基準
運命の日。一年生たちは、グラウンドの外に集められていた。そしてその集団は、角屋さん、土方さん、それに南条が先頭となって率いていた。
これから一年生たちと上級生三人は、まずウォーミングアップのために「軽く」5kmのジョグを行う、と角田監督は皆に知らせている。
「よーしいいか、よく聞けよ」
角屋さんが手を打ち鳴らして注目を集め、ランニングコースについての説明を始めた。
「……という感じだ。くれぐれも無理をして、テスト前に体を壊すなんてことが無いようにな。自分の体力を管理するのも、重要な能力の一つだぞ」
「はい!」
一年生の、意欲あふれる返事を聞いてから、角屋さんは颯爽と走り始めた。
グラウンドでは、走塁テストのためのコースの用意、そして遠投テストのための距離表示の用意が急ピッチで進められている。昨日、藤谷さんが中心となって手はずは完璧に決めておいたので、作業はごくスムーズに進行している。
にもかかわらず、全体に指示を出している藤谷さんは、しきりに首をかしげていた。
「どうしたんですか?」
50mダッシュのための白線を引いていた刈田が、いったん作業をやめて尋ねた。
「今やっているジョグのメンバーが、ちょっと気になっているんです」
「……そうですかね?」
別段、不思議な人選だとは思わない。
「角屋君、南条君、土方君……うちのチームの、スタミナトップ3の面々なんですよね」
「はぁ……」
「もしかして……」
「たぶん、考えすぎなんじゃないですか、藤谷さん?」
そして刈田は、自分の考えを伝えた。キャプテンの角屋さんが全体を率いるのは当然だし、ピッチャーの二人も、ついでにアップをさせようという意図で選ばれたのだろう。刈田だけでなく、ほぼ全員の部員がそう考えていた。
「……そうですね、確かにその通りだと思います。ただ……いや、やっぱり考えすぎですかね。すいません。変なこと言ってしまって」
「いやいや、そういう思慮深いところが、藤谷さんの長所ですから」
「ありがとうございます。あ、早くライン引かないと」
すっかり作業のことを忘れて刈田は、あわてて白線引きに手をかけた。
しかし、藤谷さんの深慮は見事に当たっていた。
角屋さんと南条が、予想外の速さでグラウンドに帰ってきたのだ。おそらく、かなりのペースを保っていたのだろう。
何とかついてきた一年生は、10人にも満たなかった。そしてその一人ひとりの名前を、角田監督はベンチから確認して、ノートにチェックをつけているのだ。
「やはり、これもテストの一環ですか」
少し苦労しながら一年生たちの顔を覗き込み、名前を書き付けていた角田監督に、藤谷さんは話しかけた。
「ああ、そうや。まあどうせお前のことやから、もうわかっとったんやろな」
「ええ。まあ。でもなぜ、予告しなかったんですか?」
角田監督は、手を止めて藤谷さんに顔を向けた。
「テストや、言われながんばらんようなやつは、所詮その程度ってことやからな。こういうところでこそ、本当の根性、本当の実力が見えてくるもんや」
監督は、少し笑みを浮かべながらそう言った。
まだまだ僕も、修行不足ですね……
藤谷さんは、監督への敬意をいっそう強めたのだった。
いつもより、少し速いペースで走った。監督から指示されたとはいえ、南条は疲れきって地面に座り込む一年生たちが、少しかわいそうに思えた。
そんな中でも、数人の者たちはこの時点で他の選手に差をつけている。
「これが高校の練習ですか……やっぱり違いますね、レベルが」
少しだけ息を荒げながらも、しっかりとした声で八重村が言った。
「いや、今日のは普段よりちょっと速かった」
「えー!?……南条さん、それならそうと先に言ってくださいよ」
「まあでも、よくついてきてるよね。あんまり疲れてなさそうだし」
「こいつの足腰は、中学時代から、すごかったですからね……」
と、中腰でひざに手を置いて体力を回復している金田貴史が、やや途切れ途切れに言葉を搾り出した。その他にはほとんど、話せる余裕のある者はいない。
少し遅れて、一年生たちが断続的にグラウンドへと走り込んできている。
土方さんもようやく帰ってきた。が、その表情は全く平然としている。監督から、遅めに走るよう指示されていたのだ。
それでも、まだ帰ってきていない一年生はいる。やはり、すでに一年生の間でも、これだけの差が開いているのだ。しかし持久力は、努力して走りこめばそれだけ伸びる余地は多い。
俺も、そうやって自分を鍛えてきた一人だ。それなのに、この時点で切り捨ててしまっていいのか……角屋さんの疑問は、よりいっそう深まっていた
ほんのしばしの休憩の後、走塁テスト、つまり50mダッシュの測定が行われた。二人ずつ並び、手押しのストップウォッチでタイムを刻んでいく。
この様子を、特に細かく書いていく必要はないだろう。ちなみに一番のタイムを記録したのは、ほぼ同着で板橋と金田貴史。並んで走ったため、どちらがぬきんでたのかを肉眼で確認することは出来なかった。
タイムの数値は6秒03。ずば抜けた記録だ。部員も含めて皆驚きの声を上げていたが、ただ一人新月だけは、陰で自分の一年次の記録が更新されなかったことに、少し安心していた。
次は遠投テスト。走塁での遅れを取り戻そうと意気込む者や、肩を痛めないようにほぐす者など、様々な動きを見せて一年生たちは自分の順番を待っていた。
その中でもとりわけ、捕手を本職とする一年生、道岡は気合を最大限まで高めていた。
かなり自信のある分野。ここで一気に抜きん出て、強烈にアピールしたい。そして、常識外のスピード出世でレギュラーを奪取し、一気に甲子園のスターへ……
などとあらぬ妄想を膨らましていた時、周りで歓声が湧き起こった。どうやらいい記録が出たらしい。道岡は、グラウンドの方に目を向けた。
「94mです」
外野で記録係を務めていた藤谷さんが、伝令の島田さんに伝える。
「なんでいちいち、ベンチまで走らないとダメなんだよ……」
ぶつぶつと不平をもらしながらも、島田さんはさすがの高スピードで監督の下へ向かった。
記録の詳細が伝わると、一年生たちの驚きはさらに広がった。
その記録を打ち出したのは、ちょっと太目の外野手、張だった。
「よっし、なかなかいい感じっス!」
「張、喜ぶのはまだ早いぞ。どうせ俺があっさりと抜くんだからな」
ちょうど張の次の順番だった道岡が、指定されたサークルに向かう。
サークルに入ると、道岡は意識を自分の中に集める。
高まる鼓動、腹のそこから湧き上がってくる力。
道岡はしばらくそうしていたあと、バチッと目を開けて、一気に投球体制に入った。
「うおぉぉぉーーーっ!」
あまりの気迫に、みな息を呑んだ。
右ひじを一定の高さまで上げ、道岡が腕を振ろうとしたとき、突然左足に何かが引っかかった。
「……えっ?」
自分でもよく分からないうちに、体が少し宙に浮いた。そして、道岡は豪快に倒れた。
球はそれでも道岡の手を離れたが、すぐに着地した。
記録、5m。
グラウンドが静まり返った。
道岡はあわてて起き上がり、辺りを見回しながら叫んだ。
「す、すいません!もう一回だけお願いします!」
緊張は途切れた。笑い声も、選手たちの中から聞こえていた。
今まで散々踏み荒らされた投球サークルには、深い穴が出来ていたらしい。道岡の左足は、そこに偶然は舞ったのだった。道岡はぶつけようのない恨みを込めて、その穴を荒々しく埋めた。
タイムロスをしてしまった。精神統一をしている暇はない。
道岡は再度投球体制に入り、白球を鋭く放った。
そしてボールは、勢いを緩めずにどこまでも伸びていった。
「……101mです」
「すげぇ……」
藤谷さんと、島田さんの入れ替わりで伝令係に来ていた新月は、驚きのあまりしばらくまともに声を出せなかった。
「新月君、早く記録を……」
「あ、はい!」
新月はあわてて、やはりさすがの高スピードで監督に記録を伝えにいった。
ここまでの二つのテストでも、予想外の波が起こった。しかし本番は、これからの実技テストだ。
走塁、遠投テストの間肩を作り続けていた投手陣たちが、グラウンドに姿を現す。
バッティングケージが用意され、シートバッティングの体制が整う。ケージの後ろでは、角田監督が鋭く目を光らせていた。
まずは打撃から。かいつまんで、出色だったバッターの様子を報告しよう。
もっとも鮮烈な印象を与えたのは金田貴史。中学シニアリーグで7割超の打率を記録したバッティングは、ミート力、パワー、バットコントロール、どれもすでに完成の域に達しているんじゃないかと思わせたほどだ。
本人の希望で、土方さんとの対戦も見られた。ちなみにこの日、土方さんを打撃の対戦相手として選んだのはこの男だけである。
当然初対戦と言うことで、さすがに簡単に打ち返すことは出来なかったが、それでも二本、安打性の当たりを放ったことには誰もが驚いた。
パンチ力で際立っていたのが、先ほど遠投テストで第二位の記録を打ち出した張。バットにはなかなか当たらなかったが、金田貴史とこの男だけが、外野ネットに引かれたフェンスの想定ラインを超えた。その飛距離は、貴史の当たりを越えていた。
奇特、という面で一番印象を残したのが、走塁テストで一位タイに輝いた板橋だ。この男は、なんと何条のボールを初球をのぞいて8球連続でファール、つまりカットし、そして最後は絶妙なバントを決めて打席を退いた。
もちろんその技術にもかなり見るべきものはあるが、それよりもこの場で堂々と自らのスタイルを貫く度胸、そして大胆さが、角田監督にはひどく気に入った。
他の一年生も様々な点自分をアピールし、そのシートバッティングの間についている守備でも、なかなかの動きを見せていた。
そして、今日最後のテストとなる投球。投手希望者は意外と少なく、三人がテストを受けることになった。
二人の投球が終わった。それなりにいい球は投げていたものの、小さくまとまった感じで、今のところあまり強い将来性は感じられなかった。もちろん、今後にいくらでも化ける可能性はある。
そして、今日一年生で最後の出番を務めることになった八重村が、マウンドに上がった。
前日に心配していた通り、走塁はワーストクラス、遠投の記録も中ぐらいだった。
ここでアピールしなければ、明日はない。野球をやるために、この高校に来たんだから。
八重村は悲壮な決意を込めて、日の暮れかけてきた空を仰いだ。
そして、鋭い視線を角田監督に投げかけ、八重村は勝負に出た。
「監督!バッターを指定してもいいですか!」
「おう!ええで!」
その様子を、具志堅は満足そうに眺めていた。ここからの段取りは、昨日具志堅がアドバイスしたものなのだ。
『お前の実力を最大限に見せる方法がある。ただし、リスクはものすごくでかい。それでもいいか?』
八重村は黙って、しかし力強くその提案を受け止めた。
そして、今からそれが実行される。息を整えてから、八重村が切り札を繰り出した。
「角屋さんと、勝負させてください!」
ざわめきが広がった。
甲子園で四番を務めたバッターだ。あまりにも無謀な挑戦。一年生たちの中には、やめとけよ、と忠告を投げかけるものもいた。
だが、八重村は動じない。角屋さんは、おもむろに右打席へと入った。
八重村の暴走は、まだ止まらなかった。
「角屋さん!全球、内角ストレートで勝負します!」
「……何?」
今度は上級生たちが、強い衝撃を受けた。
自分の言ったことが、本当にわかっているのだろうか?角屋さんに、予告して内角勝負を挑むなんて……無謀どころか、完全に自殺行為だ。
しかし角屋さんは、八重村の勇気に答えるように、構えを取った。
「よし、来い!」
八重村はうなずくと、セットポジションに入った。
足を軽く上げ、体を沈める。アンダースローのフォームだ。
手はどこまでも地に近づいていく。ほとんど地面すれすれの軌道を、八重村の右腕が通り過ぎた。
ボールがリリースされる。
内角へ向かって、白球は進む。角屋さんは脇をしめ、少し呼び込むことを心がけながらボールを待った。
地面から、鋭く浮き上がってくる直球。いい球だ。だが、選ぶ相手が悪かった。
角屋さんは、バットをコンパクトに出した。ここからさばいて……
しかし突然、今まで目にしたことのない軌道を、ボールは描いた。
手元に食い込んできたのだ。しかも、さらにホップを増しながら。
「……っ!」
止めることは出来ない。角屋さんはスイングを続けたが、当たった場所はグリップのごく近くだった。
球はキャッチャーの後ろへ、乾いた音を立てて飛んでいった。
上級生の誰もが、狐につままれたような顔をしていた。あの角屋さんが、内角の球が来ると分かっていながら、詰まらされた……?
いや、角屋さんといえども、失敗することはもちろんある。
次こそが本当の勝負だと、部員たちは再び打席に目を向けた。
「カッ」
今度も、球はまともに飛ばなかった。今度は高目へのボール。さらに威力が増したストレートを、角屋さんはさばくことができなかった。
角屋さんは少し首をかしげ、軽く一度素振りをした。
「な、なんちゅーやつやねん、お前の従兄弟は……」
すっかり度肝を抜かれていた新月のうろたえが、嬉しそうに投手を見つめている具志堅の耳に入った。
「そうだな。いくら角屋さんでも、初めて見たら驚くだろうとは思ってたけど」
「あれが、あれか」
「そう。あれが、あれだ」
具志堅は誇らしげに言った。
「あれが、諭のスネイクファングだ。まあ俗に言うナチュラルシュートだが……あれは、あいつにしか投げられない」
「……なんで?」
「あれは蛇の力で生まれたストレートなんだ。だから、あいつだけしか投げられない」
……謎が明かされれば明かされるほど、新月の疑問はさらに深まっていくだけだった。
次の球をストライクにすれば、勝負は勝ち。海兄ィの言ったことがほんとなら、俺の入部は確実になる。
八重村はいよいよ胸を高鳴らせていたが、その反面、軽い後悔も覚えていた。
全球ストレートなんて、言わなきゃよかった。
本来なら、ここからスライダーもしくは外角へのつり球をはさんで勝負するところだ。それで三振が取れれば最高だし、見逃されたとしても、スネイクファングの威力は倍増する。
だが、さすがに三球これを続ければ、見切られるのではないか?
しかし、一度言ったものを引っ込めるわけには行かない。八重村はより気合を入れなおして、ポジションに入った。
驚異的に低い位置から、ボールが放たれる。三たび、内角へのストレート。
角屋さんがバットを出す。
先ほどより少し遅めな、しかし先ほどよりも確実に鋭いスイングが、空を切り裂いた。
そして角屋さんのバットは、スネイクファングを見事に捕らえた。
たそがれ時の外野グラウンドにに、弾き返された白球が静かに落ちた。
「皆さんお疲れ様でした。それでは、入部テストの結果を発表します。監督、どうぞ」
藤谷さんが、合格者の名前の紙を監督に手渡した。
一年生たちのの面持ちは固まりきっている。中には、もうダメだ、と下を向いてしまっている者もいた。
「えー、お疲れ様でした。今日の結果ですが……」
監督が、わざとらしく間をおく。
一年生たちの心臓は、破れそうなほどに激しく鼓動する。
突然、監督が紙を二つに引き裂いた。
一年生たちは雷鳴を受けたかのように硬直した。そして、しばらくきょとんと監督を見つめていた。
「すまんな。一年生。昨日の時点でもう、入部者を選ぶなんてことはせんとこうと、決めとったんや」
「か、監督!じゃあ、今日のはいったい……」
チーム一の冷静さを持つ藤谷さんでさえ、動揺の色を全く隠せなかった。
「ん?ああ。今日のテストはな、一年生各人に、自分の今のレベルを知ってもらうために実行したんや」
監督は、改めて一年生たちと目を合わせた。
「いまここにいるのは32人。でも、試合でベンチに入れるのは18人。みんなの学年だけでチームを構成したとしても、14人はベンチに入られへんわけや。三年間、ベンチに入れんやつも中には出てくるわけや。今日のテストで、自分が今どの位置にいるかってことがわかったやろ?低かったやつは、それだけベンチに入られへん可能性も高くなってくる。やっぱりもともと持ってるポテンシャルだとか、それまで積んできた練習だとかは、その後の成長の仕方にも大きく関わってくるからな。だから……」
監督はいったん話を中断し、そして角屋さんを見た。角屋さんは、静かに数度うなずいた。
「自分が万年補欠になる可能性があるってことは、十分肝に銘じて欲しい。それに耐えられるやつは、みんなここに残ってくれ。そんな状況には耐えられへん、他のスポーツをやった方が芽が出るかも知れん、そう思ったやつは、早めに他のクラブに行ったほうがいいかも知れんな。そういう判断の基準として、今日入部テスト、という形で一人ひとりの能力を見せてもらったわけや。みんな、騙してほんまにすまんかったな」
監督は深く頭を下げ、心から一年生たちに謝った。
皆、その場を動かなかった。
いつまで経っても、誰一人として腰を上げようとしなかった。
「そうか……みんな、ここで野球をやる決意か。それじゃあワシが、余計なことせんでもよかったな」
「いや、監督の気持ち、すごく伝わってきました。ありがとうございます……」
ヒットを打たれ、憔悴しきっていた八重村が、一年生の中で始めて口を開いた。
「そうか。ほんまにすまなんだな。よし、そういうことならワシも本気や。さっきはあんなこと言うたけど、いまあかんかったって頑張ったら伸びるやつなんかいくらでもおるんやから。明日から、全員精一杯努力しろよ!」
「はい!」
そう答える誰の目もが、一点の曇りすらなく輝いていた。
その光景を、角屋さんはあふれ出しそうな気持ちを抑えながら見つめていた。
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