逃走
1−1のまま、試合は終盤八回表へ。
この回先頭の打者は八番の刈田。
三振だけは避けようと、いつも短いバットの握りをさらに短くし、どこまでもボールに食らいついてやると意気込んで右打席に入ったのだが……その力みが、逆に引出のペースに巻き込まれる要因となってしまった。
左腕から胸元に差し込んでくる直球で息つく間もなくカウント2−0と追い込まれ、第四球目、外角から切れ込んでくるスローカーブを何とかファールにしようと刈田は上半身を前につんのめらせたが、ボールは無常にもバットの下をするりと通り抜けていった。
結局空振りの三振で1アウト。
相変わらず思うように動いてくれない自らのスイングに苛立ちを覚えつつ、刈田は右打席を後にした。
次の打者は九番新月。正直、あまり大きな期待はかけられないが、そろそろ誰でもいいから塁に出ないとまずい。
ゆらりと立ち上がった長身のチームメイトに向かって刈田は、
「わかってると思うけど、もう八回だからな。大振りするなよ」
と軽くアドバイスをぶつけてみたが、新月は何も反応しなかった。
彼はただゆったりと、打席に向かって歩みを進めていった。普段なら、絶対何か軽口、もしくは反抗の言葉を投げ返してくるところなのに。
聞こえなかったのかな、と刈田はもう一度呼びかけてみようと思い、新月の顔をしっかりと視界に捉えた。
ここで刈田は、飛び出しかけていた声をとどめ、一瞬その場に固まってしまった。
新月は口元で何ごとかをぶつぶつとつぶやいていた。大事な打席の前なのに、視線は中空をさまよい、心ここにあらずといった感じだった。
ただ、眼光だけは驚異的に鋭かった。
なすすべもなくその様子を見送っていた刈田は、そこからさらに信じられない光景を目にした。
両打ちであるはずの新月が、左打席に入ったのだ。
常識では考えられない行動だ。そもそも両打ちというのは相手の利き腕と反対側の打席に立つことによってはじめてその効果、ボールが見えやすくなるという利点が生まれてくる。
実際、ここまで二打席、新月はきちんと右打席に入っていた。一つのアウトさえ惜しいこの場面で、なぜこのように突飛な行動をとるのだろうか。
「おい、新月!そっちじゃないぞ!」
刈田は半ばうろたえながら、新月に警告した。
はじめて新月は刈田のほうに顔を向け、口を開いた。
「いや、こっちでええんや」
「えっ?」
「詳しくはベンチに帰って藤谷さんに聞いてくれ。俺に聞かれてもようわからん」
新月はそれだけ言い残すと、審判に軽く一礼して左打席に入った。
本当に新月は何も知らない様子だった。それを見ると、刈田はおとなしくベンチへ帰っていった。
新月がこの不可解な作戦を命じられたのは、この八回表の始まる直前のことだった。
藤谷さんが突然、ベンチを出ようとした新月を引き止め、「この回、左打席に立ってみてください」と言い始めたのだ。
もちろん新月はすぐにうなずかなった。そして刈田が抱いた疑問と同じようなことを藤谷さんに尋ねてみた。
すると藤谷さんは、確信に満ちた声でこう答えた。
「ここまで予選の打席を見てて思ったのですが、たぶん新月君はもともと左打席のほうがあってるんですよ。スイングも、視界もおそらくそうです。事実として、今回の大会は今までにないぐらいバッティングの調子がよかったでしょう?」
「は、はい。まあ……でも、試合途中なのに急に左打席に変えて大丈夫なんですか?」
新月は当然の困惑を満面に表したが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「逆ですよ。急に右打席に変えたから打撃を崩して、ここまで二打席まったくボールについていけてなかったんです」
そこまで言われて、初めて新月は思い当たった。
この陽陵戦を迎えるまで、この大会新月はただの一打席も右打席に立っていなかった。
試合の間だけではない。
練習のときも、なかなか右打席でのフォームチェックにまで気が回らず、ようやく陽陵戦前日の昨日に思い出して、あわただしく右打席での打撃練習を始めたぐらいなのだ。
いくら人生の中では右打席のほうが長く立ってきたといっても、そのような状況では打撃が崩れて当たり前だ。
とはいえ、この作戦に対しての不安がまったく消えるわけでもなかった。
右打席でもなかなか見極めにくい左腕引出の投球。一般的に不利だと言われている左打席から見れば、なおさら打ちにくい球になってしまうのではないだろうか。
思い悩んで立ち尽くす新月の背中を、藤谷さんは両手で押した。
「……うおっと。何するんすか、藤谷さん」
唐突に押されて転びそうになった新月は軽く抗議の声を上げた。
「とにかく、だまされたと思って左に立ってみてください。幸運を祈ります」
だまされた、ではすまんやろ、この場面……と、いまだ拭い去れない疑問に小首を傾げつつも、新月はおとなしくネクストバッターズサークルに向かっていったのだった。
そして迎えたこの打席。
引出は早くもサインを確認し終え、胸の前にグラブをおいていた。これでもう、初球に限っては打席を変更できない。
心なしか、バットを握る手が震えているような気がする。それはそうだ。いくら藤谷さんが判断したといっても、かなり無理のある方策なのだ。
試合は佳境に入っている。1アウトどころか、1ストライクさえも無駄にできない。もしこの初球で打てそうにないと思ったら、すぐさま右打席に戻ろう。
新月はそう決意して、引出の投球を待った。
小気味のいいフォームから、運命の一球が放たれた。
「シャーーーー・・・・・・・」
胸元への直球。
「・・・バシィッ!」
「ストライッ!」
ベースの端を通過してミットに収まり、1ストライク。
それは傍目から見ていても、完璧な初球だった。
だが新月は、思わずつぶやきを漏らしていた。
「こんなもんやっけ……?」
決して遅いと感じたわけではない。相変わらず、あの小さな体からは信じられないほどの威力を持つストレートが、ズバリと内角に決まった。
それでも新月には、打てない球ではないと思えた。
球の軌道が見える気がするのだ。右打席のときには、まったくなかった感覚だった。
これはいける、かもしれない。
新月は得体の知れない自信を、全身へと徐々にみなぎらせていった。
そうしている間にも、引出は投球体制に入っていた。
上げた右足を二秒ほど滞空させ、短い腕をムチのようにしならせる。
「シューーーーーー・・・・・・・・・・」
ボールがリリースされた瞬間、新月の本能がこんな警句を放った。
カーブや!打つな!
「スッ」
予言は当たった。
ボールは、新月の外側へと逃げ沈んでいき、ボールゾーンでキャッチャーに捉えられた。
この警告は、たぶん偶然ではない。おそらく新月の本能は、リリースポイントを見ただけで変化球がくると判断することができたのだ。これもまた、右打席の時にはなかった現象だった。
もはや新月の頭から不安は消え去っていた。
第三球目。
「シャーーーー・・・・・・・」
やや内寄りの低めに走るストレート。
自然と、新月はバットを出していた。
「キンッ!」
打球は引出の頭上を通過した。
さすがに引出のストレート。簡単に心地よい当たりを放たせてはくれなかったが、それでも「慣れた」フォームから繰り出されたスイングはボールをしっかりと外野まで運んでくれた。
白球は中堅手の前に落ち、少しだけ土を削る。
文句なしのセンター前クリーンヒット。
喜びのあまり、いつもにも増した高スピードで一塁に到達した新月は雄たけびを上げて、振り上げたこぶしを一塁ベンチへと向けた。
引出にしてみれば、――個人的に知り合いだとはいえ――思わぬ伏兵の一打だったと言えるだろう。決して表面には出さないが、内心それなりのショックを受けていることは間違いない。
だが、新月の力は塁に出てから真に発揮される。
もちろん陽陵バッテリーはそのことを研究済みのようだった。引出はほとんど過多ともいえるほど何度も何度も牽制球を送って、新月を一塁ベースに釘付けしようと試みた。
新月をよく知るバタ西のある選手は、その浅い戦術を眺めながらしみじみとこう漏らした。
「あーあ、あれじゃ逆効果だよ……」
その通り。新月は、逆境に立たされれば立たされるほど燃える男なのだ。
合計六度にわたって牽制されても、新月はまったくリードの幅を縮めず、引出が投じた五球目のスローカーブを野性的なカンで読み取って、やすやすと盗塁を決めてしまった。
ただし、打者のほうはその球にあえなく空振りしてしまい、三振を奪われていた。これで、どちらにせよ2アウトになってしまったが、バタ西最高の走者が得点圏に立つ意義は非常に大きい。
この場面で右打席に入るのは二番の藤谷さん。
この人も刈田と同様、いつもよりさらにバットを短く持って確実に当てることを心がけたが、無駄な力を普段以上に抜いて構えることも忘れなかった。
それが功を奏したのか、藤谷さんは冷静に球を判別し、カウントを2−3まで持っていくことができた。
そして第六球目。
藤谷さんとしてはフォアボールを選んで、次の三番金田貴史に逆転の一打を任せたいところだったが……
「シャーーーー・・・・・・・・」
直球が外角の非常にきわどいコースに入ってきた。
このまま見送るのは危険だ。
そう判断した藤谷さんはコンパクトにスイングした。
「キンッ」
タイミングは正確だったが、打球は二塁手の守備範囲に向かって地を這っていった。
追いついた二塁手がグラブを出し、バタ西の選手たちがいっせいにため息をついた時、予想外の事態が起こった。
打球がグラブの縁を叩き、大きく跳ね上がった――つまり、二塁手がエラーをしてしまった。
冷静に対処すれば、藤谷さんの遅い足を考えると、十分アウトにできただろう。だが二塁手ははじいたボールを見失っていた。
あせればあせるほど、ボールの行方は狭まり続ける視界の外へと逃げていく。
その間に、必死の走塁を見せた藤谷さんは一塁ベースを踏んでセーフを勝ち取り、ランナーは一塁、三塁となった。
ミスなく守備をするには、コンマ一秒単位での正確な判断力が要求される。プロ野球を観戦し続けているとしばしば忘れがちになるが、それは極めて難しいことだ。この陽陵学園でさえも、予選五試合で合計4つの失策――新島県では一番少ない失策数――を犯してしまっている。
ただ、もちろんエラーを出さないことは大切だが、より重要なことは致命的な場面で絶対に焦らないということだ。そういう意味で、この陽陵の二塁手はかなり痛いエラーをしてしまったといっていい。
何しろ、次の打者は三番の金田貴史なのだ。
ここまでヒットはないものの、第二打席は三塁手の攻守に阻まれたもののなかなかいい当たりを見せたし、第三打席では六球ものきわどい球をファールにした上でのフォアボール。傍目から見ても、貴史のタイミングが引出のボールに合いつつあることは明らかだった。
そして彼自身も、十分な自信を持って四度目の右打席に入っていった。
「貴史!そろそろ打てるだろ!ここでかましてやれ!」
一塁ベンチから、おそらく一年生だろう、部員の一人が激励の声を飛ばした。その声に続いて、ほかの部員たちも次々に叫びを上げていった。
「行け!貴史!集中しろよ!」
スタンドからも声が飛んだ。声の主は、貴史の父親だった。力の限りに握り締めたこぶしを前方に突き出しながら声を張り上げている姿は当然、群衆の中で恐ろしく目立っていた。
だが、それらの声は貴史の耳にまったく届いていない。
彼の耳には、ここぞという場面のためにとっておいた秘密兵器、準決勝で威力を発揮したリーサルウェポン、耳栓が装着されていた。
今、貴史はほとんど音の無い世界にいる。自然と、集中力も高まってくる。
ふう、とひとつ息をつき、いつも通りのオーソドックスな構えを取って引出と対峙する。
おそらくもう、審判はこの勝負の開始を告げたのだろう。引出はサインを確認し終えると、これ以上ないほど簡潔な動きでいったん一塁に牽制球を送った。
一塁手が引出に返球する様子を見ながら、貴史は改めて狙い球を心に刻み付けた。
長打を狙うつもりはない。どんなに浅い安打でも、もしかすると内野安打でも、三塁ランナーの新月は余裕を持ってホームベースに還ることができるはずだ。
引出が右足を上げ、ぶらりと滞空させた。
貴史は不動の姿勢でそのフォームを見据える。
一瞬で勝負することに決めていた。つまり初球から、打ちに出る。
コンパクトにテークバックをとり、引出は左腕を振りぬいた。貴史の狙い球は……カーブ。
「シューーーーーー・・・・・・・・・・」
予測は的中した。
気が抜けるほど低速で向かってくる球を貴史はしたり顔で待ち構え、小さいころから体に叩き込まれたタイミングでスイングを繰り出す。
膝元当たりまでボールをひきつけて、貴史はしたたかにバットを振りぬいた。
「カキンッ!」
ほとんどボールとも思えるコースのスローカーブを、貴史は芸術的にすくい上げた。
打球は三遊間の中空を飛行し、またたく間にレフト前に到達した。
金属音とともにスタートを切っていたランナー新月が、派手な土煙を上げてホームペースに滑り込んだ。
怒涛の攻撃で、バタ西は勝ち越しの二点目を加えた。
新月は審判の宣告も聞かずに立ち上がり、一塁ベースに立つ殊勲者に向かって思い切り叫びをぶつけた。
「貴史っ!ようやった!さすがやっ!」
その声は、その場に立つ主審が思わず耳をふさぎたくなるほど凶悪に大気を切り裂いたが――肝心の貴史は依然として、無音の世界で喜びをかみしめていた。
再び一歩リードを取り、そのままバタ西打線の反撃ムードも盛り上がってくるかのように思えたが、引出は続く四番の角屋さんから冷静に空振り三振を奪い、攻撃の流れを軽やかに一刀両断してみせた。
だが、いったん生み出された勢いが、完全に途絶えることはなかった。
バタ西ナインの間に明確な形を持って燃え始めた勝利への想いは、八回の裏、守備陣の軽快な動きとなって現れた。
まず、先頭打者の三番本庄を迎えて。
前の三打席、二安打一四球と南条を打ち崩している本庄はこの第四打席でも、火の出るような当たりを二塁ベース付近に放った。
いよいよ抜けるかと見えたとき、一筋の影がボールの軌道に立ちはだかった。
あらかじめベース寄りに守っていたセカンド刈田が、とっさの逆シングルでグラブを出したのだ。
ワンバウンドで捕球したボールを、刈田は振り向きざまに一塁へと送った。
一塁手具志堅がしっかりと受け取り1アウト。
スタンドの一部が自然と拍手を浴びせてしまったほど、素晴らしいプレーだった。
だが陽陵は、一つのファインプレーを見せられたところで簡単にしぼむようなチームではない。
続く四番の伊佐は、南条が投じた第三球目、比較的苦手なはずの低いカーブを痛烈に左中間へと運んだ。
ここでも、バタ西守備陣の集中力あふれるプレーが光った。
かなり深いところまで打球が飛んだと判断した伊佐は、三塁ベースコーチの指示も手伝って二塁ベースを蹴ったのだが、思いがけない速さで内野にボールが返ってきた。
レフトの中津川さんが、フェンス際のボールを迅速に処理し、正確な中継をショートに送ったのだった。
即座にきびすを返した伊佐は何とか無事に帰塁したが、あと少しでも遅れていれば確実に、ショートから小気味よくボールを送られたセカンドのタッチに刺されただろう。
流麗な連係プレーの余韻も覚めやらぬまま、五番打者日岸の打席。ここは南条が球威を存分に発揮してセンターフライに打ち取り、ランナーの進塁を許さなかった。
二アウト二塁となったところで、六番の引出に対してはこの試合六個目となる四球を与えてしまったが、七番の林には気を取り直してボールを外へ内へと散らし、第五球目に投げた外角へのフォーク、
「キンッ」
バッター林の体はふがいなく泳ぎ、力ない飛球がライト方向へと上がった。
打者の崩れたフォームを見て、南条はそのままマウンドを降りようとしたが……打球の行方を振り返ったとたん、強い焦りに襲われた。
ボールは一塁線際の中途半端なコース、ライトからもファーストからも遠い地点に飛んでいたのだ。
そのポイントに向かって、ライトの角屋さんが猛然と走りこむ。
白球はどんどん重力にしたがって落ちていく。
地上までの距離が1メートルを切ったかと思われたとき、角屋さんは地点にたどり着いた。
角屋さんは左手をちぎれんばかりに伸ばした。
ボールはグラブに収まった。
走りこんだ勢いが止まらず、角屋さんは捕球の姿勢のまま不恰好に足を動かし続け……フェンスに体をぶつけてようやく止まることができた。
しっかりつかんだボールはこぼれ落ちなかった。もしこの瞬間、打ち所が悪くて命を落としたとしても、角屋さんは絶対にこのボールを手放さなかっただろう。
3アウトチェンジ。八回の裏も、バタ西は陽陵打線の猛攻を果敢な守備で何とか防いだ。
熱気に満ちた決勝戦は、最終局面へと突入する。
追う陽陵、追われるバタ西。
もはや、どちらの選手たちにとっても、譲歩の余地は一歩も残されていなかった。
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