2.

 

今年もキャットハンズの秋季キャンプ前半は、ほとんどの球団が南へと向かう中、本拠地のまたたびスタジアムで行われている。

いまだにキャットハンズは裕福な球団ではないけれど、9年前の8月、まったりタクシーが身売りしたことをきっかけに、2年間にわたってチームが五つの企業を渡り歩いた「キャットハンズ恐慌」のころに比べれば、財政状況はずっとよくなっている。キャットハンズ恐慌時代最後の身売り先となったミゾットスポーツが、このチームをしっかり支えている。

とはいえ、プロ野球チームを運営するには莫大なお金がかかる。たび重なる身売りの中でぼろぼろになったチームの経営を他のところ並みまでに立て直すのは、ミゾットスポーツほどの財力があってもなかなか難しいらしい。だからキャットハンズは、キャンプ地を前半だけでも本拠地にするなどして、何とか出費を抑えている。

まあこれでも、秋はもちろんまだ冷え込みの続く春にもまたたびスタジアムでキャンプをしていたどん底の時代、ボクの移籍当時の頃よりはずっとマシだし、本拠地でキャンプをしていれば毎日家にも帰れる。どんな豪勢なホテルに泊まるよりも、住み慣れたところで休むほうが疲れは取れるものだ。

そう考えると、またたびスタジアムでのキャンプもそんなに悪くはない。ただどうしても、南の地方と比べた時に寒さが気になる。気温が数度違っただけで、選手の体にかかってくる負担は全く変わってくるのだから。

 

そういう環境の問題だけが原因ではないと思うけど、家に帰っても球場で襲ってきたひじの痛みはしつこく残っていた。今年になって急に痛み出したわけではない。大体3年前ぐらいから、投げた次の日に腕全体がひどく疲れるようになり、特にひじがしんしんとうずくようになった。これも軟投派の宿命なのかな、としばらくはほっといておいたけれど、今年になってあまりに痛みが引かなくなったのでシーズンが終わったころチーム外の医者に診断してもらった。

結論は予想通り残酷なものだった。変化球、特にマリンボールを投げすぎてきたせいでひじの骨がけずれてトゲのようになっているらしい。このまま投げ続ければ、痛み止めを打っても一年で投げられなくなります、と医者は静かに告げた。限界はもうそこまで迫っている。

導火線に火のついたひじに響かないよう、そっとベッドに横たわる。寝るでもなくおきるでもなく、白い天井を半目で見ながら全身の力を抜いていた。しばらくそうしていると、まぶたの裏に今日のシートバッティングの残像が浮かび上がってきた。

ライト前に、左中間に、足元を抜けてセンターに、……一直線でスタンドに。こんなに情けない思いをしたのは何年ぶりだろう。悔しい。イヤな映像を思い起こしていると、ひじの痛みがいっそう増してくる気がした。

ボクはこのチームに必要なんだろうか。中継ぎエースとは呼ばれていても、防御率や負け数など成績は徐々に落ちてきている。昔は魔球のような扱いを受けて相手のバットの下をするりと通り抜けていたマリンボールも、いまではカーブやスライダーやシュートといった他の変化球と同じように、相手の意識を少しずつ乱して打ち取るための球でしかない。

どんどん沈んでくる考えをいったん打ち切って、ふと枕元に転がっていた小さな鏡に手を伸ばした。ガラスの上に映った自分の顔は、かわいそうなほどに疲れていた。目じりにも少しずつ小じわが寄ってきている。なんとかしないといけないのかな、と無意識のうちに響いてきた声を、ボクはあわてて打ち消した。スポーツによっては、ファンの視線に耐えるために化粧をして試合に臨む女性選手もいるらしい。ボクはそういう人たちを軽蔑している。そんなに容姿が気になるならスポーツなんてやらなければいいのに。

中学、高校、そしてプロと通じて、ボクは「女性選手」の看板に押しつぶされないよう、全力で走り続けてきた。「客寄せパンダ」と揶揄されるのが何より辛かった。ロッテに入団したときに受けた、プロの先輩たちの、そして長年チームを応援してくれている硬派なファンたちの冷たい視線は、ボクのプロ野球生活を支える礎になっている。

でもこの年になって考えると、どんな形でも、プロの選手が周りから注目を集めるということはそれだけで幸せなことなんだと思う。この世界に足を踏み入れてからの12年間、才能ある選手たち、心やさしい選手たち、そして人一倍野球を愛している選手たちが、誰にも気づかれずにひっそりと球界から去っていく姿を、数え切れないほどたくさん目にした。そういう選手たちの寂しい背中を思い出すたびに、ボクは自分が女に生まれたことに感謝できるようになっている。

気がつくと、時計の針は10時半を回ろうとしていた。

少し眠ってしまったらしい。球場から帰ったときのまま、ウィンドブレーカーを身にまとった姿で。ゆっくり起き上がってバスルームに向かい、一日の疲れを洗い落とす。

寝巻き姿でベッドに向かい、何気なくテレビのスイッチを入れると、勇壮なメロディーが流れてきた。空から降り立つ巨大ロボット。画面の感じが少し古い。矢部君の好きなガンダーロボの再放送だ。これは第四シリーズかな、と思いつつ主題歌を聞いた。

実はボクも、矢部君やその後輩たちがあまりにしつこく勧めてくるのでガンダーロボのビデオを借りてみたことがある。これが意外と面白い。「勇気」とか「愛」とか、子供向けのアニメにありがちなテーマをあげながら、結構深い人間関係を扱ったりしている。さすがにフィギュアやポスターの収集にまで走ろうとまでは思わないけれど、話の種として見ておいても害はない。きっと今頃、矢部君は鼻息を少し荒げて画面に食いついていることだろうけど。

そうして未だにマニア魂を忘れない矢部君も、すでにもう奥さんを持っている。あれは瀬尾君がアメリカへ行く前の年だったから、五年ほど前のことだと思う。「おいらの彼女でやんす」といって連れてきた今の奥さんを見て、ボクと瀬尾君はまず言葉を失った。美人というよりはかわいらしい感じの、明るい髪をした、ちょっと気の強い素敵な女性が矢部君と腕を組んで現れたのだ。しばらくして、ボクたちは思わず笑い出してしまった。戸惑って理由を聞く矢部君に、瀬尾君があまりにバランスが悪いからと言うと、矢部君の奥さんはすごく怒り出した。矢部君の一途なファンで、本気になって矢部君をかばおうとする奥さんを見て、ボクたちは安心した。矢部君はだまされているんじゃない、と。

半年後、矢部君が始めて出場したオールスター第二戦のあとに、二人はめでたくゴールインした。最初に見たときから予想していた通り、いま矢部家のすべての権限は奥さんが握っているらしい。

ついでに言うと、瀬尾君もアメリカに行く直前に結婚している。相手の人は空さんという名前で、すごくきれいで勝気なフライトアテンダントだ。瀬尾君の話によると、二人は空さんの仕事の都合で一年ほど別れていて、7年前、キャットハンズが初優勝した年のクリスマスに再開し、大恋愛の末に結婚したらしい。ただ、メジャーリーグに行ってみると移動移動で長い間会えないことが多くて、すれ違いに悩んでいる、と瀬尾君は話していた。

ところでボクは……正直、わからない。30歳といえば世間で言われる結婚適齢期はとっくに過ぎている。多くのOLたちが本格的に焦りを感じ、出会いを求めて奔走し始めるころなんだろうけれど。

ボク、という呼び方もそろそろやめたほうがいいのかもしれない。何も言わないけれど、周りの人たちはもうそろそろ違和感を覚えだしているころじゃないかと思う。昔にずっと抱え続けていた変な意地はもう消えた。そろそろ私も、新しいステップに踏み出していかなければならないのかもしれない。

 

そんな横道にそれたことを考えていると、テレビのスピーカーはいつの間にか憂愁ただようエンディングテーマをかなでていた。しまった、話の内容を全く覚えていない。でも心配することはない。矢部君やマニアックな後輩たちとガンダーロボの話しをする機会があれば、この人たちは自分から熱くストーリーを語りだすから。ボクは黙って微笑みを作っていればいい。

どうでもいいことを心に浮かべ続けていたのがよかったのだろうか、ひじの痛みはだいぶやわらいでいた。自然な眠気がまぶたをおろし、ボクはゆっくりとベッドに身を任せた。

 

次へ

小説目次に戻る

ホームに戻る

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送