3.
翌日、ロッカールームから出てきた矢部君は、これまでに見たことないぐらい陰うつな様子だった。肩を落とし、分厚いめがねの奥のうつろな目は焦点が定まらず、何かにとりつかれたような姿で歩いていた。これまでにも矢部君が落ち込んでいたことはある。限定発売のプラモを買い忘れたときとか、声優のサイン会の列が自分の前で打ち切られたときとか……その時でも、ここまで暗い姿じゃなかった。
「あ、おはよ、矢部君」
ボクはとりあえず、平静を装って笑顔で話しかけてみた。
「え、あ、あおいちゃん……でやんす」
でも矢部君の返事はほとんど聞こえないぐらい細かった。
「どうしたの、カゼでもひいた?」
「い、いや、なんでもないでやんす。あ、練習が始まるでやんす……」
矢部君はさっと目をそらし、そそくさとグラウンドに出て行った。
何があったんだろう。そういえば昨日、矢部君はいつまでたっても球団事務所から出てこなかった。きっとそこで何かあったに違いない。年俸が思うように上がらなかったのだろうか。でもそれなら矢部君は、昨日自信満々に話していたように、むしろボクを無理にでもつかまえて愚痴をこぼしてくるはずだ。やっぱり、何かおかしい。
矢部君の様子はグラウンドでも明らかにだった。なんでもない打球をこぼし、他の外野手の「オーライ」の声を無視してぶつかる。エラーの多さで有名だった若手の頃ならありえる光景けど、今の矢部君の守備はチームの外野手で一番堅い。フリーバッティングでも、気のない空振りばかりを繰り返していた。
昼ごろ、ベンチで一息入れていたボクの隣を矢部君が通り過ぎていった。全く気づいていないようだったので腕をがっしりとつかんで(もちろん左手で)問いただしてみた。
「矢部君、本当にどうしたの?どう見ても変だよ」
「いや、本当になんでもないでやんすよ。ちょっと疲れてるだけでやんす……」
昔からそうだ、この人は全くうそがつけない。あからさまにうろたえる矢部君を、ボクはさらに追及した。
「昨日、契約更改でなんかあったんでしょ?」
やっぱり矢部君はうそが下手だ。体をびくっと跳ね上がらせて、しどろもどろに答える。
「あ、ああ、実は年俸が思ったより低かったんでやんす。まったくうちのフロントは、何考えてるんでやんすかね」
「ふーん。去年あれだけがんばったのにね。トレード志願はしなかったの?」
「……え!トレードって……何の話でやんすか?」
矢部君の動揺は最高潮に達していた。これでだいたい話は読めたのだけれど、ボクは気づかないふりをして続けた。
「あれ、昨日言ってたよね?一億円プレーヤーになれなかったらトレード志願するでやんすっ! って」
「そ、そうでやんすね。でも」
「そうだ、昨日11頃にセカンドガンダーの再放送がやってたみたいなんだけど、見逃しちゃって」
「……え、昨日再放送してたんでやんすか?」
だんだんかわいそうになってきたので話しを変えてみたのだけど、その思いがけない返事に、ボクは心臓が跳ね上がるのを感じた。矢部君にとって、人生の意味そのものといってもいいガンダーロボ。その放送をチェックしていないなんて。よほどのことがあったに違いない。人生を左右するほどの大きな出来事が。
このままではいけない、本当のことを聞き出そう、と思って口を開きかけたとき、矢部君はボクからまた逃げ出した。
「あ、オイラ、ちょっとのどが渇いたでやんす。急いで水分捕球しないと熱中症になるでやんす」
「あ、矢部君……」
いま11月だけど、と声をかける間もなく矢部君はベンチの裏へと消えていった。こうなるとボクもみすみす引き下がるわけにはいかない。あとで絶対につかまえようと決めて、次の練習メニューをこなすためブルペンに歩いていった。
ブルペンには先にみずきが入っていて投球練習をしていた。しなやかに体を沈め、左手を背中の後ろまでひねり上げて、アンダースローからリリースする。ボールはキャッチャーの手前で大きく左に滑りながら落ちていった。みずきの決め球、クレッセントムーンだ。この球に加えて、みずきは下に沈む普通のスクリューも投げられる。数年前からカーブも投げ始め、チームにとってますます欠かせない左打者キラーになっている。
キャッチャーから返球を受け取って、みずきは再び体を沈めた。独特の腕の出からリリースされるストレートが内角の際どいところに決まった。変化球一本やりのボクと違って、体にバネのあるみずきはストレートも武器にしている。27歳になったいまでも、スピードガンの表示は130キロ後半を叩き出すから、打者にとってはなおさら厄介な投手だ。そうしてピッチングをみつめていると、ようやくみずきはボクに気づいた。
「あっ、あおいさん」
「みずき、お疲れ。今日も球、走ってるね」
「そうでもないですよ」
みずきはそっけなく返事する。別に仲たがいしているわけじゃなくて、彼女はそういう性格なのだ。
「そういえば」
ボクもマウンドに上がり、足元をならしながらたずねる。
「矢部君の様子がおかしいんだけど……昨日何かあったのかな?」
「矢部さんですか……わからないですね。すいません」
そういうと、みずきは再び投球練習を始めた。矢部君の事なんかどうでもいいから知らない、という意味ではないと思う。その昔、みずきはちょっとスケベでどっぷりオタクの世界にはまり込んでいる矢部君を毛嫌いしていて、話しかけられてもほとんど無視していた。でも、お互い8年間キャットハンズでいろんな苦楽を経験して、そんなわだかまりは消えている。時間はすべてを流してくれる、とつくづくそう思う。
「あおいさーん、まだですか?」
マウンドの向こうに座る後輩キャッチャーの声が聞こえた。いつまでも考え事をしていてはいけない。
「あ、ごめん!」
ボクはあわててプレートを踏み、何球かストレートを投げ込んだ。腕の振りが安定してきたのを確認して、不安を抱えながらマリンボールを投げた。
ひじをえぐるような痛みと、どろんとしたスローボール。
このままでは、一年どころか今年のオフに引退しなければならないかもしれない。僕もまた沈うつな気分に襲われて、どこか力の入らない投球練習を続けた。
一日の練習メニューを終え、僕が真っ先に向かったのはまたたびスタジアムの5番ゲートだった。矢部君はいつもここを通って帰る。確か5番という数字に、ガンダーロボ関係の何かがまつわっていたはずだけど……あまりにマニアックな話なので詳しいところは忘れた。とにかくここで待っていれば矢部君は逃げられない。ボクは息をひそめ、カベに隠れて廊下の様子をうかがった。
しばらくすると矢部君がとぼとぼと歩いてきた。5番ゲートの前まで来るとボクはさっと飛び出し矢部君を捕まえた。
「矢部君、来なさい」
「あ、あおいちゃん、どうしたでやんすか!?」
「いいから来なさい!」
「え、ええー!」
ボクよりずっと力があるはずの矢部君も、そのときはただ情けなく引きずられていった。
そうしてボクは矢部君を食堂に連れ込んだ。椅子に座らせ、缶コーヒーを買ってあげて、ずいっと身を乗り出したずねる。
「昨日、何か変わったことがあったんでしょう?どうなの、答えなさい」
矢部君にこれだけ強い口調を使ったのは久しぶりのことだった。それでも矢部君はうつむいて口を閉ざしている。
北風と太陽。無理やり聞き出そうとしてもダメらしい。僕は作戦を変えた。
「あーあ。矢部君もついに、ボクに隠し事をするようになったんだ。そうか、お互いもう30歳だもんね……はかない友情だったなあ……」
最後の言葉を精一杯寂しそうにつぶやくと、矢部君は思った通りに動いてくれた。
「え、そんなことはないでやんす!オイラはいつまでもあおいちゃんの友達でやんす!」
「じゃあ答えてよ」
再び押す。こうした細かい駆け引きのできない(それがいいところでもあるんだけど)矢部君は、ついに観念して話し出した。
「実は……」
それでも決心がつかないらしく、矢部君は缶コーヒーのふたを開けて少し飲んだ。
沈黙が流れる。ボクは早くいいなさいよ、と強い視線を打つ。
「実は」
缶をテーブルの上において、矢部君は小さい声を出した。
「トレードに、出されることになったでやんす」
「えっ!」
聞き手がボクじゃなくても声を上げただろう。12年間キャットハンズでプレイしてきて、いまやっと一流選手の仲間入りをしようとしている矢部君を放出するなんて。
「どこに?誰と?」
混乱した頭で矢継ぎ早に質問する。
「パワフルズの、館西でやんす」
「……!」
二重の驚きに声も出なかった。館西といえばパワフルズのエース、昔は弱小で身売りの手前まで行ったチームを一躍Aクラス入りの常連にした原動力の一人だ。最近はケガもあって一時期ほどの成績は残していないけれど、普通に一年間働ければ二ケタ勝利を確実に計算できる投手だろう。いくら矢部君の成績が上がってきたといっても、ちょっと割に合わないトレードなんじゃないかとさえ思ってしまう。
「じゃあ、矢部君が必要なくなった、ってわけでもないんじゃない?」
「そうなんでやんす。しかも、パワフルズは年俸1億1千万を二年契約で用意してくれているらしいでやんす。でも……」
「でも?」
「オイラはこのチームが好きなんでやんす」
矢部君は少し涙ぐんだ声を絞り出した。
キャットハンズは貧乏で、フロントは石頭で、テレビ中継もされないチームで、それでも、ここで12年間のプロ野球人生すべてを過ごしてきた矢部君にとってはかけがえのない場所だ。チームメイトにも、ファンにも、ちょっとくたびれてきたまたたびスタジアムにも、他の場所には決してない想いがある。同じようにキャットハンズに育ててもらった選手として、矢部君の気持ちは痛いほどわかった。
でも、冷たいようだけれど、チームが決めてしまったことならどうしようもない。瀬尾君が抜けてから絶対的なエースがいないキャットハンズと、打線の活気を求めているパワフルズ、お互いの考えが一致してのトレードなのだから。つきつめていけば、選手はチームと契約で結ばれた商品でしかない、それもまたプロの世界の姿だ。
事実だとはいってもそんなことを告げるわけにはいかない、かと言って矢部君の悲しみを煽るようなことも避けたくて、ボクは何も声をかけられなかった。
外はもうすっかり日が落ちていて、グラウンドを整備していた職員さんたちも姿を消していた。食堂の調理員さんも片づけを終えて、少し迷惑そうにこちらを見ている。
矢部君、ごめん、そろそろ帰ろう。
そう言おうとして席を立ったとき、矢部君の口から意外な言葉が飛び出した。
「あおいちゃんも、オイラに隠し事してるでやんす」
メガネの奥の小さな目がじっとボクを見上げる。それはボクと同じように9年間、相手のことを見続けて、たいていのことは見通せるようになっている目だった。
「……え、そんなことないよ」
「嘘でやんす。あおいちゃんは、誰にも弱音を吐かないけど……ほんとうはすごくひじが痛いんじゃないでやんすか?」
矢部君はまったく正しい分析を続けていく。
「みんなの前ではいつも笑顔でやんすけど、陰ですごい表情でひじを抑えているでやんす。前から気づいていたでやんすけど……最近は練習中にも時々辛そうな顔をしているでやんす」
「そっか……」
もう、ごまかせない。ボクはそう悟った。矢部君だけじゃなくて、真中監督とかみずきとか、いろいろな人がボクのひじのことを知っているんだろう。気を使ってくれているのに、ボクは周りのみんなを信頼しないで秘密を守ろうとしている。
これ以上隠し続けるのはフェアじゃない。ましてや、たったいまボクは自分勝手な好奇心から、矢部君の心の傷をえぐったばかりなのに。
ボクは矢部君に全てを話すことにした。それでも矢部君と同じように、打ち明けるのには勇気が必要だった。すっかり冷えたコーヒーで喉を潤して、それでもしばらく迷って、ようやく話し出すことができた。
「プロに入ってまともに試合で投げるようになってから、ひじが痛くないことなんてなかった」
「やっぱり……」
「マリンボールをたくさん投げた試合のあとは腕が消えそうなほどしびれて、それでも次の日には何とか投げられるようにはなってたんだけど……3年前ぐらいからかな、日付が変わっても疲れがぜんぜん取れなくなったのは」
「……でも、去年も今年も投げ続けてたでやんすよね?」
「うん。疲れがたまりやすいのをただ疲れのせいにして投げ続けてた。でも今年のシーズンが終わって、どうしても痛みが取れなくて、それで病院にいったら……」
喉がつまった。
医者に残酷な一言を告げられたときの真っ白な世界が頭によみがえって、押し潰されそうになるのを必死でこらえた。
「痛み止めを打ってもあと一年、って言われた」
その時の矢部君は、たぶん病院の椅子で時間を忘れたボクと同じ表情をしていた。矢部君もまた消えそうな声でたずねてきた。
「手術は、しないんでやんすか?」
「一応聞いてみた。成功するかどうかは五分五分だって。ただ、成功しても良くて三年、失敗したら……」
「あおいちゃんは、どうしたいと思ってるんでやんすか?」
「すごく迷ってる。半分の確率にかけて投げ続けたいって気持ちももちろんあるけど……でもどうせ終わるならマウンドで終わりたいって気持ちもある。ボロボロになっても、一年投げられなくても、マウンドで身を引けるんだったらそれでもいいと思うし……」
ボクは息を少しかみ締めてから、一番重い考えを話した。
「いっそこのまま引退しようかな、とも思ってる」
「えっ? そんな……」
「このまま投げてもチームに迷惑をかけるだけだと思う。シンカーがまともに投げられないボクなんて何の役にも立たないし」
「そんなことないでやんす」
「本当にそう思う?」
矢部君はボクを本気で励ましてくれようとしていたのだと思う。でもこのとき、僕はその気持ちを素直に受け取れなかった。
「おとといシートバッティングで対戦したとき、ボクの球はどう見えた? チャンスの場面で相手にして打てないと思った?」
「それは……」
いっそトドメをさしてくれればいいのに。あれぐらいの球だったら高校生でも打てるって言ってくれればいいのに。
自分の今の力を見つめようとすればするほど、今のボクはすさんでいく。そんな姿をいくら見せても矢部君を困らせるだけだから、いったん自分を抑えることにした。
「ごめん」
それから先は声が出なかった。自分なりにずっと考え続けてきて、悩み抜いて、とりあえずはキャンプに集中しようと決めていたのに、仲間に打ち明けた途端、自分を縛っていたひもがするすると解けてしまった。
しばらくそうして顔を伏せていた。いい年して情けない、いくら自分にそう言い聞かせても、嗚咽がこみ上げてきてどうしようもなかった。
「悩んでいるのは、オイラだけじゃないんでやんすね」
矢部君もまた、唇を結んで気持ちを抑えていた。
「いや、オイラなんかよりあおいちゃんのほうがずっと……」
「そんなことないよ。矢部君だって……」
そうはいってしまったけれど、矢部君の言ったことは正しいと思う。矢部君はチームを離れるといっても野球ができなくなるわけではない。でもボクは……
「……どっちが辛いかなんて比べても、何にもならないね」
「……そうでやんすね」
ボクたち二人はお互いに何もしてあげられない無力感に包まれながら、ただいたずらに食堂で時間をつぶしていった。
すっかり帰り支度を済ませた調理員さんが気まずそうに声をかけてくるまで、ボクたちは立ち上がることもできず何度もため息をついた。