本格派と力投派

 

 付属沢見高校のベンチ前。18人の選手たちは輪になり、頭を少し下げて互いの意気を高めあっていた。

「加瀬、どや、次は出られそうか?」

 輪の中心付近でエースの弓射が。一番打者の加瀬に尋ねた。

「そうだな……結論だけ言えば、厳しいな」

「厳しい、やと?」

 弓射をはじめ、輪をなしている数人の部員たちがその言葉に気色ばむ。だが、加瀬は平然として、

「ああ、厳しい。でも、打てないとはいってないだろ?最低でも前にはきちんと飛ばせると思う。散々、球筋も見てきたしな」

 加瀬は首だけを動かして部員達の顔を覗き込み、確信に満ちた声で言った。

 ここまでの3イニングで、付属沢見の各打者は故意にファールボールを打ち続けた。全ては、土方さんの投げるボールの軌道を徹底的に確認し、打線の二巡目から一気に攻勢をかけるためだ。

 9イニングある攻撃の機会を、自ら6イニングにまで減らして相手に立ち向かう作戦。これが吉と出るか凶とでるか、まずは一番打者の加瀬にかかっている。

「よーし、それやったら、死ぬ気で喰らいつけ。いいな」

「おう」

「よっしゃ、じゃあもっかい気合入れるで!絶対に、去年のリベンジを果たすんや!」

 弓射の掛け声を引き金に、付属沢見の選手たちは自分たちの決意を地面に叩きつけた。

 

 迫力に満ちた付属沢見の鬨の声は、マウンド上で投球練習を続ける土方さんにさらなる重圧をかけた。

 そろそろ、まずいかもしれない。確かにここまで、ヒットは一本も打たれていないものの、その代わり相手を圧倒していると言う手ごたえもない。

 押し迫る不安の中、土方さんの脳裏に藤谷さんの言葉がぼんやりと浮かび始めていた。

『コントロールが甘くなっているかもしれない』

 これは土方さん自身も、自分の弱点としていつも懸念している要素だ。それだけに、この仮説から土方さんが感じる脅威は、周りからは計り知れないほど大きなものだった。

 土方さんが自身の弱点を初めて痛切に感じたのは、他ならぬ春のセンバツのときだった。いくら球威があっても、コースが甘ければ用意に打ち返してくる全国レベルの打者たち。今の制球力では、そのうち通用しなくなるのは明らかだ。そういうわけで実際のところ、土方さんはあの時の好投を素直に喜べていなかったのだ。

 そして土方さんはセンバツ終了後、ひたすら下半身を鍛え、コースを意識しながら投げ込みを繰り返したが……思うように成果は上がらなかった。

 「ボールをコントロールする」と言っても、それは要するに全身をいかに制御するか、という点にかかっている。190cmを越える巨躯を持つ土方さんにとって、それは人一倍困難なことだ。だから、なかなか制球力が上がらないと言っても、本人の努力量を責めるわけには行かない。

 しかしいくら悩んだところで、すぐさま制球力が上がるはずもない。相手の一番打者は、すでに左打席に入ろうとしている。

 とりあえず、自分のできる範囲で投げていこう。

 土方さんはロージンバッグの粉をいつもより多く左手に取り、キャッチャー藤谷さんのサインを覗き込んだ。

 

 初球のサインは高目へのストレート。まずは脅かしておこうという意図もあるのだろうが、藤谷さんにしては少し大胆なリードだとも、土方さんは感じた。だが、ここまでの3イニングのことを考えると……おそらく相手は、そう早くからボールに手を出してはこないだろう。

 土方さんが胸の前にグラブを置く。そのまま右ひざを持ち上げ、力強く左腕を振り抜く。

「シャァァーー・・・・・・・」

 ボールが投じられた瞬間、打者の加瀬は少し短めに持ったバットを後方に引いた。

 最短距離で、加瀬は高めの直球を打ち砕いた。

「キンッ」

 割と早めに反応を見せたはずだったが、結果として加瀬は少し振り遅れてしまった。

 だが、きちんと芯の近くで捕らえられた打球は、三遊間の微妙なコースに加速をつけて跳ねていった。

 ショートの新月、サードの金田貴史が全力で追う。

 その間にも、加瀬は快足を駆って一塁へ突き進む。

 打球は内野のかなり深いところまで飛んだが、最後にはサードの貴史がグラブを伸ばして捕球した。

 貴史は捕ってもなお足を止めず、無駄のない動きでボールを右手に持ち、コンパクトに一塁へ送球した。

 流麗なランニングスローだった。

 しかし残念ながら、加瀬の力走を刺すことはできなかった。

「セーフ!」

 一塁塁審が、音が聞こえそうなほど勢いよく両手を広げた。

 加瀬は頭から滑り込んでいたが、タイミングは完全にセーフ。審判は迷はず判定を下し、両チームの選手も特に疑問を抱かなかった。

 ノーアウト、ランナー一塁。四回の表、ついに付属沢見にも、初めてのランナーが生まれた。

 

 今の球も、少し甘かった。

 土方さんは打たれた球をそう分析し、自分の制球力への不信をさらに強めた。

 左打席に二番打者の小道が入った。

 内野陣はセオリーどおり、バントに備えて少し前進する。だが、打席上の小道はバットを立てて構えている。長距離打者のフォームだ。本当にバントなどしてくるのだろうか?

 でも逆に見れば、そうやって惑わせておいて守備の反応を鈍らせ、バントの成功率を下げようとしているのかもしれない。

 土方さんは一旦、一塁に軽く牽制球を放り、セットポジションで構えた。

 初球の指示は内角へのストレート。

 足を上げ、少し早めの動作で投げ込む。

 だがボールを放す瞬間、土方さんは指先にわずかな違和感を覚えた。

「シャァァーー・・・・・・・・」

 球は藤谷さんが指示した場所よりもずっと内側、つまり小道の懐に走っていった。

 小道が反射的にのけぞり、かろうじて白い凶器をかわす。

 ボール先行。土方さんの体は、少しだけ外に開いてしまい、ボールがうまくかからなかった。

 これも土方さんの欠点の一つだ。ランナーを背負うと、自分自身では特に気にしていないはずなのに、体が適切なバランスを保ってくれない。

 練習と試合を通して、何とか克服しようと土方さんはいろいろな方法を試してはみたが……あまり芳しい成果が上がらないまま、県予選の準決勝を迎えてしまっている。

 その弱点に追い討ちをかけるかのように、一塁ランナーの加瀬は先ほどよりさらに大きいリードを取った。

 またも牽制球を送るが、加瀬は無難に帰塁した。

 たぶん、揺さぶるだけのつもりなんだろう。

 一応は気を配りつつも、土方さんは先ほどすべった指先に特別の意識をこめ、第二球を投じた。

 低めのストレート。

 打者の小道はかすかに反応を見せたが、すぐにバットを止めた。判定はボール。

 土方さんとしては、意図的に外したわけではなかった。だんだん、不利な状況へと追い込まれていく。

 相変わらず一塁ランナーのリードは大きい。土方さんはけん制したい衝動に駆られたが、どうせまた巧みに戻られるのは目に見えている。今はとにかく、目の前の打者に全ての神経を向けることにした。

 少し動きが大きくなったフォームから、第三球目。

「シャァァーー・・・・・・・・ドンッ!」

 再び内角へのストレート。

 しかし判定が下される前に、だしぬけに捕手の藤谷さんの体が、中腰になって一塁に向いていた。

 小さな腕の振りから、的確な送球。

 ランナーの加瀬が、少し飛び出していたのだ。

 加瀬が反射的な動きで一塁に滑り込む。

 一塁手の具志堅が、藤谷さんが放った低空の送球をしっかりと捕り、加瀬にグラブを合わせにいく。

 今度はきわどいタイミング。

 両チームの全ての目が、一人の審判に集まった。

「……アウト!」

 少しの逡巡のあと、審判は親指を立てた腕を力強く前に突き出した。

 刺された加瀬は、すっかり土まみれになったユニフォームを手ではたきつつ、うつむきながらベンチへと走っていった。

 これで1アウト。

 土方さんは感謝の意をこめ、藤谷さんに向かって左手を上げた。藤谷さん特有の、シャープで正確な送球。それが存分に発揮された、先ほどのプレー。

 しかし藤谷さんは、何も反応を返してこなかった。今は、それどころの場面ではないのだ。カウントは0−3。

 土方さんは何となく罰の悪い表情を浮かべながら左手を下げ、グラブの中に収める。

 上体を大きく動かさないフォームからの第四球目。

「シャァァーー・・・・・・・・ドンッ!」

 これも直球。コースは高目。

 しかし、たどり着いたのはストライクゾーンの外。すべて直球で、フォアボールを出してしまった。

 たったの一球で、またもや走者が復活してしまった。この小道と言う選手が加瀬ほどの走力を持っているかどうかは不明だが、それでもあまり好ましくない状況である事は間違いない。

 土方さんは一塁へと駆けていく小道をむなしく見送り、マウンド土を二、三度掘り返した。

 

「カキンッ!」

 三番打者、田嶋が右打席から強烈な打球を放つ。軌道はセカンドの頭上。刈田は後方へ走って懸命に追い、当てずっぽうに跳躍した。

 なかなかハイレベルなジャンプ力。しかし打球は、到底普通の人間には捕らえられない高さを通過していった。

 打球は右中間、とまでは行かなかったが、センター定位置よりはライト寄りの場所へと着地した。

 島田さんが俊足を生かして追いつき、体を回転させた勢いで中継の内野手に送球する。

 その時島田さんは、少し衝撃的な光景を目にした。疾走する一塁ランナーの小道は、すでに二、三塁の中間を過ぎていたのだ。

 速い。事前にスタートを切っていたのだろうか。

 中継の球を受けたショートの新月は、これも俊敏な動きで三塁に送球するが……

「ズザアッ!」

「セーフ!」

 ランナーは生きた。ランナーに一応タッチした三塁手の貴史が審判にアピールをしたが、たちどころに跳ね除けられた。

 1アウト、一、三塁。マウンド上の土方さんは、帽子に手をやって深くかぶりなおした。

 キャッチャーの藤谷さんが、手を大きく広げて立ち上がり、ナインを激励する。ついでに藤谷さんは、内野手への指示も送った。ゲッツー狙いの中間守備。もし併殺に失敗したとしても、まだ一点が痛い場面ではない。

 そして藤谷さんが座りなおし、次の打者への攻め方を思案していると、突然耳をつんざくような騒音が右打席付近で鳴り響いた。

「よっしゃあっ!ここで決めたろっ!」

 騒音の正体は、四番打者の弓射が発した大声だった。第一打席は、こんなやかましい怒鳴り声を上げていなかったが、それはたぶん、あの時はまだ様子見をしていた、ということを裏付ける証拠になるろう。

 一言では物足りなかったのか、なおも様々な怒声をマウンドに、味方ベンチに、そしてバタ西のベンチにぶちまけ続けていた弓射は、この悲惨止めとなる注意を主審から受けた。さすがに主審も、かなりいらだってきている様子だった。まったく、災難なことだ。

 弓射の暴走がひとしきり終わると、土方さんは背中越しにさっと三塁ランナーの様子を確認し、初球のサインを覗き込んだ。

 外角高目へ、ボール球。しかも、極端に外す。

 スクイズ対策の配球だ。四番であり、これだけ気合を撒き散らしている弓射がスクイズという手段にでることはあまり考えられなかったが……それでもやはり、高校野球においてスクイズがかなり有効な作戦である以上、相手がどんな様子であろうと警戒を怠ってはいけない。

 土方さんはサインの意図を自分なりにかみ締め、小さめのモーションから第一球目を投げ込んだ。

 指示通りにボール球。

 打者の弓射は微塵の反応も見せず、ぎらついた目で遠く外れた球を見送った。

 どうした、逃げるのか?

 とでも言わんばかりに、弓射は口元を歪めつつ土方さんの目を見つめてきた。

 だが、そんな弓射に対して小慣れたウィットを返す余裕など、この時の土方さんには全くなかった。

 次の球はなんだ?この場面でのファーストストライクなんだから、できるだけ入れやすい球にしてくれ。

 その土方さんの思いとは裏腹に、藤谷さんは外角低目への直球を要求してきた。

 文句を言うわけには行かない。おそらく、何かの読みがそこに込められているのだろうから。変化球を求めてこなかっただけ、まだ幸いなのかもしれない。

 土方さんは一塁に軽く目をやり、確認してから第二球目を投げ込んだ。

「シャァァーー・・・・・・」

 相変わらず速い。そろそろ、時速140キロを越えているかもしれない。

 コースもかなり正確なところへと向かった。

 だが弓射は、極度に打ちにくいはずのその直球を、

「うおぉっ!」

 マウンド上と同様、うなり声と共にバットを振りぬいた。

 白球が舞い上がった。

 センターの島田さんが、太陽の凶悪なまばゆさに顔をしかめつつ、球の行方を追っていく。

 幸い、その弾道は高すぎた。

 フェンスにかなり近いところまで走って、島田さんはグラブを構える。

 そして、捕球。

 だが、三塁ランナーを刺すのは完全に不可能な距離だった。

 ランナーは悠々と走り、心ゆくまでホームベースを踏みしめた。

 1−0。犠牲フライ、タッチアップで付属沢見高校、一点先制。

 

「土方君!最小失点です!球は十分走ってますから、落ち着いていきましょう!」

 藤谷さんが、努めて明るい声を出し、マウンド上の土方さんを勇気付ける。

 決して、ほめられた結果ではない。だが、特に責められるべき過失でもない。

 最小失点。藤谷さんの発したその熟語が、土方さんにのしかかっている重みを、少しだけ取り除いてくれたような気がした。

 

 そこで土方さんは気持ちの切り替えに成功し、次の五番打者をフォークでゴロに打ち取った。

 3アウトチェンジ。先取点は取られたが、まだ四回の表。これから、逆転のチャンスは存分にある。

 

 

 

 土方さんがベンチに戻ると、不意に角田監督が立ち上がり、口を開いた。

「土方、お疲れやったな」

「……すいません。先制されました」

「まあ、気にすな。一点ぐらい、ちょっとしたアクセントや……って、そんなことばっかり言ってどんどん点取られて、どうにもならん点差付けられてもうたら、そらシャレにならんけどな」

 角田監督は快活に笑った。土方さんの気持ちを軽くしようとしているのだろうか。

 しかし突然監督は真顔になり、土方さんを座らせた。

「なあ土方、念のために言っとくけど」

 話しながら、監督も隣に腰を下ろした。

「打たせて取ろう、とか、絶対に思うなよ。お前は、打たせて取ったらあかん」

「……はあ」

 監督の意味するところがよく分からず、土方さんは気のない声を返した。

「それ以前に、お前は打たれたらあかんのや。思いっきり投げ込んで、バンバン打者をビビらせて抑えていく。それが本格派投手ってやつや。つまり、お前のような投手のことやな」

「……はい。でも、今日の俺には、そんな投球はできないと思います」

「ん?なんで?」

「……どんな球を投げても、当てられるんです。これは、俺の球を相手が恐れてないってことですよね?こんな球威では……」

「そうか。だから、緩い球でもうたれんように細かく投げていこうって、お前は思とったんやな?」

「……ええ」

「あほ抜かせ」

 監督は独特の関西弁でいさめた。

「そんなん考えとるから、あんなでかいフライ打たれるんや。極端な話な、三人連続でフォアボール出しても全然構へんねんぞ。お前の場合はな。そのあとの打者を全部抑えればええんやからな。お前は、それだけのことができるボールを持っとるやろ?」

 しかし土方さんは納得していないようだった。それはそうだ、自分で「球威がない」と思い込んでいる状態では、監督のこの言葉は答えになっていない。

 土方さんは何かを反論しようとしたが、監督はそれをさえぎって、

「相手に当てられたから、そんな球には威力がないんや、とか言うとったけどな、結局当てるだけやないか。前には飛ばせてへんかったやろ?三回までは」

「……あれはたぶん、飛ばせなかったんじゃなくて飛ばさなかったんだと思います。俺の球筋を見るために、わざと」

「ちゃうな」

 そう否定してから、監督はグラウンドで響いた打球音に振り向いた。いま、右打席に立っているのは藤谷さん。しかしその打球がファールになった事を確認すると、監督は話を続けた。

「ファールを打ち続けるのは確かにそれなりの技術がいるけど、ほんまにええ球をヒットにすることに比べれば、桁違いに簡単や。相手はお前の球を打たれへんと思たから、ああやって姑息に粘り倒しとっただけや。それなのにお前は勘違いして、ケチくさい球ばっかり投げて、さっきそれに見事につけこまれてしもうた。それだけの話やがな」

 それを聞きながら、土方さんは四回の自分を思い起こしていた。

 確かに俺は、慎重になりすぎていたかもしれない。コントロールのことばかりを気にして、腕の振りもいつの間にか小さくなって、フォームの勢いも……

 とここまで考えて、土方さんはもっと過去のある出来事を思い出した。

 あれは春のセンバツ第一回戦、長州学院戦のことだ。あの時も俺は、変に細かいことに気を取られて、監督に注意されたはずだ。フォームに躍動感がなくなっている、と。

 そうか、しまったな……

 土方さんは過去に得たはずの教訓を再び思い返し、それを生かせていなかった自分を深く反省した。

「とにかくな、お前は藤谷のサインを信じて、力の限り投げ込め」

 監督は語気を強めなおしていた。

「打たせて取る、とか、相手を幻惑させる、とか、お前がそんな事を考えるのは爺さんになってからや。こんだけ若くて、こんだけええ肩持っとるんや。もっと自信を持て。普段の生活とか練習で謙虚なのはお前の長所やけど、マウンド上ではそんなことではあかん。もっと、傲慢になれ。ええな」

「……はい」

 土方さんがしっかりとうなずくと、それに歩調を合わせるかのように、グラウンドで打撃音が高らかに響き渡った。

 

 四回の裏の先頭打者である藤谷さんは粘っていた。付属沢見に対しての、ある種の報復だ。

 土方君の受けた苦しみを、あなたたちも丹念に味わってください。

 藤谷さんは何か残酷な喜びを覚えつつ、ただ弓射の投げるボールを手当たり次第にファールにしていった。

 もともと藤谷さんは、カットが得意だ。いや、カット、バント、流し打ちと言った小技を得意にするために、バットを極めて短く持つ打撃スタイルをとっているのだ。それに加えて、弓射のボールは球筋自体はそう見にくいものではない。

 気合を全身にみなぎらせて投げ込んでくるため、打者は何となくたじろいでしまい、前に飛ばすのは難しいが、ファールにするだけなら藤谷さんにとって何のことはない。同じ頃、ベンチ内で監督が土方さんに教えていた事を、グラウンド上ではまさに藤谷さんが実践していたのだった。

 そして弓射が投げた第13球目。発せられる叫び声が闘志から苛立ち、さらに焦りへと変わり始めたとき、ボールは外角の真ん中、ごくごく甘いコースへと無防備に飛び込んできた。

 さすがの藤谷さんも、この球には飛びついた。そろそろカットが途切れる危険性もあったので、藤谷さんは迷わずバットを振りぬいた。

 最高に心地いい感触が、藤谷さんの手元に伝わってきた。バットがボールを柔らかくつかみ取り、吸収した威力を全て使って弾き返すような感覚。

「カキーンッ!」

 弓射のうなりさえ、たちどころに吹き飛んでしまうほどの快音が、球場の空気を震撼させた。

 藤谷さんにとってこの当たりは、今年に入って、いや、これまでの人生で最も完璧な当たりに違いなかった。

 内野を越えても、打球は面白いように伸びていった。

 だが、外野の奥になると突如打球は沈み初め、フェンスの一番上に当たってグラウンドに跳ね返った。

 ホームランにはならなかったが、藤谷さんは特に悔しいとは思わなかった。

 あの当たりを体感できた、それだけでもう十分楽しめたように思えたし、何より自分はホームランなんてガラではない。

 藤谷さんは、フェンス際の処理に手間取っている外野手を確認すると、強くベースを蹴って二塁を回った。

 初の――そして、入っていればおそらくこれで最後の――ホームランは打てなかったが、せめて初の三塁打ぐらいは打ちたい。どうしようもなく遅い足にはばまれて、いままで打てなかった三塁打。せめてそういう形で、さっきの当たりを生かしてみたい。

 そういった欲望に動かされて、藤谷さんはがむしゃらに走った。

 なかなか軽快には回ってくれない足を、必死で動かす。

 三塁ベースが目に入ると、足から滑り込んだ。

 その時には、すでに送球が三塁手のグラブに入ろうとしていた。

 しかしタッチは間に合わない。

 審判が両手を広げ、藤谷さんの三塁打を記録に刻んだ。

 思ったよりもギリギリのタイミングではあったが、藤谷さんはこれまでにない充足感を、ゆっくりと立ち上がりながら確かめていった。

 

 外角のストレートを、土方さんはあえなく引っ掛けてしまった。

 打球は一塁方向へ二、三度跳ねた後、ファーストのミットに収まった。

 一塁手はボールをつかんだまま、走る土方さんの体にグラブを押し当てた。

 当然、三塁ランナーの藤谷さんは動けない。これで1アウトだ。

 焦ってしまってのが主な原因だった。

 投手としての心構えを熱く語り続けていた監督、それに聞き入ってしまっていた土方さん、どちらにも責任はあるのだが、とにかく土方さんは自分が次の打席に立たなければいけない事をすっかり忘れていたのだ。

 思い出したのは、藤谷さんが放った打球の行方を見届けた後。

 それも、土方さんの次に打席に立つ角屋さんがバットを用意しながら、

「お、おい、土方!何でお前ここにいるんだ!」

 と、慌てて警告したのがきっかけだった。

 そして土方さんは火事場から逃げるようにベンチを飛び出し、審判に何度も謝りながら打席に入り、何がなにやらよく分からないままカウント2−1と追い込まれ、ついにファーストゴロに打ち取られたのだった。

 部員の中には、「タイムをとって落ち着いてから打てばよかったのに」という者もいたが、土方さんはその考えを抱いたとしても、決して実行はしなかっただろう。

 ネクストバッターズサークルにいるべき場面で、のんきにベンチに座って大迷惑をかけていたのに、タイムを取るなんてとんでもない、と思うに違いなかった。土方さんは、大きい体に似合わず人一倍、他人に気を使う男なのだ。

 

 そんなあわただしい雰囲気の中、角屋さんはうなだれてベンチへ帰っていく土方さんに「どんまい!今度から気をつけろよ!」と励ましの声をかけ、右打席に向かった。

 まだまだチャンスは潰れていない。1アウト3塁。犠牲フライでも動転に出来る場面だ。もっとも、藤谷さんの走力を考えれば、結構深めのフライを打ち上げないとタッチアップは難しいだろうが……それぐらいの仕事は、四番である角屋さんには果たす責務がかかっている。

 マウンド上の弓射はピンチを迎えて燃えている。より厳しくなった顔つきの変化は、18m離れた打席からでも十分に読み取れるほどだ。

 ネクストバッターズサークルから観察したところ、角屋さんにはスピードもかなり増しているように感じられた。先ほど土方さんが凡退したのも、ただ混乱のせいだけだったとはいえないだろう。

 バットを軽く振り、ややオープンスタンス気味で構える。偉大なるホームランバッター、竜洋司にあこがれ、真似して作り上げたスタンス。

「うおっしゃあっ!いくでぇっ!」

 さらに勢いをつけた弓射の叫び声が、マウンド上にこだまする。

 まったく、騒がしい男だ。

 角屋さんは呆れながらも、初めて対戦したときのような嫌悪感はまったく抱かなかった。むしろ、自分でも気づかないうちに、

「いい度胸だ!来いよ!」

 と、口走ってしまっていた。

 いったい後ろで立っている主審は、マスクの下でどんな顔を浮かべていることだろうか。

 弓射がサインを確認し、セットポジションから第一球目を投げ込む。

「うおあっ!」

「シューーーー・・・・・・・・・バンッ!」

 直球が鋭くミットを叩く。

「ストライッ!」

 角屋さんが打席の外で感じたことは、間違っていなかった。

 確実に、速くなっている。

 自分の中での感覚、球を待つタイミングを調整し、角屋さんはベンチの方へ目をやった。サインはない。

 一打同点の場面。当然俺には、大きな期待がかけられているだろう。

 角屋さんがそう決意を新たにしたときには、すでに弓射が二球目を投げる体制に入っている。恐ろしく速い投球テンポだ。

 足を上げ、腕を引き、そして弓射は投げ込む。

「うおぉっ!」

「シューーーーーー・・・・・・」

 低めの球。

 読みが正しければ、ここから……落ちる!

「スッ」

 球種を読んだ角屋さんは、もちろん手を出さない。

 白球は一度跳ねてからキャッチャーミットに収まった。

 やはり二巡目になると、ある程度パターンがわかってくるような気もする。あくまでも、「気がする」だけではあろうが。

 深呼吸をし、バットを持ったまま肩甲骨だけを回して、第三球目に臨む。

 弓射が再び叫び、右腕を振り下ろす。

「シューーーー・・・・・・・・・・バンッ!」

 低目へのストレート。高さはきわどいところ。

 審判は少し迷ったあと、手を上げてストライクを宣告した。

 これでカウントは2−1。追い込まれた。

 ここからだ、ここからがあの弓射と言う投手の強みだ。打者を追い込んでから、弓射は気合で押し込んでくる。その迫力に、俺たちバタ西の打線は封じ込められている。気持ちで負けている。

 角屋さんは、ここまでのバタ西打線の湿りをそう分析していた。そして……まずは自分自身で、その凝り固まった空気を打破しようと、打席に入る前から意気込んでいた。

 そしてついにその場面がやってきた。

 弓射が胸の前にグラブを置き、足を上げる。

 角屋さんはグリップをねじるように握り締める。

 弓射がボールを放し、うなる。

 角屋さんも答えて、叫ぶ。

 気迫と気迫のぶつかり合い。

 絶対に、気持ちで負けない。

 弓射が放ったボールは、内角に向かって空を切り裂いた。

 内角。角屋さんが最も得意とするコース。角屋さんが四番であるゆえんの一つ。

 確信を持って、角屋さんはその球にスイングをぶつけにいった。

 ここで白球は角屋さんの手元付近で突然、グッとホップした。

 普通の打者なら、間違いなく詰まらされるところだろう。

 だが角屋さんは、持ち前の鋭く巧みな手首の返しで、その球を無理やり振りぬいた。

「ガッ!」

 強いが、鈍い音が響いた。

 しかし打球は弓射の頭上を越え、二塁ベースの上を越える。

 三塁ランナーの藤谷さんは走る。

 打球は外野にポトリと落ち、センターが素早く捕球してバックホーム。

 藤谷さんも必死で滑り込む。

 クロスプレーには、ならなかった。

「セーフ!」

 審判がひざを折り曲げ、低い姿勢で両腕を広げる。

 1−1。同点。

 打った角屋さんは、一塁線上で手を突き上げて喜んだ。

 ホームベース上で立ち上がった藤谷さんが、それに答えて手を叩く。この人らしく、我を忘れた叫び声、というものは伴わなかったが。

 気合で、弓射に勝った。弓射の大きなアドバンテージを、角屋さんがこちらのものにしてしまった。

 ここから、この試合の流れは一気にバタ西に引き寄せられるはずだった。

 少なくともこの時点では、球場内の、付属沢見の選手を除く全ての人たちが、それを信じてやまなかった。

 

 だが、一人の選手がその流れを一打で断ち切ってしまった。

 その選手は、五番打者の金田貴史。

 数々の練習試合、そして県予選のここまでの三試合で、一年生とは思えない打撃力をもって暴れまわっていたこの男が……あっさりとピッチャーゴロに討ち取られ、ダブルプレーに切って取られた。

 痛烈な当たりではなかった。

 完全に、詰まらされた当たり。

 練習試合で当たった昭成高校の石動、陽陵学園の引出、そして練習で幾度も対戦した土方さん。それらの全ての選手のストレートを、柔軟なミート力と的確なバットコントロールで打ち砕いてきた貴史が……なぜかこの弓射には歯が立たない様子だ。

 その理由は今のところ、本人以外は、いや本人ですらも知るところではない。

 

 その後の5回、6回は、両チーム共に一人のランナーも出せなかった。

 監督のレクチャーですっかり開き直った土方さんは、付属沢見の六人のバッターから二つの三振を奪い――普通の打線から得るものよりははるかに少ないが――、順調に二イニングを乗り切った。

 一方の弓射は、何となくしおれてしまったバタ西を、引き続き力押しして抑えていった。

 

 そして試合は終盤、7回へ。

 スタンドの観衆は、夏の熱波にも負けず、緊迫した目で試合を見つめていた。

 

次へ

第五章メニューに戻る

小説目次に戻る

ホームに戻る

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送