大躍進
夏の新島県予選大会第二回戦。
舞台は川端南公園球場。対戦相手は木根山高校。昨年の夏は一回戦で敗退したチームだ。今年は初戦を勝利で飾ったが、単純に実力だけを考えると、ここでバタ西を倒して勝ち上がることは難しいだろう。
この高校は、野球以外のある要素で有名だ。最も、ほめられた要素ではまったくないのだが……
とにかく、抽選の関係で今日が、川端西高校野球部の初陣となる。
試合直前。水本沙織は、沈痛な面持ちで緑色の廊下を歩いていた。「沈痛」と言っても彼女の場合、傍から見れば普段との違いはほとんどわからないだろう。ただ、やはりいつもより確実に、視線は下を指しがちになっている。
これは今日に始まったことではない。約一週間前、背番号発表の次の日あたりから沙織はこんな調子で、何か意気が優れないのだ。ただ、先述の通り変化が少ないので、それに気づく部員はごく少数だったが……
それでも、様々な庶務、情報収集の最終調整など、マネージャーとしての仕事は通常通りきちんとこなしていたのはさすがだった。
今日も、クリップボードを手に、対戦相手のデータをチェックしていた。
打率、防御率などの数字データ、打力、投手力などのアルファベット順のランク付け、そして藤谷さんのコメントが、その用紙には整然と記されていた。これを見る限り、そう恐れるべき相手ではないようだ。
ここでも沙織は、これらの情報をいつもの調子できちんと脳内で整理していた。
ただ、外界に対しての感覚は、いつもより鈍ってしまっていた。沙織は突然、なにかにぶつかってしまった。
慌ててクリップボードから顔を上げると、三人の男が沙織を鋭くにらみ下ろしていた。
胸には漢字で「木根山」のロゴ。左から髪の色は茶、金、茶。昨年から高野連は染髪を規制しているので、もしこのまま試合に出場すれば処分の対象になりかねない。そういうわけで、この三人はおそらくベンチ外の選手だろう。
「すいません」
沙織はとっさに謝ったが、見かけ通り、ただで謝罪を受け取ってはくれないようだ。
「あん?気をつけろよ」
左の茶髪の男は特有の口調で威圧を続けたが、ふとその目を沙織の手元に向けた。
「お、なんだそれ?俺らのデータか」
「打率とか書いてあるぜ」
「なになに、ちょっと見せてみろよ」
三人はクリップボードに異常な興味を示し、手にとってじっくり眺めようとした。
「やめて下さい」
こんな状況でも、ごく落ち着いた声で沙織は対処したが、しかしその声には幾分の困惑が入り混じっていた。
「いいじゃねえか、減るもんじゃないし」
「見ないで下さい。これは大事な……」
「うるせえ!ほら、貸せよ」
「あっ」
右にいた男が沙織に一喝し、無理やりクリップボードを取り上げた。
中身をじろじろと見回し、それぞれ感嘆の声を上げる。
「おおー、なるほどな」
「ふーん。たいしたもんじゃねえか」
情報など集めそうにない男たちだが、さすがに藤谷さんが構成した完璧なデータの数々には、感心しているようだった。
「D、いや、Eか?」
真ん中の男が口にしたアルファベットは、藤谷さんが付けたランクのデータだ。男たちの所属する木根山高校には、「投手力E 打力D 機動力D 守備力E 総合力E」という評価が下されている。ちなみに、評価は五段階で、Eは最低ランクである。
「返してください」
沙織が、何とかクリップボードを取り戻そうと手を伸ばしたが、
「おいおい、もうちょっと見せろよ」
と、意地の悪い笑いを返してくるだけだった。
こうなったら、叫んで助けを呼ぼうか。沙織がそこまで覚悟を決めて口を開きかけたとき、廊下の曲がり角から、血相を変えた土方さんが、バットと布きれを手にした金田貴史を引きずって飛び出してきた。
話はほんの少しだけさかのぼる。
間違いなくこれから投打のキーマンとなる二人、土方さんと金田貴史は、ベンチへと続く廊下を歩いていた。
「……なあ、貴史。そんなに磨かなくてもいいだろ。十分ピカピカだぞ」
背番号1をつけた巨躯の投手土方さんが、金田貴史に今日何度目かの呼びかけを行ってみた。
しかし、またもやこの男からは、何の反応も帰ってこない。一心不乱に、白い布きれで愛用のバットを磨き続けている。
視線は布を持つ右手に注がれ続けており、ろくに前も見えないはずなのに、なぜかいくら歩いても貴史は体をぶつけることがなかった。
向こうから人がやってきても、軽快な足取りでよけてしまう。
……頭のてっぺんに、目でもついてるんだろうか?
土方さんは馬鹿馬鹿しい疑問を自分の中に放り込んでみた。まあ、どちらにせよ、安全上に問題がないなら別にかまわない。
二人はそのまま、角を右折した。ここの廊下はコの字型になっている。もうひとかど曲がれば、確かベンチへの出入り口が見えるはずだった。
その時だった。土方さんが、沙織の怯えた声(土方さんにはそう聞こえた)と、性根の曲がってそうな男たちの声を耳にしたのは。
『やめて下さい』
『いいじゃねえか、減るもんじゃないし』
『見ないで下さい。これは大事な……』
『うるせえ!ほら、貸せよ』
『あっ』
このやりとりには、さすがの土方さんも青ざめてしまった。
木根山高校といえば、新島県の中で比較的ガラのよくない高校として名を馳せている。いろいろな真偽入り混じった評判は響いていたものの、まさか白昼に堂々と、そこまでやるほど大胆不敵な生徒が在籍しているとは……
「……おい、貴史。ちょっとまずいことになってる。行くぞ」
だが貴史は、黙然としてバットを磨き続けていた。
土方さんは説得を諦め、無理やり引っ張っていくことにした時、さらに男たちの嬌声が廊下にこだました。
『おおー、なるほどな』
『ふーん。たいしたもんじゃねえか』
『D、いや、Eか?』
今すぐにでも走り出そうと身構えた土方さんは、突然立ち止まってしまった。
あまりにも刺激的な男たちの言葉に、一瞬我を忘れてしまったのだ。傍らの貴史も、かすかに反応を見せていた。
D、もしくはE。スレンダーそうに見えるのに、実は……いや、こんな妄想を繰り広げている場合じゃない。
『返してください』
『おいおい、もうちょっと見せろよ』
事実、こうしている間にも沙織は男たちの魔手にいたぶられている。
土方さんは脳裏に浮かんだ沙織の映像を、自責の念と共に振り払い、廊下の角を曲がって飛び出した。
そこには、土方さんの予想通り「いかにも」という感じの男が三人と、予想に反してきちんとTシャツを着用している沙織が、クリップボードを取り合っていた。
決して人には言えないが、このとき土方さんは、心の奥底で少しがっかりしてしまった。
しかしこうして飛び出してきた手前、何かを言っておかないと格好がつかない。
「……おいお前ら。何してるんだ」
土方さんは極めて静かな声を放った。鬼神のような表情を浮かべて。
「いや、あの、ちょっと情報を見せてもらってるんだけど……」
「私の同意なしで、強制的に、です」
沙織が、男の弁解に真実を付け加えた。
「……それはよくないな。もうすぐ試合だ。どいてもらおうか。ん?」
土方さんが一歩前に進み出ると、男たちは下がりはしなかったものの、明らかにたじろいでしまった。
何かを言って虚勢を張ろうとしているようだったが、なかなかうまく行かない様子だった。
それは仕方のないことかもしれない。190cmを越えるガッシリとした巨漢が、こうりつくような目で睨み下ろしてきている。その横には、周りに何の興味も示さずひたすらバットを磨き続ける、この上なく奇怪な男が位置している。この状況を前に、平然としていられる方がおかしいだろう。
じゃあ、とどめと行くか。
土方さんが最後の口撃を加えようとした瞬間、思いがけない動きが起こった。
突然、貴史が布を動かす手を止め、バットを正面に振り下ろしたのだ。
「はっ!……よしっ」
正眼に構えた金属バットの先端が、金髪の男の鼻先数ミリのところで静止している。
時の流れが、一瞬だけ止まった。
「……ど、どうしたんだ、貴史」
非常に珍しい光景だ。土方さんはがすっかり焦ってしまっている。
「あ、ちょっとだけ振りをチェックしたんです。だいたい、磨きのほうは済んだんで」
貴史は造作もなく、しれっと言ってのけた。
いったいどこを基準に、済んだかどうかを決めるのか。その辺りの事情はよく分からなかったが、今それは問題ではない。
当然のごとく、バットを突きつけられた男は激しい怒りに突き動かされた。
「てめえ、殺す!」
男はバットを払いのけ、貴史につかみかかろうとした。土方さんが怪力で何とか男を抑え、
「……まあ待て。貴史も謝れ。ほら」
「あ、すいません」
「この野朗!謝って済むか、コラァ!」
男は土方さんの両手の中で暴れ続けている。いくらなんでも、このままでは持たない。ここは、何とか交渉するしかない。
「……待てといってるだろ。話を聞け」
「うるせぇ!放せ、お前も殺すぞ!」
「……話を聞け!」
あまりに興奮しきった男に対して、土方さんも怒鳴り声を上げるしかなかった。
思いっきりドスの聞いた土方さんの低音に、男は一瞬動きを止めた。その隙を見計らって、土方さんは畳み掛ける。
「……殴るなら殴れ。だが、そうなると確実に出場停止だぞ?下手したら対外試合禁止かもな」
この事実に、男は動きをいったん収めた。しかしすぐに怒りを取り戻し、
「知るか!ケンカ売られて、このまますごすご引き下がれるわけがねえだろ!」
仕方がない。土方さんは、あまり使いたくなかったが、最後の手段として男たちの最も恐れるだろう力を引き合いに出した。
「……あんたらはおそらくベンチ外だから、出場停止になっても構わないかもしれない。ただ、ベンチ内の部員は怒るだろうな。とくに、この大会が最後のチャンスの三年生は」
三年生。やはり男はこの言葉に敏感な反応を見せ、たちまち暴れるのをやめた。
あくまでも噂の範囲だが、木根山高校の「封建制度」はいまだにかなりの威厳を保っているらしい。
上級生には絶対服従。下級生はひたすら耐え忍び、自分が支配者となったときに被圧者に「復讐」していく……連鎖はどこまでも続き、一度定着するとなかなか崩れない権力構造だ。
男たちの固まりきった顔を確認して、もう一押しだ、と土方さんはさらに続ける。
「……せっかく試合に向けて練習してたのに、後輩が暴れて台無し。俺だったら、まず間違いなくブチ切れるな。そうだな……どうせ出場は止められてるんだから、問題起こした後輩を半殺しにするかもな」
土方さんとしては、あくまでも推論を述べてみただけだった。だが、男たちにとってそれは十分有り得ることに思えたし、土方さん自体の持つ圧迫感も手伝って、たちまち戦意を失ってしまった。
「……と言うかおい、貴史ももう少しきちんと謝れ。あれだけじゃ、俺だって怒るぞ」
両者のやり取りをぼんやりと眺めていた貴史は、特に後半のセリフに刺激されてすぐさま頭を下げた。
「す、すいません。悪気はなかったんです。本当に申し訳ありませんでした」
「……うん。よし。これでいいな。あとは試合で決めよう」
土方さんは落ち着いてとりまとめ、後はあんたら次第だ、と男たちの顔を覗き込んだ。
彼らは仲間どうしで目を見合わせると、何も言わずにそそくさとその場を後にした。
「ありがとうございます。データの機密性は死守できませんでしたが……」
沙織が、ひどく申し訳なさそうに礼を言った。死守、という単語に、土方さんは思わず苦笑してしまった。
「……まあ、ともかく無事でよかったな。」
「そうですね……」
「今日の相手は、あまり警戒する必要はなさそうですね」
なぜか、貴史はいきなりそんなことを口にした。
「……それはそうかもしれないが、油断は禁物だぞ」
「ええ。それはわかってます。でも……あんな危ない人たちを野放しにしとくようなチームが、強いとは思えません」
「……俺には、お前の方が遥かに危険な気がするがな……いろんな意味で」
土方さんは軽いため息と共に貴史を見つめ、つぶやいた。
「え?」
「……いや、なんでもない。じゃあ、そろそろ行くか。」
「はい」
それぞれの装備を整えなおし、三人は戦いの場へと歩を進めた。
試合の結果は0−17。5回コールドで、川端西高校が三回戦進出を決めた。
藤谷さんが評価したように、打線には中軸に数人、鋭い振りを見せる選手もいた。しかし土方さんの速球と二種類のフォークの前には全く歯を立てられず、無安打一四球のノーヒットノーランに封じられた。
一方の打線は、レギュラーメンバーで連打攻勢を繰り広げた。途中での交代はなし。今年は大事な初戦を本気で勝ち取りに行く方針を、角田監督は採用したようだった。
7月20日。栄冠の舞台まで、あと四勝。球児たちの熱き戦いが、幕を開けた。
マウンド上で、相手チームの三番手投手がゆっくりと振りかぶった。エースと二番手は、ここまでの四回で味方がすでに沈めている。
決して苦しい相手ではないはずだ。だが代打として左打席に立つ南条は、早くもカウント2−1と追い込まれていた。
制球はあまりよくない。下手にボール球を使えば、四球の可能性は非常に高い。だから、次の球で勝負してくる事はほぼ確実だ。
南条は狙いを定め、グリップをグイッと締めなおした。
相手投手が右腕を振り下ろす。
しかし、迫力に欠ける直球だ。
いける。南条は確信を持って、スイングを繰り出した。
ボールがバットに触れる直前まで、南条は自らの出塁を信じて疑わなかった。
「カッ!」
だがミートした瞬間の手ごたえは、極めてよくなかった。
中途半端に舞い上がったボールが、セカンド後方に力なく飛んでいった。
明らかに打ち損じだが、もちろんヒットの可能性がゼロになったわけではない。
南条は全力で疾走した。ここで結果を残さないと、絶対にまずい。これから先、一試合も出してもらえなくなってしまうかもしれない。
今回、南条は必要があって代打に起用されたわけではないのだ。背番号17番の道岡、背番号18番の板橋も含め、全ての選手が今日、経験とアピールのチャンスを与えられている。だから、最低でも塁に出ないと……
しかしそんな事情は、球の行方にとっては全く関係のないことだった。
打球は無情にもセカンドのグラブに吸い込まれた。
五回の表が終わった。スコアは13−0。
南条は焼け付くような焦燥感を抱えながら、おそらく最終回となる守備へと向かった。
結局この試合も川端西高校は、私立志波学院相手に難なく勝利を収めた。
またもや土方さんは零封。一本だけ安打を打たれたが、一度も二塁を踏ませなかった。最高球速は141km/hを記録した。
今日の試合には、地方大会の三回戦とは思えぬほど、バックネット付近に多くの大人たちが集まっていた。手にしているものは、メモ帳、カメラ、スピードガンなど様々だ。
おそらくマスコミの取材だろうが、もしかすると大学、それどころかプロのスカウトかもしれない、と部員たちは多様な憶測を飛び交わせていた。
7月24日。栄冠の舞台まで、あと三勝。その道のりは、まだまだ長い。
右に一人、背後に一人、南条はランナーを背負っていた。
六回の表、相手の一之瀬工業高校の攻撃。2アウトながら、ランナーは2、3塁。すでにこの回南条は一点を取られており、スコアは1−8。
カウントは1−3。投手にとって、非常に不利な状況。
一応1アウトは取ってあるし、満塁になればむしろ野球は守りやすい。どこのベースを踏んでもホースアウトに出来るからだ。
そういうわけで、捕手の道岡――この回から、南条と共にバッテリーを組んでいる――は外角ギリギリのカーブを要求してきた。
ボールになってもいいほど、際どいコース。
南条は指示されたコースに、自分の全神経を向けた。フォームは崩れきっているが、まだ外角なら決められないこともない。
セットポジションから、南条はカーブを投じた。真ん中に入らないことだけを心がけて。
だが、南条は感覚の範囲をあまりにも狭めすぎた。モーションの隙を突いて、三塁ランナーがスタートを切ったのだ。
「ピッチャー、ダッシュ!」
道岡の叫び声で、ようやく南条はランナーの動きに気づいた。
しかしそのときにはもう、相手の打者に決められた正確なバントの打球が、三塁よりに転がっていた。
あわてて南条は捕りに向かうが、反応が遅すぎる。
足の速い三塁ランナーは、もうホームに滑り込もうとしている。
キャッチャーの道岡は瞬時の判断で、南条も、三塁ランナーも諦めた。
代わりに、道岡は矢のような送球を三塁に撃った。
三塁手の金田が落ち着いてそれを捕球し、足元のランナーにタッチ。
運よく、二塁ランナーのスタートが遅れていたのだ。こういう反射的な捕手の動きに関して、実は道岡の能力はチームでもトップクラスに位置する。それに助けられ、バタ西はなんとかワンアウトをもぎとることができた。
それでもランナーは一塁に残っている。
南条は多量の冷や汗を流しながら、マウンドへと帰った。
その後南条は続けてヒットを打たれ、三点目を加えられる前に八重村との交代を告げられた。救援した八重村は後続の打者を断ち切り、七回の表もきちんと締めて、ウィニングボールを手にした。
最終的に、スコアは2−9。7点差コールドの規定で、試合は7イニングで終了し、この試合もバタ西はコールドで相手をねじ伏せた。
三試合連続のコールド勝ち。バタ西にとって、昨年以上の快進撃だ。いや、昨年夏の甲子園でベスト4まで上り詰めた陽陵学園も、予選でここまでの躍進は見せていなかった。
もちろん、この段階までに、例えば陽陵や軒峰と言った強豪と当たらなかった、というくじ運のよさも作用している。
それにしても、今のバタ西が破竹の勢いを得ていることに違いはない。
特に、土方さんの快投はすさまじい。この日の準々決勝でも、一之瀬興行の打線をヒット一本、二四球に抑え、自責点を一つも被らなかった。
三試合連続の零封。打たれたヒットは総計で二本。昨年のバタ西のエース、木田さんを彷彿とさせる完璧な投球だ。
7月25日。栄冠の舞台まで、あと二勝。いよいよ、大会は佳境へと突き進んでいく。
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