4.

 

苦しいこと、悲しいことがあると、いつも眺める一枚の写真がある。

七年前、キャットハンズが初優勝した日の夜の写真だ。紅白のカーテンの前で右手にビール瓶を持ち、左腕で矢部君の首をしめる笑顔のボク。その後ろから腕を回してボクを制止しようとする瀬尾君。

あの夜、キャットハンズのみんなは人生最高の喜びを味わっていた。それは決して大げさな表現ではない。チーム消滅の危機というどん底から這い上がったボクたちが、キャットハンズにかける思いは本当に強かった。

ボクたちは辛かったことすべてを忘れようとするかのように飲んで、騒いだ。歓喜の渦の中で、矢部君もまたアルコールの海に飲み込まれようとしていた。自慢の俊足をふらつかせながら、先輩、後輩問わずいろんな人と祝杯をあげていた矢部君は、特にボクにねちねちとからんできた。普段だったら一喝するなり張り倒すなりして矢部君を退け、それがまた周りの雰囲気を盛り上げたりもするのだけど、あの夜だけは矢部君のしたいようにさせていた。ボクもまた、天上の喜びに気持ちよく酔わされていたのだった。

でも、すっかり調子づいた矢部君がボクの胸に手を回してくると、さすがに頭へと血が上った。そういうときには怒りが沸騰するのもまた早い。ボクは矢部君の首に素早く左手を回し、テーブルの上のビール瓶をつかんで振り上げた。近くにいた瀬尾君が、あわててぼくの右腕を抑えにかかった。あれがなかったらビール瓶はそのまま矢部君の頭にジャストミートしていただろう。

その時、騒乱のそばをたまたま通りかかったみずきがシャッターを切ったのがこの写真だ。他人に見せられない異様なこの一枚には、あの頃のボクたちの赤裸々な姿が映されている。

同期の三人の間には何の隔たりもなかった。過酷なプロの世界でお互いを刺激しあい、純粋に野球を楽しもうとしていた。そのままいつまでも続くと信じていた関係は、思えばこの写真の瞬間をピークとして少しずつ壊れていったのかもしれない。

チームが強くなり、それぞれが選手として一人立ちしていくにつれ、昔のようにいろいろなことをさらけ出す機会も減っていった。二度目の優勝、矢部君、瀬尾君の結婚、瀬尾君のアメリカ行き、いろんな転機があって、そのたびに一緒に喜んだり悲しんだりしたけど、昔のように何の飾りもてらいもない付き合いはなくなっていったように思う。

解雇、トレード、手術。

いま、三人は岐路に立っている。道の途中に何があっても、その行き先は三人をより遠く引き離す方角へと伸びている。

ボクは写真を見つめて部屋のベッドに腰掛けていた。

ひざの前でテレビのモニターが光を放っている。ついさっきまではスポーツニュースが流れていた。瀬尾君の動向が流れないかという期待はあっさり裏切られた。

あるチームのエースがプロ野球を引退してまでMLBの世界に飛び込み、後へ続く道を切り開いてからもう20年ほどたっている。いま、MLBは日本のプロ野球選手にとって選択肢の一つに過ぎなくなっている。だから一選手がMLBのチームをクビになってもほとんど注目を浴びることはない。誰にも気づかれないうちに、元いた日本のチームの一員になっているのが普通だ。

瀬尾君もまた、そうしていつの間にかキャットハンズのマウンドに立っていることになるのだろうか。その辺も含めて、いま瀬尾君がどのように悩み、どのように進路を決めようとしているのか、まったく闇の中にある。

一般紙やテレビは取り上げてくれないし、インターネットのサイトやスポーツ新聞は相変わらずいい加減な報道を繰り返している。ならば直接瀬尾君に連絡すればいいじゃないか、何度もそう思ったけれど、すぐに取り消した。いまのボクでは瀬尾君に余計な悩みを押し付けるだけに決まっている。

瀬尾君がキャットハンズにいた頃、ボクも含めチームのみんなは彼に何度も助けられた。プロの打球についていけず誇りにしていた守備に自信を失いかけていた矢部君、お姉さんへの強いコンプレックスに縛られてもがいていたみずき、そのみずきの投球を見て自分の力を信じられなくなっていたボク。例を挙げればきりがない。

チームとしてもキャットハンズ恐慌のころ、数ヶ月単位で現れる身売り相手に、率先して頭を下げて回っていたのは瀬尾君だった。エースとして登板する試合の翌日でさえ、瀬尾君はプライドを捨ててチームのために企業のビルへと乗り込んでいった。

キャットハンズにとって瀬尾君はどういう存在だったのだろう。功労者、救世主、そんなありきたりの言葉では表現できないぐらい大きな存在だった。

まだまだ野球を続けたいくせに、気持ちに決着をつけてリスクを背負うこともできない。そんな中途半端なボクが瀬尾君に連絡をとっても、あの大きな背中にまた依存してしまうことは目に見えている。

写真の中のボクは笑っている。瀬尾君も笑っている。矢部君も、息を詰まらせながらも笑っている。何の迷いもなく、ただ一つの目標だけを目指して戦い、達成していった輝かしい日々。三人があの頃のように一緒に笑い合えることはもうないのかもしれない。

 蛍光灯に照らされた冷たい部屋の中で、ボクはせり上がる熱い涙を抑えることができずに、ただ流れるまま時を過ごしていた。

 

時計の針が11時を少し回った頃、電話のコール音が鳴った。目のあたりを腕でぬぐって壁際に向かう。

こんな時間に誰だろう。そんな当然の疑問がなかったわけではないけれど、期待と予感から相手について大体の推測はついていた。

「はい」

「もしもし、早川さんのお宅でしょうか」

やっぱりそうだ。念のためにおずおずと尋ねてみる。

「瀬尾……君?」

「あおいちゃん? ごめん、こんな時間に」

「いいよ、そっちの時間は大丈夫なの?」

「うん。こっちは朝だから」

思い返せば今年のオールスター休み以来、半年ぶりの連絡だ。電話の向こう、海の向こうから届く声も懐かしさに弾んでいるのがよくわかった。電話の子機を右手につかみ、再びベッドに腰を下ろして話す。

「そっか。いま何してるの?」

「……俺についての情報、日本には伝わってるのかな?」

「……うん。ちょっとだけ聞いた」

「あおいちゃんにも伝わってたか……」

「にも、って?」

「いや、さっき矢部君と話してて」

「電話したんだ」

「いや、向こうから電話がかかってきた」

「ほんとに?」

「うん。矢部君はもういろんなことを知ってるみたいで」

「そうなの。矢部君の口から、瀬尾君についての話はあんまり聞かないけど」

「矢部君なりに気を使ってくれてるみたいだね。さっき話していたときも、瀬尾君なら絶対どこかの球団が欲しがってくるでやんす、ってしつこいくらい励ましてくれた」

「矢部君、元気そうだった?」

言ってから、変な質問をしたと少し後悔した。自分の方がずっと矢部君の近くにいるのに。でも、さっき悩みを白状してあれだけ沈み込んでいた矢部君が瀬尾君に励ましの電話を入れるというのも変な話で、そんなところから出てきた質問だった。

「あ、うん。ただ……」

瀬尾君は少し口ごもった。

「矢部君、トレードされるんだってね。もう30歳なんだから、そろそろ気分が変わるのもいいものでやんす、とか言ってたけど……」

「……」

沈黙の中で、本当のことを打ち明けるべきかどうか迷った。矢部君はたぶん、あくまで瀬尾君を勇気付けることに専念しようとしたのだろう。変にトレードの噂だけが伝わって瀬尾君を心配させてしまってはいけない、そうなる前に自分から喜んでいることを伝えて安心させよう、と。

でも、ボクよりさらに長い付き合いの瀬尾君に対してそんなごまかしが通用するものなのだろうか。そんな心配は見事に的中した。

「たぶん矢部君、わざとそんなこと言ってるんじゃないかな? いくら相手のチームから欲しがられてるからって、矢部君がすぐにキャットハンズをあきらめられるとは思えないんだけど……どうなんだろ、あおいちゃんには何か言ってない?」

「うん。矢部君は嘘をついてる」

確かに、このまま矢部君がトレードを嫌がっていないことにすれば、瀬尾君の心配事を少しでも増やさない心遣いにはなるだろう。でも、それで瀬尾君が喜ぶとは思えない。ボクが矢部君の悩みを率先して受け止めようとしたのと同じように、いやそれ以上に、瀬尾君は友達の苦しみに対して敏感でありたいはずだ。だからボクは真実を話すことにした。

「キャットハンズが好きだって言ってた。そんなに簡単に離れられないって。瀬尾君をだまそうとしてついた嘘じゃないと思うから……」

「大丈夫、わかってる。でも安心したよ」

「え?」

「俺がいない間に、矢部君も随分変わったのかなと思って、少し寂しかった。もちろんこれだけ日が経ってるからみんな変わっていくだろうけど、なんかもう二度と手の届かないところまで離れていくんじゃないかって……」

「……そんなことないよ。どれだけ距離があっても、矢部君とか瀬尾君とか、ボクが過ごしてきた時間は変わらないんだから」

確証があるわけじゃない。でも少なくとも瀬尾君は、ボクたちの関係について同じような危機感を持っている。それだけでもまだ、いままで築いてきたものが崩れていない証拠だと思えた。

それからしばらく、瀬尾君はボクのひじについていくつかたずねてきた。矢部君を通して聞いたらしい。あまり人に知られたくないことだけど、瀬尾君にならかまわない。手術をしなければ一年以内にボールを投げられなくなること、手術が成功しても三年が限度だということ、いろいろな状況、思いについて瀬尾君にぶつけていった。

こうして話す前はあれだけためらっていたのに、今やボクは瀬尾君に強く助けを求めようとしていた。瀬尾君が今、どんな立場に置かれているのかも忘れて。

「……そうなんだ。俺からアドバイスできることは何もなくて本当に申し訳ないけど……」

「いいよ。こっちこそごめん。瀬尾君も、いま大変なのに……」

「うん。ありがとう、たぶんもうかなり話してるんじゃない?」

時計に目を移すと、もう11時半を回っていた。そろそろ潮時だと思って、ボクは通話を切る準備をした。

「そうだね。じゃあ、またいつでも電話してきて」

そのとき、瀬尾君の口から思いがけない誘いが飛び出した。

「あのさ、矢部君にも聞いたんだけど、今月の中ごろって開いてる?」

「え? どうしたの?」

「いや、久しぶりに三人で飲みに行かないかな、って……」

「今月は……キャンプの休みがあるからその時にならいけると思う。あれ、瀬尾君は日本に帰ってこれるの?」

「それは大丈夫」

「まだ契約先を探したりテストを受けたりいろいろあるんじゃない?」

「実は、そのことなんだけど」

瀬尾君はためらいがちに一度言葉を飲んでから話し出した。

「アメリカに残るかどうか、日本で年を越してから考えようと思う」

意外だった。数年前から瀬尾君はMLB一筋で、一回解雇されたところですぐにでも新しいチームを探しているものだと思っていたから、理解するのに少し時間がかかった。

「そうなんだ。でも、アメリカで野球することはずっと夢だったんじゃないの?」

「夢だった……のかな? それもわからなくなってきてる。いま思うと、アメリカに行こうって本格的に決めたとき、日本でやれることは全部やったって勘違いしていた気がする。あとはアメリカしかないって。それで周りの人にも持ち上げられて……本当は夢でもなんでもなくて、熱に浮かされて日本を飛び出しただけなんじゃないか、って最近思ってるんだけど……」

そういう一面はあるのかもしれない。MLBに行った三年前、瀬尾君は五年連続での二桁勝利というすごい記録を達成して、日本球界のエースといってもいいくらいのピッチャーになっていた。ファンやマスコミの期待もかなりのものだったし、勢いに乗せられた部分も大きくあるのだとは思う。

でもボクは、瀬尾君の言葉に納得できなかった。瀬尾君がボクと矢部君にMLB行きの夢を話してくれたときの顔を今でもはっきりと覚えているからだ。

きっかけはある年のお正月、スペースレッドエンジェルスに野球留学生として派遣されたときの印象だと瀬尾君は言った。

『投球や打球のスピードとか、くつろいで自由に応援するファンとか、天然芝のにおいとか、とにかくいろいろなものが違うんだ』

瀬尾君の目は希望に輝いていてまぶしかった。

『世界にはこんな野球もあるんだなと思って……でもまだ俺には力が足りないから、誰にも認められるようになったら、絶対にアメリカへ行きたい』

ボクと矢部君は夢を追う瀬尾君を、そしてそんな大きな夢を追える力を持っている瀬尾君を、ほほえましく、またうらやましく見つめていたものだった。

あれからもう五年以上の月日がたっている。それでも瀬尾君の理想を求める熱い心が完全になくなってしまったとは思えない。

「それに、このまま空を日本に置いておくわけにもいかない」

瀬尾君は奥さんの名前を出して続けた。

「何かあったの? トラブルとか」

「いや、特にはないんだけど。結婚するときからアメリカに行くって事は言っていたし、理解もしてくれているんだけど……でも一ヶ月に一度会えるかどうか、って生活が続くのにはお互い疲れてきたんだと思う。電話とかメールの回数も少しずつ減ってきたし、日に日に二人が離れていく気がして」

大リーガーの夫とフライトアテンダントの妻。二人の間には外からでは計り知れない距離があるのだろう。せっかく出会って一緒になった二人の間を埋めていくことは、何ものにも変えがたいぐらい大切なことなのかもしれない。

でもやっぱり、瀬尾君の迷いに心から賛成することはできなかった。

「ごめん。なんか余計なことまで話してしまって。もう切らないと」

「ちょっと待って」

夕方、矢部君を捕まえたときのような気持ちでボクは電話を続けた。

「瀬尾君がアメリカでの野球をあきらめないといけない、って真剣に考えてるんだったらボクには止める権利がないと思う。でも、本当にそれでいいの?」

「……え?」

「瀬尾君は日本に帰らないといけない理由があるから帰ろうとしてるんじゃなくて、日本に帰ろうとしている自分を納得させようとしていろんな理由を探してるんじゃないかな? そんなことで夢をあきらめたら絶対後悔するよ。走るのをやめるのは簡単だけど、そこからまたスタートするのはすごく勇気と体力がいるんだから」

ボクは瀬尾君の背中を押そうとする想いからあふれ出してくる言葉をそのままに流していった。

「周りの人がどう思ってるかとか、どうしたいとか、気にしなくてもいいとは言わないけど、でも瀬尾君言ってたでしょ、『自分が精一杯頑張ればそれでいい』って。瀬尾君の中にまだ、本当にMLBで野球をしたい、って気持ちが少しでも残ってるんだったら、裏切らない方がいいよ。自分の気持ちに嘘をついてごまかせたと思っても、他の人だっていつかは気づくし、後からもっとつらくなってくるだけだから」

一方的に話しながら、ボクは自分の高校時代のことを思い出していた。

女性であることが規定に引っかかり、地区予選で優勝したのに甲子園に出場できなかった恋恋高校二年生の夏。ボクはみんなに迷惑をかけたくない一心で、悩みに悩んだ末マネージャーとしてチームを支えることにした。自分なりに決着をつけたつもりだった。みんなにはいつも笑顔で接して、マネージャーでいることにやりがいを感じているということを伝えようとした。

でも、陰では毎日後悔していた。野球がしたい。ボクの居場所はここじゃないはずなのに、と。

そんなボクの苦しみに周りのみんなは気付いてくれた。チームの人たちが地道に署名を集めてくれた結果、規定は変えられて、三年の夏にボクは甲子園への出場を果たした。

大きな試練が襲い掛かってきて、耐え切れずに挫折してしまったとき、人は自分の本当の気持ちを見失ってしまうのだと思う。そうして選んだ逃げ道をいくら進んでも闇から抜けることはできない。ユニフォームをジャージに着替えて、大好きな野球を見ていることしかできなかったあの日々の悔しさを、ボクは一生忘れないだろう。だから、瀬尾君にそんな思いはして欲しくなかった。

しばらく、電話のノイズだけがさわさわと音を立てていた。やがて瀬尾君が声を絞り出した。

「……ありがとう。あおいちゃん。もう一度、ゆっくり考えてみる」

「うん」

「でも、どっちにしても一回日本には帰ろうと思うんだ。その時までに自分なりの結論を見つけたい」

「うん。じゃあね」

長い会話が終わった。ボクは通話を切り、そのままベッドに体を倒して考えた。

瀬尾君に対してしゃべり続けたことが、そのまま自分に向けたメッセージだったような気がしてきたのだ。

いまボクは、自分に嘘をついていないだろうか。自分の弱さを周りのせいにして、本当の気持ちから逃げようとしていないだろうか。未来へと身を投げ出すことを怖がってはいないだろうか。

ボクも、矢部君も、瀬尾君もいま、進まなければあの頃に戻れるチャンスなのかもしれない。ボクはキャットハンズで一年だけ野球を続ける、矢部君はキャットハンズに残る、瀬尾君もキャットハンズに帰ってくる。また三人一緒に同じグラウンドに立てる。

その時、ボクたちはあの頃と同じように心から笑いあうことができるのだろうか。

できない気がした。一見同じ状況に思えても、自分の気持ち、自分の運命から目をそらす三人だったら、あの頃のボクたちとはまったく違う。そうして逃げてきたボクたちはただお互いの傷をなめあっていくことしかできない気がする。

瀬尾君には少し言い過ぎたかもしれない。もう一つ余計に、悩みの種を与えてしまっただけかもしれない。

でも、ボクの中では何かが確かに変わっていた。

だから、瀬尾君もいま海の向こうで、新しい一歩を踏み出そうとしている決意しているはずだ。根拠はないけれど、不思議とそんな気がするのだった。

 

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