闘志の応酬

 

「よろしくお願いします!」
 主審の合図に続いて、両チームの選手たちは気勢を上げて深く礼をする。

 気迫に満ちた付属沢見の選手たちの声に、藤谷さんもまた、昨年のチームとの大きな違いを感じていた。

 今日のバタ西は後攻だ。野手たちは与えられたポジションに素早く散っていく。

 オーダーを表記しておこう。

 

付属沢見

1 加瀬 8

2 小道 9

3 田嶋 5

4 弓射 1

5 堂島 6

6 雪谷 4

7 柿ノ木 2

8 福江 3

9 加藤 7

 

川端西

1 島田 8

2 藤谷 2

3 土方 1

4 角屋 9 

5 金田 5

6 具志堅 3

7 中津川 7

8 刈田 4

9 新月 6

 

 バタ西のオーダーは、今季の基本形。

これまでの三試合では、特に藤谷さん、土方さん、金田貴史、新月といった打者の調子がよく、チームに勝利をもたらす得点源となっている。今日もおそらく、この四人が打線の中心となって働いてくれるだろう。

 

「シャァァーー・・・・・・・ドンッ!」

 投球練習の第八球目を受けると、藤谷さんは立ち上がるや否や、二塁に向けてボールを放つ。カバーに入った刈田が無難に捕球し、足元に空タッチ。

 その左手に、藤谷さんは心地よいしびれを感じていた。二連投の影響を全く感じさせないほど、今日も土方さんの直球は威力抜群だ。特有の、手元での微妙な変化も健在である。

 落ち着いていやれば、絶対に勝てる。

 藤谷さんはミットを手首の方にグイッ、と押し込み、腰を下ろして主審の宣言を待つ。

 付属沢見の一番打者が左打席から審判にうなずくと、主審は高らかに叫んだ。

「プレーボール!」

 さすがに準々決勝だけあって、スダンドの観客もそれなりに多くなってきている。

 だが、一度甲子園の大声援に囲まれて投げた経験のある土方さんにとって、これぐらいの人数は物の数ではない。

 足を上げ、状態をあまり沈めず球を投げ込む。

 一球目、内角への直球。ストライク。

 二球目、外角低目への直球。ストライク。

 ストライクゾーンギリギリのコースではないが、きちんと内外に球を散らして追い込んだ。

 今の時点で疲れは見えないものの、決勝戦のことを考えて、藤谷さんは早めに勝負を決めることにしていた。

 次の球は……ボールになるフォーク。もちろん、空振りを狙う球。

 土方さんがサインにうなずき、第三球を投げ込む。

「シューーーーーー・・・・・・・・」

 ここで、打者の加瀬はスイングを始動させた。儲けものだ。これで早くも1アウト……

「カッ」

 だが、加瀬は柔らかな、というよりも喰らいつくようなバットコントロールで、その球にバットを当てた。

 打球は藤谷さんの右肩上空をかすめた。

 ミットを出すことは出来なかった。

 この大会が始まって以来、初めてだ。土方さんのフォークを、おそらく狙いをつけていない状態からカットしたのは。しかも初打席で。

 今までの相手とは、やはり力量が違う。

 藤谷さんは、たった一つで改めて警戒心を強めたが、この程度では土方さんに対する信頼が崩れることはない。

――土方君のフォークは、そんなに甘くないですよ。

 先ほどより少し外への、フォークのサイン。

 土方さんは少しだけ躊躇したが、すぐにセットポジションに入って第四球目を投げる。

「シューーーーーー・・・・・・・・」

 再び加瀬がスイングした。

 だが、始動は先ほどよりもわずかに遅い。

「スッ」

「ブンッ」

 その微妙な差が、勝負の明暗を分ける。

「ストライーッ!バッターアウッ!」

 まずは先頭打者を、4球で空振り三振。

 傍から見れば、極めて順調な滑り出しだ。

 しかしバッテリーは気持ちを引き締めなおして、続く打者たちへと挑んでいった。

 

 二番、小道、ピッチャーゴロ。

 三番、田嶋、ショートライナー。

 結果として、土方さんは付属沢見打線を三者凡退に抑えた。

 だが、各打者の打撃内容は、決して悪いものではなかった。

 まだまだ「ボールが見えている」とまでは言えないものの、とりあえず甘い球や追い込まれたあとの球にはきちんと反応してくる。ストレートを一、二球見ただけで戦意を喪失していたような、準々決勝までの打者たちとの差は、今の段階で歴然としている。

 これまでのように、あっさり倒れてはくれない。

 藤谷さんはベンチに戻ると、いち早くスコアラーの水本沙織に駆け寄り、各打席の内容をチェックした。

 

 

 相手投手、弓射が悠然と両腕を振りかぶる。

 一番打者、島田さんがいつも以上に強くグリップを握り締める。

 弓射はボールを放す瞬間、スタンドにまで届く声を響かせる。

「うおぉっ!」

 放たれた球は、決して速くはない。

 だが、気迫が十分にこもっている。

「っしゃあっ!」

 呼応するかのように、島田さんも叫びながらスイングをする。

 その時、白球が鋭角に沈んだ。

 島田さんのバットは、そのまま豪快に風を切り裂いた。

 空振り三振。

 島田さんにとってはむしろ自然な結果だったが、その顔はいつもより数段激しい悔しさをにじませている。

 初回からいきなり繰り広げられた熱戦にすっかり気を張り詰めていた観衆は、ここでいったん息をついた。

 元々この異様な戦いは、島田さんがけしかけたものだった。

 弓射が投球練習を終え、左打席に入る際、島田さんは弓射に向かって

「よっしゃあ!来い!」

 と好戦的な怒声をぶつけたのだ。

 もっとも、これは最近の島田さんが毎試合やっている、いわば儀式のような行為だ。最上級生である三年生になってから、上下関係に気を配る必要がなくなったため、島田さんはより一層、闘志をむき出しにして試合に臨んでいる。

 たいていの相手が、この威嚇に――もちろん顔には出さないが――震え上がってしまい、力のこもったまともな球が投げられなくなる。

 ……ただし、その球を島田さんが捉えられるかどうかはまた別の問題だ。これまでの三試合で、島田さんの第一打席の結果は、三振、本塁打、外野フライ、となっている。これをどう見るかは……その人の感性によるだろう。

 しかし弓射は、この行為の意図とは全く逆の行動を取った。島田さんを鋭くにらみ返し、

「おぅ!ええ根性しとるやないかっ!」

 と、一歩もひかずに怒鳴り返したのだった。

 バタ西内でも、ここまで強力な反撃を見せる選手はほとんどいない。一人だけ、年齢差を忘れて罵詈雑言を浴びせる勇敢な男がいるのだが……その男と弓射を参照して、部員たちは「やっぱり関西人って、気性が荒いのかな」などとややズレた見解を持ってしまうのであった。

 とにかく、弓射の応戦は島田さんの心に油を注いだ。

 その島田さんが、再び声を張り上げると、今度は弓射が……という具合に、一時は一回の裏がいつはじまるかわからないほどの混乱振りにもなってしまった。

 何とか主審が暴動を治め、試合再開。その結果は、先ほど述べたとおりである。

「ちくしょう……あいつだけは、絶対ボコボコに打ち砕く」

 ベンチに帰った島田さんは、興奮の鞘を収める当てもなく、ただただ弓射への怒りを撒き散らしていた。そのうち、騒音にたまりかねた部員たちが収めにかかったのだが……

 

 弓射の気迫にあふれたピッチングは、知的で冷静な藤谷さん、続く寡黙な土方さんの打撃も狂わせてしまった。

 豪速球を投げ込んでいるわけではない。立ち上がりということもあって、球速は時速130km台にも乗っていなかった。

 だが、ピッチャーが本気で魂を込めた球を打つのは、なかなか容易なことではない。フォームが躍動するから球のキレも違ってくるし、何より意識外のところで両者に優劣が生じてしまい、何となく打てないような錯覚に陥ってしまう。やはり、気合は大事なのだ。

 そして、その気力に満ちた直球の威力を支えているのが、鋭く落ちるフォークだ。落差は土方さんのそれのほうが大きいが決して劣りきってはいないし、何よりもキレがいい。うまくピッチングに組み込まれると、非常に強力な武器となって打者に襲い掛かってくる。

 守備陣にも、強い意志が感じられた。例えば、土方さんは苦しめられながらも高めのストレートを内野の後ろに飛ばしたのだが、思いっきり全身を伸ばした遊撃手に捕球されてしまった。遊撃手はその後バランスを崩して倒れたが、すぐに立ち上がり、ベンチへ全力疾走していった。

 そうした好プレーだけでなく、それぞれの守備陣が動きのたびに声を掛け合い、活気にあふれた野球を展開していた。

 昨年の付属沢見とは、正反対の雰囲気だ。

 何となく、見栄えのいい野球をしようとしていたようにも見えた彼たちが、なぜ?

 この疑問の答えを知っているのは今のところ、バタ西内でただ一人だけだった。

 

 

 

 二回の表も、土方さんは一人のランナーも許さず、もちろん一つの得点も許さず投げきった。

 ただ、三振は一つも取れなかった。

 2ストライクまではカウントをきちんと整えられる。だがそこから、付属沢見の各打者は粘りを見せた。

 ストレート。フォーク。そしてチェンジアップのように遅い新球種「ブラントフォーク」。どの球に対しても、驚くほどにしつこい喰らいつき方をしてきた。

 それでも、土方さんは焦ることなく、藤谷さんの指示通りに投げ込んだ。その方針はうまくいっている。今のところは、だが……

 

 

 

「うおあっ!」

 弓射が腹の底から叫ぶ。さすがに疲れるのか、二番の藤谷さん以降は、投げるたびに声を上げるようなことはない。各打者に対しての決め球のみ、弓射の咆哮が伴ってくる。

 だが、その方が打者にとっては嫌かもしれない。

 叫び声に張り詰められた大気を切り裂くストレートが、四番打者角屋さんのバットの上空を過ぎ去る。

 角屋さんは空しくフォロースルーの体制をとりながら、審判の宣告を聞いた。

 空振り三振。1アウト、ランナーはなし。

 まだ二回の裏とはいえ、出塁がないのはやや寂しい。

 しかし、この男ならこの静寂を確実に打ち破ってくれるだろう。

 五番、サード、金田貴史。

 無言のまま、右打席に入る。滑らかな動きで、バットを構える。ヘルメットの下から、普段からは考えられないほど、焦点の座った目をのぞかせる。

 凍てつく恐怖さえ感じさせるたたずまいを前にして、平静を保てる投手はいない。

 弓射も例外ではなかった。ただ、乱れた神経を向ける方向が、彼の場合は大きく異なっていた。

「おぅ!なかなか気合入っとるやんけ!でも、打たせへんぞ!」

 どうやら、実際に貴史を打席に迎えて、弓射の闘争心はさらにかき立てられたようだ。

 実際の、と記したのには理由がある。あのテレビ番組の企画、「ヒットメーカー」での快記録達成以来、貴史の名前は新島県の高校野球界、いや、下手すれば全国各地の高校野球界にまで広がっているのだった。

 もちろん、あれは単なるゲームだ、と片付けることも出来る。しかし貴史の驚異的に正確だったバットコントロールは、間違いなく非凡な空気をかもし出していた。

 そういうわけで当然、付属沢見においても、試合前に貴史への警告は十分なされていたのだろう。

 弓射はそれを、恐怖ではなくむしろ楽しみだと受け取ったらしい。その目は、今まで以上にギラギラとした光を放っている。

 そんな弓射の興奮をよそに、貴史はいつも通り集中力を高めていく。

 目をつぶって、軽く深呼吸。

 自分と、相手。

 知覚の対象をただ二人に絞り込んで、貴史は鋭く目を見開いた。

 弓射がそれに応えるように、モーションを始動させた。

 ゆっくり振りかぶって、足を上げる。

 その間にも、尖った喜びに満ちた目が、貴史の姿を捉え続けている。

 対する貴史もより一層、神経を研ぎ澄ます。

 弓射が右腕を肩より上に引き寄せた。

 ここからリリースされる球を、適切なタイミングで……

「ぅらあっ!」

 腕を振り下ろすと同時に、弓射がいきなり声を上げた。

 コースはあまり厳しくない。

 だが、なぜか貴史はまったく反応できなかった。

 ベルトの高さに、すんなりと白球が飛び込む。

「バンッ!」

「ストライッ!」

 ボールを捕らえたミットの位置を確認して、貴史は小首をかしげた。

 おかしい。何でこんなコースに手を出せなかったんだろう……?

 しかしバッテリーは、貴史に回答時間を与えてくれない。

 すでに弓射は、捕手のサインを確認し終わってモーションに入りかけている。

 貴史は慌てて構えを取り、再び知覚を絞っていく。

 弓射が両腕を頭上に掲げ、第二球目。

「うおぁっ!」

 再び弓射が叫ぶ。

 続いて球種はストレート。

 コースは真ん中高め。

「……シューーー」

 それらの情報を貴史が確認したのは、ボールのうなる音が耳に届いてからだった。

 ここからバットを出しても、おそらく間に合わない。

「バンッ!」

「ストライッ!」

 またもやボールの判別が遅れた。決して、判定を迷うような厳しいコースではないのに。

 もしかしすると俺は、スピードに押されているのかもしれない

 その仮説を頭に浮かべたときにはもう、弓射はグラブを胸の前まで持ってきている。

 なんて速いテンポなんだ……

 貴史の戸惑いを打ち破るかのように、弓射は第三球目を投げ込んできた。

「うおあっ!!」

 弓射の叫び声がまた轟いた。

「シューーーーーー・・・・・・・クッ・・・・・バンッ!」

 投球の行方を見届けて、審判は軽く首を振る。

 ボール。

 貴史は、かろうじてこの球を見逃すことが出来た。

 迫り来る球が意識内に入ったのと同時に、外側へ変化して行ったのだ。もしこれがストライクゾーンに入っていたら、おそらくやすやすと三振を取られていただろう。

 やっぱり俺は押されている。次はもっと早めに反応を……

 貴史の思考をさえぎるように、弓射が第四球目のモーションに入った。

 オーバースローから、右腕が空を切り裂く。

「うおあっ!」

 決意に反して、貴史の反応はここでもまた遅れてしまった。

 しかし幸い、投じられたのはハーフスピードの球。

 これは……いける!

 貴史は腕を少し引いてから、球を叩きに行く。

 その瞬間、白球が重力に引き寄せられた。

 しまった、と思ったときにはすでに手遅れだった。

 振ったバッドのヘッドはすでに回りかけている。止めても、スイングを取られるだけだ。

 何とか苦し紛れにミートを合わせに行くが……いくら貴史と言えど、ここまでくればついていけるはずもない。

「ブンッ!」

「ストライーッ!バッターアウッ!」

 貴史は始終感覚を狂わせられたまま、この日チーム三つ目の三振をあえなく喫してしまった。

 

 晴れない疑問を抱えながら貴史がベンチへ戻っていくと、そこには奇妙なざわめきが広がっていた。

 貴史は前の三試合で、一つの三振も記録していない。その上全試合でマルチヒット、二本以上の安打を放っている。

 その貴史が空振り三振を取られた。しかも、一球もかすらずに。

 この事実が今、バタ西の部員たちをひどく動揺させているのだ。

「沙織さん」

 浮かない顔をして、貴史がマネージャーを呼ぶ。

「はい?」

「弓射の最高時速、何キロだった?」

「貴史君の打席で?」

「そう」

 以前まで、バタ西ベンチのスピード計測は藤谷さんに一任されていた。藤谷さんとスピードガンは、きっても切れない関係にあった、と言ってもいいかもしれない。

 だが最近では、こうしてマネージャーの沙織がスピード計測を担当している。これは、藤谷さんへの負担が減って効率がいいだろう、という監督の配慮でもあった。

「えーと……130キロ」

 沙織がその数値を口に出すと、とたんに貴史に驚きが広がっていった。

「130キロ?……マジ?」

「うん。私が記録した範囲では」

 時速130キロのストレート。一般の高校生のレベルを考えれば全く遅い数字ではないが、貴史としては十分余裕をもってさばける球のはずだった。小さい頃から父親の下で養ってきた打撃の感覚、日常生活の中で鍛え上げた動体視力、そして持って生まれたある種の天性。それらをもってすれば決して……

 しかし、事実貴史は弓射のストレートに押されていた。足元をすくわれたまま、最後はフォークボールの前にふがいなく屈した。

 あの投手には、何か秘密があるのだろうか?

 様々な想念をめぐらす貴史の心を見透かすように、沙織がスピード計測を続けながら言った。

「あれが、本当の高校レベルなんじゃない?」

「……なるほどね」

 言われてみれば、そうかもしれない。

 貴史はその説を受け入れて、グラウンドに目を向けた。

 ちょうどその時、六番打者の具志堅は、高い内野フライを打ち上げた。

 これで、3アウトチェンジだ。

 試合はまだ序盤。しかし、苦しい戦いの足音が、確実に部員達の下へと迫ってきている。

 

 

 三回の裏。二アウトの後、土方さんが九番打者に対して投げた第六球目。

 懐をえぐるインハイのストレート。

 いいコースだ。これで、ようやく解放される。

 そう思うと同時に、バッターはまたもやスイングを繰り出してきた。

 だが、内角高めの球は、急に手を出して何とかなるようなものではない。バッテリーは共に、勝負の終結を確信していたのだが……

 相手打者は、器用に左腕を折りたたんでバットを振った。

「チッ」

 この打席で四球目になるファールボールが後方に飛んだ。カウントは2−2。

 まだ、一人のランナーも出ていない。しかし土方さんの表情には、徐々に徐々にいら立ちの色が浮かび始めていた。

 今対戦している打者一人が、ただこうして粘っているだけなら、そのような現象は起きていないだろう。土方さんには、それだけの忍耐強さが備わっている。

 ただ、このカット作戦を、1番から9番まで全ての打者が徹底してくるとなると……平静でいろ、との要求はかなり困難なものとなる。

 この回だけで、七番から始まる下位打線を相手にしているはずなのに、土方さんはもう20球を投げさせられた。

 そもそもこいつらは、ヒットを打つ気がないのか……?

 土方さんは右足で小刻みにマウンドを削りながら、藤谷さんからのサインを覗き込んだ。

 低目への「ブラントフォーク」。

 ここまで三球ストレートを続けてきたのだから、これでさすがにタイミングを外せるだろう。

 土方さんは首を縦に振った。

 セットポジションの構えをとり、一旦静止してからひざを高く上げる。

 そうしてためた力を……藤谷さんのミットめがけて一気に解放する。

 しかしその力は、浅くはさんでいたボールには伝わらない。

 左腕の速度に反比例した緩い球が、打者へと力なく向かっていく。

「シューーーーー・・・・・・・」

 打者の体は、明らかに前へとつんのめっていた。土方さんの目から見ても、その程度がわかるぐらいに。

 だが打者は、なおもしつこくバットの軌道を合わせようとする。

 ブラントフォークは、落差、キレに欠ける球だ。タイミングを残されれば、空振りを奪うことは難しい。

「キンッ」

 バットが細い音を立てると、打球はようやく前方へと飛んだ。

 ただしボールは、あまりにも弱々しく内野グラウンドを進んでいく。

 前進してきた新月が、難なく捕球し一塁へ送球。

 アウト。

 三回の表、このイニングも土方さんは付属沢見の打線を三者凡退に抑えた。

 その結果とは裏腹に、ベンチへと戻る土方さんは、得体の知れない疲労感に襲われていた。なぜだろう、肩のスタミナはまだまだ残っているはずなのに、額にいやな汗が浮かんでいる。

 土方さんはその原因を、前方を歩いている藤谷さんに尋ねることにした。

「……藤谷」

「はい?なんでしょう?」

「……さっきから、何投げても当てられるんだが、何がダメなんだろう?」

「そうですね……」

 藤谷さんは手をあごに当ててうなった。そう言われても、藤谷さん自身も要因を探しかねているのだ。

 ストレートの威力は十分。普通のフォークはよく落ち、ブラントフォークはうまく打者を惑わせている。モーションのクセを盗まれているということも……おそらくないだろう。

 そこまで考えて、藤谷さんは「別に問題はない」と答えようとしたが、それを制すかのように土方さんは体を沈め、目線を合わせてきた。

「……そうだな……球の威力が足りないのか、それともコースが甘いのか。どっちだ?」

 ここで回答を迷えば、土方さんの混迷をより深めてしまう気がして、藤谷さんはとっさに答えをあつらえてしまった。

「えーと……どちらかと言えば、後者ですかね」

「……やっぱり。甘いのか……」

 土方さんは顔を下に向け、思案するようにつぶやいた。

 

 

 三回の裏の打席は七番の中津川さんから。バッティンググラブをはめベンチを出かけたところで、角屋さんが後ろから声をかけてきた。

「中津川。そろそろ眠い試合を覚ましてくれ」

 もちろん、「眠い」というのはちょっとした冗談だ。角屋さんも弓射とは対戦して空振り三振を取られているし、相手打線の厄介さも、土方さんの苦戦――もっとも、普段から土方さんを見ている人の目に、そうは映っていないが――を見ればわかる。

 角屋さんはあくまでも激励をしたつもりなのだが、中津川さんは軽く笑って答えた。

「そういうのは、俺の役目じゃないさ」

「なに?」

「そういう大層な役は、俺なんかのガラには合わないからな」

「違う。それは違うぞ」

 角屋さんは、自嘲気味に話す中津川さんをたしなめた。

「今日スタメンとして出ている9人の部員は、全員監督からその役目を期待されてる。だから試合に出してもらってるんだ。そこに……ガラも何もあるか」

 いつの間にか、角屋さんは中津川さんに詰め寄りながら言葉を発していた。

 中津川さんは、少したじろいでしまったが、あくまでも表情を崩さなかった。

「わかってるよ。嘘だって」

「そうか。それならいいんだが」

「たださ」

 中津川さんはここで、ふっと笑いを漏らした。

「ガラじゃないやつが意外なところで仕事をしたほうが、面白いだろ?」

 そう言うと、中津川さんは親指を立ててベンチを出て行った。

「なんだ。それを初めから言ってくれよ……」

 角屋さんはほっとした顔で、打席へ向かう中津川さんを見送った。

 

 確かに中津川さんは、「ガラでもない仕事」を見事にやってのけた。

「カンッ!」

 鋭い音を立て、中津川さんのバットが白球を弓射の上空に跳ね返す。

 一応ショートはグラウンドの中央に向かって進んでいくが、当然追いつくはずもない。

 文句のつけようのない、センター前へのクリーンヒット。ようやく、この試合初のランナーがここに生まれた。

 中津川さんは塁上で、特に角屋さんに向かって、ベンチへ立てた親指をかざして見せた。

 

「へえ。なかなか粋なことするやんか。あの人も」

 九番打者の新月は軽く感嘆して、ネクストバッターズサークルに入ろうとしていたが、進めた右足で何かを蹴ってしまった。

 新月が視線を下ろすとそこには、次の打者であるはずの刈田がまだうずくまっていた。

「おい、刈田、邪魔や……早よ打席行けよ」

「いや、なんかこう、緊張してしまって……」

 刈田は心なし震えながら立ち上がり、何とか右打席へと歩み始めた。

 しかし、今はそこまで重要な場面なのだろうか。おそらく、ベンチからは刈田にバントの指示を出してくるだろう。決して長打を打てとは言ってこないはずだし、失敗すると試合が傾く、というような局面ではないのに……

「まあ、せいぜいがんばれや」

 新月は疑問を持ちながらも励ました。ただ、その声は刈田の耳にあまり届かなかったようだ。

 

 右打席に入った刈田は、一塁側ベンチの方に目を向けた。監督が、なにやら手を動かしている。やはり、バントのサインだ。

 刈田は出来るだけ相手に気づかれないために、軽いスイングを何度か往復させて、バントのポイントを調節した。バットを操るては、いまだに細かくぶれている。

 ここまで刈田が緊張しているのには理由があった。

 まず第一に、刈田は今まで、この大会で一度もバントをしていない。前の三試合は、バタ西打線がほぼ一方的に得点を重ね続けていた。そのため、小技が要求される場面などどこにもなかったのだ。

 そしてもっと大きな要因としてあったのが、刈田のバントに対する思い入れだ。

 ここまで一年あまり野球をやってきて、刈田は自分のパワーが全く不足している事を痛感していた。これからいくら鍛えたとしても、たぶんこの状況に劇的な変化は起こらないだろう。

 だから、自分がレギュラーとして生き残るには、小技などの確実性でアピールするより道はない。その最もたるものが、送りバントという作戦だ。これを成否の一つ一つが、刈田にとっては生命線となってくるのだ。

 打席上で一度深呼吸をし、相手の目を見据える。

 島田さんや貴史を気迫で寄り切ってきたマウンド上の弓射だったが、今の姿にあふれるような闘志は感じられない。すでにもう、意識は次の打者、かつて弓射のチームメイトだった新月へと注がれているのかもしれない。

 なめるなよ。

 刈田は「ガラでもない」言葉を心の中でつぶやき、短く持ったバットを立てて構えた。

 弓射がセットポジションから第一球目。思ったより、クイックはうまい。

「シューーーーーーー・・・・・・」

 刈田は早めにバントの構えを取った。そしてここから……

「コンッ」

 きちんと勢いを殺して、バントを転がす。

 練習の成果が、この一瞬で確実に発揮された。当たり前のことを、当たり前にこなす。簡単なようで、実はひどく難しいことだ。

 中津川さんは余裕を持って二塁へと滑り込む。刈田は当然間に合わない。それでも、手を抜いてベース前で減速したりはしない。最後まで走りきってから、審判の宣告を聞く。

 1アウト、ランナー二塁。意外な早さで、最初のチャンスがバタ西を訪れた。

 

 この場面で繰り広げられるのは、中学の頃同じ舞台で火花を散らしあった男たち、新月と弓射の顔合わせ。ちなみに昨年は、新月が打ち取られながらも内野安打を放ち、一応の勝利を収めている。

 今年も、絶対に負けへん。

 心の中ではそうやって、あふれる闘志を豪壮に燃やしているはずだったが、新月は周囲の予想に反して、ごくごく静かに左打席へと入った。

 弓射もそれに影響されたのか、黙って足元の土を鳴らす。

 事情を知る者たちは、両者の様子を深い興味を持って見比べた。

 だが、この不気味な静寂は、これから始まる激闘の前奏曲に過ぎなかった。

 始めに新月が、深く息を吸い込んで、割れるような大声を弓射に放った。

「弓射!お前の運の良さもここで終わりや!俺が責任もって、粉々に打ち砕いたるからな!」

 もちろんこの挑発を、すんなりと受け入れる弓射ではない。彼もまた、マウンド上から高らかに、

「おう、上等やないか!また去年みたいに軽く沈めたるわ!」

 新月も矢のような速さで応戦する。

「何やて!?去年は俺の勝ちやったやないか!おい、もうボケたんか?一年前の話やぞ!」

「はっ!あんなせこいヒットで、よう勝ちやなんて言えるもんやな!お前こそ、いっぺん病院で見てもろたほうがええんとちゃうか!」

 忘れるどころか、弓射はあの対決をしっかりと記憶しているようだった。

 こんな調子で、敵意に満ちたやり取りがマウンド間を何度も往復した。

 投手と打者の罵り合いは、野球を題材としたフィクションにおいてたびたび見られる場面であり、時にはそれが物語にとって不可欠な要素になっている場合さえある。

 だが、現実の試合で、そういう光景が見られる事は皆無に等しい。まず、それだけの度胸がある人間などそうそういないはずだし、18mもの距離を置いて怒鳴りあうのだから、対戦自体がひどく殺気立ったものになってしまうだろうし、何よりも試合進行を著しく妨げてしまう。

 ここでも当然、主審は権威をこめた声で両者に注意を与え、この騒乱を収めた。特に、初回にもこうして島田さんに罵詈雑言を投げかけていた弓射は、より厳重な警告を主審から与えられた。

 言葉の応酬は収まった。しかし、それでひとたび燃え上がった両者の闘争心が鎮まるはずもない。それどころか、二人はさらにさっきをたぎらせた目を、お互いの姿に向け合っていた。

 弓射がサインを確認し、セットポジションを取る。

 軽く足を上げて第一球目。

「うおあっ!」

 叫びに操られるように躍動したフォームから、気迫のこもった直球が投じられる。

「シューーーーー・・・・・・・・・バンッ!」

 高目へのストレート。その行方は、ストライクゾーンを外れていた。

 新月は一歩も動かず、悠然と見送った。意外に冷静な反応だ。

 もっとも、これは新月自身でとった判断ではないのだ。この回の初め、ベンチ内で藤谷さんに吹き込まれたのだ。「それだけ熱くなっている打者に対しては、たぶん初球にボール球を使ってくるだろう」と。

 藤谷さんの言うとおりだった。おそらくこれで空振り、もしくは打ち損じを狙っていたのだろう。

 姑息な手やな。その程度か、弓射。

 新月はすでに第二球目を投げ始めた弓射に、軽い蔑みの目を向けた。

 弓射はそんな細かい変化を気にすることもなく、右腕を鋭く振り下ろす。

「うおあっ!」

「シューーーーーー・・・・・・・」

 ボールは真ん中に向かって放たれた。

 高さも打ちごろだ。これはチャンス。

 新月は迷うことなくバットを出した。

 だが、しばらくすると、

「クッ」

 白球は新月の懐に向かって軌道を変えた。

 しまった、スライダーか!

 変化を見せてから驚くのでは遅すぎる。

 新月のスイングはタイミングが合わずに、空しくボールの上空を走った。

「パンッ」

「ストライッ!」

 主審が決然と右手をかかげる。カウントは1−1。

 内角へのスライダー。たいした変化量ではなかったが、予想していないとやはり捉えるのは難しい。

 新月はバットを少しだけ下ろし、ベンチの方をチラリと見る。部員たちはグラウンドに声援を送り、監督は悠然とこちらを見つめている。

 指示はなし。自由に打て、という意向だ。

 改めて弓射を睨みなおし、新月は狙い球を決めて第三球目を待つ。

「うおぉっ!」

「シューーーーーー・・・・・・・・」

 ボールは外角へ。新月の狙いは、ストレート。

 少し腰でためて、新月はスイングを繰り出し……かけたところで、

「スッ」

 ボールが地面に引き寄せられた。

 慌てて新月は右腕の動きを止める。

 球はホームベースの少し後ろでワンバウンドし、キャッチャーのミットに入った。

 かろうじてハーフスイングは取られず、判定はボール。

 危ないところだった。新月はずれてもいないヘルメットを直して、できるだけ弓射に驚きを見せないよう努めた。

 そうしている間に弓射はサインを確認し終え、素早くセットポジションに入った。

 このバッテリーは、一つ一つの動きがかなり迅速だ。

 弓射が一定のテンポで投げる。キャッチャーは捕球すると素早く立ち上がり、弓射に鋭い返球。それを受け取るとすぐに弓射はサインを覗きにいき、同じくキャッチャーもすぐに指示を出す。

 というように、とにかくこのバッテリーは打者に考える暇を与えない。軽快なテンポに引っ張られて、守備の動きも自然とよくなっている。

 そして第四球目。

「っらあっ!」

「シューーーーーー・・・・・・・・」

 そろそろ、来るはずや。

 新月は真ん中低めに来る、と判断した球に対し、またもやバットを出しにいったが……

「スッ」

 ここでも球は沈んだ。

 まさか、二球続けてフォークを投げ込んでくるとは思っていない。

 新月はこらえることもかなわず、いさぎよくバットを振り切った。

「ストライーッ!」

 これでカウントは2−2。

 予測外の配球にやられた。しかしそれ以上に、弓射のフォークのキレは、新月の認識以上のものだった。

 ベンチから見ていても、その威力の片鱗は十分に感じられたが、それでもこうして目の当たりにするのとはわけが違う。

 ただ呆然と待っているだけでは、まず打てないだろう。

 しかしフォークに狙い球を絞ってしまうと、イニングが進むにつれスピードが上がってきている――そろそろ、130キロ台を記録するボールも見られ始めている――ストレートに対応することが出来ない。

 どうする……

 先述の通り、付属沢見バッテリーのテンポは非常に速い。結論を出す時間など、全く許してくれない。

「うらあっ!」

 口も眼も限界近くまでに開け放ち、弓射が第五球を投げた。

「シューーーーー・・・・・・・・・」

 ボールがキャッチャーのミットに飛び込むまで、わずか1秒足らず。迷っている暇はない。こうなったらもう……

「……はっ!!」

 振るしかない!

 白球がうなる。

 バットが閃く。

 両者の衝突は……

「バシッ!」

 なかった。

 空振り三振。内角高めのストレート。新月は軽く天を仰ぎ、マウンド上の弓射に一瞥を送り、左打席をひとまず去った。

 代わりに一番打者の島田さんが、打席に向かってくる。

 すれ違いざま、島田さんは新月に誓った。

「いい勝負だったな。まあ、俺が決めてやるさ」

「大丈夫ですか?」

「任せとけよ。あの生意気な小僧を……叩き潰してやる」

 小僧、といっても一つしか年は変わらないのだが、それでも下級生である弓射が暴言で応戦してきたという事実は、島田さんを極度の興奮に導いているようだった。

 そして島田さんは大股で打席に入り、審判の目もはばからず、再び挑発の叫びを弓射に浴びせかけた。

 

 ……が、いつものごとく、島田さんのあきれるほどの意気は、見事な空回りをして見せた。

 何とか三振は免れたものの、直球で芯を外されて内野フライに倒れてしまった。

 三回の裏。まだ試合は動かない。

 新陽球場の熱気につられて、夏の太陽はその輝きを徐々に増していた。

 

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