今の力量

 

 金田貴史はごく普通にチームメイトと談笑していた。球場に入る前、試合前、そして試合開始後。慎ましやかな彼の表情に、異常な要素は感じられなかった。

 以前にテレビ番組の収録へ参加したときのように、周囲から神経を断ち切ろうとする気配は全くなかった。

 やっぱりあの時は別やってんな。そりゃまあ、金がかかっとるから必死にもなるか。普段からあんな状態に、なるわけないわな。新月はそう結論付け、貴史への観察を打ち切った。

 だがその結論は誤りだった。二回の裏、自らの打席の二つ前、四番の角屋さんが右打席に入ると、貴史は他の部員同様ベンチから少し乗り出していた身を引き、腰を下ろして目をつむった。

 微塵の動きも見せず、貴史はバットをひざの上に乗せて瞑想していた。ためしに新月は、

「おーい、貴史。試合中に寝たらあかんぞー!」

 少しからかい気味に話しかけてみた。しかし貴史は答える代わりに、手のひらを上げて新月の方に向けた。まるで、邪魔しないでくれ、と言うように。

 新月はただならぬ気配を感じ、それ以降貴史にかまわなかった。

 そしてそのイニングの終盤、右打席に向かって行った貴史は、見事にチーム初ヒットとなる中前安打を放ったのだった。

 

 五回の裏、貴史の打席の前に、具志堅が二塁打を放った。チーム二本目のヒットだった。

 得点圏のランナーではある。しかしすでにその回の時点で、昭成打線は五点をもぎ取っていたので、特に緊張すべき場面ではなかった。

 だが、貴史が右打席でピタリと静止して構えると、石動の表情は明らかに変化を見せた。

 二度目の対戦。昭成バッテリーは貴史に対して、回りくどく、慎重に攻めてきた。

 そこまで、非常にゆるいフォームながら早急にストライクを稼いでいく独特のテンポでバタ西打線を翻弄していたのに、昭成のバッテリーは一転してボール球を多く使い、貴史に対峙していった。

 それでも貴史は石動の球を捉えた。

 ただ、不運にもセカンドの守備範囲に飛んでしまったため、セカンドライナーという結果に終わってしまった。

 しかし昭成バッテリーは明らかに動揺した。それが、その直後の七番打者のタイムリーにつながったのかどうかは定かではない。

 

 さて、その頃ベンチでは、藤谷さんが角田監督にいくつかの疑問をぶつけていた。

「監督」

「ん?なんや?」

「あの石動って投手が、やっぱり今の昭成二軍で一番いいピッチャーなんですかね?」

 藤谷さんには似合わない歯切れの悪い質問に、角田監督は少しあきれた。

「そらそうやがな。だからエースって言われとるんやろ?」

「そうなんですけど……その割には、ストレートも変化球も、それほどすごくはないな、と思って」

「でも、お前らはその「大したことない」投手から一点取るのが精一杯や。別にエースでも、おかしくはないんちゃう?」

 監督は冗談めかして、かなり痛いところをついた。

「……今僕たちが打てないのは、あのフォームのせいだと思うんです」

 藤谷さんは二人のランナーを背負いながら投球を続ける、マウンド上の石動を指して言った。

「あの変なフォームを、もっと球が速かったり変化球がよくキレたりする選手に身につけさせれば、もっとすごい選手が出来上がると思うんですけどね。と言うことは、やっぱり今の昭成にはずば抜けた選手が不足してるんじゃないかな?と思って……」

 藤谷さんの語気はだんだん弱まり、そして最後に言葉が消えた。どうやら自分でも、何を言っているのかよく分からなくなってきたようだ。

「すごい選手が出来上がる、か。お前はまだまだ甘いな」

 そう口にする監督は少し誇らしげだった。

 常日ごろから藤谷さんには、してやられるたり作戦を先取りされたりすることが多い。ここでちょっと上手を取っておこう、という気持ちが監督にはあったのかもしれない。

「あのフォームを身につけさせればって簡単に言うけどな、あんだけ遅い動作をしながらバランスを崩さず投げよう思たら、かなり高いバランス感覚が必要やで。もし投げるところまではこぎつけたとしても、普通の投手ならボールを放す時点で体の軸がブレまくってどうにもコントロールできんようになるやろ。たぶん、あの石動って投手は、その辺の身体能力が相当ええんちゃうかな。あのフォームを操れる唯一の投手ってことで、石動はエースに指名されとるんやと思う」

 一息にしゃべりきった監督に、藤谷さんは尊敬と悔しさの入り混じった複雑な表情を向けた。

 やはり、元投手。やはり、元社会人のエースだ。

 角田監督の現役時代のビデオを見て以来、藤谷さんが監督を見る目は大きく変貌している。それでもまだまだ監督がどれほどの知識と経験を持ち合わせているか、その深度は計り知れていない。

「まあでも、お前の指摘にはなかなか鋭い面もあるねんけどな」

 少し肩を落としている藤谷さんをフォローするかのように、監督は続けた。

「確かに、天下の昭成のことや。二軍や言うても、もっとええ球を投げるやつはおるはずやもんな。あの石動って投手にはまだ何かがある、ワシはそう考えとるけど、お前もそうなんやないか?」

「ええ、はい。」

 実は藤谷さんが本当に聞きたかったのは、その点についてなのだ。よく整理しないまま質問してしまったため、そこに至るまでの過程ですっかり混乱してしまったが、いま藤谷さんは監督の答えを期待している。

「って言っても、その「何か」がなんなのか?ってところまではわからへんで」

 監督は素直に打ち明けた。

「それに、いまのうちの打線では、別に「何か」を出さんでも抑えられるやろうしな」

「それはそうですよね……わざわざ自分の手の内を明かすようなことはしてこないでしょうしね……」

 藤谷さんは少しがっかりしながら、グラウンドで三振に倒れた八番打者、刈田の姿をぼんやりと見つめた。

 

 だが、最終的に「何か」は明かされるのである。

 その舞台となる貴史の第三打席目は、七回の裏にやってきた。

 四番打者の打撃中には瞑想、そしてネクストバッターズサークルでは相手バッテリーの動きをひたすら凝視、という準備段階の後、以前の二打席よりも一層自信に満ち溢れた表情で、貴史は右打席へと入っていった。

 そこでなぜか、昭成のベンチから伝令が飛び出してきた。

 ツーアウトでランナーはなし。その時点でもう昭成はバタ西に6点差をつけており、勝負はほぼ決まったような状況になっていた。そんな中で、昭成はこの試合始めて伝令を派遣した。

 当然、バタ西の者たちは皆疑問に思った。様々な推測が飛び交ったが、伝令の内容を正確に類推できた者は一人としていなかった。

 マウンド上で伝令が発した第一声は、明らかに当事者の間でしかわかりえないものだった。

「石動、そろそろセカンドカーブを使ってみろ、とのことだ」

 石動は少し眉をひそめて答えた。

「いいのか?こんなところで使って。あと一イニングなんだけど」

「その答えも聞いてきた。あの打者に投げるということに意味がある。ちょうどいいテストだ、と監督は言っていた」

「なるほどね」

 タイムがかかっているのに依然身動き一つしない右打席の一年生を見て、石動は納得した。

「確かにあのバッターは普通じゃないけど、でも昭成の一軍にだってすごい打者はたくさんいるし、わざわざこんな見られるようなところで使わなくてもいいと思うけどな」

「一軍に、か……どうだかな」

 伝令は、石動以上に金田貴史を警戒しているようだった。

「それに、対外の実戦でも一回ぐらい投げとけ、ってことだろう。まあそういうわけで、頑張れよ」

「ああ。任せとけ」

 伝令はベンチに素早く駆け戻っていった。

「セカンドカーブ。辰城監督の遺産、か……」

 石動はごく小さな声でつぶやき、少し不安げに、ボールを握った右手を見つめた。

 

 バタ西打線が石動を攻略できない理由。それは集中力の欠落にあると、金田貴史は見ていた。

 あのゆったりしたフォームを待っているうちに、周りから余計な雑念が入り込んできてしまい、ボールが手元に来たときに瞬時の対応がとれない。

 だから、石動自体にこれと言った決め球はないのに、簡単に打ち取られてしまうのだ。

 ところが、この考えを貴史がベンチで口にすることはなかった。まだ一年生なのに、そういう進言をするのはおこがましいことで、図に乗っていると思われるかもしれない。それを貴史は恐れていたのだ。

 いざ高校野球の世界に飛び込んでみると、意外に自分の力が高いレベルにあることがわかった。だからこそ貴史は、傲慢な選手にだけにはならないように自らを厳しくいさめている。

 チームの和を保つこと、それこそが結局は、夢の舞台に立つために一番有効な方法なのだ。

 貴史のその心がけはこの上なく立派なものだ。しかし貴史はまだ、川端西高校と言うチームの性質を十分に理解していなかった。

 このチームにおいては、後輩の意見が頭ごなしに蹴られる、というような事態は存在しない。もしそういう風潮があるのなら、例えば藤谷さんなどには、今ごろ激しい嫌がらせの嵐が降りかかっていることだろう。

 ともかく貴史は、口には出さずに自分の打撃で実証して、意見を表す方針をとっていた。……残念ながら、この試合においては最後まで、その意図がチームメイトに伝わらなかったが。

 石動がゆったりと振りかぶる。

 打者を著しくいらだたせる、緩慢な動き。

 気にする必要はない。打撃とはつまるところ、投手と打者の一騎打ちだ。当の両者だけに意識を集めて、来た球を打つ。そのことだけを考えて対峙すれば、タイミングを外されることなど絶対にない。

 貴史はここでも独自の理論に基づいて、第一球目を待った。

「シューーーーーーー・・・・・・・・バンッ!」

 外角低目へのストレート。

「……ストライッ!」

 主審は少し間を空けて宣告した。

 球一つ分外れればボールと判定されるであろう、絶妙なコース。球の威力自体はそれほどでもないが、コントロールはやはりさすがだ。貴史も身動きが取れなかった。

 次は、一球外してくるはずだ。

 いままでの打席の配球を参照して、貴史は第二球目を待つ。

 外角へのゆるいカーブ。

 予想通り、バットの届かないボールゾーンに投げ込まれた。

 カウントは1−1。おそらく次も……

「シューーーーーーー・・・・・・・・バンッ!」

 ボール球だ。高めに大きく外れた。極めて慎重な攻め方だ。

 さて、そろそろストライクを稼ぎにくるはずだ。

 貴史は狙い球を絞ったが、外見は依然不動のままだ。相手に自分の決定を悟られないために。

 マウンド上の石動が腕を最大限まで伸ばし、流麗なモーションを始動させる。

 緩いテークバックから第四球目。

 狙い球は、チェンジアップ。

「シューーーーーーー・・・・・・」

 石動の右腕の振りに、少し違和感があった。

 放たれた球のスピードは、予想していたものよりも速い。

 狙いは少し外れたようだが、まだ1ストライクなので貴史はそのままスイングを続けた。

「クッ」

 ここで、白球が貴史の外側へと傾いた。

 普通の速度のカーブ。

 ここまで一球も投げられなかった球だ。

 貴史はミートを諦めたが、代わりにカットすることを試みた。

 緻密な身体感覚で、バットを体の一部のようにコントロールする。

 ここから何とか当てて……

 

「ブンッ」

「ストライーッ!」

 貴史のスイングが、空を切り裂いた。

 

 振りぬいた右腕を力なく下ろし、貴史は呆然と打席に立ち尽くした。

 いったい今、何が起こったのか?

 貴史は来た球をカットしようと――わざとバックネット方向に飛ばしてファールにしようと――して、球の軌道より下にスイングを合わせにいった、はずだった。

 そのバットの下を、ボールは通り抜けていったのだ。

 感覚が狂ったのかな。

 貴史は自分自身に空振りの原因を求めた。

 マウンド上では、すでに石動がサインを確認し終え、投球モーションに入ろうとしていた。

 あわてて貴史は構えを取った。

 狙い球を、いまのカーブに絞って。

 今日始めて、完璧に空振りをとられた球。二球続けて投げ込み、一気に三振を狙ってくる可能性は高い。

 貴史のその読みは、全く正しかった。

 

 石動の右腕から、ハーフスピードの球が放たれる。

 貴史は先ほどの球を存分に意識してスイングした。

 

「ブンッ」

「ストライッ!バラーアウト!」

 

 だが、またもや貴史のバットは、白球を捉えることができなかった。

 空振り三振。

 結果が告げられても、貴史はしばらくその場を動くことが出来なかった。

 昭成側のベンチでは、なぜか辰城監督が石動に向かってOKサインを示していた。

 

 

 打席での様子を見て、貴史はすっかり気を落としているだろうと、部員たちは予想していた。だが、ベンチに戻ってきた貴史の目は、異様な光を放っていた。

「貴史君、さっきの球ですが……」

 藤谷さんが八回表の守備につくため捕手の道具を片手にしながら、貴史に話しかけた。

 しかし貴史は答えず、逆に聞き返した。

「藤谷さん、次が八回ですよね?」

「……は?ええ、そうですけど」

「ってことは、もうあの球を打つことは出来ないでしょうね。残念です……」

 貴史はそこで初めて肩を落とした。ただ、昭成ベンチを覗きこむ目は、依然奇妙に輝いていた。

「貴史君、あの球の正体がわかったんですか?」

「いや、正確にはわからないんですけど。藤谷さんは知ってるんですか?」

「知ってると言うか、少し心当たりがあります。推測の域は出ないんですけど」

 そう付け加えながらも、藤谷さんの声には確かに自信があった。

「おそらく、今の球は一度曲がってからまた鋭く落ちた。そうでしょう?」

「……うーん……たぶん」

「もしそういう変化をしたのなら、それはおそらくセカンドカーブです。あの辰城監督が、甲子園を二度制したときに投げていた変化球です。もしかしたら、辰城監督が石動に伝授したのではないか、と思いまして」

 説明と平行して、藤谷さんの中ではある一つの疑問が解消されていた。

 なぜ、石動がエースなのか。きっと、あのフォームを操れることではなく、あのカーブを投げられることが最大の理由なのだ。後で、監督にも教えよう。

「セカンドカーブ、ですか……」

 貴史の視線は藤谷さんを振り返ることもなく、ただ昭成のベンチに固定されていた。

「もう一度、対戦したいですね。次は絶対に打てます」

 確信に満ちた声で、貴史は言い放った。

 

 

 前述の通り、その後試合は昭成高校の勝利という形で幕を閉じた。

 再び緊張に固まってお礼の挨拶に行った角屋さんを辰城監督がなだめたり、新月が早速高村に50m走の勝負を挑みにいったり(高村はなんと申し出を快諾し、勝負はとり行われた。だがほぼ同着だったので着順を肉眼判定することができず、結局引き分けと言うことで収まった)、藤谷さんがノートを片手に昭成の選手をじろじろと眺めていたため怪しまれたり、と試合後にも様々な動きはあった。

 しかし全体的には特に大きな騒乱もなく、昭成の戦士たちは去っていった。

 昭成チームを見送った後、角田監督は部員たちを集めて語りかけた。

「まあそういうわけで、皆さんお疲れさんでした。今日の試合がお前らの現時点の実力や、と考えてもらってほぼ間違いはないと思う」

 数人の部員が、顔を下に向けた。

「当然、上の昭成一軍はもっと強い。それでも最近は深紅の優勝旗から遠ざかっている。それが甲子園のレベルや。一応二年生と三年生も、春は甲子園に行ってよう頑張ってくれたけど、でもあの事はいったん忘れた方がええと思う」

 監督は選手たちの表情を一旦見渡し、続ける。

「あの時はノーマークやったし、それに初出場ってことで勢いが桁違いやった。限界以上の力がそれぞれ発揮されていたと思う。だが、それだけでは結局、頂点にたどり着く事はできん。本当に力のある物の手にしか入りえない、それが全国一の座やからな」

 部員たちは、強い視線で監督を見つめていた。

 強豪長州学院を破った。ベスト8に進出した。その事実に甘えて、今まで確かに心の中のどこかで浮かれていたのかもしれない。

「だから今年の春の事は一旦しまっておいて、高校野球を卒業した後で素晴らしい思い出として眺めて欲しい。それまでは、ひたすら自分と向き合って力を高めていくことや。それしか道はない。楽して強なる方法なんて、絶対にない」

 その言葉は、特にとある一人の選手の心に大きな効果を与えた。

 自分と向き合う。

 その選手にとって、それはまぎれもなく今の自分にとって一番重要なことで、そして限りなく困難なことに感じられた。

 ここで監督は、左手に着けている腕時計に目を落とした。

「さあ。まだ2時や。これから飯食った後、練習する時間は十分にある。存分に、今日の反省をしてくれ」

「はい!」

「よし!じゃあまずは飯だ!」

 キャプテンの角屋さんが先陣を切って叫んだ。

 再びよく揃った返事がグラウンドにこだまし、部員たちは5月5日の第二章へと走り出した。

 

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