均衡

 

 バタ西の核弾頭、背番号8の島田さんが審判に軽く一礼して左打席に入った。普段の島田さんからは全く想像できないほど、極めて静謐で、落ちつきのある立ち振る舞いだった。

 決して意気消沈しているわけではない。むしろ、島田さん固有の激しい闘志は、心の奥底でいつも以上に燃えたぎっている。それがただ、今は表面に現れていないだけの話だ。

 打席をかたどる白線を踏み越しながら、島田さんはマウンド上の投手を見据えた。

 引出共和(ひきで・ともかず)、高校二年生。陽陵学院のエース。その身長は160センチに届くか届かないかだという。見るのは初めてではないが、こうして目の当たりにして島田さんは改めてその小ささに驚いた。

 だが、驚くべきはその体格だけではない。

 失点2。一試合平均奪三振数13。引出の今大会ここまで五試合での成績である。

 左腕から放たれる、キレ、スピード共に抜群のストレートと、常識を超える落差を持つ80キロ台のスローカーブ。この強力な双剣の前に対戦相手の各打者は、ボールにかすることさえままならないほど苦しめられたという。

 そのような情報を耳にしただけで、この島田さんがおじけづくはずもない。

 島田さんはスパイクで足場を軽くならし、クラウチング打法の構えを取った。

「プレーボーッ!」

 主審が裏返る寸前の声で宣告する。

 マウンド上の引出が捕手からのサインにうなずき、胸の前にグラブを置く。体は一塁方向に向き、首だけがホームの方を指している。

 そのまま引出は右足を上げ、数秒その足を滞空させる。

 左打席の島田さんはバットを少し引いた。

 引出が総身をバネのようにはじき、第一球目を投じた。

「シャーーーー・・・・・・・」

 球種はストレート。島田さんにとってはどうでもいいことだった。

 どんな状況でもこれだけは変わらない。初球から――迷わず振り抜く!

「キーンッ!」

 守備側の全選手に、冷や水を浴びせるような金属音。

 高めのストレートを、島田さんのバットが強烈にはじき返した。

 ライト方向にボールが舞い上がる。

 陽陵バッテリーが、島田さんの打撃パターンを全く研究していなかったとは考えづらい。それでも初球にストライクを投げ込んできたと言う事は、それだけ自信がある証拠なのだろう。

 しかしその確信は打ち砕かれた。

 打球は伸びていく。

 どこまでも、どこまでも飛んでいく。

 意志を持った鳥のように鮮やかな飛行を見せる白球を、島田さんは振り終えた姿勢のまま、自分でも信じられないといった顔で見守っていた。

 その軌道は無情にも、ポールの右へとそれていった。

「ファール!」

 一塁塁審が右手を掲げ、まもなくボールは一塁側内野スタンドを越えて場外に着地した。

 三塁側のベンチから、こぞって落胆のため息が漏れる。

 たぶん、島田さんの人生の中でも、これが一番完璧に捉えた当たりだった。あと一歩、あと数メートルだったのに。島田さんは一気に脱力し、体が倒れるのをバットをついて防いだ。

 しばらくこのまま余韻をかみ締めていたかったが、いつまでも崩れているわけにも行かない。

 しれっとした顔でサインを確認するマウンド上の引出に触発されて、島田さんは体勢を戻して左打席に立った。

 引出が右足を上げ、第二球を投げ込む。

「シャーーーー・・・・・・・・・バシィッ!」

 外角いっぱいの球。島田さんは身動き一つ取れなかった。

「ストライッ!」

「……!?」

 反射的に、島田さんは主審の方に顔を向けた。すると審判は親切に、もう一度小声でストライクを宣告してくれた。

 今の球をストライクにされると、かなりきつい。

 普段ストライクゾーンをあまり意識しない島田さんも、さすがに焦りを覚えた。左投手が、左打者の外角ギリギリに投げ込むストレート。体から遠い分、左打者にとって非常に厄介なボールだ。

 一人目の打者からそのボールを使えるという事は、これ以降の打者に対してはさらに精度を上げて投げ込んでくるだろう。

 とはいえ、とにかく今はバットを振るしかない。

 そうして素早く思考を切り替えられるのが、島田さんの強みの一つではあるのだが……

「シャーーーー・・・・・・・・・・バシィッ!」

「ストライーッ!バラーアウッ!」

 見逃しの三振。

 インハイへのストレートを決められると、島田さんはなすすべもなく打ち取られてしまった。

 普段から三振が多いバッターだとはいえ、あのような大きな当たりを放って興奮しているところに、こうもテンポよく三球勝負を決められると、島田さん以外のバッターでもなかなか対処は難しいだろう。

 島田さんは小さく舌打ちをして、いつも以上に悔しそうにベンチへと帰っていった。

 二番打者の藤谷さんは、力のないセカンドゴロを打たされた。球種は全てストレート。コーナーをうまく使う引出の前に、藤谷さんはまともなスイングが出来なかった。

 続く三番の金田貴史もまた、直球だけでカウント2−1と追い込まれた。

 引出が貴史に投じた第五球目。

 小気味のいい左腕の振りから、白球が放たれた。

「シューーーーーー・・・・・・・・・・」

 高めに浮いた、ハーフスピードのボール。

 そのスピードは右打席の貴史にとって、ほとんど止まっているようにさえ感じられる遅さだった。

 ここまでの四球、手元で軽くホップする直球に押され気味だった貴史は、タイミングを完璧に崩された。

 それでもただでは倒れないのが、この打者のすごいところだ。貴史は腰でスイングをため、なんとか胸の高さへバットを合わせにいった。

 その時、不意にボールが沈んだ。

「スッ」

「……っ!?」

 いや、「沈んだ」などというやわな落ち方ではない。

 胸の上を走っていたはずのボールは、貴史のバットの遥か下を通過していった。

 ほとんど地面の近くまで落ちて、ようやくミットに収まった。

「ストライーッ!バッターアウッ!チェンジ!」

 主審が勢いをつけて叫ぶと、マウンド上の軽くガッツポーズを作り、笑顔を浮かべた。

 一回の表、川端西高校の攻撃は三者凡退に終わった。

 バッターボックスには、大きく目を見開いた貴史が立ち尽くしていた。

 今の球は、なんだ?

 答えはわかっている。引出の主力武器、スローカーブだ。この球については、バタ西の頭脳である藤谷さんを中心に先輩たちから何度も聞かされているし、実際にビデオで見たり、球場で偵察したりして威力も確かめている。

 だが、その時点で自分の中に培ってきたイメージと実際のボールの間には、あまりに大きな隔たりがあった。

 このスローカーブはそう、、まさに「天井から落ちてきた」のだ。

 あらかじめ狙いをつけない限り、この球は絶対に打てない。

 まだ一打席目にもかかわらず貴史はそう結論付け、一刻も早くそれをチームメイトに知らせるために、踵を返してベンチへ向かった。

 

 

 

 投球練習を終え、キャッチャーの藤谷さんから返球を受け取ると、南条はグラウンド全体を見渡した。

 外野手は外野手どうし、キャッチボールで肩慣らしをしている。内野手はセカンドの刈田を中心に、送球のシュミレーションを行っている。心なしか、その動きはいつもよりも冴えているように見える。

 南条が最後に先発のマウンドへ登ったのは、実に一ヶ月以上前のことだった。昨年秋の新島県大会優勝校、軒峰高校との練習試合。連打を浴びた南条は次々に点を失い、三回の途中に五点目を加えられたところで降板した。

 そこからの復活の舞台が、いきなり決勝戦。しかも相手は新島の王者、陽陵学園である。

 不安になるな、というほうが無理な話だ。胸の鼓動が異様なほどに荒くなってきているのを、南条ははっきりと感じていた。

 そんな南条を、さらに震えさせる要素がある。先ほどの一回表のベンチで、藤谷さんは自らの打順を終えたあと、陽陵打線についてのデータを要約して南条に伝えた。一通りレクチャーが終わると、最後に藤谷さんはこう締めくくった。

「恐れないで投げ込んでください。でも……常に警戒は怠らないでください」

 この一言に、藤谷さんが抱いている陽陵学園への恐れが凝縮されているといっていいだろう。

 しかし南条は、マウンドに登ってしまった。

 右打席には今、相手の一番打者日下部が入った。

 もう、後戻りは出来ない。

 南条は、自らの左手首にはめたチタンバンドに目を落とした。朝、土方さんから渡されたものだ。

『お前は、俺の代わりにマウンドに立つんだ。そう思っておけば、打たれる気はしないだろ?』

 土方さんの自信にあふれた声が、左腕から聞こえてくるような気がした。

 そうだ。今日、俺は土方さんから力を託された。だから打たれるはずはない。

「プレイ!」

 審判が一回裏の口火を切った。

 南条は藤谷さんからのサインを確認し、両腕を大きく振りかぶった。

 体を横に向けながら足を上げる。この時点ですでに、南条は自身の軸が定まっていない事を自覚していた。

 ただ、いくら意識したところで、今からどうなるものでもない。そんなことはいったん忘れよう。

 南条は、自分の中に渦巻いていたものを全て指先に込め、ボールに伝えて右腕を振り抜いた。

「……ぁあっ!」

 ひとりでに声が飛び出していた。

「シューーーーーー・・・・・・」

 白球は軽快に空を走った。

「・・・バンッ!」

 打者の日下部は静かに球を見送った。

「ストライッ!」

 外角に決まったボールを見て、審判はためらいなく宣告した。

 球を放ち終えた南条の体は大きく一塁側に傾いていた。それでも、南条は忘れかけていた手ごたえを、少しだけ取り戻せたような気がした。

 足をプレート上に戻し、南条は第二球目の指示を確認する。

 サインは、内角のストレート。

 藤谷さんも懲りない人だ、と南条は思った。春の甲子園でのデッドボール以来、内角への直球をまともに投げられない南条に対して、藤谷さんはことあるごとにこうして「試練」を課してくるのだ。そして、そのたびに南条は挑戦に失敗している。

 だが、今日は違う。今日の南条には、そう、土方さんがついている。

 南条はサインに向かって深くうなずき、フォームを始動させた。

 いつも、内角球を投げる前に南条を襲うあの抵抗感が、今日は影さえもあらわさなかった。

 相手を抑える事だけを頭に浮かべ、南条はボールを力強く放った。

「シューーーーーー・・・・・・」

 打者の日下部が左肩をひねり、スイングを繰り出した。

「ブンッ」

「・・・バンッ!」

 ストレートがそのバットの上を通過し、見事に内角へと決まった。

 ミットにくいこんだ白球を、南条は一瞬、驚きの目を持って凝視した。

 間違いなく、内角に入っている。自分で作り出したはずなのに、それはほとんど信じられない光景だった。

 カウントはツーナッシング。あっという間に追い込むことが出来た。

 これはいける。

 ただ気合を入れるために念じるのではない。南条は確信を持って自分に言い聞かせた。

 体制を戻すと、南条は左の手首をグッとつかみ、第三球目のサインを覗き込んだ。

 

 一番打者の日下部からその後、第四球目のカーブで三振を奪った。

 二番打者の堀出は、第三球目のストレートでショートゴロに打ち取った。

 内角へのストレート、外角いっぱいへのカーブ、ボールゾーンに落とすフォーク。ここ最近、どうしても投げられなかったはずの球が、思いのままに南条の右手から飛び出していく。

 まだ二人を相手にしただけだったが、南条はその時、自分が無敵の投手になったような高揚感を覚えていた。

 どんな相手が来ても、打たれはしない。

 浅はかな興奮だともいえるが、長い苦しみを打ち破った直後のことだ。仕方のないことだろう。

 だが、南条はすぐに歓喜の境地から引き戻されることになる。

 ツーアウトから、三番打者の本庄が粘った。

 バットを立てた神主打法で構える、背の高い左打者。カウント2−2と追い込まれた後、南条の決め球を四球連続でファールにした。

 付け焼刃の成功に踊っていた南条は、混乱に陥るのもまた早かった。

 一つのボールをはさんで第十球目。

「シューーーーーー・・・・・・・・・バンッ!」

 打席上の本庄は、大きく高めに外れた直球を横目で見送った。

「ボール!ファーボーッ!」

 南条はこの日一人目のランナーを出してしまった。

 興奮の冷めた南条は、このとき初めて藤谷さんに与えられた情報を思い出した。

 この本庄という打者は今大会、一番の高打率をたたき出しているバッターなのだ。その数字は、五試合で20打席15安打、つまり七割五分。高校野球において七割超の打率というのはたまに見られることだが、それでもすさまじい数字であることに変わりはない。

 長打を打たれなかっただけ、まだマシだったと言うべきだろうか。

 もちろん、まだ安心は出来ない。次のバッターは、今大会第二位の打率七割二分二厘を記録している、四番の伊佐だ。この二人が、今年の陽陵打線を強力に支えている。

 南条は右手で頬を軽くはたいて気を引き締めなおし、右打席に入った伊佐と対峙した。

 一応、首をひねって一塁ランナーの本庄も確認する。この本庄という選手、打撃だけでなく走力も相当高いレベルにあるらしい。ここまでの五試合で、すでに4つの盗塁を記録しているという。

 とはいえ、まさか初球から走ってくることはないだろう。そう見当をつけ、南条は首を戻してサインを覗き込んだ。

 低目へのストレート。

 南条は体を起こし、セットポジションで構えた。

 打席の伊佐は立てたバットを小刻みに動かし、自分なりのタイミングを取っている。ガッシリとした体とせわしない動きとの対比が、奇妙な威圧感をかもし出していた。

 呼吸を整え、南条が左足を上げたときだった。

 まさかの事態が起こった。

 本庄がスタートを切ったのだ。

 右投手である南条の目は、背後を走る本庄の姿をしっかりと捉えていなかったが、それでも南条は動揺した。

 何とか体勢を維持しながら、南条はボールを投じた。

「シューーーーーー・・・」

 上ずった心が体のバランスを狂わせ、球が中途半端な高さに浮く。

 伊佐の鋭い眼光は、その好球を見逃さなかった。

 鍛え上げられた両腕が振りぬいたバットは、ぞっとするような重低音を立てて風を切った。

「キンッ」

 球は高く上がった。

 その瞬間、バタ西の全選手の呼吸が一斉に止まった。

 皆、緊張に染まった面持ちで白球のゆくえを見つめる。

 ただ幸いなことに、ボールはバットの先のほうで捉えてられていた。そうなると、打った瞬間は大きな当たりに見えるが、意外と打球は伸びていかない。

 金属バットで放たれた打球はそれでも大仰な飛距離を叩き出したが、とにかく角度がつきすぎた。

 左翼手の中津川さんはフェンスの一メートルほど手前でグラブを構え、余裕を持って飛球を手中に収めた。

 一回の裏、陽陵学園の攻撃は無得点。

 南条は安堵の息をついて、マウンドを後にした。

 三塁戦を踏み越そうとする辺りで、南条は後ろから左肩に手を置かれた。

「南条」

 呼びかけに振り向くと、その手の主は新月だった。

 実はこの日、新月と言葉を交わすのはこれが初めてだった。昨日の一件があるので仕方がないことだが、新月はそんな気まずさなどかけらも見せず、

「ナイスピッチン!」

 と、南条の左肩を叩きなおした。

「うん」

「まあ、全盛期からは程遠いけどな。気にするな。俺が打ったるから。三点ぐらいまでなら大丈夫や」

「……ありがとう」

 これが新月だ。周囲が当惑してしまうほど感情の起伏が激しいが、その分過去の事を変に引きずらない。

 試合が終わってから、昨日のことをきちんと謝っておこう。

 南条は少し照れくさそうに足を速める新月を見て、改めてそう決意した。

 

 

 

 そうは言っても、やはり三点も取られてしまってはまず勝てないだろう。

 そんな焦りを抱かせるピッチングを、二回の表にも引出は展開した。

 四番の角屋さんはセンターフライ。

 五番の具志堅は空振り三振。

 六番の中津川さんも空振り三振を取られ、二階の表もバタ西の攻撃はランナーを出せずに終わった。

 まず、球が速い。二回の時点で、スピードガンには135kmの球速表示がはじき出されていた。

 そしてあのスローカーブ。あまりの落差に各選手のバットが空を切るたび、ベンチでは金田貴史が得体の知れない興奮を表した。

「あれですよ。あの球は……本当にヤバイっすよ」

 普段の物静かな様子を返上して、手当たり次第周りの上級生にそう伝えまわる貴史を、各選手はすっかり戸惑った目で見つめていた。

 中学時代からのチームメイトである背番号15の投手八重村によると、この行動は貴史が本当にすごいと感じたピッチャーに出会ったときに限り見られるものだという。

 でも、ここまで取り乱してわめき立てている貴史はいままで見たことがない。おそらく、決勝戦という極限の状況が、貴史をここまで突き動かしているのだろう、と八重村はどこかの動物学者のように冷静な批評を下した。

 

 一方の南条も、引出ほどの完璧な投球とはいえなかったが、二回の裏を無得点で乗り切った。

 この日二つ目となる四球を与えてしまったが、落ち着いて次のバッターをライトフライに打ち取り、周囲を安心させた。

 意気を新たにしたからと言って、一旦崩れたフォームがそうすぐに戻るはずはない。

 投げた後全身があらぬ方向に傾くし、ランナーを背負ってからのクイックモーションもあまりうまく行っているとはいえなかった。また、それらを気にせず投げ込んでいる分、むしろバラつきはひどくなっているかもしれない。

 だが、南条は確かな自信を持ってマウンドに立っていた。その点ではもう、南条は以前の、いやそれ以上の投球感覚を取り戻したといってよい。

 

 

 

 三回の表が始まる直前のベンチ内。

 角屋さんは、ガラにもなく黙り込んでグラウンドを鋭い視線で観察している島田さんの隣に座った。

 すぐには話しかけず、角屋さんもまたグラウンドに目を向けた。ネクストバッターズサークルでは、この回先頭の南条が素振りをしていた。

 好投の影響からか、スイングにもキレが戻ってきている気がする。もしかしたらこの打席、南条は何かやってくれるかもしれない。

 角屋さんはそんなささやかな期待を浮かべた後、横を向いて口を開いた。

「なあ島田。なんというか……大丈夫か?」

「……何が?」

 角屋さんの心に、改めて不安がよぎった。普段の島田さんは、このような質問に対していちいち聞き返したりはしない。こちらがほとんど聞き終わらないうちに過剰なやる気をアピールし、余計なことまで騒ぎ出すのが平常の反応だ。

 島田さんとしても、そういう周りからの心配は感じ取っているらしい。角屋さんの懸念を先読みするかのように、

「俺がいつもみたいにうるさくないから、気になるのか?」

「ああ。だからやっぱり……落ち込んでるんじゃないかって。無理もないことだけどな……」

「そりゃあ、落ち込むに決まってるだろ」

 突然、島田さんは語気を強めた。

「啓が……もう投げられないんだ。とにかくすごくて、球が速くて、体力もあって、打撃もうまくて、そんな啓が自分勝手な馬鹿野朗に逆恨みされて潰されたんだ。落ち込むななんていわれても、どうしようもないだろ……」

 血色がなくなるほどこぶしを強く握り締め、島田さんは震える声を吐き出した。

 角屋さんは後悔した。考えてみれば、当然のことなのだ。島田さんが、自分の悔しさを抑え込むために苦しみ、外界に十分な意識を向けられないことは。

 そんな島田さんに対して、無神経にいつものムードメーカー役を求めていた――危機的な状況を克服するため、彼の明るさに頼り切っていた――自分に、角屋さんはどうしようもない怒りを覚えた。

「……ごめん。俺が暗くなっても、どうしようもないよな」

 いきなり謝られて、角屋さんはさらにうろたえた。そのままタイミングを失って、しばらく何も言えなくなってしまった。

 グラウンドではイニングが始まり、引出が南条への初球を投じていた。

 球種は時速80キロ台の超スローカーブ。ベンチから見ていても、そのキレと落差はある程度感じられる。あくまでもある程度、だが。実際に対戦したときに感じる、目の前で物理法則が崩れたような衝撃は、ここから眺めているだけでは推し量れるはずもない。

 南条もまた、ふがいなく空振りを喫してしまった。

「なあ、角屋」

 島田さんがグラウンドに視線を固定したまま言った。

「この前……レギュラー発表のときだったか。俺たち話してたよな。このまま順調にいったら、中途半端なまま終わってしまうな、何か一波乱来ればいいのにな、って」

 角屋さんはひざに手を置いてしばらく考え込んだ。なかなか記憶が引っ張り出せない。それほど、あれはまったく何気ない会話だったのだ。

 ようやく思い出したとき、島田さんはすでに言葉を続けていた。

「こんな苦難が来るなら、半端なまま終わった方がよっぽどよかったよ。こんな波乱なんか、全然欲しくねえよ……」

 そうつぶやく島田さんの目は、深い悲しみに支配されていた。それは、三年間野球をやってきた角屋さんさえ、一度も目にしたことのない表情だった。

 ベンチ全体にも、何となく息苦しい悲壮感が漂っていた。

 この試合、負けることは許されない。土方さんのためにも、絶対に勝たなければならない。

 誰もが皆、そう自分を追い込んでこの試合に臨んでいるはずだった。それはそれで一つの大きな力にはなるのかもしれない。だが、今までのバタ西野球からすると明らかに異質な空気が、重くのしかかっているのは確かだった。

 角屋さんがこの先にぼんやりとした不安を覚え、腕を組んで少しうつむいたときだった。

 快い金属音がグラウンドにかん高く鳴り響いた。

「キンッ!」

 音の作り手は南条だった。

 強い打球が三遊間を打ち破り、まもなくレフトへ到達した。

 ノーアウト、ランナー1塁。バタ西にとって、この日初めてのランナーだ。

 かすかに抱いていた期待が実ったことで、角屋さんは少しだけ救われた心地がした。

 バタ西ベンチに垂れ込めていた暗雲もひと時だけ、ほんのわずかな晴れ間を現した。

 

 八番打者の刈田はきっちりと送りバントを決め、ランナーを得点圏に進めたが、そこで試合が動くことはなかった。

 九番の新月を迎えると、引出の投球はさらに凄みを増した。

 小さな小さな体を、一つも余すことなく躍動させるスリークォーター。

 あの体格のどこからあんなパワーが湧き出るのだろうか、とグラウンドにいたほとんどの者たちは違和感を拭い去れなかった。

 ただ、逆に言えば、あれだけ小さな体だからこそ隅々までの制御が可能となり、抜群の体のキレが演出されるのかもしれない。どちらにせよ、引出が常人を越えた投手であることは事実だ。

 左腕から鋭く放たれる直球の球速は、ピンチを背負ってさらに上昇し、スローカーブとの速度差がさらに広まった。

 130キロ中盤のストレートと、80キロ台のスローカーブ。実に50キロ以上の球速差である。これだけのチェンジ・オブ・ペースを自分のものにしている選手は、プロ野球界を見渡してもそう多くはない。

 新月、一巡して島田さんと、引出は貫禄の連続奪三振に切って取った。

 三回の表も、川端西高校の攻撃陣は加点を阻まれた。

 

 

 対する南条も三回の裏、自らの責務をきっちりと果たし、この試合初めての三者凡退を勝ち取った。

 決して安定しているピッチングとはいえない。三回裏に対戦した三人の打者のうち、二人の打者に対してそれぞれ3ボールを与えてしまった。

 それでも、監督に言われたとおりに気迫で押し切った。相手をなんとしても押さえてやるという強い意思が、一体感のないフォームを見えない力でまとめていた。

 

 試合は中盤へ。

 先に均衡を破ったものが、大きく勝利を引き寄せる。そんな予測を見るものに持たせるような、緊迫した試合が続いていく。

 

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