暗示

 

1アウト一塁。次のバッターは8番の刈田。
ここで、ベンチに動きが見えた。監督が立ち上がったのだ。これはおそらく・・・
南条がベンチに向けた視線の先では、予想通り監督がブロックサインを出していた。右打席の刈田もそれを見ている。
二人ともそれをきちんと確認して、プレイ再開。ここでいったん、報告を放送席に任せよう。


「さあ、なおもランナー一塁。草分投手が一塁をちらっと確認します。バッターは・・・おっと、バントの構えを取っていますね」
「そうですね。この試合ではまだ見られていませんが、この場面では送るのが一番良策でしょう」
「ピッチャー、セットポジションから第一球を投げた!・・・・・・バッター見逃してストライク。・・・あれ、今バットを引いて、一球見逃しましたか・・・?」
「それも考えられますが、先ほどの打者と同じくバスターを試みている可能性もありますね」
「そうですか・・・ここに来て川端西高校の攻撃は、なにやらあわただしくなってまいりました」

実況のアナウンサーは、少し困惑していた。今までにない攻撃の仕掛け方が続いているこの回。奇妙な印象を受けるのも仕方がない。

「ここで一球ランナーに牽制します・・・バッターはなおもバントの構え。セオリーどおりに送るのか、はたまた打ちに出るのか、見当がつきません。・・・マウンド上の草分君、セットポジション第二球を、投げた!・・・当てに行きました、バントです!打球はピッチャーの前に転がります・・・・・・今ようやく捕りました!ピッチャー二塁はあきらめて一塁へ送球。しかし間に合いません、セーフです!」
「あー、今のはもう少し早くピッチャーが捕りに出るべきでしたね・・・」
「そうですね。打球に反応し始めたのが投げ終わってしばらくしてからですからね・・・長州学院の守備に少し乱れがでましたか」

アナウンサーのこの解釈は間違っている。前に「出られなかった」のではなく、橿原の指示で「出なかった」だけである。
刈田のこの出塁は、普通に送ることができればそれでよし、と考えた角田監督としては予想外のものだった。ある程度草分の打球処理が遅れることは予測していたが、まさか刈田の足で(決して遅くはないが)塁に出られるほどになるとは思いもしなかった。

過程はどうあれ、ランナーは1,2塁。バタ西は8イニング目にしてようやく、この試合初めて得点圏にランナーをおいた。


「川端西高校、逆転のランナーが出ました。打席に向かうのは9番ショートの新月君です。ピンチヒッターはどうやら出さないようです。橋見さん、この試合、確実にここが山場となるでしょうね」
「ええ。まあ野球は何が起こるかわかりませんから言い切れないんですが、高い確率でそうなるでしょう」
「ピッチャーの草分君は・・・いったん二塁に牽制球。一点差のこの場面、慎重に慎重を重ねています。さあ、草分君キャッチャーのサインを確認して・・・第一球目を投げた!・・・と、このバッターもバントです!」


再びグラウンドから報告。

新月はピッチャーのフォームが終わるころにバントの構えを取り、そして当てた。セーフティーバントだ。
打球は一塁線、絶妙なところへ。
後で聞いたところによると、こんなバントは今まで一度も決めたことがなかったそうだ。
それほど完璧な、勢いを殺された白球が、フェアグラウンドとファールグラウンドの狭間に転がっていく。

ピッチャー草分の反応はここでも遅い。一塁手が懸命に駆け寄ってくる。それを、捕手の橿原が制止した。

「任せろ、俺がやる!」

ファーストが捕球すれば、一塁ベースに向かっていったん反転してから送球しなければならない。絶対に避けたいタイムロスだ。

新月も一塁へ向かって懸命に駆ける。もはやほとんど何も見えていなかった。その視界には、ただ土で少し汚れた一塁ベースだけが入っている。

橿原がボールを右手、つまり素手でつかみ、一塁へ渾身の送球。

白球と球児。二つの光が一塁線上を突き抜ける。

ここで、新月の体が沈んだ・・・いや、沈めた。頭から滑り込む、ヘッドスライディングだ!

「うらぁっっ!!」
「ズザァッッッ!」「バシッ!」

ファーストミットに球が収まる瞬間、新月の手が一塁ベースに触れた瞬間。どちらが早かったのか。遠くからの肉眼ではもはや確認不可能。

この上なくきわどい判定。いったい今日、一塁ベースには何度、この緊張の瞬間が訪れただろうか。
ほんの一瞬だが、一塁塁審が判断に迷った。しかし球児たちにはこの時間がとてつもなく長いものに思えた。


「・・・・・・セーフ!セーフ!!」

判定が決まった。両手を広げるモーションはあえて二回繰り返された。

「よっしゃあぁっ!!」

その瞬間、拳を上げて叫ぶ新月を初め、球場のボルテージがさらに上昇した。
一年生で構成された下位打線で1アウト満塁。バタ西のベンチ以外の者には、誰にも予想できない展開だった。



ここで捕手の橿原がタイムを取り、長州学院ナインを集めながらマウンドへ向かった。内野から、外野から、全員走ってその召集に答える。

「しっかし、まずいことになったな・・・」
第一声は、まさに今ピンチを背負っている投手の草分だった。
「にしても、さっきのバッターむちゃくちゃ足速かったな。俺より速いんじゃないか?」
その俊足でバタ西の守備陣をかき回した、今はセンターについている西間も、新月の足には心底驚いていた。

「すいません、伝令です!」
ベンチから一年生の部員がそう言いながら走ってきて。
「言いますね。一点までは十分安全圏内だから思い切って勝負しろ。二点だと少し状況は厳しくなるがまだ大丈夫。三点以上取られることは絶対に避けろ、ということです」
「わかってるよ、それぐらい・・・」
草分がややイラつきながらつぶやいた。

「でも監督の言うとおりだ。同点なら十分に返せるし、一点リードされても問題はない。今はとりあえず、外野は通常体形、内野はゲッツー狙いの中間守備で行け。もし万一、一点取られたら外野は少し前に出ろ。内野はそのままだ」
橿原がナインへ的確に指示を出していく。

「みんなも多分そうだと思うが、俺もまさかこの試合でここまで苦労するとは夢にも思わなかった。でもここを勝てば、一気に優勝に近づく気がする。お前ら、優勝したいよな」
「そりゃそうだ」
「最低でも、大河内に一泡吹かせるまでは負けられないな」
橿原の呼びかけに、皆言葉は違うが同じ思いで答えた。

「だったら勝とうぜ。ここを乗り切ろうぜ」
「「「おう!」」」

ナインは一度手を合わせ、指示された守備体形に散っていった。



「一番 センター 島田君」

おそらく今日一番の歓声が、三塁側スタンドから響きわたった。
この試合、ただ一人ホームランを放った打者。ただ一人長州学院から点をもぎ取った打者。

全ての期待を一身に集めている島田さんの動悸は早くなるばかりだった。
今、俺はアガっている。
ここまで胸が締め付けられ胃が競りあがってくるような感覚は、島田さんにとって実に久しぶりだった。


もともと島田さんは、緊張に弱かった。昔から小柄な体に似合わない豪快な打球を飛ばし、練習の時点ではいつも四番候補と言われていた。
ところが試合になるとその打球は跡形もなく影を潜めた。
球が見えない。バットが振れない。
過度の緊張から来る以上を抑えようと勤めているうちに、審判は三つ目のストライクを宣告していた。

本番に弱い。
このレッテルを貼られ、監督の信頼を失っていった中学時代前半までの島田さんは、いつしかほとんど打席に立たせてもらえなくなっていった。

克服しようと、あらゆる手を試した。模索の中で見つけた一番有効な方法。それは、「自分は打てる」とひたすら自分に言い聞かせることだった。
打席内で、ネクストバッターズサークルで、ベンチ内で、島田さんは自分を賞賛し続けた。そして弱点は消えていき、島田さんはどんどん結果を残すようになっていった。

最初のうちは心の中だけで唱えられていた賞賛の言葉が、実践を続けるうちにいつしか具体的な言葉となって外に出てくるようになった。
「俺はバタ西のイチローだ!」「俺がホームランを打つからこの試合、絶対勝てる!」
周りからは、自信過剰といわれている。島田さん自身もそう思っていた。
でもそれが、チームの勝ちにつながるならそれでいい。どこまでも自信過剰になって、どこまでも自分に暗示をかけ続ける。

そしてこの場面でも、やはり島田さんはこの「方法」を実践することにした。

(この場面、ただのヒットでも、いや、外野フライでも同点にできる。そうすると俺は二打点か・・・オイシイな、これは・・・・・・しかも六回にファインプレーも出たし・・・先制打、同点打、チームを救う奇跡の守備・・・オイシイな、オイシすぎるぞ・・・打つしかないじゃん、ここは・・・・)

「オイシイな・・・オイシすぎるぞ・・・」
無意識のうちに、思考の一部が島田さんの口から漏れ出していた。
その断片だけを耳にした捕手の橿原にとっては、当然島田さんがこの上なく不気味に思えた。

「・・・っしゃあっ!!来いっ!」

唐突に島田さんが叫んだ。その叫びは橿原の心臓を大きく跳ね上がらせた。そして島田さんを襲った堅さは一気に吹き飛んだ。
クラウチング打法で構え、第四打席に臨む。

「プレイ!」

ランナーがいてもいなくても、投手の草分はセットポジション。しかし満塁なのでフォームはゆったりとしている。長躯がしなやかに躍動し、島田さんに対しての第一球が投じられた。

「ピシューーー・・・・・・・」
ごくごく低い位置から伸び上がってくるストレート。
「バンッ!」「ブンッ!」

「ストライーッ!」

ホームランを狙ったわけではなかった。大振りはしていない。でも・・・当たらない。
やっぱりすごいストレートだ。ボールが離れてから、ほとんど見極める間もなくミットに届く。
南条はこれをヒットにしたんだよな・・・刈田も、新月も、バントとは言ってもきちっと当てて転がしたんだよな・・・こいつら、相当やるな。

俺も負けてられるか、と島田さんはある方針をとることにした。
草分が第二球を投げる。

「ピシューーー・・・・・・・・・」
大きく外に外れた球。
「バンッ!」
「ボール!」

多分、「外れた」のではなく「外した」のだろう。スクイズを防ぐために。セオリーどおりの配球だ。
内野全体を見回したあと、草分が第三球目。

「ピシューーー・・・・・・・バンッ!」
「ストライッ!」
「・・・チッ」

低めへのストレート。非常に際どいところだったが・・・いっぱいに決まったようだ。草分の抜群のコントロールは、ここまでのイニングで実証済み。だがこの満塁の場面でも崩れないところは、やはり只者ではない。

カウント2−1。追い込まれた。島田さんは次の球に賭けることにした。狙いは、今日ホームランを放ったあの球種だ。
草分がサインを確認してセットポジションに入った。しかししばらく止まった後、いったんプレートを外した。的確に間を取りに出る。

そして再びセットポジションから第四球目。

「ピシューーー・・・・・・・・・・・」

狙い球は・・・

「クッ」

シンカー!来たっ!


島田さんがバットを出す。狙い通りの球種だったが、その落差は桁違い。白球は予想していたよりも鋭く重力に引かれていく。
だが、あきらめない。喰らいついて、ただボールを当てに行く・・・

「カキンッ!」

当たった!島田さんが球を捕らえた場所は、完全に低めのボールゾーン。すくいあげた打球は当然ヒット性のあたりにはならない。

だがそれでも十分だった。強靭な筋力によって運ばれたボールは高々とレフト方向に上がっている。

左翼手は定位置から動けない。ただ打球が落ちてくるのを待つだけ。

その行方に、特に三塁ランナーの南条が全神経を向けていた。


ボールがグラブに収まった。と同時に、南条がスタートを切る。タッチアップだ。

十分な距離だった。ボールは中継に入った二塁手に送られるが、ホームには返ってこない。ただ二塁ランナーの進塁を防ぐためのモーションが取られただけ。
南条は一応、ホームベースに滑り込んで到着した。


川端西 2−2 長州学院


同点。
バタ西の選手たちは当然歓喜した。長州学院の選手たちは・・・捕手の橿原は、案外冷静にバタ西ベンチの喜び方を見つめていた。勝ちが消えた先発投手の西間は、センターから激励を飛ばしていた。そして打たれた草分は・・・うつむきながら、マウンドの土を足でえぐっていた。


2アウトながらなお、ランナー1塁2塁。バタ西の攻撃はまだまだ終わらない・・・のか。その結果は次の打者、藤谷さんにかかっている。

 

 

 

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