不可逆

 

代走のランナーが一塁に駆けていき、試合はノーアウト一、二塁の局面から再開。
この、南条にとって最悪といってもいい場面で対峙する打者は、ここまで三打数二安打一打点の五番打者片桐。

片桐の打撃も、南条は三年間目にしてきた。たくさんの「天才投手」「稀代の逸材」たちが、この片桐のバットによって打ち砕かれてきた場面を、南条は嫌と言うほど見ている。
三塁手の山江さん、遊撃手の新月、二塁手の刈田、一塁手の具志堅。この苦境に、内野手全員が南条に檄を飛ばしていた。

しかし南条の耳に、それらの声はまったく届いていなかった。

驚異的な動体視力、正確なバットコントロールを支える体の強さ、守備が気を抜けば内野安打をもぎ取ってしまえる俊足。
ただ片桐への恐怖だけが、南条の心を支配していた。
そんな気持ちとはかかわりなく、試合は進む。

南条はかすみそうになる目でサインを確認し、初球を投げる。
右腕の感覚から、意識はどこかへ離脱していた。
それでもきちんとボールはミットへ届く。
「バンッ」
高めに外れて、ボールになったようだ。

もはやランナーを気にする余裕はない。サインだけを見て、第二球目を投げる。
「バンッ」
これも外れたらしい。カウント0−2。

南条はほとんど休む間もなく、機械的にサインを確認して第三球目を投げる。
「カンッ!」
打球音がしたとたん、ボールの行方を確認する前に、南条は後ろに振り向いていた。
しかし打球はレフトスタンドに飛び込んでファール。

本来、こういう動きは絶対にしてはいけない。もし打球がピッチャー前にくれば、処理できなくなってしまう。
そんな基本事項さえも、このときの南条の頭からは消えようとしていた。

額にじわっ、と浮かんでくる汗を手の甲で拭い去って、第四球目。
「カンッ!」
再びファール。今度は球がバットの上に当たり、バックネット方向へ。
これでツーストライク。曲がりなりにも、何とか追い込んだ。

あと1ストライクとれば、苦しい場面を・・・・・・抜けられない。
打席の少し外でスパイクの紐を直している男を見て南条は思い出した。次の打者は、穴井だ。
南条は、この泥沼から永久に抜けられないような錯覚さえ抱いていた。

それでも第五球目を投げなくてはならない。
「キンッ」
外角に決まりかけたカーブを、片桐は巧みにカットする。
「カンッ!」
低めに向かったフォークを、片桐は捉えるがファールになる。
「キンッ!」
このストレートも当てられる。ファールにはなったが、鋭い当たり。

なかなか前に打球が飛ばないが、当の片桐にいらだちは見られない。まるで、打撃を調整するためにわざとファールを繰り返しているかのようだ。
一方の南条は絶望感に襲われていた。

投げる球が、ない。

どんな球を投げてもバットに当てられる。南条の中で、集中力だけでなく、戦意すらも低下し始めていた。
そのような状態から投じた八球目のストレート。

「シューーーーーーー・・・・・・」
「カキンッ!」

ついに打球が、フェアゾーンへと運ばれた。
美しいセンター返し。

当たりが良過ぎたのと、あまり速くない二塁ランナー楠木の足のため、得点は入らない。
しかし南条にとっては、まだ得点が入ってくれた方が良かったかもしれない。

ノーアウト、満塁。
野球には「無死満塁からは点が入らない」というジンクスがあるにはあるが・・・それでも、一打で試合を決められる場面であることに変わりはない。
そして次の打者はそれを決められる選手、ここまでこれまた三打数二安打一打点の、六番打者穴井だ。


藤谷さんが主審にタイムを要求し、南条のもとに駆け寄る。
「南条君。かなり苦しい場面ですが、ここを踏ん張ればなんとかなりますよ。さっきの回みたいに」
お決まりの言葉を、藤谷さんは口に出した。
「そうですね・・・でも、今回はバッターが・・・」
「・・・南条君も、疲れてますか?」
なかなか顔を上げようとしない南条を心配して、藤谷さんはそう言った。
「疲れはないです。でも、球が通用しないんです・・・」
「どうしますか、誰かに代わってもらいますか?」

すると突然、南条が藤谷さんの目を見て言った。
「・・・俺以外に、誰が投げられるんですか!」
意外な言葉に藤谷さんは戸惑った。

これは、試合を背負っている投手としての自負から出たものなのか。それともバタ西の戦力を悲観して言ったものなのか。
どちらの理由も、ありえるような気がした。
そして藤谷さんはただ、「こういうときは力を抜いた方が、意外といい結果が出ることもありますよ」と遠まわしな意見だけを残して、キャッチャーボックスへと帰って行った。



南条は手のひらにとめどなく流れる汗を抑えるためにロージンバッグを手に取りながら、ホームベースのほうを見つめた。
右打席にどっしりと構えた穴井。身長は楠木よりは低いが、打者としての存在感は穴井がはるかに上回っている。

逃げたくても逃げられないこの状況。

南条がロージンバッグを再びマウンドに落とすと、藤谷さんから初球のサインが出た。
指示は低目へのストレート。
満塁なのでフォームをワインドアップにもどして、南条は第一球目を投げる。
左足を踏み込むときに上体を抑え、低いコースに向かって球を離そうとしたが・・・

「シューーーーーーー・・・・・・・・・バスッ」

・・・だめだった。ボールははるか高めに抜け、逆球に驚いた藤谷さんはかろうじてそのボールをキャッチ。
藤谷さんにも告げたが、疲れている感覚はまったくない。たぶんここでも・・・バッターに対するおびえが出てきているのだろう。
そのおびえを煽ってくるかのように、穴井は打席で豪快に素振りをする。
この大観衆の声援が飛び交っている中でも、少し聞こえる風の音。

南条は恐怖を吹き飛ばすために、すぐさま第二球目のサインを覗き込む。
指示は・・・内角への、ストレート。
さっき、間野をグラウンドから引きずりおろした球だ。

南条は迷った。
しばらく投球体制に入れなかった。
正直、もうこのコースには投げたくない。
勝負を考える理性をはばむかのように、本能が藤谷さんの指示を拒否している。
そんな南条の葛藤を圧殺するかのように、藤谷さんは穴井の懐側へ体を寄せる。

いっそ、投げないでおこうか、という考えが頭をよぎった。
明らかに動揺している今、サイン通りのコースに球が行かなかったとしても、誰も文句は言わないだろう。
だが、南条よりもずっと配球には詳しい藤谷さんが考え出したこのサイン。下手に無視すれば、打たれてしまう可能性も高い。
南条は、投球フォームに入る直前まで悩んでいた。

しかし、いつかは投げなければならない。

げてみれば何とかなるだろう。


南条は大きく振りかぶり、穴井への第二球目を投げ込んだ。


やっぱり、藤谷さんのサイン通りに。


そう考えて投げたはずだった。
しかし先ほどサインを拒絶していた本能が、南条の右腕を勝手に動かした。


だめだ!
そう思ったときにはもう遅かった。


一度放たれたボールは、二度と戻ってこない。


そして南条のストレートは、一応内角ではあるが真ん中よりのごくごく甘いコース、つまり、ホームランバッター穴井の最も得意とするコースへと流れていった。


白球は高々と舞い上げられ、川端西高校にとって最悪の形となって地に落ちた。


八回の表、穴井は樟葉丘高校七点目のホームを踏んだ。



ここで奪われたリードも、二度と戻ってくることはなかった。




その回、川端西高校は投手を一年生の柴島に代え、勢いに乗り切った樟葉丘高校打線に苦しみつつ、何とか失点を一つに抑えた。

しかし打線は、樟葉丘高校の楠木を攻略できなかった。

スピードと重さを兼ね備えた直球の威力が、チェンジアップの球速差と落差によって高められる。
制球は甘く、打てるコースに直球がたびたび入ったが、抜群の球威によって押し切られた。
たとえ球が前に飛んだとしても、流れを引き寄せた樟葉丘守備陣の軽快な動きが安打をはばむ。

何よりも、四点差の前に、バタ西の各打者の士気が下がりきったことは痛すぎた。


川端西高校 4−8 樟葉丘高校



川端西高校の春が終わった。





グラウンドには樟葉丘高校の校歌が流れている。選手たちと、スタンドの応援団の大合唱。
一方のバタ西の選手たちは、全員が悔し涙を流している。
わけではなかった。

確かに、号泣している部員は多く見られた。
チームをさまざまな場面で牽引したキャプテンの角屋さん。
全ての試合で自分の知恵をフルに使って投手をリードし続けた藤谷さん。
さまざまな壁を越え彼岸の舞台で見事花開いた土方さん。
本当に最後の瞬間まで勝負を諦めずチームのムードメーカーであり続けた島田さん。
パワフルな打撃で打線を活気付けた具志堅。
地味ながらも堅い働きでチームに貢献した刈田。
熱い心とガッツあふれるプレーで自分の役目を十二分に果たした新月。

その他多くの部員の目に、ごく自然に涙があふれていた。


だが、そこまで悔しいと感じていない部員も確かにいたのだった。
ここまで良く戦った。悔やむところは一つもない。彼らはすがすがしい気持ちで――もっとも他の部員の手前、おおっぴらにそれを表すことはできなかったが――西宮の空を見つめていた。


そんな部員たちの中の一人に、南条圭治がいた。

一地方の公立高校が、21世紀枠というありがたいルールでこの舞台に立てた。
三年間一度も、ここに立つことはない球児たちがほとんどの中で。

昨夏準優勝のチームを破って準々決勝まで来れた。
たとえ栄冠の舞台に立てたとしても、一つも勝てずに帰っていくチームがたくさんある中で。

正直、これだけでも十分すぎるじゃないか。

この人たちは、何をそんなに悲しんでいるんだ。

そう吐き捨ててしまう、自分の中の冷たい自分が、南条にはたまらなく嫌だった。
そして、そんな自分をひた隠しにして、悲痛な表情を作り上げている外面の自分も、この上なく嫌だった。





この日もまた、甲子園から一つのチームが姿を消していった。次の戦いを、始めるために。

 

 

 

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