とある選手が進んだ道
中学リトルシニアのチーム、フライヤーズのユニフォームを着用した南条は、ひたすら壁に向かって白球を投げ込んでいた。
最強とうたわれたフライヤーズの、過酷な練習をこなしたあとに行う自主トレーニング。体はひどく疲れているはずだったが、腕を振り続ける南条は苦痛を感じていなかった。
すべては、一週間後に迫った実戦打撃のために。
フライヤーズでも、レギュラーの選出や背番号の決定は、大会直前の練習成果に基づいて行われていた。そこでピッチャーである南条には、実戦打撃での登板が課されていた。
どうしても倒さなければならない男がいた。
枚岡徴(ひらおか・たもつ)。半年前の四月に、突然フライヤーズに入団し、信じられないほどの速さで台頭した投手である。
南条と同じ中学二年生であるのに、直球の威力はすでに三年生の投手たちのそれを越えていた。もっとも、当時のフライヤーズの中学三年にはこれと言った好投手がいなかった、ということもある。それにしても、枚岡の力量はずば抜けていた。
球が伸び上がる。打者の手元で、意思を持ったように、重力に反して浮き上がってくる、ように見えるのだ。
コントロールも抜群だった。ただ一つ、変化球が投げられないのは欠点だったが、その分は驚異のストレートが過剰なほどに補っていた。チーム内のほとんどの打者が、枚岡を打ち崩せなかった。
申し分ない実力。
ただ、その人柄には極めて問題があった。
いわゆる「エース型」というのだろうか。人を頭ごなしに見下すような発言や、高圧的で傲慢な態度は、様々な場面でチームメイトと衝突を起こす引き金となっていた。
しかし、同級生のうちの数人、例えば捕手の津野、内野手の内和、外野手の片桐、穴井などは、枚岡に対して友好的な態度を保ち続けた。理由はよく分からない。ただ……ここに上げたメンバーたちとは、枚岡の方からも次第に打ち解けていった。
一方、二年生の投手である南条、楠木は、チームの中での多数派に属していた。
二人が枚岡を許せなかった一番の理由は、彼の練習態度にあった。決して練習をサボることはないのだが、日によって打ち込み方にムラがありすぎた。
あるときは居残ってまで投げ込みを続けるかと思えば、ある時はほとんどケガ人と同じような軽いメニューだけをこなして帰っていく。
「天才ってのはだいたい、努力のうえに成り立っているものだ。あいつの才能は確かにすごいかもしれないけど、あれじゃあ、いつか敗れるときが来るな」
これは楠木の言である。楠木自身が、その言葉をしっかりと体験していたわけではない。楠木は、様々なドキュメンタリーやフィクションでほぼ自動的に繰り返されているこの定説を、枚岡にも適用してみただけだった。
南条もこの言葉を信じた。そして二人は、それぞれ目標を持って自主トレを始めのであった。
それから五ヶ月と三週間。南条は主に投げ込みと筋力の強化を中心として、懸命に練習を積み重ねてきた。
そして一週間前。
手ごたえは十分にあった。
――思えばこのときが、俺の人生の中で一番練習した時期だったな
――我ながら、よくやったと思うよ
――でも、結局は無駄になってしまうんだよな
……南条はなぜかそういった、状況に矛盾する想念を浮かべつつ、一球一球を確かめるように壁へ白球を撃ち込んだ。
場面は突然切り替わった。南条は皆の注視する中、フライヤーズの練習グラウンドのマウンドに立っていた。
カウントは2−1。カーブを二球続けて打者を追い込んだ。
ついさっきまで自主トレをしていたはずなのに、対戦の情報はすでに頭の中を回っている。
だが南条はその異常に気を止めることなく、そのまま投球モーションに入った。
決め球はストレート。たったの一ヶ月間とはいえ、集中的に磨いてきた球種。
ズバンッ
重い音を響かせ、白球はストライクゾーンに収まった。奪三振。
球威、速度、共に問題なし。
自己ベストは確実に更新している。それどころか、最近練習で見かける枚岡よりも、少なくともスピードは勝っているように感じられた。
死ぬ思いでやってきた練習の成果を、存分に発揮できた。
南条は思わず噴出しそうな歓喜の情を押さえ込みつつ、マウンドを降りていった。
――だめだ!安心するな!
南条の中で、ただの自戒とは違う何かが、叫び声をあげた。
歩きながら、南条はライバルの枚岡を一瞥してみた。
そこには、いつも通りの済ました顔があるだけだった。
――当たり前だ。全然驚いてなかったんだから
一塁線を越え、選手がスタンバイしているベンチ前まで南条が戻ってくると、キャッチャーの装備を一通り身に着けた津野がやってきた。
その表情には、なぜか哀れみのようなものが浮かんでいた。
「南条」
「うん?」
「あんまり、気を落とすなよ」
――そうだ、津野の言うとおりだ
津野は南条の肩に軽く手を置き、グラウンドの中に向かっていった。
次が、いよいよ枚岡の番だった。
枚岡が乱れたマウンドを、時間をかけて足でならしていく。
やがてその作業を終えると、枚岡は投球モーションに入った。
南条は不安と期待の入り混じった目でその光景を見守った。
――ここで、ここで俺の……
枚岡が、皮の鞭を打ち据えるかのように、しなやかな左腕を振り切った。
……放たれた球の威力を推し量るにはただ、対峙している打者の表情を見るだけでよかった。
打者は目を見開いたまま、微動だにしない。
当時チームの三番打者だったそのバッターにとって、それは全く珍しい反応だった。
糸を引くような直球。
使い古された比喩表現が、強烈な印象を伴って、各観衆の脳裏を素早くよぎった。ましてや、正面からボールを見つめているバッターにとって、その脅威は外から計り知れないものだっただろう。
周囲の興奮が冷めやらぬ中、枚岡は第二球目の動きを始動させた。
実戦打撃の映像はそこで途切れた。
南条は、グラウンドの外のとある木に額を押し付け、苦悶していた。
俺は精一杯努力してきた。
――とりあえず自分ではそう思っていた
少なくともあいつよりは。
――本当か?どこでそんなことがわかるんだ?
なのに、全く太刀打ちできなかった。
――俺よりはるか先のステップを、あいつは俺の何倍ものスピードで駆け上がっていた。
なんで……!
南条は痛いほどに強く、何度も歯ぎしりした。
悔しさ、焦り。そういった感情を通り越して、南条の前にはただ、絶望が悠然と横たわっていた。
――確か、この時だったんだよな
その時だった。
練習を終えた枚岡が、南条の背後から歩いてきた。
ちょうどすれ違おうとしたところで、枚岡は一旦立ち止まった。
彼は南条の顔を覗き込むこともなく、たった二言を残して、去っていった。
「あがくのはやめろ。俺とお前とじゃ、モノが違う」
――今考えれば、あいつはこれで精一杯の慰めをしたつもりだったんだろうな
氷の刃のようなこの二言が、南条の精神を縦横無尽に切り裂いた。
言葉にならないうめき声が、口端から低く漏れ出た。
込みあがってくる衝動に突き動かされ、南条は木肌に押し付けていた額を離し、そして勢いよく打ち付けた。
痛かった。
でも、そうすることによって、胸の辺りを締め付ける万力を、少しだけ緩めることが出来た。
だから、何度も打ち付けた。
何度も、何度も……
地を打ち破るかのような轟音が、南条を一挙に現実へと引き戻した。
南条はあわてて飛び起き、カーテンを勢いよく開ける。
外には黒い雲が低く垂れ込め、小粒の雨が降り注いでいた。
なんだ、雷か……
状況を理解すると、鋭く跳ね上がっていた心臓はたちどころに落ち着いていった。
その代わりに、先ほど夢の中で感じていた、胸に響く鈍い痛みが再びよみがえってきた。
あれは、記憶の最深部に沈め、重石を載せて固定しておいたはずの思い出だった。まさか、もう一度浮かび上がってくることがあるとは思いもしなかった。
あれ以来、南条はエースの座を完全に諦めた。
どんなに頑張っても、枚岡だけには追いつけない。だからほどほどに練習しよう。
そんな中途半端な気持ちを抱えながら、楠木に二番手争いを仕掛ける毎日。
当然、楠木との実力差さえも、みるみるうちに開いていった。
目先を変え、持ち前の打撃センスを生かして、中学三年の初めに、サードとしてレギュラーを獲得することが出来た。
サードをやりつつ、投手としての機会も一応狙っておこう。
しかし、そんな中途半端の決意では……
南条はここで回想を打ち切った。今の南条に、中学時代の苦い記憶を懐かしむ余裕はなかった。
ベッドから抜け出し、いつも通り顔を洗いに洗面所へ向かう。
冷水で顔面を数度はたくと少しだけ、心に打ち込まれたくさびの刺激感が、どこかに飛んでいくような気がした。
朝の雨は上がり、空は快調に晴れ間を見せている。六月とはいえ、まだ梅雨と呼ぶには少し早い。地面は少し湿ってしまったが、バタ西の選手たちは特に気にすることもなく、普段通りに練習していた。
西東京地区の強豪、昭成高校との練習試合からすでに一ヶ月が経っていた。あの試合から今日まで、バタ西は例年よりはるかに早急なペースで、他校との練習試合をこなしていた。
まず手始めに五月の上旬、陽陵学園と試合を行った。かなり均衡した試合ではあったが、結局バタ西が4−3と一点差で逃げ切り勝利を収めた。その後も、こちらが出向いたり、相手が訪ねてきたりで、陽陵戦も含めてここまで総計四試合を戦っている。
そして近いうちに、とある高校が遠征に赴いてくる。学校名は、将星高校。
初めてその名前を耳にしたとき、何人かの部員は「またやるの?」というような反応を返した。
彼らは漢字で校名を示されて初めて、やっと違いに気づいたが……しかしその高校の存在を知る物は誰もいなかった。
バタ西の頭脳、藤谷さんでさえも未調査の高校だという。「なんとなく、嫌な予感がしますね……」と、藤谷さんは肩を落としてつぶやいていた。まあこの人は、自分の知らない範囲のことに関しては過剰なほどに恐れてしまう、困った性分の持ち主でもあるのだが。
さて、グラウンドでは、キャプテン角屋さんによるノックが行われている。
相変わらず守備範囲が抜群に広いセンターの島田さん、努力はしているがなかなかイージーミスを克服できないショートの新月、いまだに突出して巧みなグラブさばきを見せるセカンドの刈田。
こうしたおなじみのレギュラーメンバーに加えて、暫定の控えメンバーも交代でそれぞれのポジションを担当していた。
いつものノック。いつもの練習風景。
しかし、ただ一点だけ妙なズレが見られた。
レフトに南条がいる。
外野を守った経験はそう多くないはずなのに、南条は意外と無難に打球を処理していた。強肩を生かした返球も冴えている。
なかなかうまい。
だが、なぜ?
南条がいつもの守備位置を平然と通り過ぎ、数十メートル後ろのポジションで静止したときから、部員たちの心中には当然、違和感が生じていた。
試しに理由を問いただしてみても、南条は「ええ、まあ」とか「うん。ちょっと」などと、あいまいな返事を返すだけ。
疑問は全く解消されなかったが、しかし今は練習中である。いつまでも懸念しているわけにも行かない。
部員達の注意は時間と共に、角屋さんの放つ打球のみに向けられていった。
その中で一人だけ、南条の動きを静かに凝視している三年生がいた。とはいえ、自身がノックを受ける順番が来れば、彼は即座に打球へと注意を移す。だがそれが終わると、再び南条に興味深げな視線を送る。その繰り返しだった。
レフトではこのように少し波風が立っていたものの、グラウンド全体としてはごく平穏に、通常通りの練習が進められていった。
ノックが終わり、束の間の休憩時間へと入る。
南条は、誰かに改めて質問されるだろうか、と思いながら外野グラウンドを去ろうとしていた。
「おう、南条。調子はどうだ?」
フェンスまで続く三塁線を越えたあたりで、南条は背後から声をかけられた。
振り向くと、そこには中津川さんがいた。
先ほどのノックの間じゅう、南条のほうを見続けていたのはこの人だ。少し不気味に思いながらも、南条はつとめて普通に、
「ええ。まあまあです」
「嘘つけ。本当にまあまあだったら、レフトなんか守ってるはずないだろ」
中津川さんの顔が、突然真剣になった。一瞬、南条は不意に足払いを喰らったような気がして、すっかり固まってしまった。
「……なんてな。ごめんごめん。ちょっと言ってみただけだ」
「……いえ、中津川さんが言った通りです。最近ちょっと……」
南条はその足を止めていた。何となく、歩き続けることが逃げることのように思えていた。
「お前も」少しの沈黙の後、中津川さんが言葉を継いだ。「俺と同じ道を行くのか?」
「……え?」
「いや、何となくそう見えてな」
しばらく南条は考え込んだ。
中津川さんと同じ道。投手を諦め、レフトへと進む道。
後に中津川さんが残した役割を、南条は渡された。その時中津川さんは、「お前なら堂々と、胸を張って背番号1を背負うことができる」と言って南条に道を託した。それは、中津川さんが自らの壁に苦しんで、苦しみ抜いた末に、生みだした結論だったはずだ。
その道を、南条は確かに今、自分の一存で捨てようとしているのかもしれない。
「すみません……」
自然と、南条の口からこの言葉が出ていた。
「おいおい、謝るなよ。なんか俺が悪いみたいじゃないか……いや、俺が悪いな。人が必死でもがいているところへ、わざわざ追い討ちを掛けにいったんだからな」
中津川さんは本当に困ったような表情でそう言った。それを見て、南条は再び申し訳ない気持ちに包まれていった。
「いえ、そんなことはないですけど……」
「……なあ、ちょっと外出て話さないか?」
「いや、でも……」
「大丈夫だって。後で俺が角屋に謝っとくからさ。無理やり連れ出した、って」
「はぁ……」
南条はなんとも歯切れの悪い返答をしたが、それを振り切るかのように中津川さんは南条の腕を強く引っ張り、二人はグラウンドの外へと向かっていった。
グラウンドの外半分を囲むように走っている溝。その縁に、二人は腰を下ろした。
「たぶんさ、人の問題だから、うん。変に突っ込むのも悪いんだけど……」
中津川さんは、少し言葉に迷いながら前置いた。
「俺がピッチャーを代わってもらって、お前もたぶんその気になって、これからやるぞって時に土方が戻ってきて。そこから少しずつ、何かおかしくなっていったんじゃないか?」
「そう、ですね……」南条は答えにくそうに口を開いた。「あの時はただがむしゃらに練習してて、甲子園に行ってからは特に周りがよく見えなかったんですけど……たぶんそうだと思います。土方さんが入ってきてから……」
「いや、俺は土方が戻ってきたのが悪い、って言ってるんじゃないぞ」
ひどくあわてて、中津川さんは言った。
「ただな、あいつがまさか戻ってくるなんて思いもしなかったし――南条は人から聞いたことしか知らないけど、土方の荒れ方は本当にひどかったからな――、一年生の頃から能力は高かったけど、まさかこんなに早く野球のカンを取り戻せるなんてな。何ヶ月かで、いきなり甲子園の注目選手だもんな。……やっぱりさ、素質だよな。何事も」
中津川さんはいったん語を切り、少し遠くに目をやった。
南条はただ、黙然としていた。以前なら、「土方さんはものすごい頑張っていた」などと定型句を返しているところだろうが……今の南条には、どうしてもその言葉を持ち出すことが出来なかった。
「でも、南条はその分、元のサードで――なのかな?とりあえず高校の最初はサードだったからな――レギュラーを勝ち取った。そこに、あいつが入部してきた」
中津川さんは振り返って、グラウンドの中に目を向けた。フェンス越しに、黙々と正確なトスバッティングを行っているその男が見えた。
「本当は、あれだけの戦力が入ってきたら、喜ばなきゃいけないところなんだろうけどな。正直、微妙だろ?」
その問いに、南条は答えなかった。
不意に、グラウンドと溝にはさまれた小道を、複数の生徒が駆け抜けていった。
中津川さんは一瞬野球部員が来たと思って、いろいろと言い訳を考えてしまったが、他のクラブの部員だとわかると、安心して言葉を続けた。
「……世の中さ、何が本当に嬉しいことで、何が本当に苦しいことなのかわからないよな、本人にしかさ。本人以外には、絶対わからない。そうだろ?」
「……はい……」
一応南条は答えておいたが、中津川さんの真意は読み取れなかった。
「そうだよな。次期エースの座を約束された高校球児。普通に考えたら、ここまでオイシイ立場なんて、そうそうないもんな。まあ、これは俺の場合なんだけど」
中津川さんは、ここから話の方向を変えていった。
「俺ばっかり一方的に詮索してたら悪いから、俺もちょっと昔の話をしようと思うんだけど。いいか?」
「ええ」
外に出てきてから始めて、南条は中津川さんに明瞭な声で答えた。
「俺は、元々野球少年じゃなかったんだ」
少し意外な切り出しから、中津川さんの話は始まった。
「小学校の時は遊びでやる程度で、中学校の時はバスケやってて……まあ、いろいろあって、中三から野球部に入ったんだけどな。びっくりしたよ。いざ入ってみると、俺が一番早い球を投げられたんだ。たちまちエースになって、あの時は本当に有頂天だった。……馬鹿みたいにな」
そう言うと、中津川さんは自嘲気味に笑った。
「まあそういうわけで、ここの野球部に入部したときも、迷いなく投手を志望した。運よくというか運悪くというか、その時も同じ学年の中では俺が一番速い球を投げれてて、いま思い出すと死ぬほど恥ずかしいんだけど……二年後に、絶対このチームを甲子園に連れて行く、とか周りにほざいてた。でも……」
南条もすでに、中津川さんの話に聞き入っていた。その先に、何か自分のために用意された糸口があるような気がしていた。
「入部して一ヶ月ぐらいして、始めて先輩たちの球を見たとき、俺は自分が完全にうぬぼれてたことに気づいたよ。だってさ、すごかったもんな、谷嶋さんとか、木田さんとか」
「そうですね……」
南条は答えながら、かつてバタ西の二枚看板といわれた男たちの映像を頭に浮かべた。
「こんなこと言ったら失礼なんだけど、谷嶋さんのならそのうち、俺でも越えられるかもしれないとか思ってた。でも、木田さんはな……格が違うもんな。ストレートは恐ろしくキレるし、スライダーなんかバッターが空振りしてから体に当たるぐらいよく曲がるし……そんな二人がいても、甲子園にはなかなか行けない。それが高校野球のレベルだ。もちろん、日が経つごとに俺はその恐ろしさがわかってきて……それでも球はぜんぜん速くならなくて……そのまま、一番俺が恐れていた日がやってきた。先輩たちの引退の日だ」
中津川さんの声の調子は、だんだんと落ちてきていた。
「本当に、その時はどこかに失踪したいと思ってたよ。その日から、俺は一人で巨大な怪物と戦っていかなきゃならなくなるんだから。まともに戦えるわけないのにな。そこまでの一年半で、骨身にしみるぐらいわかってた」
ここで、中津川さんは軽く天を仰いだ。
「あの頃な、よく夢を見たんだ。いつの間にか、何の脈絡もなく、俺はだれにも知られてないどこかの国で、のんびりと暮らしてる。それだけの夢だけど、見ている間は本当に幸せだった。でも、目が覚めると、俺はもちろん日本の川端市にいる。さっさと起き上がって、学校行って、大して上手くなりもしないのに練習しなくちゃならない。そういう毎日だったな……」
再び、二人の背後をどこかのクラブの部員が走っていった。だが今度は、二人とも振り向こうとしない。
「そんな中、お前がマウンドに登ったんだ。今でも日付は覚えてるよ。去年の9月27日、秋季大会の三回戦、相手は陽陵学園だったな。それで、俺はお前に投手をやってもらうことにした。逃げたんだ、要するに。俺は逃げたんだ」
「そんな……」
南条はそう言うのが精一杯だった。どんな慰めの言葉も、中津川さんの過去の前にはただ空しく消えゆくだけだと思った。
「逃げた後は楽しかったさ。いや、今も楽しいよ。レフトでレギュラーになれて、甲子園のグラウンドにも立てて、次の大会ではどうなるかわからないけど、それでも野球部に来るのがものすごく楽しい」
そう語る中津川さんの顔は、確かに穏やかに彩られていた。
「……って、南条、すまんな。「おあいこにする」とか言っときながら、勝手にヘラヘラ喋って……」
「……いえ、別に……」
「本当にすまん。でもな、南条、これだけは言っておきたいんだけど、あんまり自分を追い詰めすぎるなよ」
中津川さんは、改めて南条に正対して言った。
「あの時投手を諦めたことを、俺はそんなに後悔していない。たまに、『もうちょっと頑張れたんじゃないか』とか思うときもあるけど、でも今、本当に野球を楽しめている事は確かだ。だから……な、そういうことだ」
「はい……」
進むのも道、逃げるのも道、か。
南条は中津川さんの言葉をそう受け取った。
確かに、それは南条の心を軽くしてくれそうなメッセージだった。
だが……なぜか、南条はそのメッセージをそのままそっくり受け取ることが出来なかった。どこかで、何かが、南条の退路を厳然と防ごうとしているのだ。
二人がグラウンドを抜けてから、もうかなりの時間が経っていた。おそらく今頃、気づいているとすれば、角屋さんはかなり怒っているだろう。
「……あ、でもな、南条」中津川さんが沈黙を破った。「俺のさ、本当に個人的な意見なんだけど……お前は、俺の後を行くにはまだちょっと早いと思う。もう少し、何とかなるんじゃないか、ってな」
「もう少し、ですか……?」
「うん。南条ならもっと……いや、ごめん。こんなことを周りから勝手に決められるのが、本人にとっちゃ一番嫌なことなんだよな。俺が昔そうだったからな。「もっとリリースを意識すれば」とか「もっと軸を固定すれば」とか……あ、しまった。また暗くなってきた」
「いや、何か、かなり参考になりました。ありがとうございます」
「うん。そうか。本当にすまんな、長い間ぐだぐだと喋って。……いけねえ、そろそろ戻らないと」
「……あ、そうですね」
二人はほぼ同時に立ち上がり、急いでグラウンドの中へと駆けていった。
軽く走りながら、南条は中津川さんの言葉について考えていた。
でもやはり、中津川さんが最後に言ったように、今はまだ諦めるには早すぎる気がした。
なぜだかはわからない。でも、せめて最後に何かを越えようとするまで、諦めるわけには行かないと思った。
「何か」が何なのかもわからない。考えれば考えるほど、その正体は闇へとかすんでいった。
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