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日曜日の新陽球場。新島県の県庁所在地、新島市にあるこの県最大の球場だ。高校野球の地方大会の主要な試合はもちろん、プロ野球の遠征試合の舞台になることもあり、それだけ設備も整っている。
その新陽球場の一塁側ゲートの前に、川端西高校の野球部員たちが40人ほど集まっていた。ただし、ある3人の他はユニフォームを着用していなかった。その上、野球道具さえ持たないラフな格好をしている。
「ようけ来とるなあ、しっかし」
ユニフォームを着た三人のうちの一人、新月がしみじみとつぶやいた。
「なんか、30校ぐらいが呼ばれたって言ってた気がする。普通に見に来てる人もいるみたいだし……意外と大イベントなんだな」
その隣にたたずんでいた、こちらは私服の南条も、あたりを見渡して感嘆していた。
「意外とって……お前、ほんまにテレビ見てないんやな……」
「……?」
「『ミラクルマッスル』やで、『ミラクルマッスル』。TDSの超人気番組やないか。こんな人手ぐらい、当然やがな……まあ、それはええとして、今日はまたとないビックマネーのチャンスやからな……100万円、なんに使ったらええやろ……」
新月はすっかり自分の想像に酔って、遠い目でテレビ局の放送者を見つめた。
ことの始まりは一週間前にさかのぼる。
野球部に、主要テレビ局であるTDSから一本の電話がかかって来た。何事や?と訝しがりながら応対する角田監督の耳に、予想外の勧誘が飛び込んできた。監督はその話を受諾し、そして部員たちに集合をかけたのだった。
「……というわけで、「ミラクルマッスル」っていうテレビ番組からの誘いがきた。うちの高校から三人、『ピンポイントスナイパー』もしくは『ヒットメーカー』に選手を出演させてくれへんか、とのことや」
「ミラクルマッスル」というのは、様々なジャンルのスポーツに関するゲームを設定し、そのゲームへの挑戦風景を放映する番組だ。
「ピンポイントスナイパー」とはその番組内のゲームの一つで、正方形のフレームに9枚のパネルがはめ込まれた「的」めがけてボールを投じ、全ての的を撃ち落とすことが出来ればクリアとなる。
端的に言えば「ただストライクゾーンに投げ込めばいいだけ」なので、普段キャッチャーのサイン通りに投げている投手なら至って簡単にクリア出来そうに見える。しかし現実はそう甘くない。アマチュアだけでなく、多くのプロ野球選手たちもこのゲームにチャレンジしているが、パーフェクトクリア達成者は非常に少なく、一枚も落とせずに退いていく選手さえも多く見られる。
もう一方の「ヒットメーカー」はその打者バージョン。トスバッティングで、ピラミッド状に配置された15枚の的を射抜いていくと言うゲームだ。こちらのゲームも、プロ選手でさえなかなかクリアは難しい。
そんな二つゲームに共通するのが、クリア賞金の100万円。さらにクリア後、成功すれば賞金が二倍、失敗すれば半額になるダブルチャンスも設けられている。
そのことを知っている部員たちの目が、角田監督の通知と共にギラリと光った。やはり皆、お金は欲しいのだ。
「三人、ですか……誰を選ぶんですか?」
まず初めに、キャプテンの角屋さんが一番重要なところをたずねた。この監督のことだから、またそのための選抜テストでも行うのではないか、という予想も抱きつつ。
「いや、勝手で悪いんやけど、メンバーはワシがもう決めとる」
部員たちの間に、動揺が広がった。
いったい誰を選んだのだろうか、どういう基準で選んだのだろうか、そして……自分はそのメンバーの中に入っているのだろうか?
皆の視線が、これまでにもそう多くは見られなかった真剣さを持って、監督に集まった。
「やっぱり金がからむと目が変わるわなぁ……あ、ちなみに、賞金の半額は野球部に寄付してもらうからな」
一部から、抗議の声が聞こえた。そこまであからさまな行動はとらなくても、明らかに顔に不満が噴出している部員も多かった。
「……そりゃそうやがな……高校生がそんな大金、一気に持つもんやないで。それに、半分言うても100万とったら50万や。そんだけあれば……」
「……監督、監督」
必死になって不満をいさめる監督の腕を、キャプテンが数度たたいた。
「……ん?なんや?」
「それはいいんですけど」
角屋さんがそう切り出そうとすると、またもや過激派の部員たちが声を上げた。
「……いや、よくはない……じゃなくて、別にいいだろ!少し黙っとけ!……あ、すいません。そう、結局、誰が出るんですか?」
なんとか角屋さんは、自分の質問を伝えた。
「あ、そうやそうや。それが一番大事やもんな……えーとな、ワシとしては賞金は出来るだけ高い確率でとらせたい、でもそのチャンスは公平に、ということで各学年から一人ずつ選ばせてもらった。呼ばれた者は返事をして立つように」
再びざわめきが広がったが、それはすぐにおさまった。
各学年につき一人。非常に狭き門だ。部員たちは、音が聞こえそうなほどいっせいに息を呑んだ。
「じゃあ、まずは三年生から……バットコントロールを考えて、藤谷を出すことにした」
「……えっ!?あ、はい!」
本人は全く予期していなかったようで、ひどく驚いていたが、それでもしっかりと立ち上がった。
「次は二年生……最近打撃もようなってるし、こういうイベントも好きそうかな、ということで新月!」
「は、はい!!」
ひときわ大きな声を張り上げ、新月は腰を上げた。少し残念そうにしていた二年生もいたが、大きな不満はなさそうだった。
確かに最近、新月の打撃は著しい成長を見せている。両打ちに転向し、甲子園での実戦も経て、格段にボールを見る「目」がよくなったのだ。それだけ選球眼も研ぎ澄まされてきたし、球種やコースの判断も素早くなった。身長面でも成長は続いており、それにともなってシートバッティングで飛ばす打撃も強くなってきているのだ。
それに監督が後半に付け加えたとおり、お祭り騒ぎを好む新月は、特にこういう大イベントで限界以上の力を見せてくれ……そうな雰囲気を出している。まだ、そういった場面は見られていないが。とにかく、十分納得できる選出だった。
そして最後に一年生の選出。しかし監督がわざわざその名前を口に出す前に、全ての部員が結果を読んでいた。中には、あからさまにその男の方に目を向ける者さえいた。
「一年生は……なんや、もうみんなわかっとるみたいやな。うん、金田貴史や」
「はい!」
自信と余裕をその身にたたえて、貴史が力強く立ち上がった。
「というわけで、この三人には……」
「……監督、監督」
「なんや角屋。まだなんかあるんかいな」
「ピンポイントスナイパーのほうには、誰も出さないんですか?」
「そやな……」
少し力ない声を出してから、監督は投手たちの顔を見渡した。
「まあ、まだちょっと力不足かな」
監督がこう判断するのは、元投手だけあって投手を見る目が厳しい、ということもある。しかしそれ以上に、バタ西の投手たちは制球力がいまひとつなのだ。エースの土方さんはやっぱりまだまだ荒れ球だし、二番手の南条も特に際立った制球力は持っていない。それ以外の投手に至っては、この二人よりもさらに不安を抱えていると言うのが現状だった。
そしてメンバーの選出も終わり、当日の集合時間などが発表された。収録場所である新陽球場までの交通費は、部費から支出されることになった。……ただし、選出メンバーのみに対して。
これについても不満が一部から飛び出した。選出メンバー以外はただの観客としてついていくだけなのだから、自費負担は至って当然のことであるはずだが……やはり皆、お金は惜しいのだ。
「そういうことだったら行きません!」と過激派が叫べば、監督も負けじと「ああ、行かんでええ。おとなしゅう練習しとれ!」と怒鳴り返したり……すったもんだの末、なんとか波乱の集会は幕を閉じたのだった。
そして当日。あれだけ「交通費がもったいない」と言っていたにもかかわらず、部員の半分以上が集合場所に集まっていた。おそらく今グラウンドでは、しぶしぶ残らされたキャプテン角屋さんを中心に、寂しい練習が繰り広げられていることだろう。
予定の時間から送れること数分。ユニフォーム姿の角田監督が、やっとのことで姿を現した。
「……いやーすまんな。遅れてしもて。……えーと、こっからどこに行けばええんや?」
「選出メンバーはスタッフのところへ、観客はスタンドへ、と指示されています」
このように事務的な要綱を整理していたのは、やはり藤谷さんだった。
「そうか。じゃ、まあそういうことやから、各自指定された場所に行ってくれ。……くれぐれも騒ぎは起こさんようにな」
「はい!」
角田監督が静かに念を押すと、部員たちは爽やかに返答し、解散した。
観客組は、おおかたおとなしくスタンドへ向かったが……途中で島田さんが、TDSの女性アナウンサーを見つけて駆け寄っていった。そして、その勢いに乗ってついていこうとする下級生たちを、三年生たちは必死に食い止めたのだった。「あいつはバカだ。ほっとけ」と口にしながら……大丈夫なのか、本当に……?
新月は指示通りに廊下を抜け、グラウンドへと立った。なかなか立派な電光掲示板、よくならされた土。このグラウンドに入るのは昨年の秋大会以来……だったが、それにまつわる懐かしい思い出などは、新月の頭の中ですっかり片隅に追いやられていた。
とにかく金。100万円。半分ピンはねされても50万円。ダブルチャンスに成功すれば100万円が得られる。
そんな夢物語だけが今、新月の目の前にまばゆくちらつき、自身の実力などは全く考えもしなかった。
「なあ、ワクワクしてきたなぁ。貴史」
はやる気持ちを心の中にとどめておくことが出来ず、新月は隣を歩いている金田貴史に話しかけた。しかし、貴史はぶっきらぼうに、
「ええ。そうですね……」
と気のない返事をするだけだった。その右手には愛用の磨き上げられたバット、左手には布を持って、さらにバットの表面を磨き続けていた。鋭い視線は、その作業から離れる気配すら見せない。
「貴史君……僕たちの出番はまだまだ後ですよ……まだバットなんか出さなくても大丈夫ですって……」
藤谷さんは背負っていたバットケースをかるく肩ではね上げ、呆れたように言った。
しかし今度は、貴史はその言葉を聞いてすらいないようだった。
「……さっきからずっとこの調子ですよ。藤谷さん……」
「集中してるんですかね……ちょっとは気を緩めておかないと、いざって時に気力が持ちませんよ」
だが、貴史の周りの張り詰めた空気は一向にほころびそうにない。
依然バットを慎重に手入れし続ける貴史の姿は、まるで愛刀をいつくしむ剣豪のようだった。
「普段は、ごく普通の一年生なんですけどね……」
三人は少しぎこちなく、指定された場所へと向かった。
ピッチャーマウンドとホームプレートの中間あたりに「ヒットメーカー」の的が、ファールグラウンドのマウンドに「ピンポイントスナイパー」の的が設置されている。
新月は、普段ならネクストバッターズサークルが書かれているはずの場所から、じっくりと「ヒットメーカー」の的を観察していた。
16枚全ての的を抜くのは、確かに至難の業である。クリアのためには、高低、そして左右に正確に打球を飛ばす必要がある。だが、新月には秘策があった。
両打ちである。これなら、わざわざ難しい流し打ちを試みようとしなくても、左右の的をたやすく射抜くことが出来る。
球場の外で、あらかじめ新月は「両打ちでチャレンジするのって、OKなんですか?」とスタッフに尋ねていた。野球のルールに反しないものならば、何でもありだというのがスタッフの返答だった。
まあ、わざわざ聞く必要はなかったのだが。新月は昔、このゲームがクリアされる瞬間を見ていた。
その達成者は、以前バタ西にもコーチに来てくれたことのある両打ちのアベレージヒッター、竜京司だった。
あの人がクリアしたんやから、その教え子である俺がクリアできんわけはない。
そんな、飛躍を通り越して暴発したような論理を拠りどころにして、新月は自身の大金獲得を確信していた。
なおも的を眺め続けていると、新月は突然背後から声をかけられた。
「新月……か?」
「うん?……あ、君は!」
振り返った先に立っていたのは、160cmにも届くかどうかの小さな背丈の男だった。胸には「yoryo」のロゴが入っている。
「引出やないか!久しぶりやなぁ」
「そうだな。去年の秋以来か?」
ふとしたきっかけがあって、この二人は少し深めの知り合いになっていた。直接の面会は最近なかったが、教えあったメールアドレスでやり取りを続けていたのだ。それだけでも、新月にとってはこのように親しくするには十分な事実だった。そういう気さくなところ――悪く言えばあつかましいところ――が、この男の長所といえば長所ではある。
「ユニフォームがずいぶん変わってたから、声かけようかどうか迷ったんだけど」
引出は、まだまだ真新しいユニフォームを上から下まで眺め回した。
「ああ、これはこの前変わったんや。どや、カッコええやろ?」
新月は誇らしげに、一歩引出のほうに近づいた。
「うん……まあ、微妙」
「な、なんやと!」
「……嘘だって。まあ、うちのユニフォームぐらいのレベルにはなったんじゃない?」
「ぐっ……言いよるな、こいつ……」
新月は負けじと陽陵学園のユニフォームを眺め回した。……確かに、私立の野球名門校だけあって金がかかっていそうだ。
「しっかし、あいかわらず、背ぇ伸びてないなぁ、自分」
「うるせぇな……一応1cmは伸びたぞ。というか、新月が伸びすぎなんだろ」
「確かによう伸びたからな、俺。去年の4月から10cmは伸びたと思う」
「いいなぁ……少し分けろよ」
「無理やな。まああんまり伸びすぎてもショートとしては困るけど、180cmぐらいは欲しいわなぁ……って、さっきから気になっとったんやけど」
「なんだ?」
「後ろのお二人は、どなたさん?」
新月が向けた指の先に、なかなかがっしりした男と、背は高いが少し細い男が背を向けて立っていた。
「ああ、この二人は……ちょっと、伊佐!本庄!」
引出が呼びかけると、二人は少し面倒くさそうに振り向いた。
「うん?なんだ?」
「今、新月に紹介しようと思って」
「新月?」伊佐、と呼ばれたがっしりとした男が言った。「ああ、春のセンバツでエラーしてたやつだな」
「……なんでわざわざそこだけ覚えとるんや……」
一番痛いところをつかれ、新月はがっくりとうなだれた。
「おいおい、そうヘコむなよ。冗談だって。バントヒットも打ってただろ、確か」
「ものすごい足速かったよな。同じ県の代表だからしっかり見てたよ」
伊佐がフォローし、その後に背の高い方、本庄が補足した。
「まあそういうわけで、こっちがうちの三番打者の本庄、そっちが四番の伊佐だ」
「……えっ、クリーンナップ!?」
「うん、そうそう」
「ってことは、三年生!?」
新月は、とっさに敬語に切り替える準備を進めた。……にしては、引出は普通にタメ口を利いているが……
「いや、二年生だけど」
「あ、そうなんや……え、二年生で陽陵のクリーンナップ!?自分らすごいやん」
新月は素直に驚きを表した。
「いやいや、それほどでも……」
「そうそう。まだ正式に決まったわけじゃないし。それにたまたま三年生にすごいバッターがいなかっただけで……」
がっしりした方の伊佐が謙遜を込めて言ったが、内容自体はかなり痛烈なものだ。
「で、ここにおるってことは……その二人が、ヒットメーカーに出るんやな?」
「そう。で、俺はピンポイントスナイパーに出る、ってわけだ」
「それならそうとメールしてくれよ……俺だけはしゃいでたみたいで、なんかむなしいやん……」
この三日前、新月は引出に「100万円とるで!まあ、もう手に入ったようなもんやけど」と、思いっきり「はしゃいだ」メールを送信していたのだった。
「ちょっと驚かしてやろうと思って。まあ、お互い頑張ろうぜ」
「……そやな!」
二人は、勢いよくハイタッチ……というにはちょっと身長差がありすぎたが、とにかく軽やかに手を打ち合わせた。
その時、スタンドから「新月ー!」と叫ぶ声が飛んできた。どうやら部員の誰かが発したものらしい。新月はその声に反応し、軽く手を上げた。
「あれ?他の部員の人も来てるの?」
引出は不思議な光景を目にした、とでも言うかのような口調で新月にたずねた。
「おお、そうやけど。陽陵の人らは来てないん?」
新月もまた、解しがたい、というような表情で引出に言った。
「いや、そりゃ練習があるから……」
「へぇー、やっぱ厳しいんやなぁ。……一日ぐらい、息抜きしてもええと思うんやけどなぁ」
新月は、能天気にグラウンドを見渡している部員たちに暖かい目を向け、つぶやいた。
引出はそれに答えず、ただあいまいに笑っていた。
機材の準備は迅速かつ的確に進行し、そして競技と撮影が始まった。藤谷さんの言うとおり、バタ西のメンバーの出番は最後から二番目とかなり後ろの方だった。にもかかわらず、いまだに貴史はバットから手を離そうとしない。ここまで来ると、はっきりいって気味が悪い。
まあそれはともかく、撮影は順調に進んでいった。しかし、オールクリアを達成する者は出なかった。
陽陵学園の各選手は、新島県王者の貫禄を見せつけるかのように好記録を出していた。「ピンポイントスナイパー」では引出が記録8枚を叩き出し、リーチをかけたが、それでもやはり100万円の壁は厚かった。「ヒットメーカー」の方は四番打者の伊佐が12枚、そして本庄は13枚でその時点までの最高記録を打ち出した。
どの選手もこれらの記録にはるか及ばないまま、各高校が競技を終え、これが最高記録となるか、というところでついにバタ西チームに出番が回ってきた。「さあ、いよいよ今日の新島県高校球児スペシャルも終わりが近づいてまいりました!先日のセンバツ高校野球での活躍が記憶に新しい、川端西高校の登場です!」
アナウンサーが、興奮しきった声を作って実況している。
「まずバッターボックスに向かうのはチームの頭脳、高校三年生の藤谷亮太だ!」
「ピンポイントスナイパー」と「ヒットメーカー」にはそれぞれ別のアナウンサーがついている。とはいえ、ここまで18校分の実況をしてきたのだから、のどの疲れも相当あるに違いない。だがそれでも声の勢いが落ちないのは、さすがプロのアナウンサーのなせる業だ。
藤谷さんが右打席へと向かう。トスを上げるのは新月。
何度かボールを上げる位置の微調整をしてから、藤谷さんのチャレンジが始まった。
「キンッ」
藤谷さんはまず、一番簡単な正面真ん中の9番を撃ち抜き、そのあと上段の5番と6番を二枚抜き。そして得意の流し打ちで、徐々に打球の軌道を右にずらしていった。……そこまではよかったのだが、なかなか右下隅の15番を撃ち落すことが出来ない。ここは一度諦めて、とりあえず左のパネルから処理していこう、という方針に切り替えた。
これが裏目に出てしまった。突然の方針転換でバットコントロールが狂ってしまい、思うように打球が飛ばない。
結局藤谷さんは、記録9枚で挑戦を終えた。それでも全体を見渡してみると、なかなかの好成績である。
「残念!終了です!初めの勢いが続かなかった!……次は川端西高校一の韋駄天、高校二年の新月誠だ!」
おそらく、名前の前に叫んでいるアピールポイントは手元のメモに記されているのだろう。アナウンサーの視線は、時おり下に落ちている。
新月が、まずは長年慣れ親しんだ右打席に入る。最近は左打席のバッティングの方が良好だが、ここは確実性を重視することにした。
「新月っ!!」
スタンドからまた、声が飛ぶ。
はっはっは、やっぱりみんな、俺に相当期待しとるようやな、と新月は気をよくして、バットを一振りした。
「ちゃんとボールに当てろよ!」
「前からじゃなくて、横から飛んでくるからな!間違えるなよ!」
……部員たちの意図は、新月の思っていたものとはかなりずれていたようだ。
絶対、全部撃ち落したんねん……
新月の気合は、さらに高まった。
藤谷さんが、かがみこんで新月を見上げる。この人になら、かなり正確なトスを期待できそうだ。
そして、藤谷さんが運命の一球を放り上げた。
「うおぉぉっ!」
新月は気合一閃、雄たけびと共にバットを振りぬいた。
「キンッ!」
球は的のフレームを越え、三塁線上に鋭く飛んでいった。
「………」
皆、なんともいえない表情で新月を見つめている。
完全に、気合が空回りした……
その後も新月の振りは、そんな調子が続いた。
パネルを打ち落とすどころか、下手に力んだ振りから繰り出される打球は、フレームの中にすら入らない。
途中で「秘策」を発動、つまり打席を左に代えてから、なんとか軌道は安定してきたが……4枚目のパネルを打ち落としたところで、制限された球数を全て使い切ってしまった。ゲームオーバーだ。
「人選を間違うたな……」
スタンドの角田監督は、自分の選択への後悔と新月のふがいなさへの怒りとが混じった、深いため息をついた。
次はラストバッター、金田貴史か。いくら天才や言うても、まだ一年やからなぁ……
しかし、全く望みを捨てたわけではなかった。あいつやったら、もしかしたらやりよるかも知れん。特に根拠はなかったが、角田監督の心中には淡い期待が宿っていた。
「金田貴史ですか。どうです、最近の様子は?」
突然、男が隣に並んで話しかけてきた。
「……あ、黒瀬監督。お久しぶりですな」
それは、陽陵学園野球部監督の黒瀬という人物だった。髪が健康なおかげで若く見えたが、顔のしわなどを見ると角田監督より年上のようだ。
「貴史はずば抜けてますよ。前に見たときも驚きましたけど、間近で見るとなおさらですね」
「まあ、うちが取り逃がした超逸材ですからね」
黒瀬監督は、ごく抑えてそう言ったが、まだ未練を捨て切れてはいないようだった。
中学シニアで群を抜く打撃成績を誇っていた金田貴史。当然、スポーツ推薦で好選手を集めている陽陵学園も、スカウトの手をしっかりと伸ばしていた。そんな選手が「普通の」公立高校であるバタ西に入学してきた経緯は、以前の話を参照して欲しい。
「そういえば、バタ西さんにも昭成の練習試合の話、来てますか?」
「……ああ、はい。この前連絡を受けました」
昭成とは、東京の野球名門校昭成高校のこと。年に数度、地方への遠征――地方の高校と練習試合をする旅――を行っている。今回は、新島を遠征場所に選んだらしい。
ちなみに、バタ西の南条は、昭成の野球部に三人ほど知り合いがいる。その関係で情報が回ってきていたため、角田監督は電話を受ける前から、新島遠征のことを実は知っていた。
「5月ぐらいや言うてましたね。ゴールデンウィークと重なるんでしょうかね?」
「おそらくそうでしょう。詳しい日にちはまだ決まっていないようですが」
「今年も休みですな、全く」
「あ、それでですね」
黒瀬監督は、左肩に下げていたかばんから紙を取り出した。
「昭成との練習試合の後、またバタ西さんとも練習試合をやらせていただきたいな、と思ってまして」
「おお、それは大歓迎です。そういえば、まだ陽陵さんと練習試合を組んだことはなかったですか?」
「確かないですね……まあ、前から考えてはいたんですが、なかなか機会がなくて。あ、これがうちの学校への地図と、連絡先です」
先ほど取り出した紙を、黒瀬監督は手渡した。
「こっちも、ちょっとした遠征ですな」
「まあ、県内なので。……お手数かけてすいません」
「いえいえ、そういう意味で言ったんじゃなくて、ただなんとなくね。……お、貴史が打ち始めているみたいです」
「ああ、もう始まってましたか」
二人の監督は、ざわめきを増しているグラウンドに目を向けた。
「ま、今日わざわざここにまで来たのは、このためでもありますからね……」
黒瀬監督は、ほとんど聞こえないぐらい小さいつぶやきをもらした。
「バンッ!」
貴史の放った打球が、12枚目と13枚目のパネルを同時に撃ち落した。
ここまで、一球もミスはない。
4球目ぐらいからしばらくは、一枚撃ち落すたびにグラウンド全体が沸いていたものだが、今では大きな声を張り上げているのは実況のアナウンサーだけとなってしまった。その声も、仕事柄無理やり張り上げているのだった。
騒ぐことに疲れたわけではない。目の前で起こっている到底信じがたい光景に、総員声を失っているのだ。
13枚連続のヒット。プロ野球のとあるアベレージヒッターが打ち立てていた最高記録、10枚連続をすでに大きく越えていた。
そして、あと二枚で100万円に手が届く。
「貴史君、落ち着いてくださいよ……」
そうアドバイスする藤谷さんの声は、少し震えていた。
「………」
貴史は、藤谷さんのほうをちらりとも見ない。その視線は、ただ目の前のパネル一点に注がれいて、他の物体が視界に入っている様子はない。
恐ろしい集中力だ。球場に入るまでは、どこにでもいる普通の新米野球部員だったのに、グラウンドに入ったとたん彼の世界は周りからすっかり閉ざされた。そしてその隔絶感は、打席が近づくにつれ程度を増し、今ここで最高潮に達しようとしている。
貴史は微動だにしない。無言で藤谷さんに、早く投げてくれ、ミスをしないように、と重圧をかけてくるかのように。
藤谷さんはいったん深呼吸をしてから、10球目――二枚抜きが何度かあったため、球数はごく少なく抑えられている――の白球を貴史のミートポイントに投げ上げた。
一瞬、貴史の目が開いたと思った瞬間、ボールは鋭く一閃される。
「キンッ!」
「バンッ!」
14枚目のパネルが、美しく前方に吹っ飛んだ。
「14枚連続だー!!思いがけないところで、われわれは今歴史的な瞬間を眼にしようとしています!あと一枚で、この少年の手には100枚の諭吉が手に入ります!残りの球数は何と6球!100万円はほとんど手にしたも同然です!」
そうまくし立てるアナウンサーを、いつの間にか藤谷さんは横目でにらみつけていた。変なプレッシャーを与えないでくれ、と。
残るパネルは、最も左下に位置する11番、かなり難しいコースだ。
「いきますよ……」
藤谷さんが息を整え、慎重に、しかし軽快にトスを上げる。
貴史はスキのないスイングでボールを捉える。
「キンッ!」
「ガンッ!」
11球目。初めて、貴史の打球が金属のフレームを捕らえた。
失敗だ。しかし、貴史の集中力はいまだ途切れる様子を見せない。
ここまで来れば、焦ることはない。いつの間にか、藤谷さんも貴史につられて周りの世界から自分を切り離していた。
トスを上げる藤谷さんと、それをさばく貴史。
二人だけの世界の中で、12球目の白球が静かに空中へと舞った。
ほんの少しの静寂のあと、貴史のスイングが空を切り裂く。
少し内角気味に上げたトスを、貴史は逆らわずコンパクトに引っ張った。
「バンッ!」
15枚目のパネルが、一瞬空中に飛ばされたあと、静かに着地。
その瞬間、球場内は久方ぶりの喧騒を取り戻した。
「クリアです!何と15歳、高校一年生の球児が、たったの12球で「ヒットメーカー」をノックアウトしてしまいましたっ!!」
実況の声も、心の底からの興奮に打ち震えている。
終わったな。
貴史は少しよろめきながら、右打席を退こうとした。
「貴史君!」あわてて藤谷さんは叫んだ。「まだ、ダブルチャンスが残ってますよ!」
「え……どういうことですか?」
何時間ぶりだろうか、貴史が藤谷さんの言葉にまともな反応を示した。
藤谷さんが説明しようとすると、スタッフがやって来て貴史に告げた。
「ダブルチャンスと言うのは、一枚だけの的に挑戦してもらって、それを見事撃ち落せば200万円がゲットできるチャレンジです。ただし、失敗すれば賞金は半分の50万円になってしまいますが……やりますか?」
悪魔のささやきのような説明が繰り出されると、貴史はしばらく押し黙った。
やめておいた方がいいですよ。こういうギャンブルは、たいてい失敗するんです……と藤谷さんは口に出しかけたが、しかしこれは貴史が決めることだ、藤谷さんはなんとか言葉を飲み込んだ。
長い沈黙のあと、貴史が力強く顔を上げた。
「やります」
再び、空気が張り詰めた。
二人はそれぞれの持ち場に戻る。
貴史だけでない。藤谷さんにも再度、先ほどのような集中力が求められる。
目をつぶり、心の中で何度も自分をなだめた後、藤谷さんは貴史の顔を見上げた。
すでに、貴史の目は「戦闘体制」に戻っている。
よし、準備OKだ。
藤谷さんは、13球目となるトスを、これまでにない注意をもって放り上げた。
貴史のバットが、軽いうなりと共に白球を砕いた。
賞金は、二倍となった。
「すごいですねー!プロの選手でも、10枚連続が最高だそうですよ!」
「そうなんですか……」
そう答える貴史の声はどこか力なく、顔は少し青ざめているようにも見えた。あの集中力を、何時間も持続させていたのだ。体中の力を全て使い果たしてしまったのだろうか。
「今のままでも、プロにいけるんじゃないですか?」
インタビュアーの女性アナウンサーが、かなり過激な質問を投げかける。スタッフ一同、あわててそのアナウンサーを止めにかかった。
しかし貴史は、こともなげに答えていく。
「いえ、たまたまうまくいっただけですから……それに、トスバッティングで打球をコントロールするのと、プロの投手のスピードについていくのとでは、全然話が違うんで……」
貴史の言うことは正解だった。それにしても、貴史のバットコントロールはやはり、普通の高校生の域を超えている。
恐ろしい選手が、川端西高校に入ってきたものだ。
チームメイトだけでなく、球場内の全ての人間の視線が、畏怖の念と共にひとりの球児へ集まった。
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