制裁

 

 反動のついた速人のつま先が、土方さんの左ひじに打ち込まれた。

「……っ!」

 土方さんは歯を食いしばって激痛に耐えるが、完全に声を抑えることはできない。

 加えて二度、三度と、速人は蹴りを繰り出していく。

 恐ろしく硬質な靴先が、土方さんの左ひじへと確実に穿たれていった。

「いい威力だ。金出して買っただけはあるな」

 速人は乾いた笑い声を立て、靴の品質を誇示するかのように土方さんの顔を踏みつけた。

 その靴の独特のフォルムを間近で目にして、土方さんはさらに戦慄した。

 速人は、安全靴をはいている。安全靴とは、例えば工事現場など出足に鉄骨が落ちてきても負傷しないよう、つま先に強化プラスチックが埋め込まれている靴だ。当然、この靴を着用して放たれた蹴りは、通常の靴と共に放たれたそれとは比べ物にならないほどの衝撃を持つことになる。

 しめつけが緩んだのを感じると、速人は土方さんによって束縛されていた右足を振りほどいた。同じく左足も離し、静かに一歩後ずさる。

「おい、誰か来てねえか?」

 速人は南条の傍らに座っている「見張り役」の男に質問した。男は首を左右に振り、この場の「安全」を知らしめる。

「そりゃあな。こんな寂れた道を、すき好んで通るやつなんかめったにいねえもんな」

「……いつから付けていた?」

 一応そうは尋ねたが、土方さんはすでに思い出していた。つい数分前、自分の目の端を駆け抜けた人影。あれは十中八九、自分たちを尾行していたこの男たちの影だったのだと。

「俺は付けてねえよ。ここで待ち伏せしてたからな」

 速人はより一層、口元をひきつらせた。

 おそらく、土方さんの二通りの帰路を、事前に速人は調べていたのだろう。そして、よりにもよって今日、土方さんは一味にとって明らかに都合のいいルートを選択してしまった。

 運命のいたずらというやつだろうか。

 もっとも、もうひとつの道を選択したところで、逃げ切れると言う保証があるわけではないが。

「一人、余分なやつがついてきたのは誤算だったがな。まあいい。あいつも適当に処分するしかねえだろ」

 いまだに横たわっている南条に目を向けながら、そう吐き出す速人の口調には、ためらいのかけらさえ感じられなかった。

 土方さんは必死で動揺を隠した。ここでうろたえたり、「あいつは関係ない」「せめて後輩だけは」などというセリフを出せば、南条が傷つけられる可能性はより高まってしまうだろう。より深いダメージを与える手段を、こいつらに嗅ぎつけられるわけには行かない。

 頭ではそう考えていたが、南条に向かって「逃げろ」と叫びたい衝動はなかなか抑えられない。代わりに、土方さんは束縛された両足と右手をもがいて、むなしい抵抗を試みた。

 速人はその傾向を目にするや否や、今度は土方さんの左ひじを全体重と共に踏みつけてきた。

「おい、人の話は静かに聞けよ」

 気を失いかけるほどの痛みが、左ひじから土方さんの全身へと瞬時に拡散する。

 普通の人間ならここですでに、断末魔のごとき悲鳴をあたりにとどろかせているだろうが、速人の性癖をよく知っている土方さんは、その欲望を全力で抑圧していた。そのため左右の奥歯に、これまで経験したことのないほどの負荷がかかっていた。

 叫べば少しは痛みが治まるかもしれない。だがそうすると、木村速人という人間の持つ残虐性を一層煽り立ててしまう事になってしまう。事態がより悪化する事は、明白だ。

「さて、そろそろ本題に移るか」

 土方さんを踏みつけた右足をすりつぶすように動かしながら、速人は語り始めた。

「約束の内容を、忘れてねえよな?」

 土方さんは疼痛にもがきながら、何とか肯定の意思を表した。そうしない限り、速人は逆上してさらなる攻撃を加えてくるかもしれないからだ。 

 その約束は、ごくごく単純なものだった。

 土方さんと木村速人。二人はかつて、その言葉を呪文のように、ことあるごとに口に出していた。

 裏切ったら殺す、と。

 あの頃ならともかく、現在の土方さんにとって、それはあまりにもリアリティの薄い言葉だった。

 ごくごく他愛ない、仲間同士の掛け合い。光を取り戻した土方さんにとっては、その程度の範疇の言葉だった。

 だが今から二ヶ月前に、速人は言った。「俺は本気だ」と。

 その時の一部始終が、土方さんの脳裏を駆け巡った。そしてその記憶は、わずかに残っていた希望を、徹底的にかっさらって行った。

「そりゃそうだ。あれだけしょっちゅう言ってたんだからな。だがあの約束を、きっちり果たすつもりはない」

 その意図するところがわからず、土方さんは怪訝な面持ちを見せた。

「そうシケた顔すんなよ。俺だって残念だけどな、忠実に果たしたら、またネンショーに逆戻りだ。あそこは、死ぬほど居心地がわるいからな。もう戻りたくはねえ。だから、俺はこう決めた」

 速人はサディスティックな歓喜を満面に表し、重々しく告げた。

「バタ西野球部エースの土方啓を殺すだけで、とりあえずは満足しておこうってな」

 生ぬるい風が、深闇の小路を駆け渡った。

 速人がいったん語を切ると、そこには一つの音も残らなかった。

 本来の静寂が、この小路へと戻ってきた。

 やがて速人が口を開いた。

「俺は、裏切り者を絶対に許さねえ。自分を裏切った野朗が、のうのうと表でのさばってるのを黙って見とくほどな、俺は優しい人間じゃねえんだよ」

 憎しみに染まった目を最大限に見開き、速人は左足を跳躍させた。

「制裁を受けろ」

 踊るように連撃を叩き込み、速人は土方さんの左ひじを狂ったように打ち砕いていった。

 耳をふさぎたくなるほどグロテスクな打撃音が、何度も何度も鳴り渡った。

 蹴りのたびに放たれていた速人の罵声は、次第に狂気に満ちた高笑いへと代わっていった。

 ぎらついた目をして幸せそうに破壊を続ける速人と、抑えきれなくなった声を漏らす土方さん。

 異常かつ凄惨なその光景を、周りの男たちはただ息を飲んで見守るしかなかった。

 

 

 南条の意識を取り戻したのは、土方さんが上げたうめき声の作為だった。

 顔を上げた先には、襲撃を受ける土方さんが横たわっていた。

 このおぞましい映像に南条は一瞬、戻る世界を間違えたような感覚を抱いた。

 このときの南条が、そのまま反射的に起き上がって駆け出さなかったのは、ほとんど偶然といってもよかった。

 土方さんと、目が合ったのだ。

 激痛に歪み、力なく左右に振られる顔から、南条は奇跡的にその意思を読み取った。

 来るな。逃げろ。

 ここで南条は、驚くほど冷静な判断を下すことができた。

 できるだけ気づかれないようにこの場を後にして、警察に通報しよう。

 南条は前方を見渡した。

 人間離れした声を撒き散らすリーダー格の男以外は、その場面に目を釘付けにして、こちらのことなど気にもかけていない様子だった。

 大丈夫だ。いける。

 南条は気づかれないよう静かに、しかし精一杯の深呼吸をして、自らの気持ちをなだめた。

 念のため、もう一度だけそばにいる男の様子に目を向ける。依然として、男は振り向く気配を見せない。

 それを確認すると、電光石火の勢いで南条は身を起こして、後方へ走り出した。

 後ろを振り返ることもなく、南条はただ光を目指して疾走した。

「あっ!待てコラァ!」

 怒声と共に響く足音。どうやら追跡者は一人だけらしい。

 どれだけの運動能力があるかは知らないが、現役の高校球児に走力でかなうはずもない。

 見る見る足音は離れ、そして再び国道の交差点に出る頃には、追跡者の殺気は完全に消え去った。どうやら、ここまで追いかけてくる気はないらしい。

 しかし南条は走行をやめなかった。

 早く通報しなければ。

 携帯電話を持っていないことを、ここまで激しく後悔した事はなかった。公衆電話を探しながら南条は走るが、そう簡単に見つかるはずもない。

 すると、どこかの店にでも駆け込んで電話を借りるしかないだろうか。だがあいにく、そのような建物は今のところ南条の視界に入ってこなかった。

 息がどんどん荒くなってきた。

 いくら最近練習量が落ちてるとはいえ、もう疲れたわけではない。たぶん、通常の限界を超えたスピードで、南条は疾走を続けていたのだろう。

 走っても走っても、通報の手立てが見つからない。

 南条の焦りが狂おしく高まってとき、不意に救世主は現れた。

 二人の警察官が、スピード違反、あるいは駐車違反の取締りだろうか、道端に止められた車を相手に職務質問をしていたのだ。

 南条は夢中で叫ぶ。

「すい……ません!」

 呼吸を整えることなく声を発したので一瞬途切れてしまったが、警察官はすぐに気づいてくれた。

「はい、どうしました?」

 振り返ったのは一人で、もう一人は何事もないかのように職務質問を続けている。

 のんきに応答する警察官に不当な苛立ちを覚えながらも、南条は息を抑えながら必死に報告していった。

「むこうの……むこうの工場の辺りの路地で……土方さんが襲われたんです」

「喧嘩ですか?」

 冷静に状況をただす警察官に、南条は逆上した。

「違う!向こうが勝手に襲ってきたんだ!」

 南条が取り乱している理由はわからないようだが、何かの危機であることは感じたらしい。

 応答に当たった警察官は、同僚に何事かをささやきに行ってから、南条の前に戻ってきた。

「じゃあ、すぐに準備しますので、少し待って……」

 あまりに鈍重な警察官の動きに、南条の怒りは頂点に達した。

「……待てるわけないだろ!」

 すでにこの時の南条は、正常な思考を失っていた。

 猛犬のように警察官に飛びつき、その襟元をつかみ上げる。

「このままだと土方さんが殺される!早く来いよ!でないと、土方さんが……」

 最後の方は声にならなかった。

 こんな状況なのに、南条の涙腺は狂乱する感情によって断ち切られ、彼の視界を瞬く間に曇らせていった。

 尋常でない剣幕に、職務質問中の警察官さえあっけに取られたように南条の様子を見つめていた。

 一刻を争う事態の深刻さが、ここで初めて伝わった。

 警察官は錯乱した南条の手を引き、先ほど南条が指し示した方向へと駆け出した。

 走りながら南条は、心のどこかでこの急行が無駄である事を予感していた。

 土方さんがすでに闇へと喰われた事を、南条はもう、十分に悟っていた……

 

 

 

 その後、木村速人はあっけなく補導された。

 逃げるそぶりすら見せなかったのだから当然だ。ただ、それ以外の男たちの行方は、今のところわかっていない。見つかってもおそらく、罪に問われることはないだろう。速人は自ら、「直接やったのは俺だけだ。他は関係ない」と言い張っているからだ。

 土方さんはすぐさま救急車で運ばれた。

 容態はわからない。暴行を受けたのは「左腕だけだった」から、命に別状はない。

 そしてこの悲惨な事件はただ一人、角田監督の元にだけ伝えられた。

 現在、近隣に在籍している土方さんの身内は母親だけ。過労と精神的ショックにより入院にまで追い込まれていた母親は、土方さんの野球部復帰、そして甲子園での活躍などもあって、一時期よりも病状は回復していた。

 それでも、まだ不安定であることは否めない。今の状態で母親にこの事件を伝えることは出来ない、と誰もが判断したため、最も保護者に近い人物である角田監督が選ばれたのだった。 

 監督は電話口で知らせを聞くと、血の気を失ったように立ちすくみ、しばらく衝撃に打ちひしがれた後、すぐさま病院へと駆けつけた。

 その日のうちに、面会は許されなかった。

 角田監督は病院に着くなり、とある診療室に呼ばれた。

 医師が数枚のレントゲンを提示し、土方さんのカルテを説明した。

 飛び出してくるの事実の一つ一つが、監督がひそかに抱いていた望みを、残らず葬り去っていった。

 ある程度の覚悟はしていたが、監督はその場から逃げ出したい衝動に何度も襲われた。

「とにかく、ひどい損傷です。血管や神経が完全に途切れてはいないので、壊死することはないと思われますが……」

 医師の説明は、とりあえず左腕切断の危険性はない、という事を意味していた。

 だがそのような言葉を聞いたところで、監督が安心するはずもない。

 監督は眉間に深いしわを刻み、左手を額に当てて押し黙っていた。

 ようやく、監督が発した言葉はこれだった。

「あの、非常にお尋ねにしくいことなのですが……」

 監督は途中で言葉に詰まった。

 即座に口へ出すには、あまりにも残酷な質問だったからだ。

 もはや聞く必要さえないかもしれない。答えはほとんどわかりきっている。その先に、おそらく救いはない。

 しかし、避けるわけには行かなかった。

 長い間迷った末、監督は何とか力を振り絞ってたずねた。

「土方は今後……球を投げられるんでしょうか?」

 医師にとっても、それはできるだけ回答したくない質問だった。

 氷のような沈黙が診療室を支配する。

 沈痛な時間の末、診断書を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

「投げられるようには、なるかもしれません。ですが、これから左腕投手としての活躍を望む事は……ほぼ不可能です」

 その宣告は、死に至る病名の通知と同格の、もしかするとそれ以上の絶望を含んだものだった。

 告げた方も、告げられた方も、鈍い刃物で肺腑をえぐられたような心地で、その場に悄然と凍りついた。

 レントゲン写真を照らすライトの機械音が、微弱にうなり続けていた。

 日付はもう、バタ西最後の戦いの日へと、音もなく切り替わっていた。

 

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