岐路
1.
左打席に立つ若手打者の胸元に向かって、ひざより低い位置から今日最後の一球を放った。
伸び上がるストレート。内寄りのいいコースに行った。これならまず打たれない。
そう思ったのもつかの間のことだった。
打者はコンパクトにバットを出し、腰を鋭く回転させてスイング。
軽やかな打撃音が響き渡った。
打球は向かい風と格闘しつつライト方向に飛んでいった。あわやというところで失速し、フェンスの手前に落ちるまで、ボクは球の行方を目で追いかけ続けた。
ミゾットキャットハンズ秋季キャンプ2日目の今日、ボクはメニューの最後にシートバッティングのマウンドに立った。5人の打者と合計10打席を対戦して、このヒットで被安打6。はっきり言って、悲惨な結果だ。
視線を伏せてマウンドを降り、ベンチへと歩いていく。ふと一塁ベースの方に目を向けると、真中監督の姿が見えた。たれ気味の目が心なしかいつもより曇ってこちらに向けられている。監督はとても謙虚な人だから、ボクのこの打たれ様に強く責任を感じているのだろう。
シートバッティングが始まる前に、ボクは真中監督から配球についての指示を受けた。
「今日はストレートだけで勝負してください」
真中監督は、投手コーチ時代から数えて、もう10年以上もこのチームで選手の育成に関わっている。立場が監督に代わっても、時々ボクはこうして直接教えを受けることがある。僕を担当してきた年数の分、今の投手コーチより的確な指導をくれることも多い。
だから今日も、その意図はわからなかったけれど、いつもどおり監督の指示に従って投げた。
ある程度不安はあった。でも、まさかこんなに打たれるとは思っても見なかった。プロの世界ではボクのストレートなんてピンポン球のようなものだ。そんなことは入団してから今日まで12年間、嫌というほど味わってきた。けれど、投手として大切なのは球威だけじゃない。まだまだ自信のあるコントロール、打者のタイミングを意識的にずらすテクニック、そして長い選手生活で培ってきた投球術。そういう武器を最大限に使えば、今日相手にするのは若い打者ばかりだ、簡単に打たれることはないだろうとタカをくくってマウンドに登った。
考えが甘すぎた。いくら微妙なコースに決めても、リリースのポイントを変えてみても、ピンポン球はやすやすとヒットゾーンに運ばれていった。
これがプロの打者だ。逆に言えば、これぐらいの球が打てないようでは、この世界で生き残ることは許されない。
そして、そういう超人的な打者を相手にしていくために、ボクはマリンボール――決め球のシンカーを投げ続けるしかない。今のポジション、右の中継ぎエースの地位を守っていくためには、他に方法はないのだ。
ボクはベンチに足を踏み入れながら、何気なくひじを内側にひねってみた。記憶がかすむほどの昔から慣れ親しんできて、呼吸するのと同じぐらい当たり前になったはずの動きを、もう一度確かめる作業だった。
途端に激痛が走った。
「……っ!」
思わず口の端をゆがめてしまったボクは、歯を食いしばりながらあわてて周りを見渡した。
よかった。誰にも見られていない。
今日は変化球をほとんど投げていないはずなのにこの痛みだ。年を重ねるとともに積もり続けてきた疲労は、ボクの右ひじを信じられないほど深く蝕んでいる。
疼痛はしばらく引かなかったが、心配されるのが怖いので手を当てるわけにもいかない。重くなった右肩だけで傷ついた腕を吊り下げながら、ボクはロッカールームに歩を進めていった。
「キードのどこがいいでやんすか!?ありえないでやんす!」
音程の高い叫び声が廊下まで飛び出してきた。間髪いれず、マニアックな用語が次々とあたりにこだまする。中を覗いてみると、予想通りに二人の若手選手が、声の主である矢部君を囲んで座っていた。
矢部君はミゾットキャットハンズ生え抜きの外野手だ。入団時からのセールスポイントである俊足と、それを生かした好守が武器のプロ12年目、30歳。つまりボクと同期にあたる。
10年前、ボクがロッテからキャットハンズに移籍して初めてグラウンドに来たとき、矢部君はいきなりボクに話しかけてきた。矢部君はすごい勢いで、もう一人の同期選手、左腕投手の瀬尾君にボクのことを紹介していった。トレードで来たいきさつからはじめて、スリーサイズまで公開しようとしたときにはさすがにボクも焦ったけれど、矢部君は急な移籍で少し戸惑っていたボクの緊張を確実にやわらげてくれた。
それからボクは矢部君、それから瀬尾君と仲良くなっていった。三年前に瀬尾君はメジャーリーグへ旅立ってしまったけれど、チームに残ったボクと矢部君の交友は今でも続いている。
「でも矢部さん、やっぱりガンダーロボのストーリー全体を見渡したときに、キードの存在は必要不可欠じゃないですか」
「そうでやんすけど……だからって第三期が最高傑作だってことには絶対ならないでやんす!」
矢部君と二人の若手は、ボクが入ってきてもお構いなしに熱い議論を交わし続けた。白熱しすぎてお互いにつかみかかりそうな雰囲気さえ出しているけれど、心配する必要はない。彼らは心の底からこの現実離れした談義を楽しんでいるのだ。邪魔をするのは余計なお世話にしかならない。
その証拠に、矢部君の目は今とても輝いている。オタッキーな話を交わせるこの二人の後輩がチームにいなかったころには、めったに見られなかったような――狂喜に満ちた目の輝きだ。
ボクは荷物を整理しながら、近寄りがたいけれど楽しそうな矢部君の様子を生暖かく眺めていた。
放って置けばいつまでも議論が続きそうな気もしたが、突然矢部君が立ち上がって話を止めた。
「あっ!そろそろ時間でやんす!」
矢部君はいそいそと身支度を始めた。ボクは近づいて、かばんのそばにしゃがむ矢部君に声をかけた。
「矢部君、もしかして今から契約更改?」
「……あ、あおいちゃん。いつからいたでやんすか?」
やっぱり今まで、ボクの存在に気づいていなかったらしい。少し驚いた顔をして、矢部君はボクを見上げた。
「15分ぐらい前から」
「む、そんなに完璧に気配を消すとはあおいちゃんもなかなか手ごわくなったでやんすね」
「……で、今年もやっぱり一番乗りなの?」
矢部君のペースに載せられる前にボクは話題を戻した。
「そうでやんす。サッサと話してアッサリ契約するのがオイラのスタイルでやんす」
にんまり笑って、矢部君は胸を張った。その言葉通り、矢部君はこれまで11回の契約更改を、全てチーム一番乗りの一発更改で通してきている。その上大きな怪我もなく毎年それなりの成績を残しているのだから、チームにとってこれほどありがたい選手はいないだろう。
「どう、今年も上がりそう?」
いまさら聞くまでもないことだったが、ボクはなんとなく尋ねてみた。
「当然でやんす。今年の成績で上がらなかったら、トレード志願でもしてやめてやるでやんす!」
ちょっと興奮しすぎな気もするけれど、矢部君がそこまで言うのも無理はない。矢部君は今年、自慢の走塁面では惜しくも盗塁王は逃したが41個の盗塁を記録し、守備面では二度目のゴールデングラブを受賞。打撃の面でも自身初の打率三割を記録した。相変わらずチャンスに弱くて打点が少なめなのはいただけないけれど、出塁率の高さを考えれば一番打者として十分な働きだった。
「ふふふ……今年はいよいよ大台に乗るかもしれないでやんすね」
「一億円?そうかもね。もし乗ったら飲みに行こうよ。矢部君のおごりで」
「何を言ってるでやんすか。あおいちゃんはもっともらってるでやんす」
痛いところを突かれた。たしかにボクは、ちょっと前に年俸一億円の壁を突破しているのだ。「人気の面を考慮して」と球団の人は言うけれど、中継ぎだとはいえ一年に五勝もしていないボクがそんなにもらっているのは今でもうしろめたい。
少したじろいでしまったボクを尻目に、矢部君はすぐに明るい表情に戻って言った。
「冗談でやんすよ。みんなでパーッと飲みにいくでやんす!」
その瞬間、ロッカールームにいた全選手の目が矢部君に集まった。
「……あ、いや、できれば五人ぐらいまでにしてほしいでやんすけどね」
うろたえる矢部君の様子に笑いが起こった。いくつになっても、こういうところは変わらない。
矢部君は後ずさりながら、それでも嬉しそうに契約更改の場へと向かっていった。
また荷物の整理に取り掛かるために自分のロッカーの前に行った。すると、ちょうど後ろにあるイスの上にスポーツ新聞が置いてあった。ボクは新聞を手に取り、広げて紙面を見た。
ショッキングな文字がトップを飾っていた。
『瀬尾 レッドエンジェルス解雇』
大げさすぎるほど大きな活字の背後には、スーツ姿の瀬尾君の写真が載せられていた。
ボクの意識は、自然にその記事へ釘付けとなった。
「MLBスペースレッドエンジェルスは昨日、瀬尾祐二(30)と来季の契約を結ばない意向を正式に表明した。瀬尾は2004年にミゾットキャットハンズ(入団当時はまたたびキャットハンズ)にドラフト五位で入団し、四年目から一軍で頭角を現し始めた。その翌年から五年連続で二桁勝利を上げ、鳴り物入りでレッドエンジェルスに移籍。しかしMLBでは結果を残せず、今季は六月にダブルスター落ちして以来レギュラーリーグでの登板はなかった。瀬尾は……」
そこまで読んで、ボクはいったん顔を上げた。記事の文章自体はあまり頭に入っていなかった。ただ、肩を落としてうつむく瀬尾君の表情だけがボクの心を痛めていた。こんなに暗い瀬尾君の表情は、日本では見たことがない。
瀬尾君がアメリカ行きを発表したとき、こんな結末が来るなんて想像していた人は日本のどこにもいなかったはずだ。それぐらい、瀬尾君の日本でのピッチングはすごかった。
ボクはキャットハンズに入ってきて初めて瀬尾君の投球を目にした。二年目まで瀬尾君には二軍での登板機会すら与えられていなかったのだ。あの時の彼の実力では、それも仕方のないことだった。
球速は130キロにも満たなかったし、変化球もやっと小さいカーブを投げられるだけ。その上コントロールも悪くてスタミナもない。正直言って、何でこんな投手がプロに入れたんだろう、とその時のボクは思っていたし、せっかく仲良くはなったけれどあと一、二年でお別れすることにだろう、と失礼なことを考えていたりもした。
大きな間違いだった。瀬尾君は急激に、恐ろしいほどのペースで実力を伸ばし、四年目には左腕エースとして一軍に定着した。そして五年目には二十一勝を上げ、沢村賞まで受賞してしまった。三年目からその年までに、球速は20キロ以上も上がっていた。カーブも同じ人が投げているとは思えないほどに鋭く切れるようになったし、新しく覚えたスライダーは空振りした右打者が当たってしまうほど大きく曲がるようになった。ボクは当時、何か怪物を見るような目で瀬尾君を見ていたりもしたのだが、不思議なことに、矢部君も含めて周りの人たちはそれほど驚いてはいなかった。
もう一度紙面に顔を戻して記事の続きを読んでいると、突然青い髪がボクの視界をさえぎった。
「あおいさん、何読んでるんですか?」
振り向くと、後輩の橘みずきが肩越しに新聞を覗いていた。
みずきはこのチームのもう一人の女投手だ。体を大きくひねる独特のアンダースローから投げる決め球のクレッセントムーン(これもシンカーの変形)は、ボクのマリンボールよりも横への曲がりが大きくて左打者にとってはかなり打ちづらいらしい。貴重な左の中継ぎとしての役割を、ほぼ毎年こなしている。
「……あっ、瀬尾さんのことですか」
「もう知ってたの?」
みずきはわけ知り顔でうなずいた。
「いつ?」
「あれ?昨日の夜、ニュースでやってたじゃないですか」
「……そうなんだ」
「まあ、思うように結果が出てなかったみたいですからね」
一ファンのような突き放した口調でみずきはつぶやいた。表情にも特に変わりはない。でもみずきには、昔から感情を内に抑えようとするところがある。心の中では結構なショックを受けているのかもしれないけど、そのあたりの微妙な気持ちは9年間一緒のチームでプレイしてきたボクにも、いまだにわからない。
「瀬尾さん、日本に帰ってくるんでしょうか?」
かがめていた腰を伸ばして、みずきはたずねてきた。
「どうかな。帰ってくるとしたらやっぱりキャットハンズなのかな」
「……ほかにも瀬尾さんを欲しがる球団はありますよね。実績は十分ですから」
「だろうね。でも、ボクはまた一緒にプレイしたいな」
「そうですか?」
もちろん同じ気持ちだろうと思ってみずきの顔を覗き込んでいたボクは、不意に肩透かしを食らった。
「……当たり前でしょ。せっかく機会があるなら……」
「私はいやです」
みずきの口調がいきなり厳しくなった。
「夢を途中であきらめるような瀬尾さんだったら、一緒のチームにいたくないです」
そう言うなり、みずきは身をひるがえして出口へと歩いて行った。取り残されたボクは、その後ろ姿からしばらく目を離さなかった。やっぱり相当ショックなんだろう、などと考えながら。
一通り記事を読み終えると、たまにチームメイトと言葉を交わしながら、荷物をまとめてロッカールームを後にした。
わざとゆっくりした手つきで、いつもより多くのものをかばんに詰め込んだ。チームメイトとの世間話にも、できるだけ長い時間を割いていたはずだった。
でも、矢部君の姿を見ることはできなかった。いつもなら、たぶんみずきと話し終わったぐらいの時間に、あっさりとサインを決めて帰ってくるはずなのに。
よっぽど無茶な条件を出されたのだろうか。いや、もしかしたら、何か気が変わってロッカールームに足を運んでいないだけかもしれない。ボクは心配になって、交渉場所の球団事務所に行ってみた。
ご丁寧に、ドアノブには「部外者立ち入り禁止」の札がかけられていた。そのままでは中を確認する方法がないので、たまたま通りかかった球団職員の人にたずねてみた。
矢部君の交渉はまだ続いているということだった。何か問題でも起こっているんですか、と聞くと、職員の人もただ首を傾げるだけだった。
心残りだけどお手上げだった。どうせ明日になればわかるだろうとあきらめて、ボクは球場を後にした。
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