瓦解

 

 ネクストバッターズサークルにひざをつき、四回表の先頭打者金田貴史はマウンド上の引出にじっと視線を注いでいた。

 陽陵の二年生エース、引出。この投手との遭遇は、貴史にとって土方さんとの初対戦以来の衝撃だった。

 つい先日の対付属沢見戦でも、貴史は気迫満点の弓射の投球に大いに戸惑った。しかし、そういう衝撃とは少し種類が違った。純粋に、高い球威への感動を、貴史はいま鮮烈に感じとっているのだった。

 貴史はこの試合を心から楽しんでいた。今のバタ西でこんなことを言うのは少し不謹慎かもしれない知れないが、本心なのだから仕方がない。おそらく、高校野球の世界に飛び込んでから一番、今日の試合は貴史の胸を躍らせていた。

 好投手との対戦。それは貴史にとって野球を続ける目的と言っていいほど、至高の価値を持つものなのだ。

 

 投球練習が終わり、貴史は右打席に入った。

 軽く息をついて、オーソドックスな構えを取る。高めの直球に対応するため、貴史はバットをいつもより寝かせ気味にしていた。

 引出がサインにうなずき、右足を上げ初球を放った。

「シャーーーー・・・・・・・」

 外角へのストレート。

「・・・バシィッ!」

 貴史は動かなかった。審判の手も上がらなかった。まずはボールだ。

 なかなか慎重に攻めてくれる。自分を警戒してくれているのだろうか、と貴史は勝手に推測して、勝手な満足を覚えた。

 そんな貴史にはお構いなく、引出は第二球目のモーションへと入った。

 セットポジションから、二秒ほど左足を滞空させ、投げる。

「シューーーーーー・・・・・・・・・・」

 高目への球。貴史の判断は遅れた。

 遅い球ではあるが下手に手を出すと危ない。まだノーストライクでもあるので、ここはバットを止めることにした。

「スッ」

 音もなく、ボールが異常な動きで軌道の角度を変える。

 そのまま変化を続けながら、球は貴史の体のそばを通り過ぎていった。

「ストライーッ!」

 早くも二球目からスローカーブ。二巡目なので、少し配球を変えてきているようだ。

 マウンド上の引出は返球を受け取ると、すぐにサインを覗き込んだ。

 手早く確認して、セットポジション。わずかな間を置いて、足を上げる。

 これらの手順が、一回からほぼ全て一定のテンポで行われている。そうすることによって野手は守りやすくなるし、打者も投手のペースに引き込まれてしまう。

 このときもそうだった。

 自分の呼吸をはばまれた貴史は、

「シャーーーー・・・・・・・」

 球種を予測していたものの、

「ブンッ」

「・・・バシィッ!」

 高めのストレートで空振りを取られてしまった。これでカウントは2−1。

 最後の方は左手だけで振り切ったバットを体の前に戻し、貴史は右手で額の汗をぬぐった。夏の太陽は今日も存分に照り付けている。陽陵バッテリーも、無駄な球数は稼ぎたくないはずだ。おそらく、次の球で勝負をかけてくるだろう。

 引出が体を起こし、第四球目を投げる体制に入った。

 貴史は狙い球を絞った。少々悔しいが、今の段階ではまだ、あのスローカーブを打てない。だから……

「シャーーーー・・・・・・・」

 狙いは的中した。

 ストレートが内角に食い込んでくる。

 貴史は腕をたたんでボールを捕らえにいった。

「キンッ」

 思ったより、いい当たりにはならなかった。手元で少し詰まらされたのだろう。

 貴史はそれでも走りをゆるめなかった。球が前に飛んでいる限り、何が起こるかはわからないからだ。

 実際、打球は三遊間に飛んでいる。

 冷静にグラウンドを見ている者たちが、これは抜けるかもしれない、と思ったときだった。

 陽陵学園のサードが、グラブを伸ばしてボールを捕らえた。ユニフォームがはちきれそうなほど、その左手は大幅に伸ばされている。

 三塁手はボールをグラブから取り出しながらステップし、体を起こすと同時に一塁へ送球した。

 一筋の白い軌跡がファーストミットめがけて伸びていく。

 バタ西でも随一の足を持つ貴史が全力で駆けていく。

「バシッ」

「アウトッ!」

 迷うような判定ではなかった。

 貴史は素直に諦め、一塁ベースを離れていった。

 今の対戦は完全に貴史の負けだった。引出の直球の、高いスピードと威力に押し切られたのだ。

 やはり、あの投手はただ者ではない。

 打ち取られたはずなのに、貴史はこの上ない喜びに満ちた目をマウンドに向けながらベンチへと走っていった。

 主審の後ろあたりを通り過ぎようとしたとき、貴史の耳に思いがけない声が届いた。

「貴史!ドンマイ!振りはよかったぞ!」

「……父さん?」

 貴史が視線を向けた先には、メガホン代わりに手を口に当てている父親の姿があった。

 なんで来てるんだろう、と貴史は一瞬疑問を感じたが、しかしよく考えてみれば今日は決勝戦なのだ。平日にもかかわらず、気になって観戦に来ているのも決して不自然なことではない。

 ただ、貴史にとっては一つ重荷が増えた。ふがいない様子を見せれば、家に帰っていろいろと小言を浴びせられるに違いないからだ。

 次の打席では、絶対に打たないと。

 貴史はより決意を強め、ベンチへと帰っていった。

 

 続く四番の角屋さんは空振り三振、五番の具志堅はレフトフライに打ち取られ、四回の表もバタ西は点を加えることが出来なかった。

 ストレートとスローカーブ。ピッチングの王道と言っても過言ではないほど、昔から多くの投手が用いてきたこのコンビネーションだが、現代においてもその威力は十二分に通用する。

 特に高校野球では、直球のスピードが120キロに満たない投手でも、スローカーブを完璧に使いこなせる投手なら甲子園で素晴らしい活躍を見せる事例さえある。それほど、この組み合わせは大きな効果を持っているのだ。

 

 

 一方、バタ西のマウンドを預かる南条は四回の裏、2本の安打を打たれながらも何とか陽陵学園打線を無得点に抑えた。

 一本目のヒットは、この回先頭打者の三番本庄。

 第三球目の落ちきらなかったフォークを正確に叩き、センター前へのクリーンヒットを放った。

 ノーアウトランナー1塁で四番の伊佐。彼の高いパンチ力と、初回に第一級目からスタートを切った俊足の一塁ランナー本庄の足に、当然グラウンド中の期待は集まった。

 南条はここで踏ん張った。キャッチャー藤谷さんのリードに従い、変化球を低めに集めて伊佐にボテボテの内野ゴロを打たせた。

 そのゴロを処理したセカンド刈田は軽やかなステップで二塁ベースを踏み、瞬く間に一塁へと正確な送球を放った。

 バッターランナーの伊佐は間に合わなかった。バタ西守備陣、というよりセカンド刈田は独力でダブルプレーをもぎとったのだった。

 だが、そこでおとなしくあきらめる陽陵学園ではなかった。

 刈田が見せたナイスプレーへの興奮が冷めやらぬうちに、続く五番打者の日岸がヒットを放った。

 決していい当たりではなかったが、内角直球を無理やり押し込んでレフト前に落とした。

 2アウトランナー1塁から打者は六番ピッチャーの引出。小柄な体格に合った短めのバットを持ち、左打席に構える。

 この引出に対して、南条は四球を与えてしまった。俗に、体の小さい打者は「的が小さい」、つまりストライクゾーング狭いため比較的投げにくいといわれる。

 実際のところ、その真偽は定かではないのだが、とにかくランナーを二人背負ってしまった。

 ここでこの試合始めて、藤谷さんはマウンドに駆け寄り南条を励ました。

 気負うことはありません。今日はよく球が走ってますから、今までどおりに投げれば十分抑えられます、と。そう勇気付けながらも帰り際に、七番の林は外角の球に強いので十分気をつけてください、とアドバイスを残していくのが藤谷さんらしいところだった。

 南条は激励にこたえた。

 爽快な奪三振、とはいかなかったが、藤谷さんの助言どおりに外角のカーブを丁寧に投げ込み、ファーストゴロに打ち取った。

 圧倒的な球威というわけではないのだが、不思議な安定感がある。そういう南条の長所が戻りつつあることを期待させるような、四回裏のピッチングだった。

 

 

 ピンチを切り抜け自然と士気も高まった五回表のバタ西打線だったが、残念ながら空回りに終わってしまった。

 六番中津川さん、高目へとキレ上がるストレートにに空振り三振。

 七番南条、外へと大きく逃げ落ちるスローカーブに空振り三振。

 八番刈田、膝元へと正確に決まったストレートに見逃し三振。

 三者連続の奪三振。その上、この試合早くも10個目の奪三振だった。さぞかし快感だろうと思われたが、引出は顔色一つ変えずに飄々とマウンドを後にした。

 自身がすばらしい投球を見せても下手に興奮しすぎないのが、好投手のひとつの条件でもある。たとえそれが喜びから来たものだったとしても、神経の乱れは運動の乱れ、ひいては制球の乱れにつながることもあるからだ。

 もちろん逆に、こういうとこそ気迫を前面に押し出してチームを盛り上げるという方法も十分有効ではあるのだが。

 緊迫の決勝戦も、ようやくちょうど半分まで到達した。依然として試合は停滞を続ける。

 

 

 

 五回の裏の陽陵学園ベンチ。

 南条の直球にねじ伏せられて力ない内野フライを上げる八番打者へ、長いすに腰を下ろした二人の陽陵戦士が冷ややかな目を向けていた。

 背が高い一人の男は三番打者の本庄、肩幅の広いもう一人の男は四番打者の伊佐。

「あーあ。本宮さん、何やってるんだよ。今のはボールだろ……」

 本庄が少しうなだれて、あきれたようにつぶやいた。

「まあ、本宮さんにも本宮さんなりの考えがあるんだろう。あんまり愚痴ってると、感じ悪いぜ」

 片手でバットを磨きながら、伊佐はそう諭した。

 凡打を放った八番打者に敬称をつけているのは、この二人が下級生だからだ。そう、二人は二年生なのである。二年生にして、新島県の打撃成績の一位、二位、を占領しているこの二人。引出といい、陽陵学園というチームは本当に人材に恵まれている。

 グラウンドには、九番打者が右打席に入っていった。ポジションが捕手ということで、打撃にはあまり期待されていない。

 案の定、南条が投じた初球のカーブに大きな空振りを喫した。

「しっかし、あの南条ってピッチャー、そんなに打ちにくいかねぇ」

 打席上の先輩に安打を求めることをあきらめた、とでも言わんばかりに本庄はベンチにもたれかかった。

「ストレートはそこそこだし、変化球も微妙だし。第一、投げ方なんかおかしいし」

「そりゃあ、土方さんに比べれば劣るけどな……」

 悪いピッチャーではない、と続けようとしたが、伊佐は言葉を引っ込めた。

 伊佐は、第二打席でセカンドゴロを打たされ併殺打に終わってしまった。二塁手の守備がうまかったというのもあるが、あの時低目いっぱいへと来たカーブのコントロールは、並みの投手のものを越えているように思われた。

 だから、伊佐自身としては南条をそう低く評価していないのだが、それを口にするのはなんとなく自分を弁護しているようで格好が悪い。それに本庄の意見にもある程度納得できるところはある。

「そう、それだよ。土方さんだよ。くっそー、せっかくまた対戦できると思ってたのにな……」

 本庄は心底悔しな顔をしていた。彼もまた、強い投手と手合わせすることに喜びを感じる人種の一人なのだった。

「なんで、わざわざ二番手を登板させたんだろな」

 伊佐が問いかけた。

「知るかよ。おおかた、調整ってとこだろ。陽陵もなめられたもんだぜ」

「いや、それにしては全然見かけないぞ。グラウンドに入ったときから探してるんだが……」

 伊佐は少し身を乗り出して三塁側のベンチを観察してみたが、あの巨体は目に入ってこなかった。

「やっぱり、何かあったんじゃないのか?」

 伸ばしていた首を引き寄せ、伊佐は言った。

「だろな。でないと、こんな試合にエースを出さないわけないもんな」

「あったとすると……よっぽどの事情なんだろうな。大ケガとか……いや、怪我しててもベンチ入りぐらいはするはずなのに……」

「ま、何があったにせよ俺たちには関係ないさ」

 思い悩む伊佐を横目に、本庄は冷たく言い放った。

「いま、目の前に能力的に低いピッチャーが登板している。俺たちに関係あるのはそのことだけだ。甲子園への切符をより確実なものにしてくれる、ラッキーな事実だけだ」

 冷徹な意見を述べる本庄の横顔に、伊佐は複雑な視線を注いでいた。普段は、こんなことを言う男ではないのだが。期待していた土方さんとの対戦がふいになったことで機嫌が悪いのだろう。

 いつのまにか、五回の裏は終わっていた。九番打者はとっくの昔に三振を取られ、続く一番打者はきっちりと四球選んで塁に出たが、二番打者はそれをつなぐことができなかった。

「まったく、一回ぐらい俺にランナーを回してくれよ。情けない」

 これまた傲慢なせりふをはき、本庄はグラブを手にしてさっさとグラウンドに飛び出していった。

「ラッキーな事実、か。まあ、その通りなんだけどな……」

 なんとなく腑に落ちない顔をしながら、伊佐もまた腰を上げて三塁の守備位置へと向かっていった。

 

 

 六回の表先頭の打者新月が、豪快な空振り三振を演じて見せた。

 しりもちをつきそうなほどバランスを崩したが、何とか踏みとどまってすごすごとベンチに帰っていった。

 そんな、ある種楽しげな光景も、次のバッター島田さんの目にはあまり入っていなかった。ただ、引きでの球筋を叩き込むためだけに、彼は神経を集中させていたのだった。

 五回の頭ぐらいから、島田さんは自分が今、ここで果たせる役目について考えていた。

 両投手の球威が冴え、固まりきって動く気配の感じられない試合。いつもなら、こういう場面で島田さんは無駄に騒いで部員たちの緊張をほぐそうとする。

 その行為は仲間たちのためだけではない。ほとんど人には知られていないが、極度に上がり症である――中学時代の前半までは、そのせいでレギュラーの座を逃し続けていた――島田さんにとって、自分のモチベーションを保つための儀式でもあったのだ。

 しかし今日、そのようなことはできない。土方さんが冷たいベッドの上で悔恨をかみ締めている今、たとえ偽りであっても能天気に騒ぐことなど、島田さんにはできるはずもなかった。

 それに、今日島田さんは不思議と、無理にわめく必要がないぐらいに落ち着いて試合へと臨めていた。

 闘志が消えかかっているわけではない。何が何でもこの試合に勝ってやる、と言う意気は十分に持っている。ただ、自分でも不思議なぐらいに、はやる心が内側にとどまってくれているのだ。

 マウンド上の引出が、投球練習の最後の球を放った。

 きびきびとしたスリークオーターから弾かれるストレート。ネクストバッターズサークルの島田さんの耳にまで、ボールが風を切る高音は伝わってくる。

 だが、打てない気はしない。あのカーブさえ捨てれば、弾き返せる自信はある。

 今の自分は、チームを盛り上げると言う面ではまったく貢献できない。だからその代わり、絶対に自分がここで試合を動かす。

 見てろよ、角屋。俺は今の俺なりに、チームを勝たせるから。

 島田さんは三塁側ベンチの仲間たちに決意をこめた視線を向けて、左打席に入っていった。

 引出はすでに投球体制へ入っていた。こんなに暑い日なのに、まだまだ顔は平然としている。

 右足を上げ、数秒ほどぶら下げたあと、左腕が歯切れよくうなる。

「シャーーーー・・・・・・・」

 高目へのストレート。島田さんは、この初球に対して何の反応も見せなかった。

「・・・バシィッ!」

 審判は沈黙。白球はストライクゾーンの外に達していた。

 これまでの島田さんなら、間違いなく手を出していた球だろう。

 先ほどの回、ベンチの中で島田さんは藤谷さんに助言されていた。相手のバッテリーは島田さんの癖を完全に読んでいる。初球はほぼ確実に、ボール球を投げてくるはずだ、だから手を出すな、と。

 そんなことは、言われずともわかっていた。

 陽陵バッテリーだけでなく、準決勝での付属沢見バッテリー、さらに以前の一之瀬工業バッテリー。上位まで上がってくるような高校は、相手の打線を細かく分析している。だから、よほど特殊な戦略がない限り、どこのチームも島田さんへの初球は警戒しているのだ。

 そしてその警戒網に難なく引っかかってしまっているのも、島田さんはもう自覚していた。

 それでもなぜ、あえて初球を振り続けていたのか。

 答えはごく単純だ。追い込まれるのが怖い。ただ、それだけのことだった。

 自分のミート力に自信がないから、ストライクを重ねられれば重ねられるほど、打てなくなっていく気がしていた。

 今日は違う。今日は、たとえ追い込まれても打てそうな気がする。今日は、以前までの自分と決別するひとつの好機だ。

 島田さんは右手をグッとひねり、クラウチングの構えをいっそう深めた。

 引出が足を上げ、第二球を投じる。

「シューーーーーー・・・・・・・・・・」

 遅い。

 そう判断すると、島田さんはすぐさまバットを止めた。

 案の定、球は鋭く外に逃げ落ちた。

「バシッ」

「ストラーイッ!」

 外角低めのすばらしいコースに白球は収まっていた。

 だが、島田さんはそれを見ようともしない。そのかわりに、目をつむって何度か頭を振った。

 カーブの軌道、そして速度を忘れるためだ。このイメージが脳内に残っている限り、到底引出を攻略できそうにはない。

 幸いにも、陽陵バッテリーは島田さんの一種奇怪な行動に大きな意味は感じていないようだった。

 そのまま手早くサインを交換し、引出はセットポジションをとる。

 振りかぶらずに、第三球目。

「シャーーーー・・・・・・・」

 島田さんは狙い球を絞りきっていた。

 速ければ打つ。コースなどは、どうでもいい。

 その思い切りが、正の方向へ作用した。

 島田さんが渾身の力で振り切ったバットは、

「カキンッ!」

 目の覚めるような快音を立ててボールを舞い上げた。

 引出がすばやく打球を見上げる。陽陵のキャッチャーもマスクをはずし、その行方を見つめる。

 ぎらつく太陽の下で、白球は滞空する。

 島田さんはただ夢中に一塁へと走っていた。

 右翼手が追う。首をねじりながら、懸命に走る。

 ようやくボールとの距離が縮まってきたと感じた頃、右翼手の進行方向に厳然とフェンスが立ちはだかった。

 右翼手はあきらめた。

 打球はライトスタンドに吸い込まれた。

 ソロホームラン。

 役者は依然、快速を飛ばして走り続けていた。

 一気に球場を包んだ歓声の意味も、彼にはしばらく理解できなかった。ただ、何で野手にボールが帰ってこないんだろう、と訝しがるだけだった。

 三塁ベースを回ったあたりで、ベンチから祝福のために飛び出してきた部員たちを見て、やっと島田さんも気がついた。

「すげーぞ、島田っ!」

 部員たちの先頭でキャプテン角屋さんが叫んだ。ホームベースを踏んだ島田さんにすぐさま駆け寄っていきたい衝動に駆られたが、試合途中なのでそれはできない。

 その代わり、ベンチ前に戻ってきた島田さんを、角屋さんは手荒く叩きのめした。

「いたっ、痛いって、やめろよ!」

 決して嫌ではなかったが、キャプテンに習って多くの部員が打撃を加えてきたため、さすがに島田さんもこらえきれずに声を上げてしまった。

 ただ、その頼みはしばらく聞き入れられなかった。部員たちは満面の笑顔で、ひたすら島田さんの全身を平手で叩き続けた。

 マウンド上には、すべての野手が引出の周りに集まっていた。

 この投手のことだ。一点ぐらいで大きく動じることはないだろうが、一応のために士気を新たにしているのだろう。

 ひとしきり言葉を交わし終えると、陽陵の選手たちは円陣を組んだ。

 グラウンドの中心から低いうなり声が上がる。野手たちは再びそれぞれの持ち場に散っていった。

 後には引出が一人残された。その顔にはやはり、動揺や不安は浮かんでいなかった。

 二番打者の藤谷さんが右打席に入り、六回の表が再開される。

 ベンチ内の興奮はまだおさまっていない。

 部員たちが口々に賞賛の言葉を浴びせる中、突然島田さんは顔を伏せ、軽い嗚咽を漏らし始めた。

「お、おい、どうしたんだ」

 隣に座っていた角屋さんが、あわててたずねた。

「いや……やっと……やっと打てたなって……」

 途切れ途切れながらも、島田さんは自らの心中を告げた。

「……このまま、打てないんじゃないかと思って……」

 一打席目、二打席目と、島田さんは三振を奪われていた。周りからは推し量れないほど、これまで島田さんは勝利への焦りと自らへの苛立ちに苦められていたのだろう。

 そして、ようやく最高の形で成果を出せたとき、彼の中で緊張の糸がぷつりときれた。その余波が今、涙となって島田さんの目からあふれ出している。

「そうか……よかったな、貢献できて」

 角屋さんは、まだうなだれている島田さんの背中をやさしく叩いたが、こう付け加えることも忘れなかった。

「でも、まだ勝ったわけじゃないぞ。これからが正念場だ。もっと打って、しっかり守っていこうぜ」

 それは角屋さん自身への戒めでもあった。自分も島田さんに続いて、陽陵の牙城を崩してやろう。角屋さんは改めて決意を固めなおした。

 その時、グラウンドに快音が響いた。

 藤谷さんが打球を放ったらしい。ベンチ内の全部員の視線が、いっせいに同じ向きへと揃う。

 白球は一、二塁間に向かって鋭く飛んでいた。藤谷さんが得意とする流し打ちだ。

 誰もが藤谷さんの出塁を確信した時だった。

 二塁手が地を蹴って飛び込んだ。

 打球が内野を抜けるかというギリギリの線。ダイビングの飛距離も常識では考えられないほど長い。おそらく、一か八かの跳躍なのだろう。

 二塁手の賭けは成功した。

 打球は奇跡的、二塁手のグラブに収まった。そのまま二塁手の体は地面に叩きつけられたが、ボールがこぼれ落ちることはなかった。

 セカンドライナーで2アウト。

 藤谷さんは一瞬、戸惑って塁間に立ち止まったが、すぐにあきらめてダイヤモンドをいったん後にした。

 中腰になってその光景を見つめていたベンチの部員たちは、ため息をついて肩を落とした。

 

 目を疑うようなファインプレーを見せられても、バタ西打線はすぐに引き下がらなかった。

 三番打者の金田貴史が四球を選んだのだ。総計11球にわたる、激闘の末の出塁だった。

 残念ながら、そこからが続かなかった。

 気合十分の四番角屋さんだったが、あえなくファーストへのファールフライに打ち取られた。

 結局バタ西の攻撃はこの回、一点を加えるのみで終わってしまった。だが、甲子園に向けての大きな一歩を踏み出したことには違いない。

 スコアが動き出した。いよいよ熱戦は、佳境へと突入していく。

 

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