刻の影

 

 足腰を鍛えるため、土方さんは今日、裏山のなだらかなアップダウンコースを走っている。5月にもなると、木々が屋根をなしているこの道でも、空気は十分暖かい。走っていると、暑くなってくるほどだ。

 普段は、南条を初め、投手だけで団体をなして走りに出ることが多いのだが、今日はグラウンドでシートバッティング、実戦打撃が行われているため、土方さん単独でのランニングとなっている。土方さんが登板するのは最後の方で、主力選手たちを相手にすることになっているからだ。

 バタ西では日ごろ、実戦打撃はあまり行われない。行われるのは、ほとんど大会や試合の前に限られている。

 夏季の新島県予選大会はまだまだ先だが、バタ西には今、東京の名門昭成高校との練習試合が迫っている。練習試合といえども、出場させる人数はもちろん絞り込まなければならない。そのための選出という意味合いも、今日の実戦打撃には含まれている。

 おそらく今頃グラウンドでは、一年生たちが高校レベルのスピードに改めて驚いているところだろう。……約一名をのぞいて。

 それにしても爽やかな空気だ。森林浴効果というのだろうか、学校のすぐ近くにこういう場所があるというのは、なかなか幸運なことだ。

 土方さんは、限りなく静かで清らかな小道を満喫しながら、走り続けた。

 

 しかしその満ち足りた表情は、カーブを右に曲がってある光景を目にしたとたん、はっきりと曇った。

 明らかにこの場所とは不釣合いな数人の男たちが、土方さんの行く手を阻んでいる。

 嫌というほど、見覚えのある顔だった。しかし関わりたくはないので、通り過ぎようかとも考えたが……どうやら、抜けさせてくれそうにもない。

 土方さんは仕方なく走る速度を緩め、男たちの前に止まった。

「よう啓、久しぶりだな」

 「反社会的な服装」をした男たちの中でもとりわけ目立った格好をした、土方さんほどではないにしても長身な男が、軽く手を上げて土方さんに歩み寄った。

「……いつから待ち伏せしてたんだ?木村」

「待ち伏せだぁ?人聞きの悪いこと言うなよ、たまたま通りかかっただけだ。それに、昔みたいにハヤトって呼ばないのか?」

「……さぁな。昔の俺は、そんな呼び方をしてたのか?」

 土方さんはハヤトを見下ろして、冷たく言い放った。

 木村速人。昔土方さんが荒れていた頃、一番深くつるんでいた男だ。以前、バタ西のブルペンを冷やかしにきて、土方さんに刃物を向けたこともある。

「ふざけんじゃねぇよ。球遊びでテレビにでかでかと映って、すっかりヒーロー気取りか、え?」

「……いま俺は練習中だ。そこを通してくれ。たまたま通りかかっただけなんだろ?」

 土方さんは男たちを押し分けようとしたが、しかしすぐさまつかみ止められた。

「……放せ」

「放さなかったらどうなるんだ?」

「………」

 殺す、などとは口が裂けても言えない。最近、高野連の倫理的規制がことさら厳しくなった。髪を染めたり、眉毛を剃ったりすることさえも禁止事項としている。その中で、野球部員である土方さんが少しでも暴力に訴えれば、まずい事態になりかねない。

「そう、それがいまのお前の立場だ。よくわかってるじゃんか。ん?」

 木村速人は、土方さんのあごをつかみ上げた。しかし土方さんは、濁ったその目に視線を刺し込むことしか出来ない。

「そう怖い顔するなよ。今日はお前をボコりにきたんじゃねぇ。少し頼みがあるんだ」

「……頼み?」

 土方さんは一瞬気を緩めたが、しかしすぐに緊張を取り戻した。こいつの言うことだ、絶対にまともなことではないはずだ……!

「バタ西の大エース様の周りには、最近女の匂いが絶えねぇらしいな」突然、木村速人は不可解なことを言い出した。「ちょっと何人か、俺たちにも紹介して欲しいと思ってな」

「……何?」

 この男の言うことはあながち間違っているわけではない。確かに、甲子園での鮮烈なピッチングを目にした川端西の生徒たちの間で、土方さんの株は急上昇している。

 ただし、憧れなどを抱いたとしても、まだ土方さんに直接近づこうとするものはいない。やはり前歴が前歴だけあって、まだまだ生徒たちの恐れは消えていないし、土方さん自身も完全に練習に没頭しているため、近づいたとしても取り合ってくれそうな気配はない。

 気配だけでなく、事実としてもそうだった。土方さんはあくまでもストイックに野球に打ち込み、他のことに目を向ける余裕はほとんどなかった。そういうわけで、自身の「株が上がっている」などということを、土方さんはあまり強く感じていないのだった。

「紹介、つっても簡単なことだ。お前は「ちょっと遊びに行かないか」とかなんとか言って誘って、ついでに「友達も何人か来るけど」って付け加えりゃいいだけだ。こぶつきでも、今のお前にならついてくる女はいるだろうよ。まあそのあとは俺らに任せればいいし、お望みならお前が手を出してもいいけどな。「友達が来る」って先に言ってるんだから、その後どうなろうがノコノコついてきた女の責任になる、ってわけだ。どうだ、いい計画だろ?」

 始終嫌な笑いを口元に浮かべながら、木村速人は一息に言い切った。

 いままで微動だにしていなかった土方さんだったが、低劣な提案を聞いてさすがに頭に血が上っていた。

 土方さんは無言で、しかし力強く、自分の体をつかんでいた二つの手を振りほどいた。

「ああ、ちょっと気に入らなかったみたいだな。まあ他にもプランはあるけどな」

「……集めるなら自分で集めろ。いくらでもいるんだろ、お前らの周りには?」

「一応な。だが、どいつもこいつもケバ臭え奴ばっかしだ。だからこう、できるだけ清楚な女をだな……」

「……いい加減にしろよ」

 努めて落ち着かせた声を土方さんは振り絞ったが、こぶしの震えはどうにも止められなかった。

「……俺はな、そんな下らんことのために野球をやってるんじゃない」

「じゃあ何のためにやってるんだ?」木村速人は嘲笑した。「自分の過去を乗り越えるため、か?ん?まあ、なんとも大層なこって。そのために踏み台にされた俺たちは黙って死ねってか?……図にのんなよ」

 土方さんは、その問いに答えることが出来なかった。

 ただ押し黙って、それでも視線は動くことがない。

「俺はな、この前退学させられた。昔にもいっぺんオリに入れられてダブってるから、もう後戻りはできねぇだろうな」

 木村速人は、なぜか自分の話を始めだした。

「戻ってもどうせ、俺のこの先なんて知れてるさ。ただし、表に出たら、の話だがな。だからな、俺もお前みたいに、昔にケリをつることにした。ただし、お前との約束をきちっと果たしてからな」

 約束。

 その一語は、土方さんの背筋を一瞬で凍りつかせた。

「おう、しっかり覚えてるって顔だな。そりゃそうだ、俺もお前も、何度もしつこく言ってたからな。」

「……冗談だろ?」

「俺は本気だ」

 木村速人は、土方さんの頬を軽くはたいた。

「それだけは覚えとけよ。今日はまだやらねぇけどな。……最高の時期に、最高の形で果たしてやるよ」

 その目には、この上なく冷酷な光が宿っていた。

 そして木村速人は仲間たちを引き連れて、土方さんがもと来た道をだらだらと進み始めた。

 土方さんはしばらく立ち尽くしていた。

 あの男なら、確かに「あの約束」を実現しかねない。

 だが……いくらなんでも、本当にそんなことが起こるのだろうか?

 いや、ヤツも人間だ。だから……そんなことがあるはずはない。

 土方さんは無理やり気を鎮めたが、しかしまだまとわりつく冷気は去ろうとしなかった。

「……くそっ」

 なんとかそれを振り払うため、土方さんはいつもより速いペースで、薄暗い道を駆け出した。

 

 

 その頃のグラウンド。左打席にはパワーヒッター具志堅。マウンド上では、南条がオーバースローで振りかぶっている。

「シューーーーーーー・・・・・・・バンッ!」

 南条の投じたストレートは、きれいにキャッチャー藤谷さんのミットに収まった。

 だが藤谷さんは渋い表情を作った。内角を支持したのに、実際に来たコースははるかに真ん中寄り。打者の具志堅も決して球威に押されたわけではなく、ただ様子見として見逃しただけだろう。

 再び藤谷さんは内角のストレートを要求する。そしてさっきより自身の体を右側、つまり具志堅の懐側に寄せ、指示を強調する。

 南条がワインドアップモーションから、ストレートを投げ込む。

「シューーーーーーー・・・・・」

 まずい、また真ん中だ!

「カキンッ!」

 藤谷さんが恐れたとおり、具志堅のバットは真ん中寄りのストレートを見事に外野に運んだ。

 ボールはぐんぐん飛距離を伸ばし、外野のネットに勢いよくぶつかって落ちる。ネットにひかれたフェンスラインの下なので、ホームランではないが……完璧に捉えられた当たりである事は間違いない。

 しかし、指示を「受け止めてもらえなかった」藤谷さん以上に、南条は思い悩んでいた。

 どうしても、体が内角にいかない。何か得体の知れない力が、自身を反対方向に引き寄せるのだ。その原因は、全くわからないわけではない。だが……それが今でも続いていると言うのは、明らかに何かおかしい。

 南条はいらいらしながらスパイクで小高い丘を切り崩し、藤谷さんのサインを見る。

 今度は外角のストレート。振りかぶって、藤谷さんのミットめがけて腕を振る。

「シューーーーーーー・・・・・・・バンッ!」

 今度は、ややズレはあるもののきっちりと外角のストライクゾーンに決まった……

 

 シートバッティングの様子を、バッティングケージの少し後ろで見つめていた角田監督も、その表情は優れなかった。 隣では、実戦でスコアブックをつける練習のために、マネージャーの沙織がひたすらノートを書き付けている。

「……沙織、さっきから南条、内角に一球も投げてないよな?」

 沙織は手元のノートをパラパラとめくり、答える。

「ないですね。全く」

「やっぱりそうか……困ったもんや。あのことが、まだ頭にひっかかっとるんかな……」

「樟葉丘の間野選手へのデッドボールですか?」

 状況を正確に言い当てた沙織に、監督は驚いた。

「よう覚えとるなぁ。南条のピッチング、ずっと見とったんか?」

「ええ、まあ……」

 沙織はなぜか、少しだけうつむいた。

「って、そりゃそうやった。バタ西にマネージャーに入ってくるぐらいなら、甲子園は全試合見とるわな」

「……やっぱり、あの時のショックが残ってるんですか?」

 マウンド上の南条は、再び大きな当たりを浴びていた。

「うーん……ワシも正確にはわからんけどな。でも打者を怪我させるほどのデッドボールはな、投手にとっては意外とダメージがでかいときもある。ワシはそういうのは大丈夫な方やったけど、チームメイトにそういうノミの心臓がおったわ」

「でも、そのうち、直りますよね?」

 少し心配そうに、沙織は監督の目を見た。

「いや、あんまり甘く見とったらあかんで。名前忘れたけど、なんとか、って言う精神的な障害のひとつらしくてな。ワシのチームメイトも、当ててからしばらくはまともに投げられんかったし……プロの例では、それがきっかけで投手を諦めた選手だっておるしな」

 なかなか恐ろしい例示を聞かされて、沙織の表情は曇っていった。

 そして、沙織は少し沈んだ声でたずねた。

「……もしかしたら、そうなるかもしれないんですか?」

「いや、そういう選手もおった、って話で、あいつがそのままそうなるわけちゃうで。でもまあ、心配な症状ではあるけど……最終的には、やっぱりあいつ自身が乗り越えていかなならんことやからなぁ……」

 監督がため息をつくと、またもやバッティングケージから快音が響いた。

 具志堅の放った鋭い当たりは、外野ネットのフェンスラインのかなり上を直撃した。

 南条は結局合計10人のバッターを相手にしたが、いまひとつ切れのいいピッチングを展開することが出来なかった。それでもやはり、チーム二番目の球速とバランスのいい球種のコンビネーションは他の投手を圧倒している。おそらく、今度の練習試合でも一度は登板することになるだろう。

 

 

 続いて、バタ西グラウンドのマウンド上には一年生の八重村が登っている。

 まだしなやかとはいえないものの、腕の出る位置がごく低いアンダースローから放たれる独特のストレートは、バタ西の各打者を惑わすのに十分な威力を持っていた。

 三人ほどを相手にしたところで、依然その様子を見つめていた角田監督がつぶやいた。

「こいつは正反対やな……」

「南条さんと、ですか?」

 沙織も依然、ノートに記号や文字を埋め続けている。その配列は、とても最近スコアの書き方を学んだマネージャーのものとは思えないほど、きちんと整っている。

「そうや。あいつは、ちょっと内を攻めすぎや」

「そうですね……確かに。70%以上が内角です」

「そんなにか……まあ、キャッチャーのせいもあるんやろうけど」監督は、球を受けるこれも一年生の捕手道岡を、少しあきれたように見た。「八重村の長所を生かしたいのはわかるんやけど、これじゃあ皆のバッティングが狂うてまうで……」

「止めたほうが、いいんじゃないですか?」

「そやな。そろそろ止めるべきやな」

 角田監督はゆっくりと立ち上がり、道岡にその旨を伝えにいった。

 沙織はいったんノートから手を離し、ブルペンで投げ込みを続けている南条のほうに目を向けた。

 ブルペンでは、十分に内と外の投げ分けができているように見受けられる。

 沙織は、角田監督が指示を終わって帰ってくるまで、その様子に視線を注ぎ続けていた。

 

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