熱気

 

 土方さんの直球が、付属沢見の三番打者田嶋のスイングを押し切った。

 打球はフラフラと、一塁ファールグラウンド上を飛んでいく。

 着地点はグラウンド内。余裕を持って構えていた一塁手の具志堅が、難なく捕球してアウト一つを記録した。

 それら一つ一つの動きを、ベンチから二人の一年生が凝視している。

「いやー、やっぱこれが、高校野球だよな。スピードが全然違う」

 片方の一年生、背番号17の道岡が、心の底から感嘆のつぶやきをもらした。

 土方さん、弓射という両チーム投手の球速もさることながら、打者のスイングの鋭さ、野手の守備範囲の広さ、全ての動作が中学時代とは比べ物にならないほどダイナミックで、道岡はあふれるスリルをこの試合に感じていた。

「そうだよな。でも、今さら言うことでもないだろ」

 もう片方の一年生、背番号18の板橋は少し首をかしげて道岡に言った。

 確かにこれまで、二人は練習試合、そしてこれまでの予選三試合を通じて、バタ西の選手たちと相手チームの動きを、かなりの機会にわたって見てきている。にもかかわらず、なぜ道岡は改めて驚きをあらわにしているのだろうか。板橋にはいまひとつ、その意図が汲み取れなかった。

「でもさ、やっぱりこう、実戦になるとまた違うだろ」

「うーん……実戦も、もう三試合も見てきてるけど」

「いや、前の三試合は余裕だったから。何というかこう先輩たちも、必死って感じはしなかったからな」

「そうかな?キャプテンはいっつも、『どんな試合でも絶対に手を抜くな』って言ってるし、前の試合もみんな必死だったと思う」

「そうだな……まあでも、表では『いつも全力で』って言ってても、コールドの試合じゃどうしても緩んでしまうと思うんだよな、やっぱり。それは仕方がないことだろ。その点、今日の試合はマジでヤバいからな。今日の先輩たちは、本当に必死で相手にぶつかってると思うぜ」

 道岡の言葉を確認するために、板橋はグラウンド上の選手たちの顔を、一つ一つ観察してみた。

 確かに、バッテリーの対決を見つめる彼ら一人ひとりの目からは、これまでにない緊張感と戦意がほとばしっている。

「なるほどな。そういわれてみれば、みんな顔つきが違う気がするな」

「だろ?相手のやつらだってそうだ。みんなただ勝つことだけ、それだけしか考えてないって顔してるよな」

 負けたら終わり。青春をかけた男たちの戦いが、たったの一敗で幕を閉じてしまう独特の緊張感。

 常に追い込まれた状況で、本気の人間たちがぶつかり合う。そこに高校野球の魅力を見出している道岡は、この緊迫した試合を沸き立つ興奮をたたえた面持ちで見つめていたのだった。

「ここまで必死にやってるとさ、先輩たち、もしこの試合が最後になったとしても悔いはないんじゃないか?」

 不意に道岡が、不可解な考えを提示した。

「え?なんで?……やっぱり負けたら、どうしても悔いは残るだろ?」

「どうなのかな……まあ俺はここまでギリギリの状況で戦ったことないからな。よくわからん」

 マウンド上の土方さんは、右打席の四番弓射に第二球目を投げた。高めの直球でストライク。弓射は空を切ったスイングの体制から立ち直ると、今日何回目かもわからないうなり声を、打席に響かせた。

「結局、どっちに傾くんだろうな」

 板橋がふと、素朴な疑問を口にした。

「そりゃあ、俺たちが勝つに決まってるだろ。……って言いたいけど、正直相手の投手がいいからなぁ……」

 あれだけすごい先輩達が、簡単に負けるはずがない。一方ではそう自分に言い聞かせながらも道岡は、それを確信するまでには至っていない。その原因となっている事実を、板橋は返答した。

「相手の投手か……確かに、貴史をあそこまで抑え込める投手なんて久しぶりに見たよな」

「そう。そこなんだよ。まあ高校野球なんだから、いつか出てくるだろうとは思ってたけど」

「あれだけ貴史が苦しむのは、たぶん中二の時の大辻以来だよな」

 板橋は、一人の投手の名を出した。その投手もある時期、天才打者金田貴史を完膚なきまでにねじ伏せていた男だった。

「でも、その大辻も貴史は中三になると打てるようになってたからな。あの弓射って投手も、何度か対戦すればそのうち攻略されるんだろうけど、今日打たなきゃ意味ねえからな……」

 先ほどとは打って変わって、ひどく不景気な顔になり始めた道岡を、板橋は叱咤した。

「おいおい。何でもう負けるみたいなことになってるんだよ。このチームはさ、貴史が打たなきゃ終わり、みたいな弱小じゃないから大丈夫だって。藤谷さんとか角屋さんももうヒット打ってるんだし……それにこっちだって投手はすごいんだから」

「おう、そうだったよな。土方さんがそう簡単に打たれるわけないもんな。だったら……」

 道岡が希望を取り戻して、再びグラウンドに目を向けたときだった。

 鋭い金属音と共に、白球は土方さんの頭上を越えていった。

 どうやら四番の弓射が、センター前ヒットを放ったようだ。

「……まあ、そう簡単に、点は取られないさ」

「……土方さん!気合だーっ!」

 自らの不安を吹き飛ばすかのように、道岡は最大限の声を持って土方さんに激を飛ばした。

 

 土方さんはその後の五番打者に四球を出し、1アウト一、二塁のピンチを作ってしまった。

 しかしそこからは自慢の速球とフォークでゴリ押しの投球を見せ、最後は三振を奪って7回表を切り抜けた。

 ナインがベンチへと帰ってくる。手に汗握る展開なのに、なぜか選手たちの表情はより一層の喜びに輝いていた。強力な相手とのデッドヒートを、心から楽しんでいるかのように。

 そんな選手たちの様子を、南条はベンチの奥から憂鬱に眺めていた。

 なんだろう。みんなと自分の、この目に見えるようにはっきりとした温度差は。

 

 他にすることもないので何となくバットを手入れしていると、突然角屋さんがバタ西の全選手に招集をかけた。

「みんな!集合!ラッキー7だから円陣組むぞ!」

 最後の一言はよく分からなかったが、とりあえず南条は腰を上げてベンチ前へ向かった。

 18人の高校球児が、頭を下げ気味にして円状に並ぶ。

 人数が揃った事を確認すると、角屋さんは口火を切った。

「いいか、あのやかましいピッチャーは叫びすぎでそろそろ疲れてきてるはずだ。変に9回までも足して調子に乗らせる前に、ここらでガツンと決めといたほうがいいと思う」

「同感ですね」

 冷静に、しかし口元に笑みを浮かべながらこういったのは、もちろん藤谷さんだ。

「彼は相当強靭なスタミナを持っていると思います。足腰もなかなかぶれていませんし、気合を前面に出すスタイルの割にはフォームも結構きれいにまとまってます。しかし……6回の後半辺りからそれも怪しくなってきています。そろそろ、相手はボロを出し始めるはずです」

「なるほどな。何か、対策とかはあるか?」

「いえ、それはまだなのですが……引き続き観察を行います」

「そうか。でもまあ、そんなことに頼らなくても勝たないダメだよな。俺たちは、もう一度甲子園の土の上に立つんだから」

 角屋さんは改めて、各選手の顔を見渡した。

「甲子園って言う目標には、何回出場したら満足、なんて基準はない。何度でも出て、俺たちの力を見せ付けてやろうぜ。そのために、俺たちは毎日毎日野球と勝負してきたんだ。だから俺たちは絶対勝てる、いや、勝つんだ。いいな!」

「はい!」

「よし、じゃあいつものいくか!Let's Go バタ西!」

 18人の選手達が、チタンバンドをはめた腕を下げ、叫びに備える。

 一瞬で大量の息を吸い込み、

 おー。

 と周りの意気に声と体を合わせる。

 のどがかれるような音量で叫ぶ自分を、何を熱くなってるんだ、と無表情に見下ろすもう一人の自分。

 南条は、皆と同じようにみなぎる闘志を体現して見せたが、内心では強い疎外感を覚えていた。

 なぜだろう。自分の中に、一緒に戦っているという感触がまるでない。背番号をつけているのに、何かモニター越しに繰り広げられている戦いを見つめるような気持ちしか持てない、冷ややかな自分がこの上なく嫌だ。

 自分がスタメンに入れなかったからだろうか?この、両者死力を尽くして刃を合わせる試合に、到底自分の入り込む余地などないからだろうか?

 だが、中学のある時期も、高校一年のときもベンチを外れていたのに、このようにうつろな気分になった事は一度もなかった。少なくとも記憶には残っていない。

 そもそも俺は、ここにいていいのだろうか?

 そんな奇怪な疑念さえ、南条の心は浮かべてしまっていた。

 思い悩む南条の横を通り過ぎて、バットを抱えた角屋さんがネクストバッターズサークルへと向かっていった。

 ベンチ内のささやかな寂寞などお構いなしに、試合はまだまだ続いていく。

 

「南条さん」

 不意に、何となくすぐれない顔をした金田貴史が声をかけてきた。

「うん?何?」

「なにか、弓射を打つ手ってないですかね……?」

「そういうことは、藤谷さんに聞いたらいいんじゃない?」

 自分でも驚くほど面倒くさそうな声で、南条は返答してしまった。

 南条がすぐに危惧した通りに、金田貴史は困った様子を見せた。

「いや、藤谷さんはその……何か恐い顔をしてグラウンドを見てるんで、話しかけづらくて……」

 おそらくさっき角屋さんに頼まれた「観察」を真剣に行っているため、慣れていない貴史は恐怖を感じてしまうのだろう。確かに、こういうときの藤谷さんには、声をかけづらい。

 南条は納得して、できるだけ親切に対応することにした。

「そうだな……まず、なんで打てないんだ?ストレートか、それともフォークか。どっちにしても、いつもの貴史に打てない球には見えないけど」

「そうなんですよね……なんというか、集中力が乱れるんです。いつもよりもずっと」

 集中力、か……

 南条は少しうつむいて考えた。

 貴史は、試合前から自分の集中力を極限まで高め、打席上で驚異的な反応力を見せるバッターだ。その集中力が乱れる。一旦自分の世界に入ると、誰の言葉にも耳を貸さないほど鋭いはずなのに……

 そこまで考えて、突然南条の頭にある一つのアイデアが沸きあがった。

「耳……そうか……」

「耳、ですか?」

「そう、そうだよ。耳だ!」

 すでにそのアイデアは、南条の確信するところまで育っていた。

「貴史が集中力を高める時って、周りの事を出来るだけ気にしないようにするんだよね?」

「はい。世界から自分を切り離す、って感じで……」

「それだったら、もっと徹底的に切り離せばいい」

 そして南条は、貴史にある秘策を授けた。

 貴史が、驚きに目を見張ってそのアイデアを受け入れたとき、グラウンドでは土方さんが本日チーム三本目のヒットを放っていた。

 

 ランナーを一塁において、角屋さんは誰もが予想しなかった行動をとった。

 角屋さんはピッチャー弓射が投げると同時にバットを寝かせ、送りバントを行ったのだ。

 よく考えれば、そう意外な作戦ではない。一点差で、ノーアウトランナー一塁。確実に送るのはむしろ当然といってもいいぐらいだ。

 しかし付属沢見の守備陣は焦った。何せ、四番バッターなのだ。送ってくるとは誰も思わない。

 それでも迅速な動きで何とか角屋さんをアウトにしたということは、それだけよく鍛えられているということだろうが……土方さんは二塁に悠々と進み、1アウト二塁のチャンスが生まれた。

 

 この場面で登場するバッターは、五番の金田貴史。ここまでの二打席、三振、ダブルプレーと結果は芳しくない。

 だが貴史は確固たる自信を持って打席に入っていった。その根拠は、両耳につめられたティッシュペーパーにある。

 マウンド上の弓射が二塁に一度けん制し、セットポジションから初球を投げ込んでくる。

 その口は大きくあけ広げられているが、貴史の意識に声はまったく届いてこない。

『たぶん弓射のあの叫びが、貴史の世界を壊しにかかってるんだ』

 南条のアイデアは的中していた。

 手元に来た直球は、確かに威力はそれなりにあるが、貴史の目からはまったく恐れるに足りない球にしか見えなかった。

 ミットが鳴る音も、審判の宣告も聞こえないが、おそらく今の球はストライクだったのだろう。

 でも、問題はない。この空間に、自分は身をおいているからだ。 音が自分の世界から消え去り、更なる孤独に自分を閉じ込めてくれる、この耳栓の内の空間。癖になりそうだ。

 不気味な笑みを口端に浮かべる貴史に向かって、弓射が第二球目を投げる。

 もはや貴史には、少しのためらいも気後れもなかった。

 俺の打撃空間へ、ようこそ。

「カキンッ!」

 貴史のバットが、真ん中低めのストレートを完璧に捉える。

 ただ、芯には当たったが、角度がつかなかった。

 打球は二塁横あたりの上空を高速で低空飛行。

 数回跳ねたあと中堅手のグラブに収まった。

 当たりが速すぎて、ランナーの土方さんはホームベースに帰れなかったが、チャンスは確実に広がった。

 1アウト、ランナー一、三塁。

 凍りついた試合を打ち壊す、絶好のチャンスだったのだが……

 

 裏返すと、それは弓射の闘争心を煽り立てる着火剤となってしまう。

 続く六番の具志堅を、弓射は一球一球に魂をこめて押し込んでいき、力負けした具志堅は力ないゴロを最悪の方向、セカンド正面に放ってしまった。

 付属沢見の守備陣は、乱れることなくゲッツーを完成し、七回の裏に終止符を打った。

 

 

 

 続く8イニング目は、再び両者共に沈黙してしまった。

 正確に言うと、どちらのチームもほんの少しだけ、それぞれの相手を揺さぶった。

 付属沢見は一番の加瀬が粘りに粘って四球を選んだ。二打席前のリベンジを意識したのかどうかは不明だが、俊足を飛ばして盗塁も一つ決めてしまった。だが土方さんは二番打者から三振を奪い、八回表はあっけなく終わってしまった。

 一方のバタ西の攻撃。唯一、新月がライトになかなかいい当たりを放ったものの、素早くライト線付近に到達した右翼手に捕球され、3アウトチェンジ。

 1−1のまま、準決勝は9イニング目を迎えることになった。

 太陽はいまだ、その輝きを弱めることなく、凶悪に選手たちの体力を奪いつつあった。

「……暑い……」

 イニング前の投球練習を終え、藤谷さんからの返球を受け取った土方さんは、ひとりでにそうつぶやいていた。

 10時にプレーボールの試合。双方の投手は投球テンポが早いため、試合はごく順調に進んで現在12時過ぎ。

 南中した太陽が選手の体力をじんわりと凶悪に奪い去っている。八回の終わりから特にはっきりと、マウンド上の土方さんは全身にまとわりつくような疲労感を感じ始めていた。

 七回裏が始まる前、藤谷さんは「弓射は時期にバテる」と言っていたのだが……実際のところ、その点に関しては今、土方さんのほうが状態は良くないようだ。

 よくよく考えれば、高校に入ってから土方さんは、こんなにも暑い日にフルイニングを投げきったことがない。

 練習のとき監督に頼んで、シュミレーションさせてもらえばよかったか……

 しかし、今さら後悔してももう遅い。

 左打席には相手の三番打者、田嶋が入り、ややオープンスタンス気味に構えている。

 審判右手をかかげ、九回の表が始まる。

 キャッチャーからの、第一球目のサインはストレート。

 土方さんは、頬に流れてきた汗をぬぐいつつ体を起こした。

 足を上げ、肘を軽く引き、ミットをめがけて左腕を振り下ろす。

「シャァァーー・・・・・・」

 初球にもかかわらず、ここで相手の田嶋はスイングを繰り出しに来た。

 ボールは高め、外寄りに甘く入っていく。

 田嶋は、しっかりとタイミングを合わせて振り抜いた。

「キンッ!」

 放たれた打球はショート頭上へ。

 例によって新月はボールに向かって跳躍するが、これも例によって届かない。

 レフトの中津川さんが回りこみ、打球を処理しに行く。

 それを見て、打った田嶋は一塁ストップ。

 ノーアウト、ランナー一塁。一点たりとも許されない場面で、土方さんは早くもランナーを出してしまった。

 

 たっぷりとにじんできた汗を抑えるため、土方さんは湿ったロージンバッグを手の上で転がした。

 この場面で迎えるバッターは四番の弓射。

「うおっしゃっ!よう出た、田嶋!ここで決めたるからなっ!」

 弓射は一塁ランナーに向かって、相変わらずのトーンで叫んだ。

 常に闘志を前面に押し出し、戦いを挑みにかかる弓射。

 そのためにすっかり後方へと隠れてしまっているが、弓射の投球や打撃は、かなり高い技術によって支えられている。

 いくら気合で押している面があるとはいえ、強い下半身に支えられた直球やフォークのキレは普通の選手のレベルを超えているし、その言動とは裏腹に、打撃においても軸のブレが少ない安定したスイングで正確に球を捉えてくる。

 だからこそ、彼はこのチームで四番かつエースと言う重責を担っているのだろう。そしてこの、一打で試合が決まりかねない場面では、最も相手にしたくない選手だ。実際にここまで、弓射には一安打と一打点をもぎ取られてしまっている。

 審判が手を上げると、キャッチャー藤谷さんからサインが送られてきた。

 初球はここでもストレート。ややボール気味の外角。

 ある程度、盗塁阻止のためのウエストボールを意識しているのだろう。

 土方さんは軽く一塁に目をやってから、第一球を投げ込む。

「シャァァーー・・・・・・・・ドンッ!」

 ホームベースにかするかかすらないかの、際どいコース。

 主審の判定はボール。

 ストライクを先行できなかったが、これはおそらく藤谷さんの戦略内だろう。

 第二球目。藤谷さんはフォークを要求。

 相手の打ち気を利用して、早めに空振りを取ってしまおうという配球だろうか。

 土方さんはうなずき、少し動きを早めて第二球目を投げ込む。

 だが、ボールを放す瞬間。

「シュッ……」

 指の中でボールがわずかに滑り、思わぬ方向に抜けてしまった。

 ボールは力なく打者のほうへと向かっていく。

 ただ、幸いなことに、抜けた球は早めに地面へと落ちていった。

 ホームプレートのはるか手前でワンバウンドした球を、藤谷さんは捕球するや否や立ち上がった。

 ランナーの進塁を警戒したのだ。しかし一塁走者の田嶋に動きはない。

 これでカウントは0−2。高めにフォークが抜けなかっただけ、まだマシだったともいえるが……決して有利な状況ではない。

 第三球目を投げる前に、土方さんは一塁に牽制球を送った。

 ランナーを釘付けにしておくと言う目的と、自分自身が間を取るためという意図。

 ファーストからの返球を受け取り、土方さんはサインを覗き込む。

 確認すると、あまり時間をかけずに足を上げ、長身から左腕を振りぬく。

「シャァァーー・・・・・」

 内角への直球。

 ベルトよりも低めへのコースへと球は走っていく。

 決して甘い球ではない。

 しかし弓射は、腰の回転を利用して、コンパクトにバットを出してきた。

 そのまま振り抜き、ボールを弾く。

「キンッ」

 タイミングが少し早すぎた。

 弓射の放った打球は三塁線上の右に飛び、三塁側のネットに当たって落ちた。

 マウンド上の土方さんは、小さな安堵のため息をもらしてそのあたりを見つめた、

 やはり、弓射の打撃能力は高い。今の内角の直球を、セオリー通りの動きできちんと跳ね返してきた。頭ではわかっていても、相当量の練習に裏打ちされた反応力、そして一定のセンスがなければ容易にできることではない。

 右打席で悔しそうな声を上げる弓射を、土方さんは改めて畏怖の目で見直した。

 弓射が、一度素振りをしてバットの軌道を確かめる。

 土方さんは背をかがめ、第四球目のサインを確認する。

 指示は、再びフォーク。

 先ほどすっぽ抜けてしなった時の、奇妙な感覚をできるだけ忘れるように努めながら、土方さんは白球を挟んだ左手を振り下ろした。

「シュッ……」

 しかし、嫌な感覚がまたもや土方さんを襲った。

 ボールが抜けた。今度は、高めに。

 回転を失った球が、打者にとって絶好のコースに飛んでいく。弓射はしめたとばかりにバットを繰り出す。

 その時突然、ボールは奇跡的に落ちてくれた。

 土方さんにとっても思いがけない変化だった。これで、何とか空振りを奪える。そう喜びかけたときだった。

 弓射が、スイング中にもかかわらず全身を制御し、無理やりバットの軌道を合わせてきた。

「カンッ」

 きれいなスイングではない。振り切った弓射の体は、完全に崩れてしまっている。

 それでも、「抜けたフォーク」はその威力のなさゆえ、当たれば最も飛ぶ球の一つ。

 おっつけられた打球はふらふらと、セカンドとライトの中間に向かって飛んでいった。

 二塁手の刈田、右翼主の角屋さんが懸命に追うが、間に合わない。

 ボールは走りこむ角屋さんの前に落ちた。

 ライト前ヒットで、ノーアウトランナー1、2塁。

 抑えれば勝利が見えてくる九回の表。最悪の場面で、バタ西は大ピンチを迎えてしまった。

 

 土方さんは自分の左手、特に人差し指と中指の間を恨むように見つめていた。

 一度ならず二度までも、フォークが抜けてしまった。

 最初は汗のせいだろうかと考えたが、弓射を迎える前にまぶしたロージンバックのおかげで、今のところそれほどの水分は吹き出ていない。少なくとも、あそこまでひどい滑り方をするような発汗量ではない。

 とすると、考えられる原因は一つ。

 握力が落ちてきた。

 土方さんはその考えを浮かべて、すぐさま戦慄した。

 もし本当にそうだとすると……これ以降の打者を抑える事は非常に難しくなってくる。

 先ほどのように、フォークがまともに操れなくなってしまうからだ。それどころか、ストレートの威力も確実に落ちてくるだろう。

 このイニングだけで試合が終わるなら、まだ何とかなるかもしれない。一イニングだけ投げる覚悟を持ち、全身全霊の力をもって投げ込むことができれば、握力の低下など気にする必要はないだろう。

 ただ、もちろんどこにもその保障はない。十回、十一回、十二回と試合が続かない、という保証は誰にもできない。

 これから、どうすべきなのか?

 しかし相手の五番打者はすでに右打席へと立っている。このまま考え込んで、試合のテンポを遅らせるわけには行かない。

 土方さんはとりあえず、先のことも考慮に入れつつ、今の時点で出来る最良の投球をすることに決め、初球のサインを覗き込んだ。

 第一球目の球種はフォーク。

 土方さんには、その意図がまったく読めなかった。なぜ、この場面でいきなり変化球なのだろうか。しかも、先ほどひどく乱れていた球を……

 だが藤谷さんが、何の理由付けもなく球種を選んでくるはずはない。

 土方さんはそれを確認すると、振り返って二塁ランナーを一瞥してから、モーションを始動させた。

 とりあえず、いつもより大きな力を二本の指に加えて。

「シューーーーーー・・・・・・・」

 中ぐらいの高さを進む球。

 バッターは初球からスイングにかかるが、ここでボールは鋭く沈んだ。

 白球がバットの軌道を、やすやすとすり抜けていく。

「ブンッ」

「ストライッ!」

 これで立証された。やはり、フォークが抜けた原因は握力にある。

 だが土方さんは今、いつもにはない鈍い痛みを、二本の指の間に感じていた。おそらく自分で意識した以上に、指はボールを強く強く挟んだのだろう。

 確かにこれでフォークは落ちるが、いつまでもこの力の入れ方を続けていると、十回辺りには指がまともに制御できなくなるぐらい痛んでしまうかもしれない。

 土方さんは、自分の左手に得体の知れない恐れを感じた。

 それでも、この手を信じるしかない。

 袖で額の汗をぬぐい、藤谷さんからのサインを確認する。

 次の球種はストレート。

 ここで土方さんは、自分でも気づかないうちに、どこかで安心してしまった。

 それが気の緩みにつながったためだろうか。真偽は定かではないが……

「シャァァーー・・・・・・・」

 第二球目のストレートは、明らかに威力が落ちていた。

 コースも、藤谷さんが指示した高さより少し上。

 よく鍛えられた付属沢見の五番打者が、それを見逃すはずもない。

「カキンッ!」

 夏の大気を切り裂くような打球音が、バタ西の各選手を震え上がらせた。

 上がった角度は小さいため、ホームランにはなりそうにない。

 打球の方向はセンターより少し左。一塁、二塁のランナーはそれを見て、スタートを切る。

 その軌道目指して、センターの島田さんは自らの快足を最大限に駆動させた。

 打球は高スピードで飛行する。

 島田さんは決死の形相で球を捕らえにいく。

 だが、これは間に合わない。

 数人の選手達が、そう判断したときだった。

 島田さんは地面を力の限り跳ねつけ、宙に飛んだ。

 それは賭けだった。失敗すれば、一点で済むはずの差が二点にまで開いてしまうかもしれない。

 それでも島田さんは恐れなかった。ただ、勝利への欲望のみに突き動かされて。

 その度胸が、運命を変えた。

 島田さんは倒れたまま何とかグラブを掲げた。

 グラブの中には紛れもなく、白い球が宿っていた。

「うおっ!やべぇ!」

 その動きを目にした途端、二人のランナーは反射的にきびすを返した。

 理想を言えば、ここで二つ目のアウトをとる、つまり帰塁に失敗したランナーを刺したいところだったが……

 ほとんど超人的といってもいいプレーを見せた直後の島田さんに、それを要求するのはあまりに酷だった。

 島田さんは身を起こし、周りに状況も確認せずに二塁へ送球したが、すでにそのとき二塁ランナーはベースに滑り込んでいた。

 1アウト、ランナー1塁2塁。まだまだ、ピンチは続く。

 

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