闇の手

 

 少しひねた見方をすれば、一スポーツの一ローカルイベントに過ぎない都道府県の予選大会。

 しかし、さすがに夏の甲子園につながる準決勝ともなると、その記事は各紙スポーツ欄の広い面積を占め、一部は社会面にまで波及するようになってくる。

 この新島県の地方紙、「新島日報」においても例外ではない。第16面の上半分は南海大学付属沢見高校と川端西高校、下半分は陽陵学園と聖経学院高校の対戦模様が、多くの字数と写真を消費して報じている。

 ここ川端西高校の部室で、パイプ椅子に座った南条は紙面をぼんやりと眺めていた。この新聞は部活動開始前に数多くの部員の間で回し読みされたので、かなり痛んでしまっている。

『カウント2−1から四番角屋が……』

『しかしここで、付属沢見は反撃に……』

 躍る活字が伝えるそれら全ての光景を、南条は客観的かつ正確に思い出せる。それは、南条にとってやりきれないことだった。試合に没頭していれば、そういう細かいことなど何の残像も残さず頭から消え去ってしまうのに。

 報道の中でもひときわ目立っているのが、川端西高校のエース、土方さんに関するもの。

 九回の表、付属沢見最後のバッターを三振に打ち取った直後のフォームが、一番大きな写真として下半分の中央に掲載されている。

『うなる左腕、弾ける長身』

『最高球速は143km/h』

 やっぱり、格が違う。

 グラウンドに出て行けばすぐに会える土方さんと、自分との間に横たわる絶望的な距離が、南条の心に痛く染み入った。

 だんだんと気持ちが沈んできた南条は、紙面を追う目を上のほうに向けた。

 そこには陽陵学園の戦いぶりが書かれている。小さな体格から左腕をイキのいい直球を投げ込んでくるエース引出。二年生ながらすでにクリーンアップの一員として猛打をふるっている、三番の本庄、四番の伊佐。

 明日の決勝戦。バタ西はこの男たちを倒して、何とか這い上がらなければならない。

 昨年、バタ西はここで敗れた。お化けフォークを操るエース、庄原が率いる陽陵学園に。

 あの快左腕の木田さんをもってしても、だった。今年も、あの時のように、あと一歩のところで退けられてしまうのではないだろうか……

 いや、今年のバタ西には土方さんがいる。その実力が木田さんより上回っているかは不明だが、少なくとも見劣りするということはない。それに、打線は昨年より確実にレベルアップしている。

 逆に考えれば、昨年の戦力でも、かなり惜しいところまでいけたのだ。今年のチーム力をもって、突破できないはずはない。

 希望にあふれた事実のはずだったが、それを頭に浮かべても、なぜか南条のささくれた心に光は戻ってこなかった。

 何というかこう、実感がわかないのだ。すごい人が、すごい事を達成しようとしている。ただそれだけの話。自分が関与しうることではないし、関与すべきことでもない。

 休むために部室へと入り、気を紛らわすために机上に置かれた新聞紙を手に取ったのに、余計な倦怠感が南条に降りかかりつつあった。

 このまま高校野球の記事を読み続けるのは、精神衛生上好ましくない。

 そう思ったのか、南条が紙面をめくって別の話題に目を向けようとしたときだった。

 部室のドアが静かに開き、何者かが足を踏み入れてきた。

 南条はビクリと身を起こし、紙面から顔を上げ、侵入者と目を合わせた。

「なんだ、刈田か……」

「なんだ、ってなんだよ……」

 妙な安堵感をあらわにする南条を怪しみながらも、刈田はロッカーの方に足を進めていった。

「南条、何してるんだ?」

「うん、ああ……ちょっと、肩が重くて」

「大丈夫か?明日決勝だぞ?」

 本当に心配している刈田に対して、南条は少し笑いながら答えた。

「まあ、俺が大丈夫じゃなくても、チームには何の支障もないさ」

「そうか……でも、確かに肩は痛めたら恐いから、慎重に扱ったほうがいいよな」

 刈田は何か遠まわしな言葉を返した。相変わらず南条に背を向け、ロッカーの中をごそごそと漁っている。

「そういう刈田は何しに来たんだ?」

「うーん……ちょっと……グロースがどっかいって……ベンチに持ってきてグラブの横に置いといたはずなのに……」

「またかよ……」

 刈田は本当に物をよく「失くす」。一週間に1、2度は、こうして野球部に関する場所をいろいろと探し回っているような気がする。最終的には、ごくごく下らない場所から見つかるのがオチなのだが、本人にとっても、結局捜索に付き合わされる周りの人間にとっても、なかなか困った悪癖である。

「……おかしいな……あそこにないとすれば、ここに入れたはずなのに……」

「覚えようとはしないのか?何か運ぶたびに、これはここに置いた、とか」

「こうやって探し回るたびに、次からは覚えようと思うんだけど……次の日になったら忘れてるんだよな……」

「世界史の王朝の名前とか、英単語とかはあれだけ覚えられるのに、何でこんな簡単なことが覚えられないんだろうな?」

 南条は心底不思議そうにたずねた。ただそれは、刈田も常々自分に対して嫌というほど言い聞かせていることだから、ちゃんとした結論を出せるはずもなかった。

 刈田なおも、ロッカーの中をかき回し続ける。

 南条は再び新聞を読み始める。

 しばらく二人は各自の作業に没頭していたが、再び部室のドアが音を立てて開くと、奇妙な沈黙は破れた。

「……南条、何しとんや?」

 部室に入ってきたのは新月だった。イスの上で新聞を広げる南条を見るなり、新月はあからさまに眉をひそめてたずねた。同時に、後ろ手でドアを叩き付けるように閉めた。

「うん?ちょっと休憩してるんだけど」

「休憩?まだメニューは終わっとらんやろ?何で勝手に休んどんねん」

「いや、さっきから肩が重くて……」

「嘘つけ」

 新月は威圧するように、南条へと歩み寄った。

「今日の最初らへんのキャッチボールは、普通に思いっきり投げ取ったやんけ。その後の投げ込みでもな」

「……」

 傍から見ると、新月の判断はかなり勝手なものだと言える。野球選手の肩というものは、当初快調に球を投げられていても、突然の違和感に襲われることは十分に考えられる。それに、体の正確な状態というのは決して本人にしかわかりえない。

 だがこの時の南条は、決して新月と目を合わせようとせず、ただ押し黙るだけだった。

「ごまかそうとしても無駄やぞ」

 南条の右手から新聞紙をひったくり、新月は続けた。

「背番号発表の次の日ぐらいから、お前の様子がどうもおかしかった。外に走りに言ってるわけでもないのに突然消えたり、今までより明らかに練習切り上げるのが早かったりな。何かやたらと気になったから、最近俺はお前を監視してたんや。最初はどっか体の調子がおかしいんかな思てたけど……そういう様子はないし。そやろ?ほんまはどこも痛ないんやろ?」

「いや、だから肩が……」

「正直に言え!」

 いきなり、新月は南条の襟首を左手でつかんで持ち上げた。

 先ほどからただならぬ気配を感じて二人の方に体を向けていた刈田が、慌てて間に入った。

「や、やめろよ、新月」

「うるさい!ここははっきりさせなあかん!」

 新月は刈田の体を、右手で押しのけた。身長170cmに満たない小柄な刈田は、その力にあっさりと負けてしまった。

「言え、南条。ほんまは……」

「そうだよ。別に、どこにも痛みはない」

「じゃあなんや、サボっとったんか!」

 ようやく口を開いた南条の襟首を、新月はさらに強く締め上げた。そうでもしない限り、その先を聞きだすことはできない、と新月は考えたのだ。

 しかし南条は、思いがけないほど普通に答えた。

「そうとも言うかな。動けるのに動いてないんだから」

 その開き直った様子を目にして、新月の怒りが本格的に噴出した。新月は開いていた左手でも南条のユニフォームを捕らえ、勢いよく部室の壁に叩きつけた。

 南条は一瞬目を見開いたが、新月に反抗することもなく、なされるがままに壁に背をつけた。

「今日が、どういう日か、わかっとんのか?」

「決勝戦の前日」

 南条は、新月の求めた答えを何のためらいもなく口にした。

「そうや。明日は大事な、俺たちの二年間がかかった、先輩たちの高校野球の全てがかかった、大事な大事な決勝戦や。それで、今日はそのために全員が最後の仕上げをする日や。やのに、お前はなんや、何でこんな日にサボるんや!しかも、大して悪いとも思ってないような顔しよって……!」

「悪いとは思ってるよ。ただそれも、結局は自分にかかってくることだ。みんなには関係ない」

「関係ない、やと!」

 より一層激しく、新月は全体重をかけるようにして南条に詰め寄った。

「大迷惑や!俺らにとっては。そういうヘタレた奴が一人中におるとな、周りのやる気までだんだん落ちてくるかもしれんのや!」

「……大丈夫だって」

 それでも、生気の抜けたような南条の表情はほとんど動かなかった。

「みんななら、俺一人がダメだったところで十分甲子園にいけるよ。土方さんはきちんと抑えてくれるし。貴史はどんどん打つし。俺が重要な場面で出される、ってことなら、迷惑もかけるんだろうけど、それも全くあり得ないだろ」

「じゃあお前はあれか、どうせ試合に出られへんから、サボったろってことか」

 無理やり正対させられていた南条の視線が、再び地面へと下がった。

 最近、南条が練習をあまりしていない理由は主に二つある。

 一つは、投げ込みをすると今でも崩れているフォームがより一層ひどくなっていく、ということ。投げれば投げるほど、あの春の甲子園のときの動きからどんどん遠ざかっていくのだ。手の指の間から、水かどんどんこぼれ落ちていくようなおぞましい感覚。南条はそれを避けるため、極力ボールを投げないように「努めて」いる。

 そうなると、投手としてできる練習は走りこみや筋トレ、野手としては打撃系の練習ということになってくるのだが……南条にとっては、どちらもひどく無駄なものに思えた。地道なトレーニングをつんでいる間中、「こんな事をして何になる?」という疑問が、彼の頭を支配して放さないのだ。

 だがそのような理由で、練習を怠ることが許されるはずはない。

 反論できずにまた沈黙を決め込む南条へ、新月はさらに畳み掛けた。

「試合に出られへんで悔しいってのはわかるけどな、ベンチに入ってるだけでもありがたいと思わんのか?お前の今の態度はな、背番号をもらわれへんかった人らに、ものすごい失礼やぞ!」

「……新月の言う通りだ」

 長時間締め上げられて苦しくなった息遣いのまま、南条は声を振り絞った。

「そうだよ。俺みたいな人間が、番号を背負ってる時点で申し訳が立たない。監督は……選び方を間違えたと思う」

 観念したような顔を見せ、南条は自嘲した。それを聞きながら、新月は右手を食い込ませるように押し付けていったが、すぐには何も言わなかった。

 先ほど押しのけられた刈田は、なすすべもなく二人の様子を見つめている。

 ここで急に、新月は左手を動かして南条の体を壁から勢いよく引き離し、自分も少し体を回転させた。

 そこから何が起こるのか、予測する間はなかった。

 新月は右手を小さく振りかぶって、南条の右頬を力の限り殴りつけた。

 乾いた音と共に、南条の頭部が弾かれる。

 吹っ飛ぶことはなかったが、よろめいた南条の体は音を立ててロッカーにぶつかった。

「ちょ、ちょっと、何するんだよ!」

 さすがに刈田も、反射的に新月の体を止めにかかっていた。なおも新月は南条に飛びかかろうとしていたため、刈田は必死で腕力を振り絞り、新月の胴体に組み付いた。

「放せ!放さんかコラァ!こいつはな、こんな腐っりきった奴はな、何回でもシバいて根性たたき直したらなあかん!」

 恐ろしい剣幕で怒鳴り散らす新月を、殴られた当の南条は、口元をぬぐいつつ上目遣いに見つめていた。

「やめろよ!ここで問題起こしたら、全部パーになるぞ!」

 じたばたと暴れる大きな体を止めるのに夢中で、自らも混乱していた刈田だったが、とっさに「切り札」を出して新月を説得した。

 効果はてきめんだった。新月はハッと我に返ると、すぐに動きを止めた。

 いったん刈田の両腕から解放された新月は数瞬、口をつぐんで南条を見下ろしていたが、そのまま体を反転させて部室を飛び出した。

 最後に、こんな言葉を残して。

「お前なんか、野球やめてまえ」

 残響が冷たく部室を支配した。

 刈田は立ち尽くしたまま、南条はロッカーに寄りかかったまま、しばらく微動だにできない。

 窓の外のグラウンドでは、追い込みをかける球児たちの怒声が飛び交っている。

 あまりに重い静止の時間を、先に打ち破ったのは南条だった。

「俺、走りに行ってくる……」

 背中を丸め、南条は部室を静かに出て行った。

 後には、いまだにグロースを見つけられていない刈田だけが、むなしく一人残された。

 

 

 裏山周辺を軽く走り流した後、南条は結局投手の練習へと加わった。

 かなり長時間、練習を抜けていたので、投げ込みをしただけで正規のメニューは終わってしまった。レギュラー、もしくはベンチ入りを狙う選手なら、普段ここから誰に言われるでもなく居残って自主練習を続けるのだが……今の南条に、その気力は残されていなかった。

 できるだけ他の選手たちと顔をあわせず、低い声で「お疲れ様です」と一礼し、南条は逃げるようにグラウンドを去っていった。

 楽しそうに騒ぐ他のクラブの集団を避けながら校門を出ようとしたとき、南条は突然右肩を二、三度たたかれた。

 振り向くと、南条の視界に詰め襟学生服の第二ボタンが飛び込んできた。

 バタ西にも、これだけの長躯を持つ人は一人しかいない。

「ひ、土方さん!」

「……そんなに驚かなくてもいいだろ」

「いえ、あの……」

「……明日は決勝だから、今日は早めに切り上げようと思ってな」

 土方さんはそう言うと、右肩のかばんをかけ直した。

 土方さんを目にした瞬間、南条はてっきり自分が強制的に連れ戻されると思ったのだった。その心配がないとわかって、南条は体中に走らせていた緊張を一瞬で解いた。

 そして二人の野球部員は、所々の街灯が点灯し始める中を、静かに歩き出した。

 

 7月と言えど、もう空からは日が消え、薄闇に染まりつつある。

「……さっきから気になってたんだけどな、どうしたんだ、その傷?」

 南条の右頬を遠慮がちに覗き込んで、土方さんは尋ねた。頬は、とても「転んだ」などとの言い訳は出来ないような腫れ方をしていた。

 これまで、誰からも何も聞かれなかったことが、むしろ南条にとっては不思議だったのだが……もしかすると、この頬に気づいた部員は一人もいなかったのかもしれない。今日はそれだけ、本来練習に没頭すべき日なのだ。気づいたとしても、わざわざ時間を取ってまでたずねようとは思わなかったのだろう。

「これですか。……新月に、殴られたんです」

「……新月に?」

 正直な告白を聞いて、さすがの土方さんも驚きをあらわにした。

 何のためらいもなく事実を口にした南条は、土方さんの表情を見て自分の言動を少し後悔した。

 しかし、今さら隠し立てをしても仕方がない。南条は事前の背景からその時の様子まで、事件の顛末を土方さんに報告した。

 全てが明かされてから、土方さんはどんな反応を見せるのだろうか、と南条は複雑な視線を向けていたのだが、その先に待っていた答えは予想外のものだった。

「……そうか。新月はやっぱり、いい奴だな」

「……はい?」

「……友達を本気で殴れる奴なんか、なかなかいないからな。特に最近は」

 土方さんは穏やかな口調でそう言ったが、南条は少し腑に落ちなかった。

 自分の野球へ向かう姿勢、そして新月に対する態度に問題がある事は、十分に自覚している。だが、それにしてもいきなり殴られたことは、いまだに納得できていなかった。

 そんな南条の心中を察してか、土方さんはなだめるように言葉を続けた。

「……確かに最近のお前は俺の目から見ても練習してなかった。だから殴られても仕方がない。これはわかるよな?」

「はい……」

「……新月はたぶん、お前を本当に救おうとしたんだよ。いろんな周りの変化に――もちろん、俺も含めてな――揉まれて潰れそうになってる南条を、何とか立ち直らせようとしたんだと思う」

「でも……」

「……人を殴るとな、自分も大きな傷を受けてしまう」

 土方さんは、自分の左こぶしに視線を注いだ。その語調には、聞くものを揺るがす現実がこもっていた。

「……それを恐れずに、あいつはお前を殴った。これはなかなかできることじゃない」

 南条は相変わらず口を開かなかった。土方さんの言うことがわからないわけではないのだが、何となく気持ちの整理がつかない。

 そんな南条を尻目に、土方さんは珍しく、堰を切ったように自分の考えを話し始めた。

「……人と人が、つるんでるうちに友達になって、お互いに利益を与え合って、でもその中に少しでも自分以外に向けられた目的が見えれば、見た方は一方的にそいつのことを『偽善者』だと決め付けてしまう」

 土方さんはずっと正面を向いていたが、その一語一語には南条に向けられた強い意思が封じられていた。

「……確かに、自分のためとか、金のためとかの理由で人に尽くす『偽善者』は最低の人間なのかもしれない。でもな、人間の心なんてその時ごとにいくらでも変わるものだ。いつも一つの目的だけを目指して行動することなんて、できるはずがない。

だが残念なことに、そんな些細な心変わりさえ絶対に許せないって奴が多い。そうやって『偽善者』を徹底的に嫌って、同じように自分が『偽善者』に見られる事を恐れて、そう思われる可能性のある事をできるだけしないように努力するうちに……本当の善意さえも、そいつの周りから消え去ってしまう。

とりあえず適当に他人と距離を置いて、あんまり『恩着せがましい』ことをしないようにしとけば、『偽善者』扱いされることはないからな」

 長広舌を振るい終えて、土方さんは一旦呼吸を置いた。

 南条はその横顔を、まだ何も言わずに見つめていた。

「……新月はその壁を踏み越えた。あいつはすごいと思う。……だからって、南条にまでそれを押し付ける勇気はないけどな、俺には」

 土方さんは、ここで初めてかすかな笑みを口元に浮かべた。

 帰路はそろそろ中ごろに差し掛かるころだ。

 日はもう落ち、辺りの空気も徐々に熱気を弱めていっている。

 二人はしばらく何も言葉を交わさず、歩みを進めていた。

 その静寂を破って、ガタンッ、と何かの音が後方で響いた。

 まず南条が、その音に素早く反応した。

「なんだ、バケツか……」

 振り向いた先には、倒れたごみ箱が電柱のそばへ転がっていた。元からバランスが悪かったのだろうか、と南条は解釈して、別段気に止めることもなく首を戻した。

 だが一方、遅れて後ろをかえりみた土方さんの視界には、近くの路地に駆け込む人影が端をかすめていた。

 なぜかわけもなく、得体の知れない悪寒が、土方さんの全身を駆け上がった。

 もちろん、その原因などどこにも思い当たらない。それを確認すると、土方さんも再び、何もなかったかのように歩き出した。

 夜の住宅街。時折漏れ出してくる家族団らんの笑い声だけが、二人の耳に入ってくる。

「……まあ、なんというか」

 土方さんは少しためらった後、口を開いた。

「……南条は俺が引退した後のエースだ。早く、復活しろよ」

「エース、ですか……」

 嬉しい言葉ではあったが、南条は素直に受け入れられなかった。

「今の力を見ると、柴島とかの方が適任だと思います。俺にはもう、無理ですよ」

「……まだあと一年以上あるのに、無理なわけがないだろ。もう一度バタ西を、甲子園に連れて行けるのはお前しかいない」

 土方さんの真剣な目が、南条をしっかりと見据えた。

 それでもまだ、南条は心からうなずくことができない。ただ、土方さんがただの慰めの情から言ったのではないことは、南条にも十分に伝わっていた。

 土方さんは南条に、心からの期待を寄せている。最近の南条は、この「期待」に飢えていたのかもしれない。

 練習試合で打ち込まれ、普段の実戦打撃で情けない投球を繰り返すうち、選手たちの南条に対する失望は次第に深まっていった。そして角田監督が南条のスタメン落ちを宣告したことがその流れを決定する一撃となった。周りの人間の関心が、どんどん自分から離れていっているのだと、南条は感じていた。

 その中でも、土方さんだけは俺の事を……

 そう考えたとき、南条の脳裏に、つい数分前に土方さんの話した内容がよみがえってきた。

 新月がいるじゃないか。

 新月は、南条を本気で立ち直らせようとした。新月自身が傷つく事を恐れず、南条の目を覚まそうと行動した。

 本当に俺に関心のない人間が、俺を殴ったりできるだろうか?

 ここで南条は、土方さんが語ったことの意味が初めて理解できた。同時に、起こった出来事を努めて早く忘れ、受け流そうとしていた先ほどまでの自分を深く恥じた。

「……おい、どうした?」

 思慮深い表情になって黙り込んでいた南条を、土方さんは訝しがった。

「あ、いえ。あの……はい。頑張ります」

 その言葉は嘘ではなかった。土方さんが投げかけた期待は、南条のくすぶりきっていた向上心に、確かにかすかな火を灯し始めていた。もっとも、その期待に応える自信はまだなかったが。

 周囲の音が、だんだんと質量を持って二人の耳に迫ってきていた。

 二人はもうすぐ住宅街を抜け、県道の交差点へ出ようとしているのだ。

 視界には、高速で走りぬける車の残像がいくつか飛び込んできたが、その速度は二人が交差点へ向かっていくと共に落ちていった。

 首尾よく、歩行者用の信号が青になっていたのだ。赤色の光を放つ車道用信号機の上には、「日出町」との看板がかかっている。

 二人は左右を確認することもなく、停まった車の前を歩いていく。

 この横断歩道を渡ってから、南条は左に曲がって自宅を目指す。土方さんもおそらく、途中までは同じルートをたどっていくはずだった。

 だが土方さんは、渡り終えてもなお直進を続けた。

「土方さん?そっちは違う方向なんじゃないですか?」

 南条の問いに、土方さんは立ち止まって説明した。

「……いや、俺はたまにこっちから帰る」

 土方さんはそう言って、深い闇が延びている小道を指差した。

「……こっちからだとな、普通より早く川北小のところに出られる」

 川北小、とは地元の小学校のことだ。そちらの方角なら、南条にとっても近道になる。

 初めて知る抜け道なのだが、南条はすぐに小路へ踏み出す気にはなれなかった。

「でも……なんか暗いですよ、この道……」

「……暗い、ってお前、女の一人歩きじゃないんだから。大丈夫だろ」

 南条が躊躇している原因を、土方さんは軽く一蹴した。

 まあ確かに、こんな体格の人と一緒に歩いていれば、不安を持つこともないだろう。

 南条は納得して、土方さんの後を追い小路へと入っていった。

 

 

 暗闇が、国道沿いから見るよりさらに重い質感を持って、南条の体にのしかかってくる。

 もう操業していないのだろうか、道の両面に広がる工場は、生気を全くもらさずに静まり返っている。その高い壁に月明かりを阻まれている上に、街灯が一つしかないため、道にはとにかく光がない。

 南条は一刻も早くこの小道を抜け出したかったが、今さら引き返すわけにもいかない。

 ただ大人しく、土方さんの背に少し隠れるようにしながら、静かに歩みを進めていくしかなかった。

 国道を走り抜けるエンジン音がどんどん遠ざかっていく。

 当然、人通りは全くない。

 二人の規則正しい足音だけが、かろうじて闇に抗っていた。

 夏なのに、なにか薄ら寒い道。

 どこからだろうか、犬の遠吠えが聞こえる。

 沈黙に耐えかねて、南条が口を開きかけたときだった。

 突然、後方から複数の足音が聞こえてきた。

 その間隔は狭く、音量は大きい。

 南条は本能的に危険を感じた。

 隣の土方さんも、明らかに表情をこわばらせている。

「土方さん……」

「……なんだろうな、わざわざこんな道をジョギングしてるのか?」

 土方さんが本心からそう言ったのかどうかはわからない。

 だが、それが二人の不安を全く和らげなかったことは確かだ。

 南条はたまらず駆け出そうとしたが、いきなりの光景を目にしてその足は固まってしまった。

 工場と工場の隙間からだろうか、誰もいなかったはずの前方に、四人の男が現れた。

 驚いて、後方にも目を向けてみる。三人の男が、こちらに向かって来ていた。

 二人はすぐさま感じ取った。

 どう見ても、これはただの通行人ではない。明らかに、この七人の男たちは二人を狩ろうともくろんでいる。

「行け」

 前方の四人の中から、硬質な響きを持った号令が放たれた。

 発した者以外の三人が、素早く動いた。

 南条はとっさに土方さんの方を向いた。

 すでに土方さんは肩のかばんを投げ捨て、前方に走り出していた。

 前方から、一人の男が土方さんに飛び掛ってくる。

 右手には武器らしきものを持っているようだったが、土方さんは男の突撃を巧みにさばき、怪力と技巧を持って男の体を地に叩き落とした。

 声ひとつない、手馴れた体さばきだった。

 土方さんは、自分で何とかできる。早く逃げないと。

 南条は恐怖に顔をひきつらせながらも的確にそう判断し、なるべく前方の人間にぶつからない方向に走り出そうとした。

 その瞬間。南条は後ろから肩を取り押さえられた。

 自らを引き寄せる力に対して必死に抵抗したが、男の手から逃れる前に、南条は脇腹に何かの物体を押し当てられた。

 暗闇に、小さなスパークがはじける。

 男が使用したのは、スタンガンと呼ばれる「防犯」用具だった。

 数秒、電流の生み出す激しいショックに打たれた後、南条は地面に崩れ落ち、そのまましばらく動かなくなった。

 同じような攻撃が、前方の土方さんに対しても加えられていた。

 突撃してきた一人を無力化した土方さんだったが、息つく間もなく他の二人に組み付かれた。

 恐ろしいバネと腕力で、土方さんは右方の一人を振り切ったが、左方の男が腹部にスタンガンを打ちつけてくると、こちらも数秒のうちに力を失ってしまった。

 それでも土方さんはひざを折らない。

 その様子を見ると、先ほど号令を発した男が薄笑いを浮かべて、ゆらりと近寄ってきた。

「動きは鈍ったが、相変わらずしぶといな。安物じゃ効かねえか。……おい、そっちの野朗はまだか?見張りは一人でいい。さっさと来い」

 男が南条を「処理」していた三人にそう指図すると、そのうちの二人が土方さんに駆け寄った。

 驚異的な速さで回復した力をもって、スタンガンを振るってきた男を振り飛ばしていた土方さんだったが、新手の三人によって再び動きの自由を奪われた。

 男たちが容赦なく、電流の散撃を浴びせかける。

 さすがの土方さんも顔を激痛に歪ませ、魂が抜けたように前へ倒れた。

 やっとのことで巨体を沈めた三人の男は、興奮に血走った目で土方さんを凝視していた。

「よし、これで五分は寝てるはずだ。足を縛れ。右手もな、うまい具合に固定しろ」

 号令役の男が指示すると、一人が懐からガムテープを取り出した。過剰とも思えるほど何重にも、ガムテープが土方さんの両足首にからみついていった。

 もう一人の男が、右腕を縛り付ける作業に取り掛かろうとしたとき、ふと疑問を漏らした。

「ハヤトさん、左腕はいいんっスか?」

「馬鹿野郎。縛ったら狙いにくいだろうが。位置が動かせないからな」

 その回答を聞いて男は納得し、指示通りに土方さんの右腕を太ももを結び付けていった。

 濃厚な闇の下で、ひざをかがめた男たちが黙々と「作業」を進めていく。

 号令役の男は、その光景をくわえタバコで冷たく見下ろしていた。

 「第一段階」の成功から三分後、土方さんの意識は予想外に早く戻ってきた。

 自由な左手を動かすと、土方さんは号令役の男のすねをつかんだ。

「……何をする気だ、木村?」

 普通の人間ならたちどころに石化されそうなほど研ぎ澄まされた視線で、土方さんは号令役の男――土方さんが荒れていた時期、最も親交の深かった男、木村速人――の目を射抜いた。

「痛えな。放せよ」

 速人はつかまれた右足を振ろうとしたが、一寸も動かせない。それほどに、土方さんは現在唯一動かせる左腕へと最大の力を流入していた。

 いまいましそうに舌打ちし、速人は自分を見上げる土方さんの顔に向かって、くわえていたタバコを吐き出した。

「まあいい。どうせ、後で放すことになるからな」

 火の熱さにしかめられた土方さんの顔を、速人は嗜虐的な目をもって眺めた。

「……何だと?」

「そうだ、まだ質問に答えてなかったな。俺はな、啓」

 速人は、喜びに打ち震えたような声で言い放った。

「お前との約束を果たしに来たんだよ。今日って言う、最高の時にな」

 約束。

 今の自分とこの男を結ぶたった一つの言葉、そして今から約二ヶ月前にも同じ男の口から発せられたこの言葉を耳にして、土方さんの目は恐怖に染め上げられた。

 その様子を、この上なく楽しそうに確認した速人は、左足を勢いよく地面から離し、後ろへ振りかぶった。

 刻の狂牙がうなりを上げて、土方さんへと襲い掛かった。

 

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