透徹な瞳

 

 野球部グラウンド、一塁側内野のネットのそばに、幅は一メートル程度だろうか、少し大きめの溝が通っている。その中を、一人の少女が腰を下ろして必死に覗き込んでいる。おそらく何かを探しているのだろう。

 単独でランニングに赴き、グラウンドに帰ろうとしていた南条が、

「何してるの?沙織さん?」

 と、立ち止まって声をかけた。

 ついこの前、新たに野球部へ加入したマネージャーの水本沙織は、南条のほうへ振り向いた。自己紹介のときにかけていたメガネは装着されていない。ボールが飛んできたら危ないから、という理由だった。

 ……南条がいきなり下の名前を呼んだので、驚いた方がいるかも知れない。別に、たった二週間足らずのうちに二人がそういう関係にまでなってしまった、ということではない。

 ただ、大量に入ってきた新入部員の中に「水本」という名の男子がいたため(血縁はない)、区別のためにそう呼ぶことになっているのだ。下級生なのに、わざわざ「さん」をつけるのは……どうも、敬称をつけなければいけないような雰囲気が、沙織自身から強く出ているためだった。もちろん本人に、そんな意識は全くなかったが。

 初めは多くの部員が、この呼び方にかなりの抵抗を持っていたが、本人は全く不快を感じていない様子なので、いつの間にかすっかり定着している。

「ボールが落ちたんです」

 沙織は、もう一度溝の中に視線を移した。南条も、並んで溝を覗き込む。確かに一つの白球が、溝の中央に鎮座している石に引っかかって浮かんでいた。

「どうやって取ろうかと考えてて……」

「そうだね……入るのはちょっと……」

 溝の水面は、地面から1m以上離れている。水深もそれなりにあるので、中に入れば、ひざ上ぐらいまでが水につかってしまうだろう。四月の流水はまだまだ冷たい。出来るだけ、入水しての作業は避けたいところだ。

「棒かなんか、ないですか?」

「棒ね……」

 二人はあたりを見渡す。しかし近くに、適当なものは見当たらない。

 沙織は先にあきらめ、ひざをつけ正座をするような格好を取った。そして上半身を、溝の上空に沈めだした。

「棒はないみたい……って、何してるの!?」

「いえ、たぶん直接取れないことはないと思います。ギリギリだと思いますけど……」

 いつの間にかひざだけでなく、ふとももまでも完全に地面につく形になっていた。上半身は、右手を伸ばしながらかなり空中にせり出している。

「ギリギリ、というか危ない……」

 南条がそう警告した瞬間、沙織のバランスが突然崩れた。

「……あっ!」

 まずい、このままでは頭から落ちてしまう。

 南条は沙織の体に手を伸ばした。間に合うかどうかは全く分からなかったが。

 伸ばした両手で沙織の体をがっしりとつかみ、少し引き上げる。南条の腕に、予想していたよりずっと軽い負荷がかかった。

 瀬戸際での救出だった。沙織の腕から先はすでに水中につかっていた。

 急いで南条は沙織を引き上げる。細い腰を抱えた両手は容易に、地面へと沙織の体を運んでいった。

 

 なんとなく気まずい沈黙が流れる。南条の心拍数は、いつもより少しだけ上がっていた。

「……あのままだったら、取れたのに……」

「……しまった!」

 そうだ。引き上げずに吊り下げておいて、そのまま腕を動かしてもらえばボールは……

「……って、そんな危ないこと出来ないよ……」

 安全面でも不安はあるし、第一それはあまりにも異様な光景だ。もし人に見られたら、どう説明すればいいのか。

「そうですね。すいません……ありがとうございました」

 沙織は軽く頭を下げた。しかしすぐに、また依然浮かび続けるボールに目を戻した。

 南条の練習スケジュールは少しずつ遅れ始めていた。沙織にも、まだまだグラウンドに帰ってやらなければいけない仕事がたくさんあるはずだ。

 一つぐらい、放っておいても大丈夫だって。

 南条が開き直ろうとした時、沙織はその心を見破るかのようにぼそりとつぶやいた。

「硬球ボールって、高いんですよね……それに、一つ一つの機材に、地元の人たちの期待が込められてるから……なんとか取り戻さないと……」

 南条はぎくりとした。確かに、沙織の言うとおりだった。そして南条は、自分の慣れから来た安直な考えを反省し、沙織の意識の高さに敬服した。

 沙織の横顔が真剣に、流れに飲まれそうなボールを見つめている。

「よし」

 南条は意を決して、体を起こした。

「俺が取るよ」

「え、でも……」

「大丈夫だって……よいしょ」

 南条は地面のふちを両手でつかみ、両足を溝の側面に置いた。がけにしがみつくような体制。そこから右足を、向こう側の側面に伸ばす。当初は届くかどうか心配だったが、何とか両足を溝に突っ張り、体を支える所にまで持っていけた。

 そこから、徐々に降下していく。ある程度の高さまで降りたのを確認すると、足でボールを支えている石をつついてみた。

 かなりしっかりと、地面に食い込んでいるようだ。南条はその石に右足を乗せ、身をかがめて慎重にボールをつかんだ。

 そしてボールを溝の外に投げ上げ、自分も地上へと戻る。

「すごい……」

「いや、別にそれほどでも……」

 謙遜ではなく、特に難しい動きをしたつもりはなかった。ある程度のリーチがあれば難なくこなせる動きだろう、と南条自身は思っていた。

「ありがとうございます……」

 沙織は先ほどよりも深く、南条に感謝の意を表した。

 変化に乏しく透徹な瞳が、その時少しだけ緩んでいた。

 

 

 水本沙織が野球部マネージャーに就任してから、もうすぐ二週間が経とうとしている。沙織は周囲が驚くほどの速さでマネージャーの仕事を覚え、すでに一人前に役目をこなしている。

 ……ただ、沙織に少しだけ不満を感じている者が、幾人現れ始めていた。物理的な面では、何の欠点もない。問題は、精神面でのマネージメント。

 沙織には、決定的に「華」がないのだ。

 多くの部員は、女子マネージャーが入ると知った時点で、よく野球漫画などで見られる「爽やかな笑顔でタオルを渡してくれる女の子」がついにここにも来る、と歓喜していたものだった。

 ところが、そういった光景はここまで微塵も見られない。それには、まだ入部して二週間経っていない、という時間的な弊害はあまり感じられない。

 繊細に整った顔立ちが、大きく動くことはほとんどなかった。ただ淡々と、時には事務的にさえ聞こえる声で「お疲れ様でした」と言うだけ。「お疲れさまでしたっ!」と感嘆符をつけてくれ、語尾に「☆」をつけてくれれば言うことなしなのに……との一部の部員の願いは、これから先もかなえられそうな気配はない。

 しかし、そうした不満を表に出すわけにはいかなかった。キャプテンの角屋さんが「くれぐれも失礼のないように」と、何度も何度も部員に念を押しているからだ。そしてその行動は、なぜか角田監督までもがとっている。

 やはり、バタ西初の女子マネージャーということで、悪い前例を作ってはいけないと少し気合が入りすぎているのだろう。

 

 ここまでこうして、負の面ばかりを書き連ねてきたが、もちろん沙織の仕事自体には皆満足しているし、むしろこういう冷たい感じが良いのだ、と言い張る者もいた。

 「なかなかうちの学校にはいないタイプだよなー」とか、「知的な視線がたまらない」とか(もちろん、そういった意見が本人に伝わることはないが)、「今のところはおとなしいけど、本性は女王様っぽいよな。一回しばかれてみたいなぁ」とか……まあこれは危険な性癖の持ち主が発言したものだと思われるのであまり参考にはしたくないが、とにかくみなが皆、不満ばかりを募らせていたわけではない。

 良くも悪くも、バタ西野球部には今、新しい風が吹いている。その際に何かしらのさざ波が立つことは、仕方のないことだろう。

 

 

 川端西高校、野球部部室。ロッカーはもちろん、電話やテレビ、ビデオデッキやこじんまりとした机など、野球部の執務はたいていこなせる設備が整っている、なかなか充実した施設だ。

 ここにももう一人、沙織の加入を少し違った観点で喜んでいる部員がいた。その部員はノートを手に取り、沙織に内容を説明していた。

「失礼しますっ」

 二回のノックの後扉が開き、小柄な男が入ってきた。

「あ、刈田君」

 藤谷さんはノートに注いでいた視線を上げ、刈田の方へ振り向いた。その奥から、沙織の双眸が静かにのぞく。手首には川端西高校野球部の証、細身のチタンバンドがはめられていた。

「相変わらずすごい数ですね……」

 刈田は、机の上にうずたかく積み上げられた大量のノートを目にして、改めて驚いた。

「ええ、ちょっと情報の整理ついでに、沙織さんにもいろいろと教えていたんです」

「あ、そうなんですか」

「この人、ものすごく飲み込みが早いんですよ。情報処理の能力も高いみたいですし。三代目の諜報部長は決まりですね」

 二代目諜報部長候補の刈田は、現諜報部長の藤谷さんにあいまいな笑みを向けた。絶対に一年生の中から、誰かが巻き込まれるだろうとは思っていたが……まさかマネージャーがそうなるとは。

「藤谷さん」

「はい?」

 再びレクチャーを始めようとした藤谷さんを止め、刈田がたずねた。

「土方さんの球、受けなくて大丈夫なんですか?」

「ああ、それは今、道岡君がやってくれています」

「大丈夫なんですか?」

「たぶん……いや、大丈夫じゃないかもしれませんね……」

「ええっ!?」

「でもまあ、彼なら気合で乗り切ってくれるでしょう」

 気合。それは、入部テストで驚異の強肩を見せた一年生キャッチャー道岡の人となりを、余すところなく表す一語だった。

 もともと、この川端西高校野球部内で、土方さんの剛球を受けることが出来たのは藤谷さんだけだった。後の捕手はみな恐れて受けようとしなかったし、受ける機会があっても手を痛めてしまい、次の日にはまともな捕球が困難になってしまうのだった。

 そんな中道岡は、入部早々土方さんの投げ込み相手を志願した。

 以前、道岡が「体験入部」に来たときにもこの組み合わせは見られたのだが……そのとき道岡は満身創痍といった感じで、藤谷さんからセコンドストップをかけられると言う「屈辱」を味わったのだった。

 そのリベンジという意味合いもあるのだろう。道岡は執拗に、土方さんの球を受けることを望み続けている。

 そして、そのたびに手を痛めてブルペンから退いていく。最初は同学年の仲間や先輩も、怪我を心配して止めようとしていたのだが……あまりの執念に、最近では皆、ただ傷だらけの道岡を見守るだけとなってしまった。

 それでも道岡は土方さんの正面に座り続ける。気合だけで、骨までしみる痛みを制御しながら。

「怪我しないと、いいですね……」
 刈田は、道岡がふらふら歩く姿を脳裏に浮かべながら、思わずそうつぶやいていた。
「そうですね。……ところで、刈田君はどうしたんですか?」

「あ、いや、ちょっとバッティンググラブが見当たらなくて」

 バッティンググラブとは、打撃のときに身につける手袋のことである。

「君は本当によく、物を失くしますね……」

「すいません……」

 自分自身の欠点に対して何度目か分からない責めを加えつつ、刈田はロッカーから捜索を始めた。

 

「……で、これが樟葉丘高校の間野のスコアで……」

 ロッカーをごそごそとあさる刈田の背後で、藤谷さんの説明は続く。

「……なるほど……ここでスライダーが……」

 沙織の返答も聞こえる。藤谷さんの言うとおり、かなり深い理解をもって説明を聞いているようだ。

 依然、バッティンググラブは見つからない。

「……まあこれが甲子園のデータです………これが軒峰高校で……」

 どうやら、次の夏予選のデータ参照に移ったらしい。

「………このように、防壁はかなり厳しいものとなっています」

「そうですね……軽い身のこなしが要求されそうですね」

 ……ん?

 刈田は捜索の手を止め、突然飛び込んできた不可解な説明に耳を傾けた。

「……こちらは陽陵学園の見取り図です」

「割と、楽に入れそうな感じですね」

「はい。確かに塀は全体的に低く抜け道も多いですが、私立の学校だけあって比較的多くの警備員を……」

「ふ、藤谷さん!」

 刈田は立ち上がって、机の方に振り向いた。

「いったい何を教えてるんですか!?」

「ああ、これはあの………」

「各高校への、偵察ルートの資料です」

 なんとなく言いにくそうにしている藤谷さんの意図を、沙織が代弁した。

「偵察ルートって……後輩の手を汚そうとしないでくださいよ、藤谷さん……それに、もうやめたんじゃなかったですか?」

「……いや、やっぱり情報は必要ですから……」

 藤谷さんは、いまだにこの「特殊な偵察」を続けていたようだ。なんとか今までは運よく逃げのびてきたようだが、もし見つかれば……

「本当に、不法侵入で捕まりますよ……まあわかってるとは思いますけど……沙織さんも、あんまり何にでも乗らないほうがいいよ」

 刈田は少し語気を強め警告した。せっかく入ってきたマネジャーが、警察沙汰で退部、なんてことになったら取り返しがつかないではないか。

 しかし沙織はあくまでも冷静にこう言った。

「いえ、でも確かに、情報は近代戦闘の根幹を成すものですから」

 ……本気で言っているのだろうか?表情からは全く読み取れない。

 すっかり困惑してしまった刈田はただ、

「……くれぐれも、見つからないようにしてくださいね」

 と力なく励ますしかなかった。

 

 少ししょげかえった藤谷さんが手にしている見取り図の表紙には、きれいな文字で「必殺諜報台帳〜geographical information NO.2」と記されていた。

 物は言いようだな、本当に……

 刈田は再び、バッティンググラブの捜索に手を戻した。

 

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