二本の映像
ランニングを終え、ブルペンに入った南条の頭の後ろを、白球がすりぬけていった。
石のように堅い布のかたまりは、そのままブルペンの屋根を支えている柱にぶつかり、ポトリと地面に落ちた。
しばらく、誰も動けなかった。
「な、南条君、大丈夫ですか!」
最初に口を開いたのは、ボールを受け損ねたキャッチャーの藤谷さんだった。いや、受け損ねたわけではない。プレート上の土方さんの投げた球があらぬ方向に飛んでいったため、さすがの藤谷さんでも止めることが出来なかったのだ。
「大丈夫です……なんとか……」
そうは答えた南条だったが、状況を理解してからは恐怖のあまり腰が抜けそうになっていた。
当然、ヘルメットをかぶっていない状態。帽子を身に着けているとはいえ、もし硬球が当たれば、今頃どうなっていたか分かったものではない。
「……すまんな。南条……」
土方さんは、実際の試合で行われるように、帽子を取って謝った。
「はい。大丈夫です、何事もなかったんで」
南条はできるだけ恐怖を振り払って答えたが、それでも土方さんの表情は晴れない。
白球を握った左手を見つめ、何かを思いつめた表情。最近の土方さんには、非常に珍しい光景だ。
「藤谷さん」
「はい」
土方さんほどではないが、藤谷さんもどこか浮かない顔をしている。
「土方さん、何を投げたんですか?フォークですか?」
「いや、フォークならコントロールできますし、少なくともあんなにすっぽ抜けることはありません」
「でも、他に球種はありましたっけ?」
「ないから、いま練習しているんです。いま投げたのは、スライダーです」
確かに土方さんは、プレート上で手首から先を外側にひねる動きを、何度も何度も確認している。
「なるほど。いきなり投げたから、うまく指にかからなかったんですね」
「……いや、もう15分以上は投げているんですけど……全く曲がる気配さえ見せないんです」
藤谷さんの視線はよりいっそう、下に向かった。
そういえば、土方さんがフォーク以外の変化球を投げているところは一度も見たことがない。普通高校生にもなれば、それもエース級なら、たいていのピッチャーはカーブぐらいは投げられる。それに、土方さんは並の投手ではない。あれだけのセンスを持ちながらなぜ……?
でも、よくよく考えてみれば、そう深く悩むべきことのようには思えない。
「投げられなくても、別にかまわないんじゃないですか?あんなすごいストレートがあって、よく落ちるフォークがあって……甲子園でも、十分通用してたじゃないですか」
「現状では、そうかもしれません」
藤谷さんは静かに、しかし強い意思を込めて言った。
「でも、深紅の優勝旗を手にするためには、今のままでは不足なんです」
深紅の優勝旗。至高の意味を持つ単語が、なんのためらいもなく藤谷さんの口から飛び出した。
この人は、本気だ。南条は、自分の考えの浅はかさを恥じた。
いつの間にか、土方さんが近くに来ていた。
「……ひねってみろ」
「……は?」
土方さんは左手を南条の前に突き出している。当然、南条は戸惑った。
「……いいからひねってみろ。あんまりやり過ぎない程度にな」
「はい……」
意図は全く理解できなかったが、南条は命じられるままに、手首を外側に軽くひねってみた。
あまり駆動しない。
さらに力を入れてみるが、関節はかたくなに抵抗を続ける。
逆方向にひねってみても、状況はあまり変わらない。
「……そろそろ止めてくれ。少し痛む」
「あ、すいません」
「……俺はな、手首の関節が堅いんだ」
やっと、一連の動作の意味が分かった。だから、スライダーやカーブ、シュートなどは投げられない。土方さんはそう言いたかったのだ。
「もしかしたら、それであのストレートが投げられるのかもしれません」
藤谷さんが南条たちを見上げながら解説を始めた。
「スナップがあまり聞かないから、ボールにかかる回転数が減って揺れ動く……のかもしれません。物理の専門家じゃないんで、詳しいことは分かりませんけどね。ただ、それが本当だとしたら、下手に手首をやわらかくしようとするとストレートの長所が消えてしまう、という可能性もあるんですよね……」
万策尽きた、とでも言うかのように藤谷さんは再び黙り込んでしまった。
部員数が一気に増え、活気付くグラウンドとは対照的な空気が、ブルペンには流れていた。
「そもそも、どういう感じの変化球を身につけたいんですか?」
沈黙に耐え切れなくなった南条が、二人に質問した。
「打者のタイミングを外したいんですよね。フォークでもある程度の効果はありますが……土方君のフォークは少し速めなので、やっぱり一つは遅い球が欲しいですね」
「だったら、チェンジアップとかはどうですか?」
「……それはおとといやった」
土方さんは、すっかり意気消沈していた。
それから南条は、思いつく限りの変化球をあげてみた。ナックル、パーム、サークルチェンジetcetc……
しかし、藤谷さんがそれらを考慮していないはずもなく、ただ試してみたとの答えが返ってくるだけだった。
「……唯一フォークだけが、なぜか操れるんだよな……」
その一言を契機に、再び沈黙が訪れた。
「フォークを……遅く……」
南条が、ほとんど自分でも意識しないうちに、何かを口にしていた。
「え?なんですか?」
「……あ、いえ、なんでもないです。気にしないでください」
「そう言われると、余計気になるじゃないですか」
「それもそうですね……いや、ただ、フォークを遅く出来ないかなって……そんなこと無理に決まってますよね。すいません。忘れてください」
あまり考えないうちに答えてしまったことを後悔し、南条はあわてて打ち消した。
だが、藤谷さんの目は光を取り戻していた。
「それです。何で気づかなかったんでしょう……フォークを遅くすればいいんです」
「え?」
「……?」
二人の投手は、そう言われても首をかしげるだけだった。
その反応を確認してから、
「田辺投手の、スローフォークですよ。あれなら、土方さんにも投げられるかもしれません」
藤谷さんはごく明快に解答を明かした。
「???」
「……?」
だが、二人の首の角度は、依然戻らなかった。
藤谷さんは忘れていた。
この二人が、ほとんどプロ野球を観戦しないことを。
ややあきれ気味に藤谷さんは、
「田辺投手って言うのは、東都ガリバーズのピッチャーですよ」
東都ガリバーズ。日本プロ野球設立時から存在する、押しも押されぬ名門球団である。が、最近はあまりにも打撃偏重のチーム作りに走っているため、優勝からは少し遠ざかっている。そんな中、タイトルを取るほどの成績は残していないものの、安定して先発ローテーションを守り続けている中堅の投手、それが田辺だ。
「彼の決め球は、スローフォークなんです。あれをマスターすれば……」
「……どうやって投げるんだ?」
土方さんは身を乗り出してたずねた。
「えーと……それが……正確には覚えていないんですよね……確か、普通よりも浅くはさんで投げたような……」
「……よし、じゃあそんな感じで投げ込んでみれば良いだろ」
「………いや、ちょっと待ってください」
再びプレートに向かおうとする土方さんを、数瞬のあと藤谷さんが制した。
「確か、2002年の日本シリーズのビデオが部室にあったはずです。田辺投手が投げていた試合もあった気がするんですけど……」
「……なるほど。それで研究しよう、ってわけだな」
「そうです。まあ、投げる瞬間をズームしてくれているかどうかは分かりませんが……」
「……いや、大体の感じが分かれば何とかなるだろう」
「ですかね。一応見てみますか」
そして藤谷さんはプロテクターを外し、三人は部室へと向かった。――なぜか、南条もその研究に加わることになったのだった。何かの参考にはなるだろう、ということで。
少し古ぼけたダンボールの中に、無数のビデオが詰め込まれている。藤谷さんは、ビデオテープをてにとって見ては元に戻す、という動きを何回も繰り返していた。
「おかしいですねぇ……」
「……整理しておかなかったのか?散らかりすぎだろ」
「前からやろうとは思ってたのですが…………あっ、もしかしてこれ……いや、こっちも……」
藤谷さんは、二つのテープを取り出した。どちらのテープのラベルも、ほとんどはがれてしまっていが、ところどころにそれらしき文字が解読できる。
共通しているのは、「VS」「二回戦」「.04」という文字。
「これだけではちょっと判別しがたいですね……たしか、田辺投手が2002年に投げていたのも、第二戦だった気がするのですが……」
よくそんなところまで覚えているな、と改めて感心しながら、南条も一つのテープを鑑定してみた。
……が、当然わかるはずもない。
「とりあえず、かけてみればいいんじゃないですか?」
結局、その結論に落ち着いた。
まずは少し古い感じのするテープを、藤谷さんはビデオデッキに入れ、再生した。
緑の帽子、白地に緑のラインが入ったユニフォームを着た投手が、モニターに映った。実況、解説の声は、共にいまいち張りがない。画面左上には、「西 3−0 ギ」と、古ぼけたテロップが表示されている。
「これは、違いますね。おそらく社会人チームの試合でしょう」
藤谷さんは停止ボタンに手を伸ばした。
その指先がボタンに触れようとした時、画面上の投手がボールをリリースした。
至極流麗なフォームから繰り出された直球は、抜群のスピードとキレを見せてミットに収まった。
「速っ……」
南条は思わずその球に、感嘆の声を漏らしていた。スピードガン表示がないため正確な数値は不明だが、時速140kmは優に越えていそうだ。いや、ひょっとすると150km近く出ているかもしれない。
いつの間にか、藤谷さんは手を引いていた。
数分間、三人は映像に視線を投じたまま、微動だにしなかった。
「……本当に社会人か?これ」
画面上の投手が2アウト目をもぎとったところで、土方さんが口を開いた。
「はい。おそらく間違いないはずですけど……」
「……にしては、速すぎるだろ。それに、さっきから投げてる変化球はいったい……?」
「……僕も気になっているんですけど……変化は確実に、カーブなんですよね……ただ……」
この回三人目の打者に、謎の投手がボールを投げ込んだ。
球種は、問題の変化球だった。外に逃げながら落ちていく。藤谷さんの言うとおり、変化のしかたは間違いなくカーブだが……
「これも、速すぎるんですよね……」
目測では、130km後半ぐらいのスピードを持っているように見える。
「……いったい誰なんだ、このピッチャーは」
すると、カメラが投手を正面から映した。
ユニフォームの胸には緑色で、「西進鉄鋼」の文字が刻まれている。そしてその上には、三人共に強く見覚えのある顔が乗っていた。
カメラは再びバックスクリーンからのものに戻る。
「い、今の……!」
「……ああ、間違いないな。藤谷、巻き戻してくれ」
「はい」
言われるまでもなく、藤谷さんはボタンを操作していた。先ほどの場面にテープを戻す。
小さなモニターに映ったのは、ずいぶん若いが確かにあの人。
「角田監督ですね。やはり……」
「こんな投手だったんですか……」
「………」
藤谷さんはもう一度、再生ボタンを押した。
素晴らしいストレート。そして高速で曲がり落ちるカーブらしき変化球。
三人はまたしばし、若き日の監督の投球に見とれてしまった。
「……なんで、プロに行かなかったんだ?」
土方さんが素朴な疑問を発した。
「さあ……たぶん、故障したんじゃないですか?」
「……としか考えられないよな。こんな球を投げる人が……」
モニターの中で、イキのいい球を投じ続ける若き右腕。それは、老獪な雰囲気さえ漂わせる今の角田監督のイメージとは、どうしても符合しないものだった。
「あのー……ちょっと悪いんですけど……」
南条が、深く考え込む二人の間に割って入った。
二人は、冷めやらぬ顔で南条のほうへと振り向く。
「スローフォークは……?」
「あっ!」
「……!」
本来の目的を完全に忘れていた。まあその代わり、かなり貴重な情報は得られたのだが……
藤谷さんはあわててテープを取り出し、もう一方の候補をデッキに入れた。
そのテープが当たりだった。2002年、東都ガリバーズVS東京ラインズの日本シリーズ第二戦。
藤谷さんと土方さんは、食い入るようにその映像を見つめた。何度何度も、巻き戻し、一時停止、再生を繰り返しながら。
南条は普通の練習を続けるため、すでに部室を後にしていた。
「……少し、分かってきた気がする」
「ええ、そうですね。意外に、かなり複雑な球のようですが……いけるかもしれません」
藤谷さんは、確かな感触をつかんでいた。
この田辺という投手も、長身からの重い球を武器とする選手。土方さんとタイプが少し似ている。
習得できる可能性は、十分にある。
「よし、もういいですか?」
「……ああ、たぶんな」
テープを止め、二人はブルペンへと戻った。
日はすでに暮れかけていた。今日の帰りは、相当遅くなりそうだ。
翌日。南条は今日も、少しぼんやりとしながらブルペンへと入った。
すると、南条の耳に空気を裂く音が飛び込んできた。同時に、昨日の情景がよみがえってくる。
南条は反射的に身をかがめた。……しかしその必要はなかった。土方さんの投げたボールは、ワンバウンドの後しっかりと藤谷さんのミットに納まっていた。
「うん。完璧ではありませんが、かなりいい感じにはなってきています」
藤谷さんは満足げにうなずき、土方さんに返球した。
「いけそうですか?スローフォーク」
「ええ、たぶんいけるはずです。それと、スローフォークじゃありませんよ」
「……?」
「これから取得しようとしている球は、ブラントフォークです」
「ブラント……?」
首をかしげる南条に対して、プレート上の土方さんが説明した。
「……昨日、ついでに名前も考えたんだ。その方が面白いと思ってな」
「あ、そうなんですか」
「……ブラントって言うのは、英語で「切れの鈍い」って意味だそうだ」
「鈍い、って……そんな名前でいいんですか?」
その疑問には、藤谷さんがあっさりと答えた。
「まあ、事実ですから。嘘はよくないでしょう?」
「はぁ……」
藤谷さんは不敵な笑みを浮かべ、再びキャッチング体制に戻った。
土方さんが左腕からブラントフォークを投じる。ほとんど、ストレートとリリースの差はない。
低速でホームに向かいながら、どろん、と沈んでいく。確かに、いい感じだ。
土方さんはまた、ステップを一つ登ろうとしている。「凡人」には到底追いつけないスピードで。そしてこのまま、埋めようのない差はどこまでも広がっていくのだろう。
またか。
結局、昔と変わらない。
南条は、再びせり上がってきそうになった諦めの気持ちを何とか制しながら、土方さんの隣のプレートへと向かった。
ブルペンには、新球種がミットに収まる音が、ごく「鈍く」響いていた。
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