打たれるなんておかしい、ってか」
 並々と注がれた清酒を一息に飲み干す。カウンターには、すでに何本ものとっくりが首をそろえていた。
「んなわけねえだろ。なあ、岩出」
 斎藤は口の周りをぬぐいつつ、隣でとっくに飲食をやめて座っていた、後輩の岩出芳雄(いわで・よしお)のほうを向いてそう言った。
「斎藤さん、そろそろ切り上げたほうが……」
「だったら日本中の左利きを集めてきてだな、一人残らずマウンドに立たせてみろ。ほぼ全員、馬鹿みたいに打ち砕かれるぞ」
 岩出の言葉を制するかのように、斎藤は愚痴を続ける。
「抑えても全く注目しないくせに、打たれたらああやって好き勝手に叩きやがる。本当にワンポイントってのは、割に合わない商売だよな……」
「健ちゃん!あんましギスギスすんなや!たまにはそういうこともあるって」
 客の一人が、カウンターの奥からそう叫んだ。口調から察するに、どうやら斎藤とは知り合いのようだ。そんな客に対して斎藤は、
「たまには、たまには、で負け続けて、結局いつも最下位だ。すまんなぁ、毎日一生懸命応援してくれてるのに」
 酒も手伝ってか、斎藤は今にも泣き出すかのように見えた。
「ええってええって。明日もあるやないか、な」
「そうですよ。明日も試合があるんですから早く帰らないと」
 客の励ましにうまく便乗して、岩出は帰る準備を始めた。
「うるせぇ。それぐらいわかってるよ。大将、お愛想」
「へぇ、まいど!」
 二人はそれぞれの飲食代を払い、店をあとにした。帰路、斎藤の足取りはかなり怪しいものになっていた。
 岩出にとって、こういうことは初めてではない。正確な回数は覚えていないが、斎藤が打たれて敗戦したあと連れて行かれる店では、たいていこの調子だった。
 だが不思議なことに斎藤はいつも、翌日にはケロッとして球場へやってくる。そして特に疲れた様子もなく練習を始める。プロの自己管理。
 岩出はそんな斎藤を、心から尊敬していた。

 19勝9敗、防御率3.66。これは六年前に斎藤が残した成績である、と言われて、ワンポイントリリーフ投手としての今の姿しか知らないファンが、果たしてすぐに納得できるだろうか。また、その当時のファンが今の斎藤の姿を見せられて、同じ人物だとすぐに判断できるだろうか。
 たった数年ではあるが、今挙げた二つの世代のファンの間には、認識の断層が深く走っている。そして、それはそのまま、斎藤の野球人生の境界線でもある。
 昔の斎藤のピッチングを、一言で表せば「力任せ」。豪快なワインドアップモーションから放たれる速球はしばしば時速150kmを越え、鋭い回転を与えられたスライダーは変化球と思えないスピードへ打者へ向かってくる。だがそれらの球が、捕手の指示通りにミットへ到達することは少なかった。登板ごとに全くバラバラな投球内容。いつまでたってもなかなか身につかないクイックモーション。交代を告げられると顔に不満をあらわにし、ピンチを切り抜けるとマウンド上で雄たけびを上げ、打者に挑発されればすぐに怒る。
 全てが力任せで、荒削りな投手。だがファンたちはそんな斎藤を愛した。その豪球で面白いように三振を奪っていくピッチングは、見るものを爽快な気分にした。なかなか勝てないチームをまばゆく照らす一筋の光。高卒で、二年目に一軍初登板を果たした斉藤の人気は急速に上がっていった。
 そして斎藤は二十三歳のときに十三勝を上げ、名実ともにチームの顔となった。今から九年前のことである。その年以降彼は、四年連続で二ケタ勝利をもぎ取った。その間に、左腕エースの象徴、背番号34も身にまとった。
 六年前の神戸ドルフィンズ対東京ラインズ第21回戦、斎藤の運命を一転する事故が起こった。その時ドルフィンズは、実に十年ぶりとなる優勝争いの真っただ中にいた。勝ち越せば二位のラインズを引き離し、一気に優勝へと向かう三連戦の初戦が、その21回戦だった。ペナントレースの行方を左右するこの試合、当然ドルフィンズは、先発投手としてエース斎藤を起用した。
 その時までに斎藤は19勝を挙げ、まさにチームを引っ張っていた。ただ数字で貢献していただけではなかった。開幕前の予想で優勝候補といわれたチームを気迫でなぎ倒すピッチングは、ファンに、選手に勢いを与え、ドルフィンズを高みに押し上げていたのだった。
 33試合目の登板にもかかわらず、躍動感あふれる斉藤のピッチングは全く疲れを感じさせなかった。少なくとも周りからはそうとしか見えなかった。本人もそう自覚し、その試合も前半からハイピッチで飛ばした。
 だが優勝争いという今までに経験のなかった極限状況の中、フル稼働し続けた斎藤の左肩は、誰にも聞こえない悲痛なうめきを漏らしていた。
 今でも忘れることができない、二点リードで迎えた八回の表。斉藤は一死二、三塁のピンチを背負っていた。
 球が思うようにキレない。それが試合中盤あたりから徐々に重くなっていた肩のせいだと言うことは、十分にわかっていた。だが斎藤はそれを全く口にしなかった。それは、その年のシーズン終盤にしばしば抱いていた感覚であったし、何よりチームの士気を下げることが怖かった。
 一打同点の場面。対峙するのは、今日当たりが止まっているとは言え、三割超の打率を叩き出している四番打者。カウントはツーストライクスリーボール。キャッチャーからの要求はストレート。当時、何よりも自信を持っていた球だ。もしコースが外れてフォアボールになったとしても、満塁になるだけむしろ野手は守りやすい。下手にストライクを置きに言って痛打されることだけは、絶対に避けなければならない。
 斎藤は、その試合一番の気合を込めて、第六球目を投げた。
 そのボールこそが、斎藤の野球人生の第一章に突如幕を下ろした一球であった。
 腕が頭の真上あたりまで降られた時に斎藤の左肩は化石した。そのまま投じられた棒球は、打者の胸元へ素直に向かっていった。
 斎藤が、ついに絶叫を上げた左肩を押さえようとしたのとほぼ同時に、ラインズの四番打者は白球を完璧なタイミングでスタンドへと運んだ。
 それが決勝点となって、ドルフィンズは黒星を喫した。

 決して失敗の許されない初戦を、誰も予想し得なかった結果で落としたドルフィンズは、その三連戦全てで土をつけられた。
 そして、勢いを阻まれ、何よりもチームの柱を失ったドルフィンズは見る見るうちに失速していった。
 シーズン終了間際に地元のスポーツ紙上で踊った「ドルフィンズ、四年ぶりのAクラス復帰!」と言う活字。それを喜ぶ者は、当然どこにもいなかった。
 これらの事実を、斎藤は全て球場の外で耳にした。
 彼を襲った故障の名前は、左肩痛。なんという漠然とした名前だろうか。左肩が痛い、それがなぜかは誰にもわからない。そして、準じて治療法もわからない「肩痛」は、投手を襲うもっとも厄介な故障のひとつのなのである。実際、数限りないほどの選手が、この故障によよって野球人生の終止符を打たれている。
 斎藤はひたすら、まともに上がりすらしない肩を休めた。ファームの練習場のグラウンドを、近くの川の堤防を、ただ走り続けた。それぐらいしかやるべきことはなかった。だが、原因不明の痛みはいつまでたっても左肩から去ろうとしない。
 運命の日から一ヶ月がたち、半年が過ぎ、そして一年が経過したころ、斎藤は一人の女性を妻に持った。そんな時期にどうして?と思われるかも知れない。しかしそんな逆境にこそ、自らを支えるパートナーを迎える選手は、意外に多く見られる。
 もしかしたらそうしない限り、斎藤は精魂尽き果てて野球界を去っていたかもしれない。なぜならその年も、彼は一度もマウンドに立つことができなかったからだ。
 何とか肩は上がるようになっていた。しかし当然、満足のいく球は投げられない。投げようと無理をする。するとまた肩に痛みが走り、上がらなくなる。復帰をしようとあがけばあがくほど、斎藤は底なし沼に吸い込まれていった。
 長いブランクの三年目。斎藤はついに、二軍のマウンドへ上がることを決意した。最盛期の球威からはあまりにも遠い。練習では投げられていても、久しぶりの本番では自分の意思以上の力を込めてしまい、再び肩が悲鳴を上げる恐れもある。だがこのまま全快の見通しも立たないまま日々を送っていても、何も変わらない気がする、そう考えた末の決断だった。
 「仮復帰」の日。球団は何も予告していなかったのに、どこからか情報が漏れたのだろうか、二軍の球場には普段決して見られない数のドルフィンズファンが押し寄せていた。
 斎藤はこれほどまでに、ファンの願いを背負っていたのだ。そして二年以上の空白にもかかわらず、彼の中にはこの状況を重圧ではなく勇気として受け止められる闘志が、いまだに熱を持っていた。その試合、斎藤は負傷をかばいつつも、最良のピッチングをしようと細心の注意を払って投球した。
 だが、結果は残酷なものだった。数字は書くに忍びない。かつての輝きが全く感じられないストレート、そしてそれがやすやすと飛ばされる光景に、ファンたちが深い絶望を抱いたことだけは記しておこう。
 これがプロの世界。
 斎藤はその日、一度引退を決意した。

 その決意を一番初めに伝えた人物は、妻であった。仮復帰の次の日のことだった。斎藤は、今の球威ではとてもではないが通用しないこと、しかしこれから力が戻る見通しが全く立っていないこと、いつまでも球団に迷惑をかけるわけでは行かないということなどを、沈痛な声で話した。
 妻は、ただ一つだけ、「あなたが本当によく考えた上で決めたことなら、私は何も口を挟めないと思う」と言った。
 斎藤の意志は揺らいだ。本当に、妻さえも関われないほど深く考えて出した結論だったのだろうか、本当に、再起の方法は何もないのか、と。
 そんな時、斎藤の視界の端に、新聞のスポーツ欄の記事が飛び込んだ。
 そこには、「ドルフィンズ 泥沼の開幕八連敗」と言う見出しと、顔に怒りと悔しさを浮かべて球場をあとにするファンたちの写真が掲載されていた。そのファンの中には、前日斎藤の仮復帰試合を見に来てくれていた人物も混ざっているのかもしれない。
 やはり、すぐには辞められない。
 そのまた翌日、斎藤は脱出の糸口をつかむ方法を探るため、二軍の投手コーチに志願した。
「どんな形でもいいから、チームに貢献したいんです。何か方法はありませんか」
 追い詰められた表情で言葉を発する斎藤に対してコーチは、
「昔築いたプライドを捨てる覚悟はあるか」
「はい」
「そうか。それなら」
 コーチはここで一息入れ、再度斎藤の目を見つめなおした。
「率直に言って、お前が再び150キロの速球を投げる日はやってこない。よっぽどの奇跡がない限りはな。その奇跡を待つ余裕は、今のお前にはないんだろ」
 斎藤は二年分の重みをこめて深くうなずいた。
「それに、先発起用に耐えられる肩のスタミナを取り戻すのも厳しいと思う。だからおれは、お前の復活の道は、今一番うちのチームが埋めたがっているポジションにあると思う」
 ドルフィンズに足りないポジション。いつかの復帰を夢見て、一軍の動きをチェックし続けていた斎藤にとって、その答えを出すのは容易なことだった。
「左の中継ぎですね」

 その日から、斎藤はリリーフ投手としての練習を開始した。まず手始めに、左投げであることと、もともと得意なスライダーを生かすために、斎藤は投法をサイドスローに改造した。今まで一度も本格的に取り組んだことのない投法だったが、それはなぜか斎藤の体に驚くほど適合していた。
 水を得た魚のように、斎藤はどんどん直球の威力を取り戻していった。いや、その表現は正しくない。サイドスローから放たれる直球は、ただ速くて勢いがあるだけの昔の球に比べて、ずっと鋭いキレを持つようになったのだった。
 そしてその年のオールスター戦明けの七月に、斎藤は一軍に昇格し、実に三年ぶりのマウンドへ上がった。球場のウグイス嬢が斎藤の名前をコールした瞬間、低迷するチームのファンが発したものとは思えないほどの地響きが、スタンドから巻き起こった。
 斎藤は今でも、自分の人生で一番幸せだった瞬間はこのときだと信じて疑わない。
 この登板で、斎藤は打者一人を抑えて役目を終えた。ワンポイントリリーフとしての起用。ブランクや肩の状態を考えての、首脳陣の慎重な判断だった。
 しかしこの時から斎藤の、三分の一イニングに己の全てを賭ける選手としての野球人生は幕を開けた。
 チーム事情からこれ以降、臨時措置であったはずのワンポイント起用は、斎藤の生業として定着していったのであった。

 横浜ポートスターズ対神戸ドルフィンズ第21回戦。斎藤と岩出は、ブルペンに置かれたパイプ椅子に座っていた。
 現在七回の裏、ドルフィンズの攻撃中。スコアは2−3でポートスターズがリードしている。斎藤や岩出などの中継ぎ陣は、これ以降高い確率でやってくると考えられる登板機会に備えて肩を作っていた。今、二人は一時の休息を取っている。
 唐突に、岩出が、「斎藤さん」と呼びかけた。
「なんだ」
「今年うちのチームが優勝することはまずありえませんよね」
「まあ、そうだな。ゲーム差もだいぶついてるしな」
「でもなんでファンの人は、なんでこんなに毎日来てくれるんですかね」
 あまりにも単純な質問に、斎藤は少し笑いそうになってしまった。だがこれは決してないがしろにしていい問題ではない。斎藤は真剣に答えることにした。
「いまさらそんなこと聞くなよ。好きな野球を見てスカッとしたいからだろ」
「でも、うちのチームはいっつも負けてるし、見てもストレスがたまるばっかりだと思うんですけど……」 
「そうだな。だから勝つように努力して、ファンに喜んでもらうのがおれたちの役目なんじゃないか」
 確信に満ちた声で、斎藤はこう言った。
「そっか。そうですね。オレもファンのために頑張らないと」
 そういって再び投球練習を始めようとする岩出を、なぜか斎藤は引き止めた。
「それも大事だけどな、まずは自分のために頑張ることからはじめたほうがいい」
 斎藤の口から飛び出たその言葉は、岩出に少し意外な印象を与えた。
「人間、背負うものを持って走ればそれだけ強くなれると思う。だけどな、もし走りに失敗してそれを落としてしまったら、背負ってるものに深い傷を与えてしまうんだ。だから俺たちはまず、しっかり走るだけの力をつけないと話にならないんだな」
 そう言うと、斎藤は岩出をつかんでいた左手を緩め、最後にこう付け加えた。
「もっとも、失敗を取り戻すために頑張るのは、十分アリだと思うけどな」
「斎藤さんが他の人のために頑張れるようになったのは、いつぐらいからですか」
 岩出はうなずく代わりに尋ねた。
「五年前ぐらいから、かな」
 そう答えると同時に、ブルペンの中へ、
「斎藤、出番だ!」
 と言う声が響いた。
 斎藤はおっしゃ、と軽く気合を入れて、今季50度目のマウンドに立つため、ブルペンを後にした。

 今日も斎藤は、三分の一イニングを投げ切ってベンチに帰ってきた。一塁側スタンドからの暖かい声援と、三塁側スタンドからの「さよなら」コールを背に受けて。
「なあ、岩出」
 岩出はブルペンから一度上がって、ベンチにいた。
「はい」
「ワンポイントってのはさ、意外ときつくて、割に合わなくて、地味だけどさ」
 それは話しかけていると言うより、自分に言い聞かせているような口調だった。
「俺にできる仕事はこれぐらいしかないしさ、それに……少しでもああやって応援してくれる人に恩返しができるなら、そんなに悪い仕事じゃないよな」
 その時岩出の目には、斎藤の顔に浮かんだ汗が、キラリと光ったように映った。

 

 

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