カウンターパンチ

 

 夏の新島県予選まで、あと一週間。いや、正確に言えば、抽選の関係でバタ西は一回戦を免除されているため、あと8日間だ。どちらにしても、大会は目の前に迫っている。

 すべての部員がベンチ前に集められていた。直立不動で、角田監督の登場を待っている。

 いつものように、監督は予定時刻を守っていない。これは悪い癖なのだろうか、それともわざとじらしているのだろうか。

 さすがに緊張に耐え切れなくなってきた部員達の中から、少しずつざわめきが広がり始めたころ、ようやく目的の人物がのっそりと姿を現した。

「いやー、すまんすまん。ギリギリまで迷ってて、ちょっとさっきも微妙に調整しててな」

 角田監督の口調は、謝意のかけらさえ感じられないほど朗らかなものだった。

 しかし部員達の注意は、監督の遅刻に対する憤りよりも、明らかに後半のセリフの内容へ向けられていた。

 「ギリギリまで迷った」。「微妙に調整した」。

 まさか、その際に自分がベンチへ入れられたのではないか。また逆に、外されたのではないか。

 多くの部員たちが緊張する中、角田監督は手元の様子を見つつおもむろに喋り始めた。

「えー、というわけで、背番号を発表します。二年生、三年生はもう十分に知ってると思うけど、ワシの人選はとにかく実力重視や。一点でも他より秀でていたり、たとえ短所が目立ってても長所がチームに貢献しそうなメンバーやったらワシは起用する」

 実際、去年の夏には、南条、刈田、新月の三人が一年生ながらベンチ入りメンバーに選ばれている。

 全体的な能力のバランスで見れば、この三人より勝っていたベンチ外の先輩もいた。しかし角田監督は、あくまでも実戦主義でこの三人を選び、大会ではピンポイント起用を中心に活躍させていた。

「だから、奇抜な人選やと思うやつもおるかも知れんけどな。でもこれは決定事項や。何か依存があっても今は騒がず、あとでワシに個人的に聞きに来てくれ。ええな?」

「はい!」

 基本的に全ての部員が納得して返事をしたが、一部の一年生達にとってはやはり新鮮な考え方だったようだ。何やら私語を交わしている選手たちも所々で見られた。

「それでは、呼ばれたものは返事して前に出るように。1番 土方!」

「はい!」

「2番 藤谷」

「はい」

「3番 具志堅」

「はい!」

「4番 刈田」

「あ、はい!」

 やはり本人の中で不安はぬぐいきれていなかったようだ。刈田は満面の喜びを顔に浮かべ、勢いよく前方に駆け出した。

 そして、問題の番号がやってきた。

 背番号5。それはサードのスタメンを意味する。固唾を呑んで、部員たちは監督の次の言葉を待った。

 その雰囲気を受けてか、監督も発表を心持ち遅らせた。

「では、5番……金田」

「……はい」

 金田貴史はごく静かに、しかし芯の通った声と共に部員達の前に進み出た。

 一年生が、夏の大会のレギュラーに。

 四年前の川端西野球部「再建設」以来、初めての出来事だ。

 にもかかわらず、部員達に動揺はほとんどなかった。いや、ここまでの三ヶ月あまりを振り返れば、むしろそうならないほうがおかしい、という考えさえ部員たちは持っていた。ただ、それを口に出す者は誰もいなかった。

「6番 新月」

「……はい」

 普段の様子からは考えられないほど、新月は慎重な返事をした。

 全ての、どんな小さい「イベント」にも心血を注ぐこの男の、しんみりとした動作。

 今、表面では平静を装っていても、確実な落胆に襲われている男にとって、その配慮を素直に受け止める事は難しかった。気を使ってくれているのはありがたいが、それを思えば思うほど、たまらない痛みが突き上げてくる。

 しかし発表は進められていく。

「7番 中津川」

「はい!」

「8番 島田」

「は、はい!うおっしゃっ!」

「こらこら。騒ぐな。まったく……続けるで。9番 角屋」

「はい!」

 最後の夏も、キャプテンはきっちりとレギュラーに食い込んできた。

 ここまでは、やや波乱はあったものの、客観的に見ればごく順当な人選だと言える。

 どの部員もいまいち見当がつきかねているのは、次の10番だ。

 背番号10。多くの場合、この番号は二番手投手が背負う。まあ、あくまでも「多くの場合」なので、もちろんそうとも限らないわけだが、どのチームにおいても重要な選手に与えられる番号であることに違いはない。

 少しだけ散り始めていた部員達の意識が、再び角田監督に戻る。

 監督は一瞬息を呑んで、おもむろに口を開いた。

「10番……八重村」

「………えっ!」

「八重村が背番号10や。聞こえへんかったか?」

「あ、はい!」

 ハトが豆鉄砲を食らったような、とはよく表現したものだ。八重村は目を見開き、あたりをきょろきょろと見渡しながら前に進み出た。

 誰も、予想だにしなかった展開だった。

 ただ、よくよく考えてみると、八重村はここ最近の練習試合などで、独特のシュートするクセ球を武器に多くの打者を惑わせている。まだまだ他の部分で未完成なところは多いものの、あのクセ球はチームにとっても大きな武器になる。打者の目をいったん狂わせれば、後を受けた他の投手も投げやすくなるからだ。

 また、あえて10番という重い背番号を背負わせることによって相手に過剰な警戒心を抱かせ、クセ球の驚きをさらに増加させる、という意図も、監督にはあったのかもしれない。

 だが、この発表に一番の衝撃を受けていた男――曲がりなりにも春の甲子園では二番手投手として活躍した選手――に、そこまでのことを考える余裕は残されていなかった。

 そのまま追い討ちをかけるかのように、監督は次々に、別の選手の名を呼んでいく。

「11番 柴島」

「はい!」

「12番 林部」

「はい!」

「13番 後藤」

「え、あ、はい!」

「14番 山江」

 いつまでたっても、出てこない。限りなく流れていく時間に、取り残される恐怖。

 いや、実際のところ四つの番号の発表に費やした時間はせいぜい30秒前後なのだが、それでも彼にとっては、あまりにも残酷な仕打ちに感じられた。

「15番 今尾」

 ここに来て、焦燥はついに頂点に達した。

 まさか、このまま……いや、それはたぶんないはずだ、でも……

 肯定と否定の混沌が、彼の頭を荒々しく駆け巡った。

「16番 南条」

 とりあえず、背番号は与えられた。

 その名を口に出すと、監督はいったん用紙から目を離し、当人の姿を鋭く射抜いた。

「……はい」

 依然、監督の視線は動かない。何も言いはしないが、その目は明らかに「きちんと歩け」と指示を送っていた。

 南条はしかし、どうしても自らを奮い起こすことができなかった。

 皆の目が、哀れみを持って、みじめに歩みを進める自分に向けられているような気がしていた。

 本当のところは、たぶんそんな事はないのだが……

 50人以上の中から、たった18人の選手だけに与えられる背番号。それを勝ち取れただけでも、十分満足すべきことだ。

 この時の南条が、そう自分をなだめるには、幾分かの時間が必要だった。

「じゃあ、残るはあと二人やな」

 監督はごく事務的に発表を続行する。

「17番 道岡」

「……は、はい?」

 一応返事はしているものの腑に落ちない様子で、道岡は立ち上がったまましばらく静止していた。

「質問があったらあとで個人的に。初めに言うたやろ?」

「す、すいません」

「ほんなら、最後やな。18番は、板橋」

「………えっ、は、はい!」

「ああ、もう。いちいちそんなにビクビクすなよ。選ばんかったほうがよかったか……」

「い、いや!そんなことはないです!」

 板橋は必死でかぶりを振った。二段階の不意打ちをくらって、彼の挙動からはすっかり平静さが消し飛んでいた。

「冗談やがな。冗談。まあ、ってことでな。背番号はこんな感じや。大会まで一週間か。泣いても笑っても、これからが最終調整や。あんまり日はないけど、しっかり自分の課題を乗り越えていって、悔いのない戦いを出来るようにしてくれ。以上。解散!」

 はい、と返事の言葉は共有していたが、語気はそれぞれの心情をしっかりと反映していた。

 照りつける太陽の下、役者が揃った。

 様々な思惑を抱えながら、チームはいよいよ疾走体制へと入る……

 

 

 浮かれた足取りで、道岡と板橋はランニングに出ていた。

 立っているだけでも暑いこの時期に行うランニング。体力づくりに不可欠な、もっとも基本の練習ではあるが、十分注意を払わないと体を害してしまう恐れもある。

 しかしこの時の二人は、そんな懸念などまったく抱かず、ただ喜びに突き動かされて走っていた。

「うぉっし!」

 道岡が、この日何度かわからない叫び声を上げた。

「おいおい、あんまり声出すとバテるぞ」

 板橋は一応諭しておいたが、彼の表情も抑えきれない歓喜に支配されていた。

「そうは思うけど……自然と出るんだよ。仕方ねーだろ」

「まあ、そうだよなぁ。まさか、番号もらえるとは思わなかったもんな」

 二人は深くうなずいたが、この人選にまったく根拠がないわけではない。

 板橋は入部テストで見せた高い走力を、練習や実戦でも遺憾なく発揮しているし、道岡は今のチームで唯一、藤谷さん以外で土方さんの球を受けられるキャッチャーだ。

 ただし、キャッチング技術がまだまだ伴っていないせいで、100球も受ければ体はボロボロになってしまうが……翌日にはケロッとして練習に帰ってくる強靭さを備えているので、大きな心配はいらない。

 そういうわけで二人とも、限られた枠の中に入るだけの価値は十分に持っている。

「まあでも、俺らは完全に予想外だったけど、貴史は妥当、って感じだよな」

「そうだなー。あいつはまあ、やっぱちょっと違うから。高校でもここまで通用するとは、さすがに俺も思わなかったけど」

 道岡は少し走るペースを緩めながら、しみじみとつぶやいた。

「八重村も入るとは思ってたけどさ、10番って……ほとんど、出場は確定だろ」

「それも並み居る投手陣の中で、だからな。ある意味、貴史よりすごいかも知れないぜ」

「並み居る、か……こんなこと言ったら悪いんだけどさ」

 板橋は少しあたりを警戒し、声のトーンを落とした。

「正直、最近どのピッチャーもパッとしなかったからな」

「ま、まあな。実際のところ、土方さん、八重村、の順って感じだもんな。最近の様子を見る限り」

 ごく素直に、道岡も同意した。

 とにかく、二人は夏の予選に出場できる。興奮冷めやらぬまま、二人はランニングを続けた。

 

 

 

 ベンチに並び、スパイクを磨いて小休止。

 ここでは三年生の二人が、お互いの喜びを共有していた。

「やっぱり、何度なっても嬉しいよな。レギュラーは」

 角屋さんが靴ひもを調整しつつ、島田さんに語りかけた。

「そりゃそうだよ。ベンチの中と外じゃ、天地の差だもんな」

「ベンチの中と、グラウンドの中、だ」

 なぜか真剣な口調で、角屋さんは揚げ足を取った。

「そんな細かいこと、いちいち気にしなくても」

「ベンチの外で、悔しさをかみ殺してるやつだっているんだ。ちゃんと気をつけないと」

「そうだな……三年間、結局スタンドで応援するだけだったやつも、何人かいるからな……」

 島田さんはうなだれ、自らの言葉を反省した。

「そういや俺らってさ、二年の夏からずっとスタメンやらしてもらってるよな」

「ああ。島田はセンター、俺はライトで。……そうか。考えてみれば、これってものすごくラッキーなことなんだよな」

「うん。でさ、俺、時々思うんだけど」

 島田さんはスパイクを履きなおして間を取った。

「こんなにスルッと行ってしまっていいのか?って」

「それは……スタメンで出られるに越した事はないんだから、いいに決まってるだろ」

「そりゃそうだけど。でもさ、こう大きな障害とか、壁とかも経験せずに高校野球を通り過ぎて。本当にこれでいいのかな?」

「別に、いいと思うぞ。確かに島田の言うとおり、俺たちはひどい怪我とかもしてないし、大スランプに襲われたって事はないかも知れんが……でも、運だけでこの背番号を勝ち取ったわけじゃないだろ。きちっと頑張ってきた結果だろ。だったら……何も問題はないはずだ」

 角屋さんは自分なりに自信を持って説得したが、島田さんはまだ得心できないようだった。

「そうなんだけどな……何か、このまま順調に行ってしまったら、俺はなんとなく中途半端なまま高校野球を卒業してしまう気がして」

 中途半端?

 そんな事はない。チームの起爆剤として、常に先頭を走っていた島田さん、甲子園でもそのスタイルを崩さず、ただ初球ホームランだけを狙ってフルスイングし続けた島田さん。親友として、土方さんの復活を一番に応援し、支え続けていたのも、ほかならぬ島田さんだった。

 だがそういった実績の数々をここで挙げるのは、何か違うように思われた。

「……じゃあ、そろそろ、来るかもな」

 その代わりに、不気味な声で角屋さんが言った。

「な、何がだよ」

「苦難が。大波乱が」

 あくまでも、角屋さんは軽く脅かしてみただけだったのだが、島田さんは本当にぎょっとして固まってしまった。

「おいおい、マジにするなって。ほら、いざとなったらお前だって、本当に苦しい事なんて経験したくないだろ?」

「うん……まあ、そうかもな」

「なんだかんだ言って、やっぱり人間順調なのが一番だよ」

 そう言い終えると角屋さんもスパイクを履き、グラブをこわきに抱えてグラウンドへと飛び出していった。

「……ま、いっか」

 ひとまず自分に言い聞かせて、島田さんも続いて行った。

 

 

 

 

 

 通常の部活終了時間から、一時間あまりが経っている。

 他のクラブの部員たちはほとんど帰宅していて、人の気配はほとんどない。

 南条は校門へと、少し力なく歩いていた。

 これでも、投手の特別メニューを課せられており、その上に自主トレを積むことも多い南条にとっては、普段より早い下校時間。他のベンチ入り投手たち、土方さん、八重村、柴島は、まだブルペンにいる。

 その中を南条は「少し肩が痛い」と言って抜け出してきたのだったが……本当は、ノルマ外の練習への意欲が湧き上がってこないだけだ。

 ぬぐいきれない後ろめたさを抱えつつ、南条は右肩からズレ落ちつつあるバッグを、軽く跳ね上げ元に戻した。

 校門から一歩踏み出したところで、南条は人影に気づいた。

「あれ、沙織さん?」

「あ、南条さん。さようなら」

 所在なげに立っていたのは、野球部マネージャーの水本沙織だった。

 彼女も日ごろから、マネージャーとしての仕事をほぼ一人でこなしているため、普通の部員より帰宅はどうしても遅くなってしまう。

 しかし、それでもこの時間にまだ残っているのは、遅すぎる気がする。夏の夜とはいえ、日の消えた空はかすかな明かりしかもたらしてくれない。

「うん、バイバイ。誰か待ってるの?」

「いえ、待っていたんですけど……」

 沙織は過去形で答えた。それが、南条の心に少し引っかかった。

「待っていた?」

「はい。迎えを待っていたんですけど」

「あ、いつも送り迎えしてもらってるのか」

「ええ。遅くなるときは大体」

 初めて知る事実に南条はわずかに驚いたが、考えてみれば当然のことかもしれない。たぶん友達、つまり他のクラブの部員たちは大抵野球部よりも早く帰っているし、一人で帰らなければならないことは多いのだろう。

 今の世の中、女性が一人で夜歩きを――まあ、そこまで大層なことではないかもしれないが――するのは、どんどん危なくなってきている。もはや日本においても、安全はタダではないのだ。

「へえ。お母さんに?それともおじいちゃんとか?」

「まあ……はい」

 なぜか沙織は間を置いてうなずいたが、それ以外の可能性はあまり考えられない。

「そうなんですけど、今日はちょっと都合が悪くて来れないみたいなんです。それで、どうしようかと思ってて」

 沙織は、外見の変化は少なかったが、明らかに困っている様子だった。

「ああ、じゃあ、俺がついてくよ。家まで」

「えっ、でも……」

「監督に車で送ってもらうのもアリかもしれないけど……メンバー発表後だから、今日はちょっと忙しそうだし。遅くなりそうだから」

「でも、もし帰る方角が違ったら、迷惑じゃないですか?」

「大丈夫大丈夫。もし遠回りすることになっても、それだけ体力作りになるしね」

 どんな形であれ、疲れを理由に練習を切り上げてきたはずの南条だったが、そんな事はすっかり忘れていた。

 しかし、沙織はまだ逡巡しているようだった。南条は徐々に不安に襲われ、さらに一言付け加えた。

「やっぱり、一人で帰るのは危ないって」

 その言葉に、沙織はようやく決心を固めたようだった。

 南条の目をはっしと見上げ、落ち着いた声で答えた。

「南条さんと帰るほうが、危ない気がします」

 数瞬、沈黙が訪れた。

 南条は、脳天に木槌を振り下ろされたような痺れを感じながら、しばらく立ち尽くしていた。

 はっと我に返って、南条は口を開いた。

「じゃ、じゃあ、やっぱり監督を待ったほうがいいかな。うん。それじゃ!」

 つとめて平静を装いながら、南条はあわてて背を向け、その場を去ろうとした。

 そんな風に見られてたのか……

 南条はまたまたずり下がりそうになってきたバッグを何とか支えながら、とぼとぼと帰路に着こうとしていた。

 すると、いきなり沙織が南条の右を通って前に出た。

「いえ、冗談です。すいません」

「……え?」

「やっぱり、ついてきてくれませんか?」

 大きな瞳を向けられ、改めてそう頼まれると、さすがにショックを受けていた南条も、

「う、うん」

 とぎこちなくうなずくしかなかった。

 

「冗談、って、いつもの調子で言われてもわかるわけないよ」

 南条は笑いながら、少したしなめるように言った。

 本当に、沙織はいつも通り一つの笑みもなく、冷静な様子だった。誰だって、真に受けるに決まっている。

「すいません。私、昔から気持ちを顔に出すのが苦手なんです……」

「まあ、いいよ。人それぞれだから」

 妙に納得していた南条は、そう言ってお茶を濁した。沙織が、やはり外見の変化には乏しいが、申し訳なさそうにうつむいていたので、とりあえず何か慰めておこう、と考えたのだった。

 沙織の横顔を、ほのかな月明かりが照らしている。野球部マネージャーとして、帽子をかぶってはいるが、太陽の下で毎日グラウンドに立っているとは思えないほど、肌は健康な白さに彩られていた。

 おそらく度はあまり強くない眼鏡――こうして普段はかけているが、グラウンドでは安全のために外している――の下に、しっとりと輝く瞳。閉じていることが極めて多い、つつましやかな唇。

 そうした情景を見つめているうち、いつの間にか南条は視線を固定してしまっていた。

「……どうしたんですか?」

「いや、あの……」

 ダメだ。これじゃ、「危ない」って言われても仕方がない。

 南条は深く自分を戒め、継ぐための言葉をあわてて捜した。防犯上の大義があるとはいえ、このまま無言で共に歩いていくのはどうにも気まずい。

「そうだ」

「何がですか?」

 話題が見つかったため思わず南条は口に出してしまったが、当然訝しがられた。

「いや、あのさ、沙織さんは、なんでバタ西に入ろうと思ったの?」

「そうですね……」

 沙織は少しだけ黙考した。答えがないわけではなく、答えが整理している

「元々、私は新島市の新水女学院に行くつもりだったんです。試験も一応受けて、合格してました」

「へぇ……」

 地元出身ではない南条はあまり知らなかったが、新水(にいみず)女学院と言えば、新島県で飛び抜けて難関とされている女子高校だ。それを知っている人が今の発言を聞いたら、まず間違いなく驚きの声を上げることだろう。

「でも、父にはずっと川端西を進められてました。それで野球部のマネージャーが今いないから、私になったらどうだ?とまで言って」

「ずいぶん、詳しいね。お父さん」

 バタ西の野球部は確かに、大いに地元の人の応援を受けて成り立っているらしい。そのため、メンバーの構成などを驚くほどよく知っている、例えば中華料理屋の店主なんかもいたりする。しかし、マネージャーの有無まで伝わっていたとは、南条にとっても意外だった。

「ええそれで、私はずっと反発してました。絶対に川端西なんかに行かない、って。新水を受けるときも、本当は専願でよかったんですけど、川端西の入学試験を受けられるように併願にしました」

「……ん?なんかおかしくない?」

 南条が疑問に思ったのも無理はない。

 専願とは、私立高校を一本に絞って受ける入試方式だ。合格すれば、原則としてその高校に即入学となる。

 一方の併願は、私立と公立の試験を両方受ける方式。主に、公立の志望校を狙うときに、滑り止めとして私立高校を併願する、という場合に用いられる。そのため、入試の難易度としては比較的、併願の志望者にとっての方が難しくなる。

 沙織はバタ西に入りたくなかったはずなのに、なぜわざわざ併願方式を選択したのだろうか。

 南条がそれを口に出す前に、沙織は続けた。

「一応受けておいて、落ちようと思ったんです。調子が悪かったとか、うっかり名前書き忘れたとか言い訳して。そうすれば、さすがに文句は言えませんよね?」

 沙織はここで、初めてかすかな、いたずらっぽい笑みを浮かべて見せた。

 かなり新鮮な表情ではあったが、そういう策略を本当に実行しかねないように思えて、南条にはその方が少し不気味だった。

「その時、川端西が甲子園に出場したんです。父は初戦を一緒に見よう、ってしきりに勧めてきたんですけど……私はここでも反抗して、「興味ない」って言って部屋に閉じこもってました。そしたら父は、友達に相手にされなかった子供みたいに、すっかりしょげ返ってしまって。歴史的な快勝だったのに、沙織に見てもらえなくてかわいそうだ、って……」

「すごいね、お父さん。そんなに俺たちのことを応援してくれてるんだ」

「ええ。ほとんど馬鹿です。甲子園の期間中なんか特に、毎日バタ西バタ西って騒いでて。ふふふ……」

 ここで沙織の口から、抑え切れなくなった笑いが湧き起こってきた。

 ごくごく小さな笑いではあったが、普段まったく見られない分、南条もつられて、たまらなく嬉しくなってしまった。

「へえ。そうだったんだ。いやー、やっぱり俺たち、頑張らないとね」

「そうですね」

 いまだに沙織からは、しとやかな笑いこみ上げてきていた。

 やっとそれが収まると、

「さすがに私も父に悪いかな、と思って、第二戦は見たんです。そしたら……あの……選手たちはみんな、すごくかっこよくて……輝いてて……」

 沙織はすっかり顔を赤らめ、南条から目を背けてしまった。

「それで、マネージャーになろうって決めたの?」

「ええ。この人たちのサポートがしたい、って心から思いました。父が敷いたレールですけど、でも、私が決めたことですから、全然後悔はしてません」

 この話を、部員全員にしてあげたらいいのにな、と南条は強く思った。

 部員の中には、いまだに沙織を「無愛想だ」「可愛げがない」と敬遠している者もいる。しかしこの想いを耳にすれば、そうした冷たい障壁は一気に瓦解することだろう。

 だが、南条一人に話すことさえ、沙織はここまで恥ずかしがってしまうのだ。いきなり全員に伝えるには、まだちょっと抵抗があるのだろう……

 南条はそう考え、とりあえずここだけの話にしておこうと決めた。

「二戦目かあ。俺が6イニング投げてちゃんと抑えてた試合だったから、なんか特に嬉しいな」

「ええ。南条さんも……」

 沙織は振り向いて何かを言いかけたが、すぐに再び視線を下に戻した。

 

 

 ほとんど勢いに押しきられたかのように、沙織の送り迎えを引き受けたとき、南条は内心不安を覚えていた。

 もし沙織の家が遠かったら、例えば30分間ほとんど沈黙のまま、二人で歩かなければならないと言う可能性も十分考えられたからだ。可能性どころか、普段の沙織の様子を考慮する限り、そうなる事はほぼ確定ではないかとさえ思った。

 南条は当初、早く家についてくれたらいいのに、とひたすら祈っていた。 

 しかし今は逆だ。もっと長く話していたい。この笑顔を、この恥じらいの表情を、珍しいからというのも確かにあるが、それ以上に、鬱々と射ていた心を何とも言えず楽しくさせてくれる、沙織の感情の波を、もっと受けてみたい、と南条は願うようになっていた。

「そこまで喜んでくれてるんだったら、もう一度、甲子園に出てみたいな」

 南条は弾むような声でそう言った。

「出てみたい、じゃなくて、出るんです。行けますよ、絶対に」

「そうだね。まあ、そこに俺の姿があるかどうかは、わからないけどね」

 すっかり気をよくして、南条はふとそう漏らした。

 すると、沙織の顔が再び元の静けさを取り戻した。

「どういうことですか?」

「いや、このままだと、そのうちベンチからも外されるんじゃないかな、なんて思って。去年の夏は18番で、秋は5番。で、この前の春も5番だったけど、今回は16番に逆戻り。この調子で落ちていって、次の秋あたりには消えてるんじゃないかな」

 あくまでも軽い調子で、南条は言葉を続けていたが、それと共に沙織の眉はどんどん曇っていった。

「どうして……どうしてそんなことを言うんですか?」

「うん、まあ、俺ってそういうヤツだから」

 南条はごく明快に、しかし自嘲するように言った。

「中学のときがちょうどそうだったんだ。レギュラーの一歩、いや、三歩ぐらいかな、とにかく近いところまで行ってたんだけど、新しく入部してきたやつにすぐに差をつけられてね。その後はどんどん落ちていくばっかりで……中三の時ついに後輩に抜かれて、グラウンドに立てなくなった。あの時とそっくりだよ。今の俺は。たぶん、俺はそういう運命なんだよ」

 怒りに染まったようにギラギラと輝く、沙織の鋭い視線は気になったが、南条は最近考えていることを一気に吐き出した。

「過去に……過去にそういうことがあったならそれを生かして、次は繰り返さないようにすればいいじゃないですか」

 沙織は、震える声を南条に向けた。

「うん、まあ、そうなんだけどね。でもやっぱり、人間には限界があるから。次は頑張ろうって決めても、そのまま結果がついてくるとは限らないよ」

「どうして?そんなこと、やってみないとわからないじゃないですか」

「わかってるよ。やる前から」

 呼応したのか、南条の語気も少し荒立ってきた。

「どうしても越えられないことぐらい、初めからわかってるよ。復帰して半年で147kmのストレートを投げる人とか、入部したばっかりなのにいきなりプロ並みのバッティングをするやつとか……そんな人たちに、勝てるわけないだろ。俺ごときの選手がさ。無茶言わないでくれよ」

 相手が誰であるかも忘れ、南条は夢中でまくし立てた。今まで、誰にも言えなかったこと。でも、誰にも言ってはいけないこと。

 努力すれば、できないことなんてない。

 人間史上に燦然と輝く、民衆の向上心高揚に必要不可欠な、至高の美辞麗句。

 その圧倒的な力に、あえなく組み伏せられている多くの現実。

 沙織はしかし、不意に質問を持ち出してきた。

「……南条さんは結局、1番と5番、どっちが欲しかったんですか?」

 全く予期しなかった言葉に、南条は戸惑ってしまった。

 それは……どっちだったっけ?

 だがこのまま黙っているわけにもいかない。南条はとりあえず、

「とりあえず、五番かな」

 その瞬間、沙織の表情が怒りに支配された。

「とりあえず、ですか?レギュラーの座は、「とりあえず」で勝ち取れるものなんですか?」

 沙織は足を止め、南条に正対した。

 普段とのギャップも手伝って、その時の沙織は全身に恐ろしいほどの迫力がみなぎっていた。

「そんな中途半端な気持ちで、取れるわけがないですよ。みんな、一つのイスだけを狙って毎日死ぬ気で頑張ってるのに……サードをやりながら、ついでに二番手で投手に起用してもらおうなんて、そんな都合のいい話が通るわけないですよ!」

 息を荒げ、目には涙さえ浮かべ、それでも沙織は必死で南条を動かそうとしていた。

 だが南条は逃げるように、弱々しい答えを返すだけだった。

「一つに絞ったところで……結果は同じだよ。さっきも言っただろ、俺はその程度の選手だって……」

「違います!」

 沙織は力強く、南条の目を捉えなおした。

「だって……南条さんは……あの時、すごく……」

 対して南条は何か言いかけたが、それをさえぎるように沙織は背を向けた。

「帰ります。ありがとうございました」

「いや、でも最後まで送らないと」

「いえ、もうすぐそこなんで」

 沙織は振り向こうともせず、駆け足で去っていった。

 あまりにも唐突な嵐に見舞われた南条は、その場に呆然と取り残された。

 沙織の言葉の一部を、何度も反芻しながら。

 過去の経験を生かす。中途半端。その程度、ではない……?

 思考が激しく渦巻いていたが、南条は前方にある光景を目撃した。

 沙織が、おそらく自宅の門に入った。その先にあるのは……強い存在感を持つ建物。俗に言う、大豪邸だ。いくら川端市の地価が都市圏より安いと言っても、相当の費用がかけられているはずだ。

 だが南条は、ただすごい家だな、とぼやけた感慨を抱いただった。

 突き落とされ、持ち上げられ、打ちひしがれる。

 今日起こった怒涛の連撃に、南条はすっかり叩きのめされていた。特に後半の二連打は、普段からは決して予想できない出来事だけに、そのダメージは計り知れない。

 いつの間にか地面に落ちてしまっていたバッグを肩にかけなおして、南条は少し遠くなった家へと向かっていった。

 

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