帰還
決勝戦から三日が経った。
川端西高校のグラウンドでは、次の世代を託された選手たちがどことなく覇気のない練習を行っていた。敗戦にショックを受けた選手たち一人ひとりの意気込みはかなり高いレベルにあるのだが、動きに統一感がないため何かしまらない。
これから選手たちをまとていくはずの新キャプテンが、いまだに決まっていないことがその原因だ。
いや、正確に言うと、人選はもう決定済みなのだが、指名された者がとある懸念を理由に役職を引き受けようとしないのだ。
本来ならもう「前のキャプテン」と呼ばれているはずの角屋さんは、グラウンドの端に設けられたベンチに腰を下ろし、憂鬱な面持ちで選手たちを見渡していた。
キャプテン候補が姿を現さない。もう一時間半も角屋さんは手持ちぶさたに待ち続けているが、いっこうに来る気配が感じられない。
「今日も俺がやるのか……?」
ひとりでにつぶやきが飛び出した。
昨日も、おとついも、結局角屋さんが練習をとりしきることになった。
それが嫌というわけではないが、やはり新しいスタートをきちんと切らないと各選手ともいま一つ気合が入らないだろうし、当然ながら角屋さんは三年生、これから進路を決める大事な時期にさしかかってくる。いつまでも、キャプテンという重責を背負い続けているわけにはいかない。
もういい。別のやつにやってもらうか。
ここ三日間で、角屋さんは何度もそう考えた。
だが、あの男の存在感、どんなにピンチのときでもナインを盛り上げられるであろう天性の明るさ、申し分ない――とまではいえないが、二年生たちの中では十分飛びぬけている野球の実力等々を思い浮かべると、そのつど変更案はきれいさっぱり消し飛んでしまう。
当初予想していたほどに表立ってはこないが、敗戦が各選手の心中に残した傷は、そう小さくないはずだ。
この状況でチームを引っ張っていけるのはやはりあの男しかいない。
とはいえ、このままてんでばらばらな練習を続ける選手たちを放置しておくのは好ましくない。
角屋さんがしぶしぶながらもバットを持って立ち上がりかけたとき、背後から聞き慣れた丁寧な口調が呼びかけてきた。
「おはようございます」
聞きなれた声に、角屋さんは素早く振り向いた。
「おっ!藤谷か!今まで何してたんだ?」
あの戦い以来、藤谷さんがグラウンドに現れるのは初めてだった。
「すいません。いろいろとてこずっていまして……」
藤谷さんは肩に下げた荷物を降ろしながら叩頭した。
決勝戦の最終回。藤谷さんは判定をめぐって審判につかみかかった。高校野球においてはまず考えられない行為だ。もちろん判定は覆らず、逆に藤谷さんとバタ西野球部は厳重注意を受けた。
その処理のために、藤谷さんはここ二日間、あらゆる関係各所に頭を下げて回っていた。
「……やっぱりあれか、連盟とかにも行ったのか?」
「ええ、まあ……」
それ以上はあまり聞いてほしくない、というように藤谷さんは語尾を濁した。
無理もないことだ。彼の今までの人生の中で――悪くするとこれからの中でも――一番痛い思い出となったことは間違いないのだから。角屋さんはいったん質問を引っ込めた。
「あの……」
藤谷さんはいつになく口ごもりながら切り出した。
「……グラウンドに入ってもいいですか?」
「……えっ?」
思わず角屋さんは聞き返してしまったが、藤谷さんは返答を静かに待つだけだった。
少しの間腕を組み、問いの意味を噛み砕くと、ようやく藤谷さんが何を聞こうとしてるのかが理解できた。
「……いいに決まってるだろ。お前はここの部員なんだから」
「ですが……」
「もう、誰も気にしてないよ……いや、気にはしてるかもしれないけどな。ずいぶん……ショッキングな光景だったから。ただ、お前を責める理由は何もない。別に出場禁止とか、対外試合禁止とか、そんなことにはなってないんだろ?」
藤谷さんは小さくうなずいた。
「だから、な。あんまり思いつめるな」
「ありがとうございます……」
先ほどよりもさらに深々と、藤谷さんは頭を下げていった。角屋さんはそんな藤谷さんをあわてて制した。
グラウンドの部員のうち数人は、藤谷さんの到来に気づいているようだ。それを見ながらなにやら話し合っている者もいるが、決して敵意のある目を向けているわけではない。
「まあ、とにかくこれでなんとか一人帰ってきた。あと四人だな……」
その四人が揃わなければ、バタ西野球部は真の再スタートを切ることはできない。
角屋さんは少し遠い目をして、空のかなたに視線を向けた。
寝疲れ、というやつだろうか。頭の中全体にくもの巣が絡み付いているような感覚を振り払いながら、南条はベッドからのそりと起き上がった。
敷きっぱなしのシーツには見事にシワが寄りきっている。鈍い動きでシーツを張り直しながら息を大きく吸い込むと、生ぬるい不快な空気が肺に入ってくる。
今日で三日間、ほとんどこの部屋にこもりっぱなしで、しかも多くの時間はこのベッドに横たわっている。空気が沈殿するのも仕方がない。
外に踏み出すのは必要最低限の時だけ。食事を取る時、風呂に入る時、トイレに行く時、そして自分あての電話がかかってきた時。
三本ほどかかってきた電話に、南条は一応きちんと対応していた。
初めの一本は、監督からだった。敗戦した翌日の昼、新体制の幕開けとなるはずの部活に現れなかったことを心配してのものだった。調子を尋ね、遠まわしな慰めをかけた後、監督は最後に質問した。明日来れるか、と。
南条は少しためらったあと、ためらいがちに大丈夫ですと答えた。
……そして、約束を破ってしまった。心労がまた一つ増えた。
二本目の電話は刈田から、三本目の電話は新月からだった。二人とも、南条にどう声をかけていいのか迷っているさまが、電話を通してありありと伝わってきた。それは無理もないことだったが、南条にはどうすることもできなかった。
いったん立ち上がって軽く伸びをすると、南条はベッドのふちに座りなおした。
何もする気が起きない。体をまともに動かす気さえしない。
今日一日、どう過ごそうか。また、ずっと寝ておこうか。
いや、そろそろ部活に行こうか。ただそれは……踏み出さなければならないのに、今の南条にとってあまりに重過ぎる一歩だった。
やっぱり……無理だ。
そんな、ひどく回転の遅いどうどう巡りを繰り返していると、不意に電話の着信音が部屋のドア越しに飛び込んできた。
いま、両親は外出している。南条は鈍い足取りで部屋を出て、受話器の元へと向かった。
電話を乗せた台に左手をつきながら受話器を上げると、女性の声が呼びかけてきた。
「もしもし、南条さんのお宅ですか」
「はい」
「えーと……はい。あの、川端西高校野球部マネージャーの水本ですが……」
「あ、俺だけど」
いつになくぎこちない口調だったので初めは誰だかわからなかったが、それは四日前まで毎日聞いていた、少し低めの声だった。
「あ、すいません。あの……南条さん、具合はどうですか?」
「うん。まあ……」
三日も休んでいるのに「大丈夫」もないだろうし、かといって体調が悪いわけではない。南条が答えを選びあぐねていると、いつもの落ち着いた声色で沙織が続けた。
「そうですか。あの……新月さんがこれからのキャプテンに選ばれたって知ってますか」
「……えっ、そうなの」
「はい。そうですか……新月さんが直接伝えてるかなと思っていたんですけど……」
「いつ決まった?」
「二日前です。決勝戦の次の日に」
だとすれば、新月が南条に電話をしてきた日には、もう決まっていたことのはずだった。そんな大事な、しかも新月自身が特に喜びそうなことを、なぜ一言も話さなかったのだろう。
南条ははっきりと意識を取り戻して、沙織の声を待った。
「でも、まだ就任はされてないんです」
「え?」
「いえ、あの……」
これまた珍しく、沙織は言葉を続けられずに口ごもったが、数瞬息を整えたあとに決然と報告した。
「南条さんが来ない限りキャプテンに就かない、と言っているんです。新月さんは」
「……俺が?」
新月が電話で何も伝えてこなかった理由が明らかになった。しかし、その意図は依然として不可解なままだった。
「……なんで?」
「いえ、それが……誰が聞いても、絶対に答えてくれないんです。ただ、『当たり前や』と言うだけで」
沙織の平坦な口真似からでは、新月がどんな思いで申し出を保留しているのか、想像すらかなわない。
何が、当たり前なのだろう?
南条がしばし黙考していると、しびれを切らしたように沙織が言った。
「でも、理由なんてどうでもいいんです。理由なんてわからなくても……南条さんが来ればそれだけで解決するんです。このままでは野球部は動き出せません。だから南条さん、早くグラウンドに来てください」
沙織はとうとうと告げていった。ひどく冷たい、一語一語が南条の胸に突き刺さってくるような声だった。
沙織の性格上、表に現れてはいないが、それでもいま彼女が怒っているのは明らかだ。
「ごめん。明日……きちんと行くよ」
「……わかりました。……それと、南条さん。伝言がひとつあります」
「……誰から?」
「はい。……土方さんからです」
「土方さん?」
南条は思わず息を呑んだ。
「……もう退院したの?」
「いえ、詳しいことは知らないんですけど……私も今さっき、部室で電話を受けただけなので」
「そうか……」
「伝言は、明日の朝五時に、新渡瀬川(にとせがわ)の河川敷に来てくれ、とのことです。場所は新橋の下の辺り。島田さんも来るそうです」
とすると、やはり土方さんはもう病院を出ているということなのだろう。それにしても、朝五時とは早い。いかにもあの二人らしい時間の指定だ。
南条は沙織に礼を言い、電話を切った。
この約束だけは絶対に破れない。這いつくばってでも、明日は河川敷に行かなければならない。
受話器を下ろした右手をそのままにしておきながら、南条はしばらく電話台の前から動かなかった。
ここ数日の乱れきった生活リズムから一転しての早朝起床。重い眠気が断続的に襲ってくるが、そんなものに負けるわけにはいかない。
久しぶりに朝の空気をめいっぱいに吸い込みながら自転車をこぎ、南条は指定された場所――少年野球用の簡素なバックネットなどが置かれている小さなダイヤモンドへと、定刻どおりに滑り込んだ。
土方さんと島田さんは、先に到着してベンチに腰掛けていた。二人ともバタ西のユニフォームを身に着けている。土方さんの左腕はまだ、白いギブスで固定されていた。
「……よう。南条」
右手を上げてあいさつした土方さんの前に、南条は急いで駆け寄った。
「土方さん……もう、大丈夫なんですか」
「……ああ。とりあえず入院の必要なないそうだ」
土方さんは寂しげに微笑した。
いまさら改めるのはつらいが……やはり、土方さんの左腕が元通りになることは二度とない。
「南条、野球部の様子はどうだ。新月がキャプテンになったんだってな。ずいぶん騒がしいだろうな」
隣に座っている島田さんがたずねた。
「はい。そうらしいですね……」
「らしい、って?」
「あの……」
南条は、罪の意識に体をこわばらせながら口を開いた。
「……決勝戦以来、グラウンドに行っていないんです」
「なんだ……俺たちと同じか」
島田さんが俺「たち」と言ったことに、南条は違和感を覚えた。
「……もしかして、島田さんも行ってないんですか?」
「ああ。なんとなく踏ん切りがつかなくてな。そういうわけで、おとつい啓も退院したことだし、みんなで行こうかなと思ってさ」
「それで呼んだんですか」
「まあ、俺が呼んだのはそういうことだ」
島田さんは、土方さんの方に顔を向けた。土方さんには別の理由があるらしい。
「……俺は、お前に言っておきたいことがある」
土方さんは体を前にかがめ、南条の顔を見上げた。視線は相変わらず鋭い。
「……その前に、何で部活を休んでたんだ?」
「それは……」
南条の中で、再出発の一歩を妨げたいろいろな要素が渦巻いた。だがこうして土方さんの前で思い返してみると、どれもこれも、あまりにくだらない、口にするのも恥ずかしい理由だった。
その中からまだまともだと思えるものをひとつ選び出して、南条はようやく答えた。
「……みんなに合わせる顔がないんです。勝手に練習さぼって体力が落ちてたのに無理やり登板してしまって……土方さんから頼まれたときに、ちゃんと断っておけばよかったのに、調子に乗っていけると思い込んでしまって……それでチームのみんなに迷惑をかけました。だから……」
「……お前を責められるやつなんか、誰もいない」
徐々に視線を下げながら話す南条を、土方さんは突然さえぎった。
「……確かにお前は、十分な練習をつんでこなかったかもしれない。でも、決勝戦ではまったく手を抜かなかった。そうだよな?」
南条は少し躊躇しながらも、しっかりとうなずいた。
「……それで打たれたのなら、お前は何も悪くない。真剣にやった後の結果に文句をつけるような無責任なやつは、バタ西野球部にはいないはずだ」
「俺もそう思う」
島田さんが隣から付け加えた。
「南条のピッチングはすごかった。あれが責められるなら……俺だって、三振ばっかりしてたし……」
「……そうだろ。だったら、胸を張ってグラウンドに帰れよ。たぶん……他のやつらは待ってる、お前の事を」確信に満ちた声で、土方さんは言い切った。
ここで南条は、新月が自分のためにキャプテン就任を保留していることを思い出した。
もしかすると新月も、土方さんが語ってくれたように考えているのかもしれない。そう思うと、南条は自分とグラウンドとの間にあった障壁を一気に取り除くことができる気がした。
「……決勝戦のことを忘れろとは言わない。むしろその悔しさは当分持っておいたほうがいいかもしれない。過去の自分を責めるためじゃなくて、未来の自分を作るためにな」
土方さんは立ち上がり、ベンチの後ろのバットケースを右手で持ち上げ、中身を取り出した。
怪訝な顔をする南条をよそに、土方さんは悠然と、土をかぶったホームベースのほうに歩いていった。島田さんも――なぜかキャッチャーミットを持って後に続いていった。
南条もそちらへ向かおうとすると、土方さんは手を前に出して制した。そして、マウンドのほうを指差した。
その意味がわからずその場に立ち尽くす南条に、土方さんの口から思いもかけない言葉が投げられた。
「……南条、勝負だ」
「………えっ?」
「……一打席だ。思い切り投げてこい。絶対に手加減するなよ」
あまりにも無茶な要求だった。
退院したとはいえまだ完治していないであろう左手に、もしぶつけてしまったら……その可能性がゼロであるとは、誰にも言い切れない。しかも、本気で投げるとなると……
逡巡する南条に向かって、さらに土方さんは、普段あまり聞かないような大声をぶつけた。
「……投げろ、南条!俺のためにじゃない。お前のために投げろ!」
もはや、意味など関係ない気がした。
「……はい!」
南条はグローブを左手にはめ、マウンドへと走った。
プレートの上に立つと、土方さんは早くも左打席でバットを立てた。もちろん、片手で。投球練習をさせてはくれないようだ。
ホームベースの後ろで島田さんが両手を広げ、ミットを構える。
サインはないが、投げるべき球種は一つしかなかった。
南条は呼吸を整えると、両手を大きく振りかぶった。
左足を高く引き上げ、全身を使って右腕を振りぬく。
二本の指先から一筋の光が放たれた。
コースは内角へ。
土方さんは臆することなく巧みにバットを一閃した。
かん高い金属音を残して、白球は朝焼けの空へと舞い上がっていった。
第五章 終わり
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