決意

 

 南条は一睡もできなかった。

 今日は決勝戦。土方さんが――まだ正確なことはわかっていないが、おそらくほぼ確実に――投げられない今となっては、南条がマウンドに上がる可能性はもはやゼロではない。

 寝なくてはならない。存分に体力を回復しておかないと、炎天下のプレーにはとても耐えられない。

 南条はベッドの中でのた打ち回りながら、自分にそう言い聞かせ続けた。

 幾度となくその言葉を反すうしたものの、あの壮絶な光景は、微塵たりとも払拭されることはなかった。

 あの映像、あの場の静寂、あの時感じたじめっとした大気。あの、破壊音。

 それら全ての記憶がもろ手を伸ばして、南条を苦悩の淵に引きずり込んだ。悪夢、という言葉は生易しすぎる。例え短い時間でも、この現実から離れて眠りにつけるなら、どんなに悪い夢を見てもかまわない。誇張でなく、南条は心の底からそう願った。

 いつまでたっても、その願いはかなえられなかった。

 おかしな話だが、そのうちに南条は眠りの体制を取ることに疲れてきた。

 ベットを抜け出し、南条は何となしにリビングルームへと向かった。手探りで進みながら、やっと見つけたソファへ崩れ落ちるように腰を下ろした。

 電灯をつける気力さえ、南条にはなかった。そのため、辺りはひどく暗い。

 冷蔵庫のたてる仰々しいモーター音が、時おりリビングルームの静けさを波立たせる。

 いま、何時ぐらいだろうか。ふと南条は、針に蛍光塗色の施されている時計があった事を思い出し、周囲に目を向けた。

 右後方に、目的のものはあった。時刻はちょうど4時。とすると、南条は五時間ほども夢と現実の間でもがいていたことになる。

 だからといって、どうだということもない。

 ソファに腰を静めたまま、南条は努めて何も考えないようにして、部屋の暗闇に溶け込もうとした。

 下手に寝ようとあがくよりも、案外その方が楽だということに気がついた。思考の回路を切ってしまえば、その分痛みの感覚も鈍くなる。

 そのままどれぐらいの時が経っただろうか。

 自分が起きているのか、それとも疲労に耐えかねていつの間にか寝てしまったのか、それすらも南条は知覚していなかった。ただ無為に、時が過ぎるのを待ち続けた。

 電話の着信が、南条を覆っていた霧を瞬時に晴らした。電子音が無遠慮に鳴り響く。

 再び時計を見ると、7時を少し回っていた。早朝とはいえない時刻だが、こんな時間の連絡はやや非常識な気もする。だが、放置しておくわけにも行かないので、

「……はい、もしもし」

 南条は魂の抜けたような声で応対した。

「もしもし。川端西高校野球部顧問の角田です」

「監督?」

 声の主がわかると、南条は思わず背筋を少し伸ばしてしまった。

「お、南条か。よかった。まだ家おったんやな」

「はい……」

「おらんかったら、親御さんに携帯の番号、聞こうか思ってたんやけど。どや、よう寝れたか?」

「まあまあ、です」

 南条は嘘をついてしまった。今は監督に余計な心配をかけるべきではない、と判断した。

 監督が南条の睡眠を気にするのには理由がある。昨日、あの事件の後、南条は目撃者として警察から事情聴取を頼まれた。

 そこで、監督は「明日試合があるから」と警察へ断りを入れてくれたのだ。「今日は早く帰って寝ろ。事件のせいで寝不足になって試合で動けんかった、ってことになると土方が自分を責めるかも知れん」とも、監督は付け加えた。

 だが結果として、南条は監督の配慮を裏切ってしまった。自分の意思で起き続けていたわけでははなかったが、南条は改めて監督に申し訳なく思った。

「まあ、それはええわ。あのな……」

 監督は急に話を止めた。

 その次に飛び出すであろう言葉が、南条にはすぐ予測できた。それだけに、わずか数秒ほどの時間が、とてつもなく大きな空白に感じられた。

「土方のことやねんけどな」

「はい……」

「……とりあえず、今日一日は安静に、ということや。残念やけど、今日はベンチ入りも控えた方がええらしい」

「腕以外にも、何かあったんですか?」

 努めて平静を保つようにしながら、南条はたずねた。

「いや、基本的に他は問題ない。ただ、腕への負担が大きすぎて……下手に動くと他の部分にもダメージが広がってまずいことにならんとも言い切れん、と医者は言うとった」

 おそらく、感染症の危険性もありうる、と言うことなのだろう。監督はひどく遠まわしな説明をした。

 まだ監督は、一番大事な部分に触れていない。

「それで、あの……」

 核心を聞き出すために、南条はいったん息を整えてから切り出した。

「土方さんは、これからどうなるんですか?」

「これから、って?」

 いちいち聞き返さなくても、監督はわかっているはずだった。

「……もう一度、マウンドに立てるようになるんですか?」

「それは……やな……」

 隠しても仕方のないことなのだが、監督は再び語に詰まった。南条へのショックを最小限に抑えるためには、どう伝えればいいのだろうか。監督はその場でいろいろな言葉を考えてみたが、

「ほぼ間違いなく、昨日までの土方の投球は二度と見られへん。今わかってる事は、それだけや」

 結局、率直に言うのが一番だと結論付けた。

「そんな……なんで……」

 南条にとって、それは聞きたくない結末だった。

 十分に覚悟はしていた。実際に、どれほどの破壊が行われたのか、南条は自分で目の当たりにしていたのだから。

 それでも、素直に受け入れられるはずがない。

 南条はしばらく、理不尽さと悔しさをたぎらせ、震えるこぶしを握り締めたまま立ち尽くしていた。

「……条。南条!」

 数回の呼びかけの後、南条は受話器に意識を戻した。

「あ、はい……」

「それと最後にもう一つ。伝えることがある。土方からの言付けやねんけどな」

「俺個人にですか?」

 南条はすぐさま、受話器を耳に強く押し当てた。一語も聞き逃すまいとするかのように。

「そや。土方がな、時間があるようやったら来てくれ、と言っとった。いま何時や……7時ちょっと過ぎか。いけるな」

「はい」

 試合開始は正午。まだ十分に余裕はある。

「あと、島田も呼んどった。いまちょうど、病室で面会しとるみたいや」

「他には誰か?」

「いや、呼ばれたのは南条と島田だけやと思う。たぶん、何か重要な話があるんちゃうか?」

「そう、ですね……」

 南条は監督の予想に納得した。その「重要な話」が何であるかも、南条にはある程度予測できた。きっとそれは、いまの南条にとっては辛い話だろうと思われた。

 それから数分間、南条は監督に病院の所在地や行き方などを聞き、受話器を置いた。

 朝食を急いで摂り、病院から球場に直行できるよう各種の準備を整えて、南条は家を出た。

 その足取りは重かった。行かなければいけない道のりなのに、鉛のように重かった。

 

 

 

 病院に着くと、南条は土方さんの病室番号をたずねるため受付に向かった。

 ロビーでは、朝も早いのに多くの病人がたむろしていた。

 その中の一団が、今日の新島県予選決勝戦を肴に話題を繰り広げていた。

 陽陵とバタ西、勝利はどちらの手に渡るか。打線の勢いはどうか。最近の各選手の調子はどうなのか。監督の采配はどちらが優れているか。

 バタ西のエース土方啓は今日、どのようなピッチングを見せてくれるのか。

 老人たちは、他愛ない分析を熱心に交わしていた。どうやらまだ、土方さんが負傷を折ったことは知られていないらしい。つまり、事件の事はまだマスコミに嗅ぎ付けられていないのだろう。どの道今日には明らかになって、波紋を呼ぶことになるだろうが……

 南条は気づかれると少し面倒だと思い、できるだけその人たちに姿を見られないよう、こっそりと受付へ足を進めた。

 場所を確認し、エレベーターで所定の階に上がると、南条は真っ直ぐ目的地を目指した。

 病室が近づくに連れ、南条の緊張は高まっていった。どんな顔をして土方さんに会えばいいのか。どんな言葉を持って、土方さんに接していけばいいのか。

 そんな思考に頭を支配された南条が最後の角を曲がると、不意に見知った顔が目の前に現れた。

「島田さん?」

 声をかけられると、島田さんはゆっくりと顔を上げた。この人もまた、しっかりとユニフォームを着用してここに来ている。

「おう、南条か……」

 無理もないことだが、この時の島田さんからは、周囲を焼き尽くすようないつものオーラが全く感じられなかった。一度南条と目を合わせたものの、再びそれた島田さんの視線は焦点が定まっていないように見えた。

 だが、南条をやりすごすつもりはないらしい。島田さんは立ち止まって、何かを言おうと口ごもっている。

 車椅子に乗った患者や、点滴を運ぶ看護師などが行き交う中、二人の球児はなかなか意志を通わせられないままその場に止まっていた。

 長い逡巡の末、島田さんが口を開いた。

「啓を、助けてくれてありがとな。本当によかった……」

 島田さんは突然、涙ぐんで顔を伏せた。

「そんな……俺は、俺は何も出来なかったんですよ……?」

 もちろん南条は戸惑った。

 あの時、真っ先に男たちに倒され、ただ土方さんへの暴行を見ていることしか出来なかった自分。仕方のなかったことで、たぶん土方さんが望んだことだったとはいえ、必死に安全な場所へと逃避した自分。そんな自分に、感謝されるいわれなどあるはずがない。

 明らかに動揺する南条に、島田さんは強い口調で言った。

「いいんだ。啓は生きて帰ってきた。それだけで、十分じゃないか」

「でも、土方さんはもう……」

 声にならなかったその先の言葉に、島田さんは首を振って否定した。

「命さえあればなんだって出来るさ。現にあいつは、一度どん底からはい上がって俺たちのところへ帰ってきた。もう一度落とされても……あいつはまた登ってこれる。絶対に復活できる。あいつは、そんな弱いやつじゃない……」

 南条に言い聞かせるというより、島田さんは自分を諭すような口調でつぶやいていった。

 その言葉は、南条の心を少しだけ軽くした。土方さんの意志の強さは、これまでいろいろな場面で南条も目にしてきている。島田さんの言うとおり、いつの日かまた、土方さんは何らかの形でこの事件を乗り越えるだろう。

 ただし、それがいつになるかはわからない。少なくとも、おそらくもう、高校野球での活躍は望めない。

「でも、土方さんは……」 

 南条が十分な返答をする前に、島田さんは顔を背け、「すまん」とかすかに言い残して去っていった。

 続きを聞く事を拒むかのように、島田さんの足取りは早急なものだった。

 

 残された南条は再び歩き出した。まもなく、土方さんが入院している503号室の前に到達した。

 入室者の名前は記されていない。混乱を避けるためだと、受付では説明された。その危険性は大いに考えられる。この近辺で、土方さんのフルネームまで知っている大人は、そう少なくないからだ。

 その事を思い出すと、南条は躊躇することなくドアを数回ノックした。

 中から「どうぞ」と許可が出され、南条はドアを横に引いて病室へと入る。

 ベッドの上には、左腕をギプスで固定された土方さんが座っていた。先ほどまで島田さんが座っていたのか、側には背もたれのないイスが置いてある。

「……よく来たな。まあ座れ」

 イスを指し示す土方さんの表情は、思いがけないほど平常どおりのものだった。周りに心配をかけないようにつくろっているだけなのかもしれないが。

 南条はうなずいて、イスに腰を下ろした。

「さっき、廊下で島田さんと会いました」

 なぜか南条は、そこから話を始めた。

「……そうか。どうだった、様子は?」

「……落ち込んでました。俺に、土方さんを助けてくれてありがとう、って言って、どこかに行きました……」

「……ここにいる時は、元気だったんだけどな」

 憂いに満ちた声で土方さんはつぶやいた。たぶん島田さんは、いつものような吹っ切れた振る舞いを、土方さんの前で見せていたのだろう。

「何を話してたんですか?」

 たずねてから、南条は少し後悔した。いちいち立ち入って聞くことでもないのに、と。

「……いろいろ、な。昔のこととか……」

 土方さんはそれでも答えてくれたが、やはりはっきりとしたものではなかった。

 ベットにおいていた右手で頭を抱え、土方さんは言葉を続けた。

「……俺がもう一度野球を始められたのは、あいつのおかげだ。自分の練習もそっちのけにして俺に付き添って、一緒に監督を説得してくれた。あいつは全然朝に強くないのに、俺がブランクを埋めるのを手伝うために、ずっと朝錬にも付き合ってくれた」

 その事実は、南条にとって初めて耳にすることだった。常に一番乗りでグラウンドへ入り、朝の自主練習をしていた土方さんと島田さん。しかしよく思い起こしてみると、土方さんが入る前までは、島田さんが朝錬に参加することはあまり見られなかった。

「……あいつがいなかったら俺は絶対に、あの場所から抜けられなかった。おふくろの夢をかなえることも出来なかった。……それなのに、俺はまた脱落してしまった。本当に、あいつにはいくら謝っても謝りきれない……」

 土方さんは後頭部が見えるほど、ひざの間に頭を深く沈めた。

 平常どおり、などではない。いまの土方さんは、決して他人からは測り知れない傷を背負っている。島田さんが自分を押し殺して明るく振舞っていた理由を、南条は痛いぐらいに理解した。

「なんで謝るんですか?土方さんは悪くないのに。島田さんだって、十分にわかってるはずですよ……」

 南条が返せる言葉はせいぜいそれぐらいだった。言いながら、自分でもその陳腐さがほとほと嫌になっていたが、その他に出せる言葉はなかった。

「……確かに、襲ってきたのは木村だ」

 土方さんは顔を上げ、南条を鋭く見据えた。

「……でも、元はと言えばそれも、俺に原因がある。俺はあいつを裏切ったんだ。おふくろのためとか、昭のためとか何とか言って、結局は自分がラクをしたいために木村たちを切り捨てた」

「ラク、なんですか?野球をする事は、楽なことなんですか?」

 少し動揺していた南条は、心にもない反論をしてしまった。

「……すまん。野球部の仲間を見下すつもりはない。本当に悪かった」

「あ、いえ、そういうつもりじゃ……」

「……言い訳するみたいでみっともないんだか、木村たちとつるんでるよりは、野球の方が苦しくても俺にとっては楽しかった。憎む必要もない相手を傷つけて、明日どうなるかもわからないような毎日を過ごすよりは……だからきっちりと落とし前も付けずに、俺はこっちに戻ってきた。木村があそこまで怒るのも無理はない……」

 土方さんの一語一語に、南条は場違いな衝撃を覚えていた。

 土方さんはたった一晩で、あの事件を自分の中でここまで受け入れた。「見ていただけ」の南条が勝手に苦しんでいた頃、冷たい病室で土方さんは一人、自分なりの答えを探していた。

 そんな土方さんを壊したあの木村速人に対して、南条はここで始めて、具体的な憎悪を募らせた。

「だからって、土方さんの未来まで奪う必要はないじゃないですか」

 感情があふれ出し、南条の声は高く上ずっていた。

「……俺だって、木村の希望を奪った。だからおあいこだ」

 土方さんは寂しい笑をかすかに漏らした。その意図が汲めず、南条は戸惑った。

「何か、あの男に対してしたんですか?」

「……さっきも言っただろ。俺はあいつの元を離れて、何もなくて野球部で活躍した」

「そうじゃなくて、何かもっと、恨まれるようなはっきりした事を……だって、そんなことで、ここまでする必要は……」

「……そんなこと、か。おれも初めはそう思ったよ。だけどな、たぶん木村にとっては、望みを砕かれたように感じたんだと思う」

「……木村は、昔から周りのいろいろな人に裏切られてきた。同じ年のやつには遠ざけられて、大人に見離されて、親にも捨てられた。その事をな、木村は俺だけに話したんだ。まあその前に、俺も自分の話をしたから、そのお返しのつもりだったのかも知れないけどな」

 自分の話、とは土方さんの父親にまつわる事だろう。不倫を犯し、家を飛び出した土方さんの父親。その後入院するまで追い詰められた土方さんの母親。土方さんを一度、闇に引きずり込んだ出来事だ。

「……そういう話をしてから俺たちは、急によく近づくようになった。俺もあの頃は勝手に、『こいつと俺は同じだ』とか思い込んでたからな。俺は馬鹿だった。本当に、どうしようもなく馬鹿だった。ささくれたヤツたちの間で、俺と木村だけは本当のダチだ、と浮かれてたんだからな……もしかしたらあいつも、俺に対してそう思っていたのかもしれない。人を信じることへの最後の望みを、俺に賭けてたのかもしれない」

 最後はぼかしたが、それはほぼ間違いのないことだと土方さんは考えていた。そこまで強い気持ちがない限り、あれほど凶悪な憎悪には昇華し得ないはずだ。

「……だから俺は、あいつに制裁されても仕方なかったんだ。俺は木村を見捨てて、『新しい』俺に期待してくれた昭や監督を裏切った。急いで自分を変えようとして、結局最後には何も残らなかった。俺は……」

 淡々と自分を責め続ける土方さんに、南条はかける言葉を持ち合わせていなかった。ただ黙って、時おり低いうめきを漏らす土方さんを、赤くはれた目で見つめることしか出来なかった。

 凍り付いた二人の間にも、時は確実に流れていく。

 土方さんは不意に立ち上がり、床にある荷物に右手を伸ばした。しばらく中を探ると、小さな何かを取り出した。

 それは、川端西高校野球部員の証、手首にはめるチタンバンドだった。

「……これをお前に預ける。こんな事を言うと勝手だと思われるかもしれないが、お前は過去を乗り越えてくれ」

 土方さんはチタンバンドを、南条にしっかりと手渡した。その意味するところが、南条にはすぐにわかった。

「つまり今日、俺が決勝戦のマウンドに立て、ってことですか?」

「……ああ。そうだ」

「無理ですよ。こんな重要な試合で俺なんかが投げたら……」

「……いや、いける。今日お前は、俺の代わりにマウンドに立つんだ。そう思っておけば、打たれる気はしないだろ?」

「でもそれ以前に、監督が投げさせてくれないですよ。ここはやっぱり、八重村とか柴島の方が……」

「……だめだ。お前が投げろ。最後の頼みだ、聞いてくれ」

 土方さんは頭を下げた。慌てて、南条がそれを止めにいく。

「や、やめてくださいよ、土方さん」

「……じゃあ、投げるか、今日?」

 土方さんは依然腰を曲げたまま、強い意思をこめた目で南条を見上げた。

 どこまでも真摯な土方さんに、動かされざるを得なかった。わずかな時間をはさんで南条は、

「はい。監督に断られても……マウンドに向かいます」

 本心からそう答えた。断る理由は、どこにも残されていなかった。

 土方さんは少しの間南条の目を見つめ、その意志を確認すると、そばの机上に置かれた時計に目を見た。

「……おい、そろそろ時間じゃないのか?」

「あっ!」

 土方さんの言うとおり、もう球場での集合時間が差し迫ってきていた。

 急いでかばんを肩にかけ、南条はイスから立ち上がった。

「すいません。あの……」

 南条は声を引っ込めた。ここに適する言葉を、見つけることが出来なかった。

 背を向けて、南条は病室を出て行こうとした。その後ろから土方さんが言った。

「……南条。最後に一つだけ聞いてくれ」

 南条はすぐに振り返った。土方さんはうなずき、思いがけないヒントを南条に与えた。

「……自分への怒りとか、周りへの不満とか、そういうことを一人で悩んでいたところで何も生まれない。そういうことを全て、ミットに向かってたたきつけたら……案外、いい球が投げられるかもしれないぞ」

 その時、ここ数ヶ月南条を締め付け続けていた何かが、音を立てて外れたような気がした。

 晴れ晴れとした気持ち、とまでは行かなかったが、南条の心境に垂れ込めていた霧が、少しだけ散っていったような気がした。

 南条はありがとうございます、と一礼して、戦いの場所へと足を向けた。

 今日で全てが決まる。その行く末が今、一人の球児の右肩に託された。

 

 

 

 南条が新陽球場に到着したのは、予定の時刻を10分ほど過ぎた頃だった。

 熱心な高校野球のファンは、すでに入場を待って並んでいる。いくら決勝戦とはいえ、地方大会で満席になることはおそらくないのだが、いい席を取るためにはそれなりに早く入場する必要があるのだ。

 そういった群衆は見られるものの、肝心のバタ西の選手たちが見当たらない。待ちかねて先に行ってしまったのだろうと考えて、南条も球場へと入っていった。

 最初に遭遇したのは、マネージャーの水本沙織だった。グラウンドへと続く廊下を歩いていると、走ってくる沙織が目に入った。いつものように手にはクリップボードを構え、黒いジャージを着用している。

「南条さん、早く来てください」

 沙織の声に焦りが含まれていることに不安を覚え、南条はたずねた。

「えっ、何かあったの?」

「いえ……そういうわけではないんですけど……みんな、心配して待ってます」

「まだ10分しかオーバーしてないけど……」

 状況が状況だけに仕方がないとは思うが、少し過敏になりすぎじゃないかな、と南条は軽くあきれた。

 ともあれ、遅刻した事は事実だ。南条は半ば小走りで、再び足を進めた。

 沙織がその横に並び、軽くためらってから口を開いた。

「あの、南条さん……」

「ん、何?」

「この前は……すみませんでした」

 走りながら沙織は頭を下げたが、南条は困惑した。

「えっ、この前って?」

「あ、いえ、覚えていないならいいんですけど……」

 沙織は少し寂しげな表情を見せて、進行方向に顔を向けた。

 そのまま六歩ほど走った頃、突然南条は「この前」の事を思い出した。

「あっ!」

 南条は思わず立ち止まってしまった。

「そういえば、一緒に帰ったときに、いろいろ怒ってくれたよね?」

 沙織も遅れて走りをやめ、振り向いて言った。

「はい、あの……なんというかその時、私は取り乱してしまっていて……本当にすみませんでした」

 慎重に言葉を選びながら、沙織は一層深く頭を下げた。

「いや、謝らなくていいよ。むしろ……俺は感謝しないといけない」

「……どうしてですか?」

「あの時は素直に受け取れなかったけど、いま考えてみれば沙織さんの言うとおりだったと思う。俺は甘えてた。適当にレギュラーを狙いながら、ただそのイスが転がり込むのを待ってるだけだった」

「南条さん……」

「だから、謝る必要はないよ。いまその事を思い出して、さらに決心がついた」

「決心、って……?」

 唐突な宣言に打たれた沙織は、キョトンとした目で南条を見つめていた。

「俺はいまから、投手のポジションを取りに行く。たぶん反対されるけど、試合直前まで粘ろうと思う」

 そう宣告する南条の顔はすでに、最近の濁った彼の様態と一線を画していた。

 それでも「決心」の詳しい内容は沙織に伝わらず、いまだに戸惑いを隠せず立ち尽くしていた。土方さんからの委託を知らない限りは、そういう反応を見せるのが当然だろう。だが沙織は、今この場所で起こった南条の変化を受け止め、

「頑張って、ください」

 落ち着いた励ましを南条に送った。

 南条は「ありがとう」と沙織に軽く礼をして、大またでベンチの方に駆けていった。

 その速度には到底追いつけないと感じた沙織は、ふらふらとした足取りで壁にもたれかかった。

「よかった……」

 ほとんど誰にも聞こえないような音量で、沙織はつぶやきを漏らした。

 

 南条はベンチに入ると、すぐに辺りを見回し、角田監督を探し始めた。

 その様子を、選手たちは遠巻きに観察している。なぜかある一定の距離を保とうと努めているのだが、そのくせ強い関心の目を南条に向けている。

 だが、そのように微妙な異常を感じ取る余裕は、いまの南条にはなかった。一通りベンチ内を見渡し終えると、南条は自分で発見することを諦めた。

「角屋さん」

 かがみこんで試合の準備をしているキャプテンに、南条はたずねることにした。角屋さんは振り返ると、顔に軽い驚きを表した。

「お、南条。来たか。よかった……てっきりショックで失踪したかと……」

 どうやら沙織の言っていた事は本当のようだ。それにしても正直に言うものだ、と南条は思ったが、かまわず質問を出した。

「監督はどこですか?」

「監督か、えーとな……あっ、向こうにいるぞ」

 角屋さんはベンチの外を指差した。その先では、監督がフェンスのそばで観客と会話を交わしていた。

「本当ですね。ありがとうございます」

 「おう」と角屋さんが答えるのを聞くと、南条はベンチを飛び出し監督の元に向かった。

 そばまで走りよって南条は「監督」と呼んだが、監督は気づかないかのように観客と話を続けた。

 会話の内容は、まさに土方さんに関するものだった。調子や起用法など細部にわたる質問に対して、監督は遠回りな答えを返していった。

 もちろん事件のことについては触れていなかったが、それでも今日土方さんが登板しないということだけはしっかりと伝えていた。それを聞くと、観客は明らかに落胆を見せ、「登板させない」理由を聞き出そうと食いついた。

 南条は今だ、と狙いを決めて再び声をかけた。

「監督、あの……」

 案の定、監督は質問からの解放の機会をつかみに来た。観客に「すみません。選手が呼んでますんで」と軽く謝り、監督は南条のほうに向き直った。

「なんや、話でもあるんか」

「はい」

「ここではあれやな。ちょっと離れよか」

 二人は内野フェンスを離れ、三塁線上のあたりへと進んだ。

 

「どやった、土方の様子は?」

 歩きながら、監督がたずねてきた。

「はい、あの……えーと……」
 さすがに言われた事をそのまま知らせるわけには行かないと思い、南条は口ごもった。しかし、監督はそれだけである程度の実態を理解したようだった。

「なるほどな。うん……ベンチで、何か聞かれんかったか?」

「え、あの、ベンチでは……特に何も聞かれませんでした」

「そうか……一応ワシのほうから、南条と島田は土方のところにいってるけど、いまは何も聞くな、って言うといたからな」

 おそらくそれで、先ほど選手たちは何か南条を避けるような様子を見せていたのだろう。各自の中に存在する俗的な好奇心を、できるだけ押さえ込むために。

「今日は大事な試合や。間違った解釈が広まって、変にみんなが動揺したら困るからな。知らせるのは落ち着いてから、試合が終わってからか、それ以降にしようと思うとる」

「そう、ですよね……」

 すでに二人は、フェンスからは声を聞かれないところまで到達していた。

「で、どうしたんや、話って?」

 監督は改めて、南条の話を聞き始めた。

「監督。俺に……」

 監督の、観客と話していたときとは打って変わって真剣になった眼差しを受けて、南条はいったんつばを飲み込んだ。

 姿勢を正し、負けじと監督の目を見据え、南条は口を切った。

「今日の試合、俺に投げさせてください」

「あかん」

 即答だった。

 あまりの早さに、その答えを身構えていた南条でさえ混乱していまうほど、監督はきっぱりと拒絶した。

「どうして、ですか?」

 震える声を南条はなんとか振り絞った。そんな南条を、監督はごく冷たくあしらった。

「いちいち聞かんでも、自分が一番ようわかっとるやろ」

 そういわれると、南条には何も返せなかった。

「今日の試合はな、三年生にとっては高校野球の最後になるかもしれん試合や。でも、絶対にここを最後にしたらあかん。甲子園まであと一歩っていうここの場がもし最後になったら、どうしても悔いが残ってしまうやろ。だから、いまのお前をマウンドに上げるわけにはいかんねや」

 監督の言うことはもっともだった。野球に賭けた三年間。その集大成を栄光の舞台で飾れるかどうかが、今日の試合にはかかっている。真に選ばれたものしか、その役目を果たすことは許されないのだ。

「なんや、まだ不満って顔やな。ほんなら一つ一つ、お前のあかんところを挙げていったろか」

 監督の語調は次第に強くなっていった。

「まず、フォームがバラバラで球威がない。変化球がまともに決まらん。内角に投げられへん。そういう技術的なこともあるねんけど、もっと深刻なんは気持ちの問題やな。自分に自信が持ててないから、打者になめられる。どうせ試合には出られへんからと練習はサボる。そうやって投手としてあかんかったら今度は中途半端に野手をやろうとして、こっちもモノにはできん。どや、これがいまのお前の実情や。これでもワシに、投げさせろって言うんか?」

 容赦ない監督の指摘に、南条はうろたえた。あれほど高まっていたはずの「決心」が急速に薄らいでいくのを、南条ははっきりと自覚した。

 やっぱり、俺には無理だ。

 そう挫折しかけたときだった。

 ふと、ある三人との思い出が南条の脳裏を駆け巡った。それは、諦観の泥沼に足を踏み入れようとした南条を引きずり出そうと、体当たりで訴えかけてくれた者たちとの思い出だった。

 中でも特に、一つの言葉が強烈に南条を照らした。

『お前は過去を乗り越えてくれ』

 浮かび上がったその言葉に背中を押され、南条は意を決して口を開いた。

「それは、昨日までの俺です」

 ためらいはなかった。これを最後の請願にしようと決めていた。

「今日からの俺は違います。絶対に投げ切って見せます。だから……俺に投げさせてください」

 南条は鋭く言い切った。フルカウントの場面で高めのストレートを投げ込むような興奮が、南条の全身を支配していた。

 すると、南条を試すような目で見下ろしていた監督が、急に頬を緩めた。

 そうかと思うと、監督は突然軽く笑い声を立て始めた。当然南条は、あっけに取られた顔で監督を見つめた。

「なんかようわからん例えやけど、それでええんや。南条。合格や」

「合格……?」

 南条はますます呆然として、間の抜けた声を出した。

 そんな南条の様子をひとしきり笑ってから、監督は真意を明かし始めた。

「たぶん、土方に言われたんやろ、今日投げてくれって」

「え、なんでわかったんですか?」

「まあ、ワシももう40年以上生きとるからな。それに、あいつはお前に期待しとった」

「そうなんですか……」

「ええか、今日みたいなしんどい状況になったらな、開き直ったやつが勝ちや。さっきも言ったように、いまのお前のピッチングには技術的に問題がありすぎる。でもな、今日のお前は、なまじっかなバッターには打たれへん」

 監督はそう断言すると、いきなり左のこぶしで南条の胸板を突いた。ごつごつとした、しかし決して不快ではない感覚が、南条の心臓の辺りに響いた。

「ここで押し切れ。そしたら抑えられる。気合や。気合で投げ込むんや。お前の中にたまってるもんを全て、陽陵の各打者にぶつけたれ」

 単なる偶然だろうか。その助言には、あの人が与えてくれたそれと、同じ大意が込められていた。

 ニッと笑って、監督はベンチの方に体を向けた。

「よっしゃ、そろそろ試合が始まる。ここまで言うてわしに起用させたんやからな、南条、打たれたら承知せえへんで」

「はい!」

 南条は力強く答えた。悠然と立つその表情には、もはや一点の曇りもなかった。

 二人は早足で、バタ西選手の控える三塁側ベンチへと向かっていった。

 2005年7月28日。夏の新島県予選大会決勝戦が、いよいよ幕を開ける。

  川端西   陽陵  
島田 日下部
藤谷 堀出
金田 本庄
角屋 伊佐
具志堅 日岸
中津川 引出
南条
刈田 本宮
新月 岩原

 

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