離岸

 

 2005年の夏も甲子園は熱かった。

 力と力、技と技が衝突した。球児たちは時に叫び、時に涙し、そして笑った。

 全国から激しい予選を勝ち抜いてきた出場校49校の頂点に立ったのは北海道の高校だった。真紅の優勝旗が白河の関どころか津軽海峡までも越えた、との修辞はいたるところで用いられた。

 観客もまた、そんな球児たちのプレーを温かい目で、時に興奮しきった目で追った

 だが一部の野球ファンたちは、熱い思いに胸をたぎらせながらも、心の隅で満たされないものを感じていた。

 第77回選抜高校野球大会。通称春のセンバツ。この舞台を華々しく盛り上げた役者たちの多くが、第87回全国高等学校野球選手権、つまり2005年夏の甲子園に姿を現さなかったのだ。

 本編にかかわる高校だけでもその例はほとんど言い尽くせる。

 まず、21世紀枠での初出場ながらベスト8進出の快挙を成し遂げた川端西高校(新島)。

 春に目覚ましいピッチングを繰り広げ注目を集めていた長身エースの土方啓(ひじかた・ひろし)が、地区大会決勝の前日に暴漢の襲撃を受け、出場不可能となった。そして僅差で地区大会の決勝戦に敗れた。一方、川端西を倒し三年連続の出場となった陽陵学園高校は、前年より順位を落としたものの甲子園でベスト8に輝いた。

 その川端西に春、一回戦で当たり、敗戦を喫した長州学院高校(山口)。

 センバツでは大金星を献上したものの、西間、草分の左右の変則エースを核弾頭に夏の甲子園出場、上位進出が見込まれていた。しかし勝負の女神は気まぐれを起こしてそっぽを向いた。まさかの地区予選準々決勝敗退となったのだ。

 春に川端西を準々決勝で下した樟葉丘高校(大阪)。準優勝に輝いた相模信和高校(神奈川)。

 この東西二地区と甲子園を隔てる壁は日本で最も高いといわれている。何より出場校数が桁違いに多く、その上戦力層も厚いためだ。春の甲子園を彩った一年生エースを抱える二校もまた、この巨大な壁の前に屈した。

 いまや甲子園常連校となった名門、昭成高校(西東京)は天候のいたずらにもてあそばれた。

 地区予選準決勝でのこと、昭成がリードをとっていた試合の途中で大雨が振り出し、空模様は回復せず降雨中止。選手たちは気を取り直そうとしたものの翌日の再試合で負けた。

 そして、一年生エース大河内臥龍(おおこうち・がりょう)を軸に驚異の夏春連覇を達成し、今大会でも優勝候補と目されていた七条高校(京都)。

 当の大河内が右ひざに大怪我を負い、なんと二回戦で敗退。破れた七条高校だけでなく、相手側の選手も、観客もみな、信じがたいといった表情でスコアボードを見つめていたという。

 もしこれらの高校が出ていたら、もっと白熱した甲子園になったはずなのだが、とファンの一部は嘆いた。

 もちろんそれは身勝手な推測に過ぎない。現実に甲子園で火花を散らしたのは、彼らが高く評価する高校を破ってさらに登りつめてきた者たちなのだから。

 それぐらいのことが彼らにわかっていないわけではないだろう。だとすれば説き伏せようとするのは無駄なことだ。理由のない空虚感が何かに害悪をもたらすことはない。ただ、彼らの胸のうちに一抹の寂しさを残すだけだ。

 

 夏の甲子園はこうして幕を閉じたのだが、球児の夏が終わったわけではない。

 ここ川端西高校、短縮してバタ西と呼ばれるこの高校の野球部でもすでに新体制へのスタートダッシュが切られていた。

「ショートッ、行くで!」

 左打席に立った男が叫ぶ。すでに180cmを越える体躯を持つこの男は新月誠(しんげつ・まこと)。

 川端西高校野球部のキャプテンを務めている遊撃手だ。チーム一の俊足と、強肩も生かした守備範囲の広さ、まだ確実性は少ないもののセンスが光る打撃で一年の秋からレギュラーの座についている。

 左手で軽く放り上げた白球を叩く。ショートはほぼ正面に来た打球を腰が少し引けたまま処理しようとする。二回目のバウンドで打球の方向が変わった。ショートはあわててグラブを合わせるが、前にはじく。

 何とか拾い上げて一塁に送球した矢先に、キャプテンの怒気を多分に含んだ関西弁が浴びせられた。

「こらっ!中村!ゴロにはビビらんと突っ込めって何回言わせるつもりや!」

「す、すみません!」

「次からはほんまに気いつけろ!ショート代われ!」

 決められた球数のノックを受けた一年生の遊撃手が、新月に一礼して二年生の遊撃手へと交代した。

 その間、新月はホームベースで返球を受ける刈田恵介(かりた・けいすけ)に顔を向けた。

「どや、あの中村の動きは?」

 たずねられた刈田は、このチームの副キャプテンを務める二塁手。上に立って人をまとめるのを得意とはしていないが、ずば抜けた守備の技術と理論を生かして、守備コーチ的な役割を託されている。

「そうだな……確かに新月が言ってた通り球から逃げ気味だけど、動き自体は悪くないと思う。さっきのイレギュラーにもよく反応してたし」

 刈田は期待通り的確な批評を下した。

「ま、あいつはどっちかって言うとバッティングのほうに見るもんがあるからな。これからの努力次第やろ。よし、次サード!」

 サードが威勢よく声をあげキャプテン新月がバットを構えようとしたとき、不意に刈田が彼の動きを止めた。代わったショートと、徐々にずれ始めていたセカンドの位置を指示して修正する。

「ごめん。ちょっと気になったから。続けて」

「よっしゃ!サード、気合入れろよ!」

 新月は身体を三塁方向に向け、いきなり痛烈な打球を放った。三塁線寄りの野手正面とはいえ打球はかなりの速さで突き刺さっていく。

 それでもサードはあわてることなく、少しだけ足を踏み出し身体を壁にするようにして受け止める。

 流れる動きでグラブから球を取り出し、1ステップで一塁送球。ファーストミットが軽快に鳴り響いた。

「次行くぞ!」

 間髪いれずにキャプテン新月は球を放り上げる。

「やっぱり、あいつはうまいなあ……」

 二つ目の打球も難なくさばく三塁手を見て、副キャプテン刈田はつぶやいた。三塁手の名は金田貴史(かねだ・たかし)。

 中学時代にはとある大会で七割超の打率を残した打撃の天才。その輝きは高校でも失われず、なんと一年生ながら夏にはレギュラーで三番を打った。打撃だけではない。守備、走塁でも他の一年生、それどころか並の二年生をもしのぐ実力を発揮している。

「くそっ、あんだけ普通に取られたら言うことないやんけ」

 新月は何度打球を放っても平然と処理する一年生に向かって悔しそうに、しかし嬉しそうに言った。

「もう少し横に揺らしてみたら?」

「そやな、よし!」

 刈田のアドバイスを受け、サードの守備範囲ギリギリのところに球を打ち込む。……には新月自身のバットコントロールの力が少し足りなかった。球はギリギリどころか、ショートの守備範囲まで向かって行った。

 三塁手金田貴史はあきらめない。健脚を駆って頭から飛び込む。

 打球は惜しくもグラブの根元に当たり、前に大きくはじかれた。貴史はすばやく起き上がってボールをつかみ、何とか一塁に球を送る。

「よっしゃ! ナイスガッツや! ……バッターが俺やったらセーフやけどな」

「貴史! 飛び込むタイミングが速すぎた! お前は脚力もリーチもあるからもうちょっと余裕もっていいぞ!」

 ひたすらに感心する新月とは対照的に、刈田はそれでもゲキを飛ばした。新月があきれた顔で振りかえる。

「おいおい。今のに文句つけるのは酷やで。あんだけできたら上等やないか」

「いや、『上等』のところで満足してたら先がないから。あいつはまだまだ伸びるよ」

 そうだ、金田貴史はまだ一年生なのだ。そのポテンシャルはいまだに未知数。

 キャプテンとしての新月は、目を輝かせて次の球を待ち構える貴史を頼もしく思うと同時にふと、何か恐ろしいものを感じた。

 

 どういうわけか、川端西高校の職員室は二階にある。手にいっぱいのノート、書類を抱えながら、野球部のロゴ入りのTシャツを身に付け、メガネをかけた女子生徒が階段を登っていく。

 彼女は野球部マネージャーの水本沙織(みずもと・さおり)。一年生で、バタ西野球部再建後、初のマネージャーとなった。
 三年間ほどマネージャーを欠いていたバタ西野球部では、各選手に用品の整理などの雑用をこなす習慣がついていた。そのため仕事の総量は比較的少ないとも言えたが、なにせマネージャーは彼女一人なのだ。負担はなかなか重い。

 階段を上りきり職員室のドアが見えたとき、沙織の右腕の力がふと緩んだ。

「……あっ!」

 右手の中指と薬指で器用に挟んでいた紙が落ちた。十五枚ほどの書類がバサバサッと音を立てて廊下に散らばる。あわてて腕に乗せたノートを床に置いて拾い集めようとすると、職員室から出てきた男たちが声をかけた。

「あ、いいよ。俺たち拾うから」

「ノート持とうか?」

 体格に差のある二人の男は野球部のユニフォームを着ていた。ともに一年生の、板橋貴一(いたばし・きいち)と張大福(ちゃん・たーふー)だ。

「ありがとう」

 沙織はかすかに口元をほころばせ軽く頭を下げる。初めて見る者にとっては随分無愛想な礼のしかただ、と思えるかもしれないが、やや内気で感情を大きく表さない彼女の性格上、いつものことで仕方がない。二人の選手も、それは十分承知している。

「監督に話しに来たの?」

 紙を拾いながら、小さいほうの男、板橋がたずねた。彼は本職を外野手としているが、投手、捕手も含め全てのポジションが守れる器用さを持ち味としている。足も速く、バントが非常にうまい。

「うん。地区予選のデータをまとめたから。それと、いろいろ郵便とか」

「……これ、全部そのデータか?」

 驚きを顔に浮かべてたずねた、ノートを持つ大きいほうの男、張もまた外野手だ。中学まで柔道をやっていたこともあり体つきがガッチリしている。……と言うより、ドッシリしていると形容するほうがいいかもしれない。豪快な見た目どおりパワーあふれる打撃が魅力で、肩も強い。

「そうだけど」

「すごい。こんな量になるのか……」

 張は目でノートの枚数を数えてみる。一枚、二枚、三枚……全部で11枚。張の太い腕にも確かな重みが伝わってきた。

「でも、たぶんいま監督にあっても取り合ってくれないぞ」

 おおかた紙を集め終えた板橋が、端を揃えながら沙織に教えた。

「どうして?」

「なんか電話で話し込んでる。俺たちが用があるんですけど、って言っても手で追い払われた」

 どうやら監督はかなり重要な用件に取り掛かっているようだ。もう一度礼を言い、二人から紙とノートを受け取った沙織は様子を伺いながら職員室のドアを開けた。夏休みなので教員の数は少ない。

 川端西高校野球部監督、角田幸一(すみだ・こういち)は電話を右手にしてしきりに頭を下げていた。気の張る相手と話しているらしい。

「いやもう、ほんまにありがとうございます。ええ、選手にはこれから伝えますけれど、喜ぶと思いますよ。……いやいやとんでもない、こちらこそ、まさか戦ってもらえるとは」

「あの……」

 沙織が声をかけようとすると、板橋の言うとおり左手で制止された。相手が前にいるわけでもないのに愛想を作っている目が、一寸たりとも沙織に向けられる気配はない。やむなく黙って立ち止まり、監督の返答振りから会話の内容を推察する。

 野球関係の用事であることは間違いない。しばらく聞いていると、練習試合か何かの打ち合わせではないか、という推測に至った。

 どんなときにも気さくな角田監督がこれだけ平身低頭で話しているのだから、相手はかなり名のある高校だと思われる。

 新島県の王者、陽陵学園だろうか。いや、あのチームとは何度も試合をしていて監督同士も見知っているから、ここまでかしこまることはないだろう。とすれば、他県の高校か、まさか春に一度試合をした東京の昭成高校ともう一度試合ができるとか……

 いろいろと考えをめぐらせていると、沙織の細い腕がノート、書類の重さに疲れ始めてきた。ひとまずこれは監督の机の上に置いて用件はあとで伝えよう、そう思ったとき、監督がようやく受話器を置いた。

「沙織、嬉しいお知らせや」

 監督はマネージャーにいま話していた内容を伝えた。

 沙織は喜ぶよりも先に驚いてしまった。そんなチームといつの間に交渉していたのだろう……? 予想外な決定に、この監督にとってはよくあることとは言え、ただ息を飲むしかなかった。

 

「ビシッ!」

 皮と皮のぶつかる軽快な音がはじけて響く。簡素ながらきちんと屋根のついたブルペンは、夏の凶悪な直射日光から守られて比較的涼しい。

「南条さん、いいですよ!」

 白球をミットから取り出し活力みなぎる声をあげるのは、一年生の道岡俊雄(みちおか・としお)。

 打撃やインサイドワークなどまだまだ荒削りな面は否めないが、並外れた強肩とすぐれた体力が将来性を感じさせるキャッチャーだ。

「……そうか?」

 後輩から嬉しい言葉をかけられても、投げた当人、南条圭治(なんじょう・けいじ)は首を傾げた。

 彼は二年生で当初のポジションはサードだったが、紆余曲折の末に投手へ転向した。一年時の春のセンバツで二番手投手として二試合に登板した。2005年の地区大会決勝戦では負傷した土方に代わって先発投手を務めたが、サヨナラヒットを打たれて涙を呑んだ。

 とはいえその決勝戦の投球は、二年生になってから精神的な要因からスランプにあえいでいた南条の復調を予感させる、素晴らしい内容のものだった。

 それなのに、なぜかその決勝戦の球威が戻らない。球速は徐々に回復し始め、時折スピードガンで時速140km以上を記録するほどになったのだが、本人の体にあのときの、球がしっかり指にかかった感覚が戻ってこないのだ。

「そうっすよ、かなりこう、バシッときてますよ!」

 道岡は自らのこぶしをミットに叩きつけて励ますが、南条は納得いかない表情でマウンドをならすばかりだった。

 そのまま五球ほど続けて投げ込む。ストレート、カーブ、ストレート、ストレート、ストレート。どれもなんとなく気に入らない。

「おっかしいな……」

「あまり気にするな。また泥沼にはまるぞ」

 そう声をかけたのは、道岡の隣で球を受けていた二年生の具志堅海(ぐしけん・かい)。

 彼はキャッチャーではない。チーム一の腕力を生かしたパワフルな打撃を長所とする一塁手だが、その強靭な体躯からたまにブルペンでの捕球を任される。最初は、前エース土方さんのきわめて重い球を受けたがる捕手が誰もいなかったので(キャッチングが下手な捕手なら、ひどいときは三日も手が腫れることもあった)、なかば無理やり捕球相手にされていた。しかし近頃はキャッチャーの視点から球を見ることが打撃にも役立つかもしれない、と自ら進んでブルペンに座ることも多い。

「そうなんだけどさ、なんだろうな、なんかしっくり行かないんだよ」

 渋い顔でボールの握りを確認する南条を奮い立たせようと、具志堅はさらに言葉を続ける。

「気持ちの持ち方次第だって。あの決勝戦の時も、前の日にみっちり練習していい球が投げられた、ってわけじゃないだろ」

 南条もそれぐらいはわかってるんだろうな、と具志堅は友の不安そうな表情を眺めながら思う。

 南条は普段何事にも無関心なように見える反面、いったん悩み始めると周りが全て見えなくなるほどふさぎこんでしまう。

 特に決勝戦前の5月から7月あたりの期間の落ち込み方はひどかった。打ち沈んだ心の影は投げる球にも表れていた。あのときの制球の乱れた棒球に比べれば、いま投げている球は十分通用するものに思えるのだが……

「具志堅さん、もういいですか!」

 自分が相手をしていた投手の声に、具志堅はふと熟考から引き戻された。呼びかけたのは一年生の投手、八重村諭(やえむら・さとる)。具志堅のいとこでもある。

 特徴は……実際に彼のピッチングを見てみよう。

 セットポジションから左足を引き、軽く足を上げて身体を沈める。大きく足を踏み出しごく低い位置から右腕を振る。アンダースローだ。

 白球は伸びながらミットに向かい、ホームベース近くでさらにホップをましてシュート気味に食い込む。

「バシッ!」

「ストライッ!」

 具志堅は思わず口にした。ベースすれすれの内角に決まった球は八重村が最も得意とする強力な武器だ。

 スネイクファング。ちょっと気取ってそう呼びはじめたこのナチュラルシュートの直球は、初め中学の野球仲間に定着し、今では野球部の皆に知られるようになっていた。

 身体近くのボールが苦手な右打者にはまず打てない。まともに決められたら俺にも打てないだろうな、と具志堅が自分の後輩でありいとこである八重村の姿を感心して見つめていると、ブルペンにマネージャーの落ち着いた声が通った。

「皆さん、監督が呼んでます」

 ブルペンにいた四人は一斉に彼女のほうに目を向けた。この暑い中走って来たことで彼女には珍しく頬がほんのり赤く上気していた。

 こうしてこの夏、球児たちが体験する新鮮な出来事の口火が切られた。

 

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