崩壊 

 

試合前、今日のオーダーが角田監督の口から発表されたとき、南条は自身の内にざわっ、とした電流が駆け抜けるのをはっきりと感じた。

 六番サード金田貴史。

 監督がしたり顔で口にしたこの一文は、もちろん他の部員たちの間にも様々な波乱をもたらした。春の甲子園以降初の実戦となるこの試合で、いきなり一年生がレギュラーに。しかも、甲子園では中軸を打った中津川さんよりその打順は上。

 しかしそういった客観的な騒乱とは何か違う、もっと本質的な不安を南条は一身に受けていた。

 その後特別に五人の投手が監督のもとに呼び出され、今日はイニングを限定して継投させることが告げられた。もとより監督は、投手は投手の役割のみを考えて起用する、という方針のようだった。

 だがそれを聞いても、なぜか南条の心は完全な平静を取り戻せなかった。

 そこで、南条は逆の考え方を展開してみた。監督がこのような采配をするのは、つまり自分たちを投手として信頼してくれているからなのだ、と。この発想は、南条にとって一時の鎮静剤となり、さらに興奮剤となった。

 

 試合直前の挨拶のあと、南条は今日の評価を左右する自身の右手を目の前に広げ、その血色が失われるほど、強く握り締めていた。

 

 さて、話は試合中に戻る。

 右打席には、七番ショートの内和がバットを短く持って構えている。この選手とも、南条は中学時代に同じチームでプレイしていた。その頃の記憶から、内和の打撃の弱点を引っ張り出すことを試みたが……しばらく頭の中を整理してみても、一片の情報も引き出せなかった。

 元から、内和は打撃面でそう目立った能力を見せる選手ではなかったので、打撃についての印象はあまり残っていない。加えて二年間と言う、青年にとっては長すぎる時間が記憶の召喚を妨げている。

 南条は試みを諦めて、素直に藤谷さんからのサインを覗き込んだ。

 軽くうなずいて、オーバースローから第一球目。

「シューーーーーー・・・・・・・・バンッ!」

 やや内側に入ったが、直球はきちんと外角へと決まりストライク。

 球は十分に走っている。

 初球に納得した南条は白球の感触を確かめ、第二球目の指示を確認する。

 内側にひねった右腕を、ボールが離れる直前に鋭くひねる。

「シューーーーーーーー・・・・・・クッ・・・バンッ」

 これもほぼ、指示通りのコースへ決まった。

 早くもカウントは2−0。

 先ほどから、内和はスイングする気配を見せていない。まずは様子を見ているのか、それとも狙い球を絞っているのか。

 そう考えている間にも、藤谷さんは第三球目のサインを送ってくる。

 外角高め、ストレートをボール球に。いつものオーソドックスな配球だ。今日の登板は長くても三イニングだ。勝負を急ぐ必要はない。

 南条はボール球を、できるだけ真剣な様子を見せて投げ込んだ。

 カウントは2−1。依然、内和は動かない。

 そろそろ決めるカウントだ。南条はボールを握った右手に少し力を加え、藤谷さんのサインを確認する。

 高めのストレート。

 内角。

 快調に飛ばしていた南条の心象に、素早く影がよぎった。

 「あのデッドボール」以来、南条はまともに内角の球を投げることができない。そのことは幾度かの実戦打撃を経て、藤谷さんも十分に知っているはずだ。

 その内角球を、こんな重要な場面で……

 一瞬、南条には首を振って別の球を要求しようか、という考えも浮かんだ。しかしこれは、藤谷さんがあえて課してきている試練なのかもしれない。

 とりあえず、投げてみよう。南条は思いっきり右側によった藤谷さんの体とミットを見つめ、意識を集中させた。

 大きく振りかぶり、足を上げる。

 左足を踏み込んだ瞬間、故意的に右半身に重心をかける。

 ボールをリリースする瞬間まで、南条の思考は「内角に投げ込む」というただ一つの想念だけを繰り返していた。

 はずだった。

 またしても意思に反して、南条の体全体が一塁方向に寄っていった。

 妙な回転のかかった力のない球が、真ん中高めのコースに漂っていく。

 いくら下位打線の打者といっても、内和はそれを見逃さなかった。

「カンッ」

 内和のバットが、小さくまとまった軌道を鋭く通り抜けた。小気味のいい音がグラウンドに響く。

 球は強く弾き返されたが、今回は南条にツキが向いていた。

 打球は二塁と三塁のちょうど中間あたりを飛行し、ショートの新月のミットへ勢いよく収まった。

 

 

「どうだ?南条の球は?」

 打ち取られてベンチへ戻ってきた内和に、高村がたずねた。内和には特に悔しそうな顔も見せず、平然とした様子でバッティンググラブを外している。

「速いことは速い。でも、それだけだ」

「……って言われても、こっちにはよくわからないぞ」

 それはそうだ。スピードが速いかどうかなどということは、外から見ていても大方察しはつく。高村は改めて、内和の顔を覗き込んだ。

「なんというかな、そう、球がシュート回転してるっていうかな。一球目の外角ストレートとかもそうだし、俺が打った三球目なんかは特にひどかった」

「ふーん。球の回転か……あいつの唯一の長所だったんだけどな、そこは」

 中学時代、同世代の二人のライバル投手に対して、南条がリードを取っていたのはただその一点だけだった。スピードとキレでは、現在は相模信和高校でエースを務めている枚岡に遠く及ばない。球の重さと威力では、現在樟葉丘高校で投手として活躍している楠木に大きく劣る。

 その中で南条は、回転がきれいでほとんどぶれることのないストレートを武器に二人と勝負していたのだが……それがなくなってしまったら、いったい何が残ると言うのだろう?

「まあ、仮に球の回転が整っているとしても、それはそれで打ちやすい球なんだろうけど。さっきまで散々、あの土方って投手のムービングファストに苦しめられてきたからな」

「確かにな……球の軌道がどう来るか、手元に来るまでほとんどわからなかったもんな。でも内っちゃん、南条だってきちっとコントロールされた球を投げれば、それなりにいけるはずなんじゃない?」

「まあ俺も、高校生になった南条には結構成長を期待してたんだがな……残念だ」

 内和は、マウンド上でカウントを1−3と乱している南条に目を向け、嘆息した。

「まだ残念かどうかは決まってないだろ。実際、内っちゃんもアウトを取られたんだし」

「それはそうだけどな。でも、じきに打たれるさ」

 内和がそう予測の言葉を発したのと、金属バットの軽快な打球音がグラウンドに鳴り響いたのは、ほぼ同じタイミングだった。

 昭成ベンチの二人の視線は、レフト方向へと移る。

 その先では、転々と跳ねる白球が左翼手によって捕球されていた。

 ほらな、と言わんばかりに、内和は高村に軽く目配せをした。

 

 打者の内和にもわかるほどに、南条のストレートは切れを失っていた。その球をじかに受けている藤谷さんが、異常に気づかないはずもない。

 相変わらず、内角の球を指示すると南条は動揺してしまう。いや、変に意識を働かせているためか、その乱れ具合は練習のときよりさらにひどくなっている。フォームもリリースポイントも、目も当てられないほどにバラバラになってしまう。

 一方、安全に勝負しようと外角の球を指示すれば、今度は逆に真ん中寄りの甘いコースに入ってしまう。投手が連打を浴びる際に現れる、最もたちの悪い現象。そのうえ悪いことに、南条自身は外角の球には異常を感じていないようだった。内角の球を投げた後には必ず傾く首が、外角の球を投げた後に動くことはない。

 南条の武器であるストレートが、威力を発揮しない。持ち球のカーブもフォークも、決め球にするには迫力に欠けている。

 ワンアウト一塁。カウントは2−3。まだ四回の表と言うことで、何も知らない人が見れば別に怖くもない場面だ、と言うかも知れない。

 しかし当の藤谷さんは困惑しきっていた。ただ、この場面の一打を恐れているのではない。この先にある幾人ものバッターをどう抑えていくか、その道行きが全く闇に閉ざされているのだ。

 それでも南条君は、ボールを投げなければいけない。

 藤谷さんは、最も長打を浴びる確率が低い球――その分、打者が戸惑う可能性も低い――を第六球目の球種に選んだ。

 外角低めのストレート。

 南条が、セットボジションから右腕を振り下ろす。

「シューーーーーー・・・・・・・・バンッ!」

 九番打者は、見逃してくれた。

 代わりに、審判の手も上がらない。

 フォアボール。これでランナーは一塁、二塁。

 このまま投げさせてもいいように打たれるだけだ。実戦に臨むには、今の南条君の状態は悪すぎる。普段の練習の中できちんと調整してから、またの機会に登板させても何も問題はないはずだ。

 藤谷さんは南条の交代を促す意思を込め、ベンチの角田監督へマスクを向けた。

 しかし、角田監督はその意図を察したのか、首を左右に振って見せた。

 自分で乗り越えろ、ということか。

 幾度となく角田監督の口から出た言葉を、藤谷さんは心の中で反すうした。

 しかし、乗り越えろと言っても、その力がないのだからどうしようもないではないか……

 藤谷さんは絶望に飲み込まれそうになりながら、静かに打席へと入ってくる一番打者高村を観察した。

 

 

 マウンド上の南条は、自身の中で初めて、藤谷さんに怒りをぶつけていた。

 内角の球の調子が悪いのは、前から誰の目にも明らかなことだ。わざわざこの場面で投げれば、打たれるのは当たり前だ。

 なぜそんな球を、何度も、重要なカウントで指示してくるのだろう。

 と言った感じで南条は藤谷さんにさすような視線を送り続けていた。はっきり言って、これは完全に八つたりだ。

 だが、そんな当たり前の戒めも頭に浮かばないほど、その時の南条は窮地に追い込まれていた。二人のランナーを背負っている場面で、左打席に現れたのは俊足の高村。ただ足が速いだけではない。この選手の巧妙な打撃も、南条は中学時代の練習で十分に体験している……

 川端西のバッテリーは、この時点で完全に力を失っていた。

 藤谷さんが、高村への初球のサインを出す。

 内角のストレート。

 またか。いい加減にしてくれよ。

 南条は不当な怒りをさらに燃え上がらせている。

 もういい加減に、きちんと投げてくださいよ。

 藤谷さんは、いまだに立ち直れない南条に対して、だんだん苛立ちを募らせている。

 そんな最悪の状況の中、南条がセットポジションから白球を投げ込んだ。

 その途中、南条はフォームのバランスがいびつに歪んだことを自覚した。

「シューーー・・・・・・」

 南条の右手からボールが離れてすぐに、藤谷さんはあわてて立ち上がった。

 ボールがすっぽ抜けた。

 懸命に左手を伸ばし、何とか藤谷さんはミットにボールを収めた。

 南条に返球し、藤谷さんはゆっくりと座っていく。

 これが本当の試合じゃなくてよかった。

 藤谷さんは、そうやって自分に言い聞かせるより他になかった。

 左打席の高村が、またもや謎のサインを各ランナーに向けて発信している。

 非常に気になるところだが、しかし今の南条にそれを意識して投球を進める余裕はない。

 事実、南条は一塁ランナーの確認すらせずに、第二球目を投げ込んだ。

 スキだらけのモーションのさなか、二塁ランナーがスタートを切った。

「シューーーーーー・・・・」

 ここで突然、高村はバントの構えを取った。

 無防備に向かってくる棒球。

 しかし高村は、その球を南条の真正面に転がした。

 二塁ランナーが走った時点で、藤谷さんの焦りは頂点に達していたが、高村のバントを見て少し心は静まった。

 完全にゲッツー、ダブルプレーコースだ。いや、高村と言うバッターの足を考えればアウトは一つだけになるかもしれないが、それでもアウト一つで南条君への負担は幾分減るはずだ。

「セカンドです!」

 満を持して、藤谷さんはボールを手にしている南条へと指示を叫ぶ。

 だがそれを受けた南条の反応は、すこぶる遅かった。

 まず第一に、捕球への足取り自体が、いつもより明らかに重かった。そして今、南条はボールを持ったまま所在なげに左右を見渡している。

「セカンド!落ち着いて!」

「……えっ、あっ!」

 奇妙な声と共に、南条はあわてて体を回転させ、二塁ベースへと送球した。

 しかし、そのような打球処理で、ランナーを正確に刺せるはずもなかった。タイミングはギリギリだったが、少しそれた送球のせいでカバーに入った遊撃手新月は、滑り込んでくるランナーにタッチすることすら出来なかった。

 ワンアウト、満塁。

 致命的なエラーを犯した南条の額には、汗がびっしりと張り付いていた。まだ、南条の投球数は20球にも達していない。

 

「3秒9……」

 この日二回目の大ピンチに揺り動かされているベンチの片隅で、沙織がストップウォッチを片手につぶやいた。

 初回に南条から依頼された、高村の塁間タイム計測を実行しているのだ。スコアブックの片隅に、驚異の好タイムを書き付ける。しかし、少し震えた手では、空中に浮かせたノートに文字を書き込むことは難しかった。

 しかたなく、ベンチにノートを置いて筆記する。

「南条さん……」

 何とかタイムを書き終えた沙織はかすかな声で、崩れゆく投手の名をつぶやいた。

 

 その後も南条は、いったんはまった泥沼からなかなか足を抜き出せなかった。

 続く二番打者の間宮が、右中間に走者一掃の大きな二塁打を放った。これで両チームの点差は4点に広がった。

 三番打者は打ち損じたものの、四番エースの石動がセンター前ヒットを放ちまたもや確実に仕事をこなした。

 ただ、その仕事が実りを結ぶことがなかった。島田さんが、素早い捕球と正確な送球で見事に本塁に突入するランナーを刺したのだった。これでなんとか3アウトチェンジ。

 しかしベンチに帰った南条は、精神的にも肉体的にも憔悴しきっていた。それをしばらく眺めていた角田監督は、さすがにここで南条の降板を決めた。

 

 

 結論から言うと、川端西高校はこの対戦に敗れた。最終の得点は昭成が8点、川端西が2点。決着のつけ方を見ると、完敗だった、と言えるかもしれない。

 だが、全く明るい要素がなかったわけではない。

 まずは五回裏の一点。五番の具志堅が2ベースを放ち、六番の金田貴史は強烈な当たりのセカンドライナーに終わったが、七番で途中からマウンドに登板していた柴島が、執念で初得点をもぎ取った。

 普段出場機会が比較的少ない選手の活躍。これは戦力の底上げという意味で、今後のチームにとって有益な一打だったと言えるだろう。

 続いて、四人目の投手として登板した八重村の好投。アンダースローから放たれる「スネイクファング」と称するナチュラルシュートは、昭成の各打者の目を大いに狂わせた。まだまだコントロールにかなりのアラが目立っていたが、予想外の収穫に角田監督の顔は自然とほころんでいた。

 そして最近何かと、様々なところからの注目を集めている男、金田貴史。すでに高校生離れしている圧倒的な打撃力は、昭成二軍のエース石動を震撼させ、ついに「秘密兵器」を出現させるまでに追い詰めた。七回裏、もうほとんど試合の趨勢が決まりかけていた中での出来事だった。

 グラウンドにいた誰もが息を呑んだその対戦の経緯と成り行きを、少し細かく報告していくことにしよう。

 

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