悔いなき人生

 

1962年、昭和37年、話の舞台はこの年だ

 

大阪大学医学部附属病院

「残念ですが皆川さん・・・・・胃癌で余命6ヶ月です」

この日ある一人の野球選手が死の宣告に等しい宣告を受けた。彼の名は皆川源一郎、阪神タイガース所属の投手である。

「大丈夫だったか?皆川」

「医者はなんて言ってはったんや?」

二人のチームメイトが聞く、皆川はわざと平静を装い

「ああ、単なる胃潰瘍だそうだ」

「そうか・・・・もう今季も始まったんだ、早めに手術して終盤には登板できるようにもっていけたらいいよな」

登板・・・・・もうやってこないことだと皆川は感じた。つい昨日までエース格の村山、小山と並び阪神の顔であった皆川だが昨日の登板日、巨人の城之内と投げ合って今季11勝目を通算127勝目を挙げたばかりだったが試合後、突然、吐き気に見回れ、倒れた。

 

元々、皆川は覚悟していた。戦前、広島で生まれ育った皆川は14歳で被爆した皆川は奇跡的に生き残った。その後、世に言う原爆症も起こらず18歳でプロ入り、阪神タイガース一筋に生きてきた。24歳で結婚し二児の父でもある皆川はせめて引退まではと思っていたがこの有様だ。皆川はせめて妻と監督だけにでも言うことに決めた。

病院から帰り監督に話した後、阪神電車から国鉄、近鉄と乗り換え上本町の自宅へと帰った。

10時をすぎ、子供達も寝ていたが妻の三智子は

「お帰りなさい」

と扉を開けた。いつもより暗い表情や明るい表情を見ても何も聞かない三智子は夫が話すまでは何も聞かない。そんな三智子を皆川は相手の気持ちを読み取る妻として悪いとは一度も言ったことがなかった。皆川はかばんを置くと三智子に

「実はな・・・・今日、大学病院に行って診察を受けたんだが・・・余命6ヶ月だそうだ」

皆川が言うと妻の三智子は

「ついに・・・この日がやってきましたか」

「ああ、やってきてしまった」

三智子は婚約する前、広島で被爆したことを聞かされていたがそれでも婚約をしこの日を覚悟しながら生きてきた。

口数の少ない二人だからこそだがこれ以上は話さなかった。そこには暗い沈黙もなかった。

 

9月、球団からこの事実がマスコミに発表され大きな波紋を呼んだ。9月には19勝、防御率1.57の今年の最優秀選手賞候補にもなっていた投手の胃癌での余命発表、既に4ヶ月だったが皆川はそんなことを微塵にも出さぬ努力と厳格さを保った。この年、阪神タイガースは優勝し日本シリーズへと駒を進めた。阪神ファンは優勝の喜びを感じたが一方で優勝を味わって死ぬ者の事も忘れなかった。皆川である。東映との日本シリーズの前日、皆川はついに倒れた。癌を防ぐため化学療法を行い、何とか増悪を和らげていたが限界寸前へと達した。しかし、皆川は強引に日本シリーズのメンバーに入った。全国120万通の出させてやりたいと言う手紙が届き球団が動いた。そして3勝3敗で迎えた第7戦、甲子園球場で迎えた阪神・皆川にとって最後の試合、ついに奇跡は起きた。

「ピッチャー、皆川」

先発投手が発表された。右翼席の阪神ファンからはやまんばかりの声援が送られた。22勝を挙げた皆川は深々と礼をしてをしてマウンドにたった。プレイがかかるや全力投球であっという間に1イニングを終わらせる。観客は沸いた。しかし皆川はベンチで

「ぶっ!」

「だ、大丈夫か皆川!」

医師の反対を押し切って投げたがベンチ裏ではチームメイトは心配を拭い去れない。病が相当ひどい。

それでも皆川はマウンドを降りない、監督がいくら言っても降りない。皆川は2イニング目に入る。

もはや皆川を止められるものはいない。150kmの豪速球と鋭く曲がるスライダー、緩やかに大きく変化するカーブ、当時では珍しいフォークと軌道がほとんど変わらないドロップ、皆川はマウンドでも口を押さえながら投げた。そして9回・・・・・

皆川最後のイニングには誰もが目に光るものをこらえた。それは皆川も同じであった。3ヵ月後に迫る死という恐怖と戦いながら皆川は投げた。最後のマウンド、両ベンチは勿論、観客も泣き崩れた。全国ネットで放映された日本シリーズ、視聴率79%国民の約8割が見ている中で皆川は168球、今、最後の169球目を投げた。東映の打者は泣きながらバットを振る。鋭いスイングの音がしたがボールはミットにおさまった。ついに勝ったのだ!ベンチからは顔を涙でぬらしながら走ってくる。観客は大泣きしながら万歳をする。皆川は泣きながらも抱き合った。そして・・・・2ヵ月後に予定されている優勝パレードを目前にして皆川源一郎は短い生涯を終えた。享年、31歳。

 

危篤状態の皆川は最後の力を振り絞って妻の三智子に言った。

「俺の野球人生に曇りはなかった。31で人生を終えるのは残念だが俺の野球人生13年間には悔いはなかった」

泣いている三智子にこういった皆川は息を引き取った。優勝パレードには皆川の位牌と写真を抱いた息子が出た。ファンは目に大粒の涙をためながら笑う。そこには死を弔う心があった。

皆川のつけていた背番号98は永久欠番ではない。しかし、この背番号をつけた選手は一人もいない。事実上の永久欠番といったところである。

 

作:新人さん

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