防衛
どんなに精密なコントロールを持つ投手でも、失投なしに一試合を投げきることはほぼ不可能に等しい。
プロの投手が完全試合を達成するようなピッチングをしていても、一試合のうち数球は自分が思いもしないコースに投げてしまうものだ。まして高校生投手にとっては何をいわんや、である。
今日の試合、まだ四本しかヒットを打たれていない陽陵学園のエース引出が九回の表、二アウトから南条に投げた第二球目は、まさにその「避けられない失投」であった。
いまだ鋭い振りを保つ左腕から放たれた白球は、ストライクゾーンのど真ん中へと吸い込まれていった。
引出の直球は速い。この時の球は時速141kmという高スピードを叩き出していた。
それでも極端に甘いコースへと入れば、しっかり鍛えた眼を持っている打者には打たれる可能性が高い。事実、南条はそれだけの技術を持ったバッターだった。
南条はその球に対し、ためらうことなくスイングをぶつけた。
「キンッ!」
軽快な金属音が響き渡った。
バットを振り切った南条は、打った瞬間にたいていやってくる、あのいやな痺れをまったく感じていなかった。球をバットの芯で捉えた証拠だ。
胸のすくような鋭い打球だったが、その照準は二塁手の定位置に合ってしまった。
白い軌跡はそのまま音を立てて二塁手のグラブに突き刺さった。
セカンドライナー。三アウトチェンジ。
結局この九回表もバタ西は引出から点を奪うことができなかったが、現在スコアは2−1。
あと1イニング、あと三人の打者からアウトをとりさえすれば、いよいよ聖地への扉が開かれる。
その成否の多くが今、バッティンググローブをはずしつつ、ベンチへと駆け戻る南条の右肩に重くのしかかっていた。
だからいつまでも、打席での不運を嘆いているわけにはいかない。
南条はつい先ほどの悔しさ――宝くじの番号が一つ違いで外れたような悔しさ――をできるだけ払いのけるため、両肩を軽く何度かまわした。ベンチに着くと、素早く自分のグラブを拾い上げ、自分の闘いの場へと飛び出していこうとした。
そのとき、キャプテン角屋さんが召集をかけた。
「おい!集合だ、円陣組むぞ!」
すでに三塁線を踏み越しかけていた南条は、すぐさま反転してキャプテンのもとに集まった。
控えの選手たちも立ち上がり、ベンチ前に総勢18人の球児が肩を組み一つの円を構成する。
角屋さんは部員たちの顔を一通り見渡してから口を切った。
「いいか、みんな。この際だ、ややこしいことは言わない」
そういって頭を下げると、角屋さんは本当に必要な一語だけを高らかに放った。
「……勝つぞっ!」
キャプテンの口火に呼応して、皆もそれぞれの想いをあらん限りの声に託して出し切った。
球児たちのうなりが一つとなって、三塁側ベンチ前から舞い上がる。
円陣は解かれ、九人の戦士たちが最後のステップを乗り切るため、それぞれのポジションに散っていった。
数球きりの投球練習を終えると、南条はとっさに膝を折って身をかがめた。
その頭上を、キャッチャー藤谷さんが二塁に放った送球は静かに通り過ぎていった。盗塁を刺すためのシュミレーションだ。
南条は再び立ち上がり、左手首にはめたチタンバンド、土方さんからマウンドを託された証に視線を注いだ。
いま、土方さんはあの無機質な病室の中で、何を考え、何を感じているのだろうか。
何をしているのかはわかっている。よほどのことがない限り、テレビをつけてこの決勝戦の中継を観戦しているところだろう。
本来なら自分が登るはずだったマウンドを、土方さんはどのような心境で見つめているのだろうか。そこで奮闘している南条の姿を、どのような眼を持って見守っているのだろうか。
わからない。
恐ろしく複雑な要素が絡み、重すぎる意味を持つその推測について、南条は一片の仮定すら浮かべることができなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
それは、いま土方さんは、この試合に出場できないもどかしさに強く苛まれている、ということだ。おそらくあの人は、その苛立ちを決して誰にも打ち明けないだろうが――
だからこそこの試合、絶対に負けてはいけない。もし敗北してしまった場合、一番深刻な後悔を覚えるのは、この試合に関わることすら許されなかった土方さんに他ならないだろうから。
そこまで考えて、南条は不意に気づいた。
南条が土方さんのことを考えたのは、初回以来のことだった。たぶん、忘れていたわけではない。それだけの余裕も、先ほどの回までの彼にはまったくなかった。
ここまでの8イニング、南条はただがむしゃらに24個のアウトを稼いできた。不必要な球をたくさん投げたし、四球も多く出した。でも、何とか一失点に抑えてきた。
グラブを小脇に抱えて、南条は右手でチタンバンドを外しにかかった。
今のところ、自分は土方さんに見せて恥ずかしくないピッチングをしているはずだ。
あと3つ、たったの3つだけアウトをとれば、自分の戦いに一つの区切りをつけられる。
力を貸してください、土方さん……
南条は祈るような気持ちで、チタンバンドを自らの利き手、右の手首に付け替えた。
「プレイ!」
主審が九回裏の開始を宣告した。
左打席で、陽陵の八番打者本宮がバットを寝かし気味に構えている。
南条は手を後ろにして、藤谷さんからのサインを覗き込んだ。初球は内角へのストレート。
この試合、すべての球でそうしてきたように、南条は素直にうなずいた。配球に関しては、藤谷さんに任せてまず心配ない。
背筋をいったん伸ばしてから、南条は大きく両手を振りかぶった。
左ひざをへその上あたりまで上げてから、少し畳んだ右腕を一気に振り切る。
「シューーーーーー・・・・・・・」
少し下半身がぐらついてしまったのだろうか。ボールはシュート回転し、内角のやや甘いコースに入っていった。
相手打者は、好機を見落とさなかった。
「キンッ!」
コンパクトに振り抜かれたバットから、かん高い音がほとばしった。
銃弾のように鋭い打球。
だが、南条にとっては幸いなことに、ボールは一塁手具志堅の正面へと跳ねていった。
具志堅はファーストミットを構えたが、強すぎる打球はいったんミットへ収まることを拒んだ。
ミットの土手に当たったボールは前方へと転がったが、具志堅は焦りながらもしっかりとボールを拾い上げ、走り来るランナーにタッチした。
一塁塁審が威勢よく右手を掲げた。
なんとか1アウトはとれたが、かなり危険な当たりだった。
ここまで優に100球以上を超す球を投げてきた南条の体は、少しずつではあるが確実にバランスを崩してきている。これまでの回以上に慎重に投げていかなければ、もっと手痛い一打を浴びるであろうことは目に見えている。
南条は応急処置として、左足の踏み出しを再確認した。
何度か左足を差し出して、位置を確認する。ひとしきりその作業を終えると、南条は右打席の九番打者に立ち向かった。
第一球目。外角いっぱいへのストレートだったが、ボールと判定された。
第二球目は低めのカーブを決め、カウントを1−1と整えた。
第三球目。ここで続けて投げたカーブに、相手打者はスイングした。軌道があわず空振り。2ストライクと追い込んだ。
そして第四球目。藤谷さんは決め球を要求してきた。
南条はここでもすぐにサインを受け入れ、二本のチタンバンドをはめた右腕を振り下ろした。
「シューーーーーー・・・・・・・」
インハイ、内角高めのボールゾーンに走った直球は、
「ブンッ!」
「ストライーッ!バラーアウッ!」
見事に打者の空振りを誘い、南条は奪三振で2アウト目をもぎ取った。
「……っしゃあっ!」
南条は自分でも驚くほど大きな声をあげ、天にこぶしをつきたてた。感じるよりも先に、体がひとりでに喜びを表していた。
「ええぞっ!南条!あと一人や!」
歓喜の叫びに、ショートの新月が答えた。
南条の興奮はさらに煽り立てられた。
そうだ、あと一人、いよいよあと1アウトだ。
長かった。苦しかった。でも、ついにここまでやってきた。
藤谷さんからの返球を受けると、左打席に陽陵の一番打者、日下部が入っていった。
どんな形であろうと、命と引き換えにしても、絶対に塁に出る。ギラギラとした光を撒き散らしている日下部の目からは、そういう意思がありありと感じられた。
それでも出塁させるわけにはいかない。
南条は右手でもてあそんでいたロージンバッグを乱暴に地面へと叩きつけ、打者を鋭く睨みつけた。
それに出塁される気もしない。
自分の右腕には土方さんが宿っている。
だから打たれるはずがないのだ。
土方さんがチタンバンドを手渡す際に込めた意図は今、くっきりとした形を持って南条の中に出現していた。
藤谷さんが、初球のサインを南条に送った。球種はフォーク、コースは低めだがカウントを稼ぐ一球。
少し突飛な配球だ。だがこの意外さが、バタ西を県大会の決勝まで持ち上げる一つの要因となってきた。いまさら疑う余地はないし、その必要もない。
南条はオーバースローから、白球を挟み込んだ右手を振り抜いた。
「シューーーーーー・・・・・・」
指示されたコースよりも、ボールは高めに浮いた。しかしここではそれがプラスに働いた。
「パシッ」
打者の日下部はこの球を見送ったため、
「ストライッ!」
予定通りにカウントを稼ぐことができた。ただ、決していいストライクの取り方ではない。打者が狙ってきていれば、それ相応の確率で安打にされていただろう。
南条は右腕をだらりと下げ、手首から先を軽く振ってほぐした。手首の関節が疲れてきている。そのため押さえが利かなくなって、球が高く浮いてしまったのかもしれないと南条は考えた。
休む間もなく、藤谷さんから第二球目の指示が出される。
内角低目へ切れ込むカーブ。
今の自分に投げられるだろうか。スタミナの減少とともに、さまざまな部分の制御力を再び失いつつある今の自分に。
だが、投げるしかない。それが藤谷さんの戦略なのだから。
南条は呼吸を整え、両手を振りかぶって頭の後ろまで持っていった。
しっかりと足を上げ、ボールを離す間際に鋭く手首をひねる。
放った瞬間、南条の体が一塁側に少しだけ傾いた。
微妙な誤差ではあったが、ボールの行方には大きく影響してくる。
「シューーーーーーーー・・・・・・・・・・・クッ」
過剰に内角へと切れ込んだカーブは、日下部の膝の下あたりに向かっていった。
日下部は後方に飛びのいて白い凶器をかわそうとした。
だが、かわしきれなかった。
いや、そうではない。日下部は故意に避けなかったのだ。
その証拠に、彼の両足はカーブの軌道にぴったり合わせて動いていた。
そのまま白球は、音も無く日下部のすねに突き刺さった。
日下部は始め歯を食いしばって平静を装うとしたが、やがて耐え切れなくなったのかしゃがみこんで傷ついた部位を両手で押さえ始めた。
主審が試合を中断した。
一塁側の陽陵ベンチから、数人の部員たちが飛び出した。
そのうちの一人が日下部のそばに座り、手にしたコールドスプレーで治療を始めた。
しばらく、入念な手当てが続いた。
その間、キャッチャーの藤谷さんは黙って立ち尽くす南条のもとに走っていた。
「南条君、今のはよけなかった打者のほうが悪いんです。気にせず次の打者を抑えましょう」
上ずりそうになる語調をできるだけ抑えながら、藤谷さんは励ましの言葉をかけた。
藤谷さんがわざわざ激励しに来た理由は、春の甲子園にまでさかのぼる。準々決勝の試合、マウンドに上がった南条は相手チームの主力選手にみぞおちをえぐるデッドボールを与えてしまい、主力選手はそれがもとで退場を余儀なくされた。
それから数ヶ月、正確に言うならつい昨日まで、南条はそのトラウマに悩まされていた。つまり、内角へのボールを投げられなくなっていたのだ。
ようやく今日の試合で、南条はその悪夢を忘れかけていたように見えた。それがこの死球――意図的に作り出された捨て身の行動――によって再び呼び起こされてしまうのではないか。藤谷さんはそんな危惧を抱いていた。
しかしそれは杞憂だったようだ。南条は平然と、
「ええ、わかってます。大丈夫です」
と藤谷さんの心配を跳ねのけた。
南条の視線は、いまだに手当てを受け続ける日下部の姿に固定されていた。大げさに痛みを表しながらもどこか達成感に満ちた日下部の表情を、南条は憎々しげに見つめていた。
そんな南条に安心つつも軽い不安を覚えた藤谷さんは、
「落ち着いて、落ち着いて投げてくださいよ」
とだけ言い残してキャッチャーボックスに戻っていった。
長い治療が終わり、試合は再開された。
ここで迎えるのは二番の右打者堀出。
一塁ランナーの日下部は、足の負傷にもかかわらず比較的大きなリードを取っている。よほどうまい当たり方をしたのだろう。
「痛めた」右足でホームベースを踏みたくてうずうずしているであろう日下部にちらりと目をやってから、南条は初球を投げ込んだ。
「シューーーーーー・・・・・・・・」
ほぼど真ん中の球に、打者の堀出は反応しない。
「・・・バンッ!」
「ストライーッ!」
藤谷さんの思惑通り、まずは楽にファーストストライクを取ることができた。一球でも打ち損なえば試合が終わるこの場面。これまでの堀出の打席も考慮すると、まずは一球様子を見てくるだろう、と藤谷さんは考えたのだ。
第二球目を投げる前に、南条は一塁に牽制球を一つ送った。このようなときにリスクを犯して盗塁してくるとは考えづらいが、こちら側としても一つの進塁さえ許してはならない場面だ。警戒するに越したことはない。
張り詰めた空気の中、南条の全身が躍動した。
「シューーーーーー・・・・・・・・」
低目へのストレート。
堀出は短めに持ったバットをフルスイングした。
「カッ」
結果的に、堀出はボールの上を叩いてしまった。むなしい音を響かせたあと、打球は三遊間に向かって転々と跳ねていった。
ショートの新月が俊足を生かして打球を追いかける。
いよいよや。これをとって一塁に投げれば、もう一度甲子園の土を踏むことができる。
ゴロの速度は普通。一塁に向かって疾走するランナーの足もそれほど速くはない。
死んでもミスれんぞ、絶対にとったる。
新月は打球の正面に回りこみ、腰を落として勝利の一球を待ち構えた。
その大きな壁の下を、白球はするりと通り抜けていった。
気の抜けそうなほどあっけないトンネル。
一塁側からは歓声が、三塁側からは悲鳴が巻き起こった。
「新月!カバーしろ!」
真っ白な世界の中に投げ込まれていた新月は、レフト中津川さんの叫び声で現実に引き戻された。
あわてて二塁ベースに駆け寄ったが、時すでに遅し。
ランナー日下部は滑り込む気配もなく悠然とベースを踏みしめた。
2アウト一塁、二塁。ピンチは残され、さらに広がった。
チームに悪影響を与えてはいけないと思い、新月は必死に、自らへの憤りが表面に湧き出しそうになるのを抑え付けていた。
しかし外から見えない部分、例えばグラブの中の左手は、グラブの皮が削れそうなほど強い握力を放っていた。
俺は……またやってしもた……あれだけ練習したのに。あれだけ慎重にボールをさばこうとしてたのに。
事実、その意識は確実に成果となって現れていた。新月はここまでの予選四試合、失策を三つにとどめていた。
二度と同じ過ちを繰り返さないために、新月はそれらの内容を一つ一つ鮮明に覚えている。
一つは運悪くイレギュラーが起こってキャッチできなかったもの。もう一つは真芯で捉えられた痛烈なライナーにグラブをはじかれたもの。最後の一つは、抜けそうな当たりに何とか追いついたが、体制の立て直しが間に合わず送球を逸らしてしまったものだった。
いずれにしても、決して安易なミスではなかった。
それなのに、このように一番重要な場面で、何でこんなくだらないエラーを……
もし許されるのなら、新月は今すぐこの球場から消えてしまいたかった。
念のために三塁側ベンチの監督に目を向けてみたが、もちろん代えるつもりは毛頭ないらしい。じっと腕を組んで、時々声を飛ばしながら戦況を見つめている。
今、このポジションは自分が死守するしかない。
新月は、すべてのチームメイトと監督、スタンドで応援してくれている人、そして何よりこのエラーで一番の迷惑をかけた南条に対して心の中で深々と頭を下げ、ショートの定位置にしっかりと腰を据えた。
この最悪の局面で対峙するバッターは、三番ライトの本庄。ここまで三打数で二安打、一度も南条の球威に負けていない、新島高校球界最高のアベレージヒッターだ。
キャッチャー藤谷さんは中腰になって、再びマウンドに行こうかどうか大いに迷った末、結局腰を下ろした。
行ったところで、どんな言葉をかければいいのか想像すらできなかった。
バットを垂直に立て、背筋をまっすぐに伸ばして構える本庄の神主打法は、無限の虚空にそびえたつ魔塔を思わせた。
どこに投げさせても、やすやすと打たれてしまいそうな気がする。
キャッチャーボックスの藤谷さんでさえそう感じてしまうのだ。正対しているマウンド上の南条にとっては、恐怖以外の何ものでもないだろう。
敬遠。
一瞬、この二文字が藤谷さんの脳裏に浮かんだ。
だが、そうやって逃げたところで、安心できるのはほんの数秒、四番の伊佐が右打席に入るまでのわずかな間だけだろう。そのような作戦は、何の効果ももたらさない。
やはりここは正々堂々勝負するしかない。
そうは言っても、塁が一つあいているのは事実だ。四球になっても構わない。そういう心持で、最もきわどいコースだけを攻めてもらおう。
ようやく、藤谷さんは南条への手土産を見つけ出した。藤谷さんはタイムをかけてすばやくマウンドへ向かい、方針を簡潔に伝えて持ち場へと戻った。
「プレイ!」
本来なら聞くはずのなかった宣告を受け入れ、南条は藤谷さんからのサインを覗き込んだ。
まずは高めに外す。
南条は思わずほっと息をついてしまった。もしいきなり内角への直球などを指示されたとしたら、どれほどの重圧がかかってくることだろう。
しかしいま要求された見せ球も、100%思ったところに外れるとは言い切れない。少しでも甘くなれば、あの打者は絶対に取りこぼしてくれないだろう。ここからの一球一球は、発揮し得る精神力のすべてを込めない限り乗り切れない。
自分に課せられた責任の重さを改めて感じながら、南条は右腕を振り抜いた。
「シューーーーーー・・・・・・・・・・・・・バンッ!」
ボールは左打者本庄の遠くに、外角高めのボールゾーンに決まった。
本庄は微動だにしない。おそらく、つり球としての効果は皆無だったのだろう。
左右に首を回してランナーの動きを確認し、南条はセットポジションから第二球目を投じた。
「シューーーーーー・・・・・・・・・・」
これも直球。
「・・・バンッ!」
球半個分ベースの端をかすめて、白球はミットに収まった。本庄はバットを少し寝かせただけ。
「ストライッ!」
一応、ゾーンに入ったと判定された。審判によっては外れたと判断されてもまったくおかしくないコースだった。
本庄と互角に勝負するには、藤谷さんが言ったとおり、こういうコースに投げ込むほか道はない。
だから、フォームの運びには一ミリの誤差も許されない。
南条は一瞬そう決意したが、それは危険な考えだとすぐに取り消した。下手にそうした精密さに固執してしまうと、逆に体の運びが硬直し、球威が落ちてしまいかねない。
とりあえず、藤谷さんの指示したコースに思い切って投げ込むだけだ。
南条は微妙なジレンマをいったん思考の外に置き、指先に神経を集中して第三球目を放った。
「シューーーーーーーー・・・・・・・・・・・・」
外角への、
「クッ」
カーブ。
外側からホームベースの方向に曲がり落ちた球を、本庄は余裕をもって見送った。
本庄の見極めどおり、ボールになった。高さ、コースともに不合格だ。
カウントは1−2。ややピッチャー不利な状況。いや、この本庄を前にしては、どんなカウントであれ有利にはなり得ないのだが。
南条はキャッチャー藤谷さんからの返球を受け取り、しばらく呼吸を整えると、振り向いて二塁に牽制球を送った。
それほど大きくリードしていなかった二塁ランナーをアウトにすることはできなかった。だが、これはランナーを刺すことが目的ではない。ショート新月の動きを確認するのが真意だった。
今のところ、先ほどのエラーを引きずってはいないようだ。新月は軽快なフットワークで牽制球を受け、間に合わなかったがしっかりとランナーにタッチした。
その動きにひとまず安心すると、再び南条は本庄に顔を向けた。
首だけをひねり、藤谷さんからの指示を確認する。
外角へ、今度はフォーク。
ずいぶんと外角攻めが続いている。一打同点のこの場面。長打を打たれれば、逆転されるリスクも背負っている。ボールが比較的飛びにくい外側にボールを集めたくなるのは自然なことだと思うが……それにしても、続けすぎではないだろうか?
そんな懸念が南条の頭をよぎったが、藤谷さんのことだ、その点に対しても何か対策を考えているに違いない。
南条はここでも躊躇なく首を縦に振り、二本の指の間から第四球目を投じた。
しかし、藤谷さんは何の手も打っていなかった。
「シューーーーーーーー・・・・・・・・・・」
さらに悪いことに、またもやフォークは高めに浮いてしまった。
外角に狙いを絞りきっていた本庄は、はやる気持ちを抑えて腰でスイングをため、落ちきらないフォークをしっかりと叩いた。
「キンッ!」
流し打ちとは思えないほど強烈な打球が、三遊間を駆け抜けた。
ボールは一筋の光のように外野へと抜けていく。
ただその打球速度は、皮肉にもバタ西にとって幸いした。
ボールがあまりに早くレフトのグラブに収まってしまったため、ランナーはホームに還れなかったのだ。
点は入らなかったが、2アウト満塁。
右打席には陽陵打線の大黒柱、四番サードの伊佐が異様な風格を身にまとって登場する。
ここまで、四打数二安打一打点。その二安打というのは、最近二打席で放たれたものだ。第三打席はセンター前ヒット、第四打席は左中間に大きなツーベース。つまり伊佐は、打席を重ねるごとにタイミングが合わせてきているのだ。
まさに、背水の陣。
藤谷さんは今日何度目かのタイムを要求して、マウンドへと走り寄った。
指示するまでもなく、グラウンド上の野手たちもグラウンドの中心へと集まってきた。
ナインが一堂に会しても、しばらく沈黙が続いた。
あまりに過酷なこの状況に面して、誰しもなかなか先頭を切る勇気が出せなかったのだ。
やっとのことで初めに口を開いたのは、いつもなら騒ぎ役として機能しているはずの島田さんだった。
「まあ、なんつーか……オイシイ場面だよな。うん。ここを乗り切れば、明日の新島日報はお前が独占できるぜ」
島田さんは「いつものおちゃらけ」を無理やり作って南条の肩に手を置いた。言葉とは裏腹に、その表情は複雑にゆがんで引きつっていた。
余計に気まずい空気が流れる。
どんどん下がっていく士気を鼓舞しようと、角屋さんは精一杯の明るい声を出した。
「おい!お前らなんでもうヘコんでるんだよ!もしかしたら忘れてるかもしれないけどな、俺たちは今一点リードしてるんだ」
「……あっ!」
案の定忘れていたらしく、新月は素っ頓狂な声をあげた。
「ほら、新月ももっと力抜け。また……」
さっきみたいにエラーするぞ、という言葉を角屋さんはあわてて飲み込んだ。今それを掘り返すのは得策ではない。
「……まあ、とにかくそういうことだ。あと一歩、あとほんの少しだけ前に踏み出せば甲子園にいけるんだ。リードしてる俺たちのほうが、甲子園にはずっと近いんだからな」
角屋さんは、いま考えうる最良の励ましを選手たちにかけた。
「そ、そうっすよね!よっしゃ、南条、スパーンとしばき倒したろやないか、なっ!」
言った内容は自分でも理解できていなかったのだが、新月はその場の勢いに任せて南条の背中をグイッと押し出した。
その様子を見て、藤谷さんも何か続けようとしたとき、南条を取り囲む輪の中に一人の選手が割り込んできた。
背番号18、控え外野手の一年生、板橋だった。
どうやらベンチから伝令として差し向けられてきたらしい。開口一番、板橋は監督からのことづけを伝えた。
「南条さん、監督が……交代の準備はできてる。あとはお前次第や、と言っていました」
自分次第。
いまの南条にとってそれは、とても暖かく、またひどく無責任な言葉だった。
おそらくベンチから見ている限り、まだ続投は可能だ、と監督は判断しているのだろう。だから監督は、降板の決定権を南条に託してきた。
その期待に、自分は答えられるのか。
正直なところ、南条にはどうとも結論付けることができなかった。
間違いなく、下半身はぐらついてきている。指先の感覚も少しずつ鈍くなってきているようだし、腕の振りは徐々に制御力を失っている。
しかし、疲れはまったく感じていなかった。
いや、実際のところ、疲労はどんどん南条の体を蝕んでいるのだろうが、この試合が始まってここまでただがむしゃらに腕を振り続けてきた南条には、体の悲鳴を聞く余裕などなかったのだ。
この時点でも、それは変わらなかった。
どうするか。続投しようと思えば、できないことはない。だが自身の現状を考えれば打たれる可能性もそう低くはない。
とはいえ、交代したところで次のピッチャーが役目を果たせるかどうか。それも完全には肯定できないような気がした。
柴島、八重村という投手二人の力を信頼していないわけではない。ただ……相手が流れを手にしてしまっているこの場面、控え投手の力がどうあれ、先発投手の降板という撤退戦術は、相手をよりいっそう調子付けてしまうかもしれない、と南条は考えた。
「……南条!おい、どうした!」
どうやら、かなり長い間、自分の世界に閉じこもってしまったらしい。キャプテンの呼びかけにはっと気づいた南条は、すぐさま周りを見渡して軽く謝った。
「……で、どうするんですか、南条さん?」
答えを促す板橋の声には、明らかに焦りが入り混じっていた。確かに、これ以上試合を停滞させるのはよくない。
「ごめん。えーと……」
それでも答えを決めかねて口ごもってしまっていると、ふと南条の視界の端に、あのチタンバンドが滑らかに飛び込んできた。
土方さんの化身であるその黒い紐はいま、南条に向かって「逃げるな」と叫んでいるように思えた。
南条は顔を上げ、まっすぐに板橋の目を射抜いた。
「投げます。そして、抑えます」
さまざまな人々に向けて発せられたその声には、もはやひとかけらの迷いもなかった。
ナインが守備位置へと戻り、試合は再開された。
いくら潔く続投を決めたところで、苦しい現況が少しでも軽減されるわけではない。
ただこのときの南条は、いままでよりもずっといい球が投げられそうだ、という根拠のない自信をしっかり抱いていた。
そして四番伊佐への初球。その確信は、立証された。
「シューーーーーーーー・・・・・・・・・・・」
右打者である伊佐の外へ、
「クッ」
するりと逃げていくカーブは、そのままストライクゾーンの縁を引っ掛けてミットに収まった。
「ストライーッ!」
あと数ミリ外れていれば、ほぼ確実にボールになっていただろう。初球打ちを身上とする伊佐さえもが動けなかったほど、完璧な一球だった。
球を受けた藤谷さん、それを見守る野手たちとベンチ内の選手。この一球を見て、この時皆は確信した。南条はここを乗り切れる、と。
マウンド上の南条は、ランナーに目をやろうともしなかった。
二アウトフルベースのこの場面。盗塁すべきベースは一つもないし(さすがにホームを盗んでくることはないだろう)、当然ダブルプレーの可能性はないので打った瞬間にランナーは走る。塁上を警戒する必要はまったくない。
南条はさっさと藤谷さんからのサインを確認し、第二球目を投げ込んだ。
「シューーーーーー・・・・・・・・・・バンッ!」
伊佐も、審判も動かない。
遥か高くに外れたボール球。藤谷さんは飛び上がって捕球していた。つまり、予定外の球だった。
南条の指からボールがすっぽ抜けてしまった。あまりにも危険なミスだった。こういった、緊迫した中でランナーを三塁に置く局面で――とりわけアマチュア野球において――最高の注意を持って防がなければならないプレー、それは失投や球種の選択ミスよりも、むしろ暴投、後逸と言ったバッテリーのエラーであるかもしれない。
それまでの試合運びからは思いもよらないほど簡単な失策を犯してしまい、とめどない涙と自責の念にまみれながら敗退していったチームがどれほど多いことか。
南条は帽子の下から冷や汗がにじみ出てくるのを感じながら、第三球目の指示を確認した。
またもや外角へのカーブ。もう少し間を空けたほうがいいのではないか、と南条は一瞬だけ危惧したが、今のところこれが伊佐に対して一番有効な球であることは事実だ。
思う存分に両腕を振りかぶり、南条は腕全体をねじって第三球目を投じた。
その球は、ほとんど投げた瞬間から、ストライクゾーンに入り得ないことが誰の目にもわかった。
当然、伊佐はピクリとも反応しなかった。
白球は大きく平行移動した藤谷さんのミットにむなしく吸い込まれ、カウントは1−2。
長打を浴びたくない一心から、南条は少し外側を意識しすぎてしまった。そのため、この球も抜けてしまったような形になった。
もう少し、冷静にならなければならない。
南条は自分にそう言い聞かせ、ワインドアップモーションから右腕を振り切った。
「シューーーーーー・・・・・・」
内角、やや低目への直球。
伊佐の目が野獣のような光を放った。
すばやくバットを出し、伊佐は自身の前方でボールを砕いた。
「カキンッ!」
心臓を締め上げるような快音が、新陽球場全体に広がった。
理想的な角度に上がった打球は、三塁線に沿って伸びていく。
レフト方向に弱々しくそよぐ風に乗りながら、白球は空を流れていく。
首を右に回し、口を少しあけたまま、南条はマウンドの上に化石していた。ただ、一つの祈りだけを心に浮かべて。
ボールはレフトポール上空を通過した。
球場内のすべての視線が、三塁審判のもとへと集まる。
永遠の数秒間がグラウンドを支配した。
威厳を全身に満たした審判は力の限り叫んだ。
「ファウルボーッ!」
厳然たる判定。
南条は今すぐにでもその場に崩れ落ちて膝をつきたい気分だった。
バタ西の他の選手たちも例外なく、心の底から安堵のため息を漏らしていた。
しかし、まだ勝負は終わっていない。
伊佐は右打席でうっぷんを晴らすかのように素振りをしながらも、その眼光は依然として鋭い。
カウントは2−2。あと1ストライク。ある意味リーチをかけた状況なのだが、どの選手たちの目にもそのような優越感は浮かんでいなかった。
すべての観衆から一身に注目を浴びる中、南条は藤谷さんからのサインを覗き込んだ。
低目へのフォーク。
空振りを狙うつもりなのだろうか。それとも、ゴロを打たせる気なのか。
意図はどうあれ、絶対に高めに浮かせてはいけない。
その過剰な意識が、南条の第五球目をとんでもない方向に運んでしまった。
「シューーーーーーーー・・・・・・・・・・・」
指の間から抜き放たれたボールは、「落下」を始める前に地面についてしまった。
あわてて藤谷さんが体を張った。
ボールはワンバウンドして、藤谷さんのプロテクターに当たって止まった。
とっさの行動だった。盗塁の可能性がないこの局面だからこそできた、苦しまぎれの有効な選択だった。
藤谷さんの俊敏な反応に助けられた南条は、音を立ててつばを飲み込みながらボールを受け取った。渇ききったのどが、不快に潤っていく。
いったんプレートをはずし、ロージンバッグを手に取る。
手にまとわりついた汗を白い粉に吸わせながら、南条は改めて周囲を見回した。
すべての塁が埋まっている。
バックスクリーンの電光掲示板には、カウントを示す全てのランプがともっている。
次の一球で何もかもが決まる。
ここまで死に物狂いで戦い抜いた九イニングはいったいなんだったのだろうか。野球とはつくづく残酷な場面を生み出すスポーツだ。
そんな感傷に軽くひたりつつ、南条はロージンバッグを地面に落とした。
藤谷さんからの、最後になるかもしれないサインを見る。
指示は、高目へのストレートだった。
そう、あの手の動きは、高めの直球を示すものだった。
南条は目を疑った。このカウントで、なぜ……?
この試合初めて、それどころか藤谷さんに出会ってから初めて、南条は首を横に振りかけた。
しかし、体が言うことを聞かなかった。骨の髄までしみこんだキャッチャーへの信頼感――そういう意味で、藤谷さんはこの上なく幸せなキャッチャーだ――が、決して首を動かそうとしなかったのだ。
南条はその声に従った。
セットポジションで構え、南条はモーションを始動させた。
三人のランナーは、南条のフォームが牽制不可能なところまで進むと同時に、猛然とスタートを切った。エンドランではない。二死でフルカウントの場面では、刺される危険性がないためだ。
小さく浮かせた足を下げ、グラブを打者に向ける。
溜め込んだ力を瞬時に解き放ち、右腕を振り下ろす。
ボールが自らの指先を離れる瞬間、南条は細やかながらも鋭利な音――空気を切り裂く音が聞こえたような気がした。この試合で、初めて体験する感覚だった。
これまでになく流麗な動きから放たれた直球は、伊佐の胸元へと一直線に突き進んでいく。
速さ、伸び、切れ。
どれをとっても、まぎれもなく素晴らしいストレートだった。
うなりを上げて襲い掛かってくる直球を、伊佐は迎え撃った。
太い腕がバットを巧みに操り、その芯と白球の中心を合わせにかかる。
刹那の中でのせめぎあい。
軍配は、伊佐に上がった。
「キンッ!」
高音が鳴り渡った。
反射的に伸びた南条の左腕、常人離れした跳躍を見せた新月の全身、それらをあざ笑うかのように、打球は外野に抜けていった。
ランナーは大地を蹴る。何の雑念もなく、ひたすらに先の塁を目指して。
白球はややレフト寄りの外野グラウンドに落ちた。
一つ跳ねて、打球がセンター島田さんのグラブに収まったとき、ホームには一人の選手が滑り込んでいた。
二塁ランナーもすでに三塁を回っている。島田さんは無意識のうちに飛び出た咆哮とともに、鍛えぬいた左腕を振り抜いた。
送球の行く手を邪魔するものは誰もいない。驚くほど正確に、五角形のベースだけを目指して、白球は何度か地に付きながら直進していった。
ランナーも、決死の覚悟をもって走りこんでくる。その目には、かがみ込んで立ちはだかる黒い守護神、藤谷さんの姿のみが映し出されていた。
ホームまであと数メートルの地点で、ランナーは頭から滑り込んだ。
ほとんど同時に、藤谷さんのキャッチャーミットに送球は収まった。
ランナーはちぎれんばかりに手を伸ばす。
藤谷さんは一つの無駄もない動きでボールの入ったミットをぶつけにいく。
夏だと言うのにすっかり吹きすさんでいる風も手伝って、ホーム周辺にはすさまじい量の土ぼこりが舞い上がった。
極度に悪い視界の中で、藤谷さんの眼は一つの事実を捉えていた。
ランナーの指先は、藤谷さんがタッチした瞬間、ベースに触れていなかった。
今はきちんとベースの上に乗っている。どさくさにまぎれて手の位置を調整したのだ。
だが、遅い。
自分のブロックがチームを救った。
ガラにもなく飛び上がって叫び散らしたい衝動に駆られたが、それを何とか抑えた。
タッチした姿勢のままランナーを見下ろし、藤谷さんは宣告を待った。
少しの逡巡のあと、判決は下された。
「セーフッ!!」
藤谷さんの思考は麻痺した。
今、なんて……?
ゆっくりと、不気味なほどにゆっくりと、藤谷さんの首は主審のほうに回っていった。
たどりついた視線の先には、地面と平行に、決然と広げられた両手があった。
2−3。
川端西高校、サヨナラ負け。
18年間の人生の中で、揺らぐことなく藤谷さんを支え続け、もはや彼そのものとなっていた聡明な理性が、音を立てて崩壊した。
一転した俊敏な身のこなしで、藤谷さんは主審に対峙した。
「セーフ?なんで!僕がタッチしたとき手はついてなかったじゃないか!」
主審は顔色一つ変えず、もう一度小声で「セーフだ」とつぶやいた。
藤谷さんは激昂した。
「だからなんで、何でセーフなんだよ!あんた審判じゃないのか?何でしっかり見てないんだ!答えろよ!何とか言えよ!」
プロテクターの縁に右手をかけ、息がかかるほど顔を近づけて怒鳴りながら、藤谷さんはなおも審判に詰め寄った。
審判は両足を踏ん張って踏み止まろうとしたが、その抵抗もむなしくどんどんバックネットへ向かって押し切られていった。
スタンドは騒然とした。
歓喜に沸き返る陽陵サイドでも、冷静な者たちはその騒乱をじっと見つめていた。
そのままネットに主審を叩きつけるかというところまできたとき、三塁側ベンチから飛び出した三人の男たち――角田監督と二人の三年生が、すんでのところで藤谷さんを後ろから羽交い絞めにした。
それでも藤谷さんは暴れ続け、右肩を抑える一人に顔を向けて言い放った。
「放せ!僕は間違っていない!ランナーの手は離れていた!」
怒りに満たされた、修羅界に住む悪鬼のような形相。あの穏やかで知的な藤谷さんはいま、どこか遠くに消え去っていた。
その眼に撃ち抜かれたチームメイトは、一瞬にして凍てつきそうになったが……なんとか恐怖をこらえ、藤谷さんを抑える力をさらに強めた。
球場中に動揺を広げた騒動も、陽陵学園の歓喜の叫びも、マウンド上に四肢を落とす南条の耳にはほとんど届いていなかった。
俺は裏切ってしまった。
自分に未来を託してくれた土方さんを。そのチャンスを与えてくれた監督を。
自分の目を覚まそうと、偽善者の壁を踏み越えて叱咤してくれた二人の仲間を。
力至らない自分を支え、必死にグラウンドを守り通してくれた野手たちを。ふがいない自分には余りあるほどの声援を惜しげもなく送ってくれたベンチ内のチームメイトを、球場内の、球場外の温かい応援者たちを。
最後に投げた球は、俺が今の時点で投げられる最高の、いやもしかしたらそれ以上のストレートだった。
それが打たれてしまった。たぶん、あっさりと。
原因ははっきりしている。
最近数ヶ月の絶対的な練習不足だ。
こんなたわいもない付け焼刃で戦っていれば、いつかボロが出るのは確実だった。ただその出現が、最後の最後にまでずれ込んだだけのことだ。
いくら土方さんからかりそめの力を与えられようと、最初から結果は見えていた。
俺をそこまで「追い込んだ」理由は何だったのだろう。
練習は才能に勝てない。
この一言だった。
俺はその続きを見ようとしなかった。
しかし、練習なしに才能は現れないし、差が縮むこともない。
そんな明白な答えから、俺は目をそむけ続けていた。結局は自分を楽にしたいがために、都合のいい一節を利己的に振りかざしていただけだ。その結末がこれだ。
そんな理屈も、一人でこね回している分には何も問題はない。
そうだ、いつまでも一人でいじり続けていればよかったのだ。
周りに被害をもたらし得ない道を選べばよかったのだ。
昨日、あの時、新月が言ったように、すぐに野球をやめていれば。
その勇気さえ俺にはなかった。
できもしないことを流れに任せて引き受けてしまった。
その報いが、これだ。
知らぬ間に、南条の両眼からは涙がしたたり落ちていた。
それに気づくと、南条は急いで眼をこすりつけた。俺には泣く資格なんてない。まぶたが傷つきそうになるほど強く、何度もユニフォームのすそでぬぐった。
ふと彼は、自分の右こぶしに目を向けた。
それは今、世界で一番けがわらしいものに思えた。
その瞬間、南条は右腕を高く振り上げていた。
反動をつけ思いっきりマウンドに叩きつけた。
一度、二度、三度。
少しずつ削られていくマウンドに謝りながら南条はこぶしを振り下ろし続けた。ごめん、お前が憎いわけじゃない、本当に殴りたいのは、俺自身だ。
四度目のこぶしを振り上げたとき、何者かに腕全体を押さえつけられた。
かまわずもう一度振り下ろそうとするが、腕はほとんど動かない。
南条は天を見上げた。
その上から、言葉が降り注いできた。
「アホッ!やめろ!手ぇつぶれるぞ!二度と……二度と野球できんようなるぞ!」
蒼白な顔でそう叫んだのは新月だった。
赤くはれ上がった彼の眼を見て、南条はやっと力をゆるめた。
頭を下げて這いつくばる南条のかたわらに、新月もかがみこんだ。
彼も肩を落とし、そして言った。
「俺が、俺が悪いんや……俺が普通に取っとれば、こんなんにはならへんかった……だから……許してくれ……」
涙に混じったその声は、最後のほうにはほとんど聞こえなくなっていた。
南条は何も返せなかった。
その言葉を聞いて、自分でも嫌になるほど汚いことを考えていた。
そうだ。確かに新月は悪い。あのショートゴロさえ捕っていれば、そのまま甲子園にいけたのに。
しかし一方で、こんなことも思っていた。
でも、それはきちんと努力した上でのミスだ。俺に比べれば……いや、比べることさえできない。
ただ、彼がここまで細かく考えていたかどうかは誰にも知るところではない。
彼らの体からはいま、全ての力が抜け落ちていた。
二人の球児はグラウンドの中心にいつまでも沈み込んでいた。
それは、うつむいたチームメイトが駆け寄ってきて二人を抱き起こすまでずっと続いた。
2005年7月28日。夏の新島県予選大会決勝戦。
新島高校野球の王者、陽陵学園が三年連続の全国出場を決め、幕は落とされた。
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