緑燃ゆる

 

 目の前に重なった十数枚の紙が、新キャプテン新月の目には大きな山のように映った。傍らには野球部員全員の名前、学年などが記された名簿。新月はこれらの書類を明日までになんとしても片付けなくてはならなかった。

 事の発端は二日前、夏も盛りを過ぎたはずなのにまだまだうだるように暑い8月18日の午前にさかのぼる。この日にはほとんどの部員が盆休みの帰省から帰ってきていて、グラウンドの練習も活気にあふれていた。

 冷静極まりない表情をほんのかすかに上気させながらマネージャーが監督の招集を部員たちに伝えたとき、新月はじめ多くの二年生部員たちの背筋に悪寒が走った。

 きっとこれは、監督によって何かが急に決められたに違いない。彼らが約一年半の野球部生活で得た直感だった。

 予想通り、角田監督の第一声は部員たちを震撼させた。

「まあ、バタ西野球部も復活五周年ってことでな、そろそろ夏合宿でも開こう思てんねんけどな」

 この監督の口から出る「思うてる」という言葉は「構想中」という意味ではない。「計画済」ということなのだ。

「あの……」

 さまざまに反応する部員たちの中から、キャプテン新月がおそるおそるたずねた。

「いつからやるんですか?」

「21日、つまり三日後や」

 ほとんどの部員たちはその強行スケジュールを聞いてもいっそう喜びを大きくするだけだったが、新月、刈田をはじめとした部の中心メンバーたちは監督にばれないようにひそかにため息をついた。

 要するに、この三日間で合宿の時間割、練習メニューなどをキャプテン中心に決めていかなければならないということなのだから。おそらく監督は本当に大まかなことしか考えてくれていないだろう。自分たちのことは基本的に自分たちで考え、実行する。バタ西野球部の基本方針だった。

 そういえば、と新月は思った、前キャプテンの角屋さんも突然に練習試合の予定などが決まったとき、どこか疲れたような表情をしていた気がする。

 難しいことは考えずただ練習をしてればよい身だったほんの一ヶ月前までの新月は、「いつ試合があるて言われてもきちんと調整しとかなあかんで。それが選手っちゅうもんや」という角田監督の持論を、なるほどそのとおりだと感心して聞いていたが、いま考えてみれば角屋さんやその他の先輩にかかる負担は並々ではなかっただろう。

「宿とかの手配はとっといたからな。施設のほうはぜんぜん心配せんでええ」

「場所はどこですか?」

 いったん決められた以上はしゃあない、キャプテンとしての責任を果たそう、と新月は気を取り直していた。

「京都」

「……えっ!?」

 合宿、という語感にそぐわない地名が飛び出して、新月だけでなくすべての部員が思わず驚きを口にした。

「言うてもあれやで、もちろん祇園とかに観光にいくわけちゃうで。ちょっと辺ぴな山中やけど、空気はええしそれなりに涼しいし練習しやすいはずや」

「はあ……」

「ま、京都ならではのスペシャル企画も用意してるからな。楽しみにしながらもちゃんと用意せえよ。あとで持ってくるものの一覧とかは渡すから。ワシからは以上」

 監督はなにやら忙しそうに校舎のほうへと去り、部員たちは期待に胸膨らませながら練習に戻っていった。

 その後新月は、10日間の合宿に関するさまざまな計画を任された。

 時間割や練習メニューだけでなく、部屋割り、目的地までの新幹線の座席割りetcetc……

 こういう細かい仕事は新月の最も苦手とするところだった。普段の練習に精を出し、各部員の希望を聞いて回って悩んだりする中で仕事はあまりはかどらないまま前日となり、大量の書類を前に頭を抱えなければならない羽目になってしまったのだ。

 いや、もう前日ではない。時計を見るとすでに午前0時を回っている。明日は5時に起きなければならないのに。

 悩んでいても仕方がない。部屋割りの作成に取り掛かる。

 あいつがこの部屋で、こいつと一緒で、いやそういえばこれは嫌やぬかしとったな……

 部屋を記したマス目はいっこうに埋まらない。新月の集中力は早くも切れた。

「……こんなんできるかあっ!」

 すでに寝ついた家の者を起こさないようにできるだけ小さく、しかしありったけの苛立ちをこめて新月は叫んだ。ふてくされて仰向けに寝転がる。

 しばらく天井を見つめていると平常心が戻ってきた。同時に煩雑さも戻ってきた。いくら不平を言ったところで、課せられた仕事が減るわけではない。

 こうなったら人海戦術や。

 珍しくやや高度な単語を思い浮かべ、新月は書類をバッグに詰め始めた。ひとしきり詰め終わると携帯のキーを操って二人の友人に電話をかけ、部屋を出た。

 

「……で、手伝ってくれ、ってことか」

「ああ、ほんまにすまんな」

「だからって何も俺の部屋に来なくてもいいだろ……」

 自転車を飛ばして十数分。新月は副キャプテンの刈田の部屋に押しかけた。

「いやこんな時間やからな。俺も親戚いうても下宿させてもらってる身やし、迷惑かけられへんから」

「こっちも迷惑だって。うちの母さん驚いてたぞ」
 あれこれと文句を言いながらも、副キャプテンである以上断りきれないのが刈田のつらいところだった。いや、役職に関係なく、刈田は新月に頼み込まれると結局いつも断りきれないのだった。

「あのさ」

 実はキャプテン、副キャプテンのほかに、この部屋にはもう一人の男がいた。

「俺もどうしても来ないとだめだった?あんまり朝強くないんだけど……」
 携帯電話の着信でせっかく寝入ったところを起こされた哀れな男は南条だった。彼も、新月の懇願にいつも屈してしまう一人だ。

「ええやん。せっかくこうして来てくれたことやし手伝ってや。飛んで火にいる夏の虫、って言うやろ」

「はいはい……」

 新月がわざわざそんな慣用句を使う意図は全くわからなかったが、南条は仕方なく作業に加わることにした。南条自身も心から新月を責めようとしたわけではない。その証拠に、南条は自分の合宿用の荷物を持参してこの部屋に来ていた。

 三人集まれば文殊の知恵ではないが、彼らはとっかえつっかえしながらもなんとか作業を進め、三時過ぎにすべての仕事を終えた。

 すがすがしい達成感の直後にのしかかってくる疲労。三人は新月の「終わった!」という叫びとほとんど同時に、思い思いの姿勢で眠りについた。

 彼らはいったんすべてを忘れた。目覚まし時計をセットすることさえも。

 当然彼らは寝過ごし、二人は二時間半後に必死の疾走をしなければならなかった。二人、というのは新月と南条で、家主の刈田は一人自転車で集合場所に向かったのだ。

 集合時間は午前六時。刈田の家から集合場所の川端駅までの標準所要時間は徒歩で約四十分。バスの運行はこの時間不定期。残り時間は三十分。要するに……

「最悪や!間に合わ……へん!」

 快足を飛ばしながら息も絶え絶えに新月は叫んだ。

「だから……なんで……目覚ましかけなかったんだ!」

 南条は起きがけにもさんざん口にした批難をもって答えとした。

 三人の中で最初に起きたのは南条だった。彼の目覚めは自分で言っていたようにそれほどよくないものの、前日になんと夜の八時から床に入っていたため、まだ寝不足感が少なかったのだ。

 それでも時刻は五時二十分を少し過ぎていた。三人はあわてて着替え、髪を直す暇も朝食をとる暇もなく駆け出した。

「刈田の……家で……寝とったん……やから……あいつが悪い!」

「そう……だな……!」

 一人だけ自転車で「楽に」先行する刈田への恨みは、二人に理不尽な結論を導かせた。彼が自転車で行ったのも、自分の部屋を深夜に貸したから、というもっともな理屈があったからなのだが。

 こんなことが前にもあった。南条は新月の、たぶんそのうち力尽きるであろう高速走行になんとかついていきながら考えたが、はっきり思い出せない。確かかなり重要な大会の前だったはず……

 案の定、最終的にはスタミナのある南条が新月を引っ張るような形になり、胸がつぶれるほど息を荒げながらも何とか集合時間内に川端駅に到着した。

 時刻は五時四十六分。さすがに、中距離走をやらせれば部内でトップクラスに躍り出る二人だ。

 部員たちはもうかなりの割合で集合していた。ひざに手をつき口を全開にして酸素を取り込む二人に、角田監督が近寄って声をかけた。

「お、二人とも今日は早いやないか」

 監督は、南条が結局思い出せなかった「あの大会」のことを意識しながら言った。

「はい。もう俺は……キャプテン……ですから」

 新月の息はまだ整っていなかった。上目遣いで声をしぼり出すように答える。

「なるべく……早め早めに行動するんは……基本ですよね」

 自分の有様と全く正反対のことを平気で言ってのける新月を見て、南条はただあきれるよりほかなかった。

 

 こうして参加予定の部員は全員時間内にそろった。乗換駅などでも大きな混乱はなく、バタ西野球部員は順調に合宿地へと向かっていった。

 二年生のうちのある三人は、それほど乗る機会の多くない新幹線の景色を楽しむ余裕などなく、シートに崩れ落ちていたが。

 新幹線を降りた一行は京都駅でJR山陰本線に乗り換えた。監督が指示した駅までは部員たちの予想外に距離があった。電車が進むと共に窓外からはどんどん人の気配がなくなり、緑が濃くなっていく。

 とある駅で降り立った野球部員たちは、駅前でいったん集合させられた。

「監督」

 集団の先頭に立ったキャプテン新月がきく。

「ここからどれぐらいあるんですか?」

「宿か。そやな……歩いたら一時間半ぐらいか」

 角田監督の何気ないつぶやきに新月はぴくっと反応した。一時間半の歩行。この監督ならやらないとも限らない。そんな新月の不安を察してか、監督はあわてて言葉を継いだ。

「もし歩いたら、やで。もちろん。バスで行くんやけど、そろそろ……お、きたな」

 エンジンの排気音に角田監督が注意を向けた。それに従って部員たちが後ろを向くと、二台の白いマイクロバスが向かってきた。側面には「民宿 長戸」と青で印字されている。

「今、ここに来てるのは何人やったっけ、新月?」

「えーとですね……全部員で38人、後から参加する言うてたのが3人で、監督とマネージャー合わせて合計37人です」

「そうか。余裕やな。じゃあ、そういうことでみんな乗ってくれ」

 あらかじめ分けておいた二グループがバスに分乗する。眠気を払いのけながらのグループ分けだったので多少おかしなところもあったがなんとか全員席におさまった。

 最後に乗った角田監督は運転手に軽く挨拶をし、バスはエンジンを切った。

 バスは山道を登っていく。ところどころ急なカーブや凸凹がある荒削りな道。監督によると、大体30分ちょっとで目的の民宿に着くという。民宿の経営者が監督の中学、高校時代の友人で、料金を割引してくれるそうだ。

 どちらかというと乗り物に弱い南条は新幹線に乗る前のホームで酔い止めを飲んできていた。朝があまりにあわただしかったせいでとらなければならなかった応急処置、本当に有効かどうか心配だったが、いいあんばいに効いているようでそれほど気分は悪くならない。

 もしかして他によっている人はいないか、南条はあたりを見渡した。すると意外に近く、通路を隔てた隣に座る大きい男の顔色が真っ青になっていた。

「ど、どうした、張。気分悪い?」

 肉付きのいい一年生、張は力なくうなずきながら答えた。

「少し……気分が悪いッス」

 野球部でも随一の体格を持つ張が乗り物酔いをする体質だとは。南条は意外に思ったが、自分でも乗り物酔いのつらさがよくわかっているため痛々しかった。

「でも新幹線ではかなり元気そうだったよな」

 南条は、車内で他の一年生からスナック菓子をもらっていた張の嬉しそうな姿を思い起こした。

「あの時はかなり腹が減ってたので……それに、電車なら大丈夫なんスけどね。バスのこの臭いがどうもダメなんス」

「酔い止めは飲んでないのか?」

「はい……朝に飲もうと思ったんスけど、寝坊して時間がなくて……」

 そういうと張は前にかがんで頭を抑えた。バスの車輪が道の小さなくぼみを通ったのか、ガタンと揺れたのだ。

 もうあんまりしゃべるな、と南条は張の背中をさすってやりながら張の隣の一年生を見た。一年生は新幹線でも寝たりなかったのか、熟睡していた。これでは張の異変に気づかなかったのも仕方がない。

 南条は頭上の網棚から小荷物用のバッグを取り、中から薬を出した。いったん気分が悪くなってからの酔い止めははっきり言って気休め程度の効果しかないのだが、何もしないよりはましだろうと南条は考えていた。

「ほら、飲むか?」

 南条が差し出した錠剤と水筒のふたをうやうやしく受け取り、よほどつらいのだろう、目に涙をためながら張は薬を飲んだ。

 逆効果だった。

 張にとどめの一撃が加えられた。

 ……人には他人にあまり知られたくない思い出があるもので、ここでもあえて詳しくは書かない。ただ、南条のとっさの措置によって回りに被害が及ばなかったことだけは付け加えておこう。

 ともあれバスは民宿の前に滑り行った。民宿、と聞いて部員たちは今にも倒れそうな木の屋敷を思い浮かべていたのだが、いざ前にしてみると意外に現代的な、旅館といっても差支えがないほど立派な落ち着いた雰囲気の建物だった。

 山の緑は下界の熱を確かにさえぎってくれていた。窓際に座っていて、バスの走行中南条の隣で眠り続けていた新月は、窓を開けて外の涼しさを体感した。

「おお、ええところやないか、なあ南条」

 振り返ると、南条はなんとか張に肩を貸そうとしていた。

「そ、それより手伝ってくれ。こいつ、見た目どおり重い……」

「なんや張、どうしたん?腹でも痛いんか?」

 新月は寝ている間近くで起こっていた騒動に全く気づいていなかったようで、無邪気にたずねた。

「お前さ、キャプテンなんだからもう少し心配り、って物を持てよ……」

 南条はため息をつきながら新月に張の状態を教え、二人は巨体を何とか担ぎ出していった。

 こうして一行は合宿地にたどり着いた。各部員は四人から五人にかたまって民宿の各部屋に散らばっていった。

 新月、刈田、南条、そして彼らと同じく二年生の具志堅は同室だった。

「八畳ぐらいか。思ったより広いな。冷房も効いてるし」

 両肩にかけた荷物を下ろしながら南条がコメントした。窓の外には林が広がっている。

「ただ、ここはでっかいのが三人いるからな……」

 同じく荷物を下ろして刈田は心配そうに言った。新月181cm。南条177cm。具志堅179cm。刈田164cm。一人を除いてかなりの長身、中でも具志堅は肩幅が非常に広い。大量の荷物のことも考えれば結局そんなに広くは感じなくなるだろう。

「まあ、いざというときは刈田が押入れで寝ればいいしな」

「……ちょ、ちょっと待て。そんなに狭くはならないって」

 じっと見つめてまじめな調子で言う南条を、刈田はあわてて止めた。

「おい、茶菓子がないけど、どないなってるんや」

「腹減ったな。飯は何時だ?」

 後ろでは新月と具志堅がろくに荷物も片付けずに早速くつろいでいる。

 退屈はしそうにもないけど、ゆったり落ち着くこともできないだろうな……

 刈田は全員の荷物を端っこに寄せてやりながら、合宿生活の前途多難を予感した。

 

 ここには民宿だというのになぜか少ししゃれたテラスがある。備え付けの、ビーチにあるような背もたれの長い寝椅子に体を預けながら、角田監督は頭上に広がる星を眺めていた。

 川端市はそれほどにぎやかな町ではないから星がぼんやり曇ってしまうようなことはないが、それでもこの、角田監督の故郷の町の星空には劣ってしまう。標高が高くなればなるほど、空気は澄むのだ。

 当然、周囲に人気はなかった。まず民宿の客自体が少ない。盆過ぎは毎年こんな調子や、と角田監督の旧友でもある民宿の主人は言っていた。

 角田監督がこの町に住んでいたころ、このような民宿は見当たらなかった。十数年前に温泉の源泉が発見されてからだ。町が「村おこし」の一環として開こうとした温泉街の一角に、監督の旧友は民宿を経営し始めた。

 当初はそれなりに賑わっていたという。だが、バブル崩壊で状況は変わった。客足は少しずつ途絶えていった。今は一定の水準で低空飛行しているものの、すでに何軒も宿泊、観光施設がつぶれたという。

 ええとこやのになあ。

 誰に言うでもなく監督が口の中でつぶやくと、背後のガラス戸の開く音がした。室内からジャージを着たマネージャーの水本沙織が姿を表した。

「監督、これでよかったですか」

 沙織は右手に書類、左手に布製の袋を抱えている。

「ああ、ご苦労さん。いつも仕事が性格やな」

 いえ、と少しうつむいて謙遜し、沙織は監督に荷物を手渡しながらたずねた。

「この袋は薬ですか?」

「そうや。ようわかったな」

「手触りで思いました」

「ちょっと血圧が高くてな。中年のおっさんにはようあることなんやけど、念のためにな」

 監督は袋から薬を取り出し、あらかじめ持ってきていたペットボトルの水で服用した。ふたを閉めながら沙織にたずねる。

「あいつらはまだ食うとんのか」

「ええ。まだ……」

 テラスにたたずむ二人の左後ろに、ガラスを隔てて畳張りの食堂がある。

 中にはゴツい球児が二人と、困ったような顔をしながら注意もできずに立ち尽くす民宿のおばさんが残っていた。

 二人の球児はまだ箸を下ろそうとしない。みながおおかた帰ってからもう10分たつというのに。

 今日はせっかく来てくれはったんやからサービスですわ。ごはんは自由にお代わりしてください、という主人の善意の一言が災難の発端だった。歓喜にわく食堂の中では、丸い男と四角い男の目が妖しく光っていたことに誰も気づけなかった。

 二人の男、バタ西野球部の怪力コンビ、具志堅と張はとにかく食った。食いに食った。特に張などは、つい数時間前まで乗り物酔いに負けて蒼白な顔をしていたのが信じられないぐらい、恐ろしい食いっぷりだ。

「いくらサービスといっても、あれはやりすぎだと思います」

「やな。あいつらあしたは雑草抜きや。食いすぎた分はきっちり働いてもらわんと」

 監督は半ばあきれたように二人への罰則を決めた。ちらりと食堂を見ると、二人はようやく食事を終えていた。ごっつあんです、といわんばかりにお茶をすする二人の顔は、はちきれんばかりの満腹感にまぶしく輝いていた。

 そのかたわら、役目を終えたと見て帰ろうとする沙織を監督が引きとめた。

「まあ、ちょっと待ってくれ。ちょっと聞きたいことがあるんやけどな」

 なんだろう、と彼女は振り返った。ほんのわずかに影のさした月明かりが白い頬を照らし出している。

「マネージャーの目から見て、これからのバタ西はどうなる思う?」

「……そうですね……」

 いきなり全体的な質問を投げかけられたので、沙織ははたと立ち止まって考えた。監督はせかすことなくただ答えを待つ。

「……センバツ出場も、不可能ではないと思います」

「ほんまにそう思うか?投手はどうや?打撃は、守備はどうや?別にわしの意見を押し付けるつもりはないからお前の目から見て率直なことを言ってくれ」

 真意を問おうと監督は沙織の目を覗き込んだ。

 沙織が自ら野球をした経験はない。あるとすればほんの小さいころに親と軽く遊んだ程度だ。それでも野球の観戦、特にプロ野球の観戦を趣味とする彼女の観察眼はなかなか正確で、監督も一定の信頼を置いている。それに彼女はどんなときにも、物事を一歩退いて冷静に見ることができる。

 しばらく考え直して沙織は静かに口を開いた。

「やはり土方さんの抜けた穴は大きいと思います。いえ、あんなことがあってもなくても、夏過ぎには必ず引退しなければならなかったのですが……」

 土方さん、というのは前エースの名前だ。長身から投げ下ろす揺れる豪球とフォークで、新島でも、いや関東全域でも指折りの投手と言われていた。

「南条、八重村、柴島、か。右、右、左と頭数はそろっとるんやけど。他に出てきそうな投手はおらんか?」

「今のところは……監督がいないというのであればそうだと思います」

「まあな。これからいくらでも成長する可能性はあるんやけど、当分は三人を回していくしかないやろな」

 監督は今の三投手の力をほぼ同等と見ているらしい。背もたれから少し起き上がり、伸びをしてからさらにたずねた。

「打線はどう思う?」

「これも先輩たちの穴は小さくないですが……でも、どこの高校でもそうですし心配することはないと思います」

「軸になるのは?」

「新月さんがトップを打って、貴史くん、具志堅さん、南条さんで真ん中を固めるのが基本、でしょうね」

「ま、それが順当なところやろな」

 監督も考えるところは同じだった。沙織が挙げた四人の打撃力は、確かに今の部員の中で頭一つ、場合によっては二つ以上飛び抜けている。

「守備面については内野は安心だと思います」

「夏の時点でもう一年、二年で組んどるからな」

「ええ。外野も三年生の先輩たちみたいに固定できる状況にはないと思いますが、十分通用するレベルだとは思います」

「今のところどいつが候補やろか?」

「本職はキャッチャーですけど後藤さん、ピッチャーとして使わないときは南条さん、外野専門の人なら庄司さん、牧峰さん、張くんといったところですね。おそらく」

 すらすらと五人を並べた沙織に感心しながらも、監督は一人の重要な選手の名を上げた。

「板橋を忘れてないか?」

「あっ、そうでした。板橋君も外野でしたよね。最近、内野ばかりやってるのを見かけますから」

 板橋は俊足と天性の器用さを武器とする一年生。沙織の言うように近ごろ彼はノックや実線打撃のときにいつもセカンド、ショートといった位置にいて、たまにキャプテンから注意を受けていた。

「あいつはちょっと飽きっぽいからな。でも今の時点で島田の守備範囲に一番近いのはあいつやからな」

 監督は三年生のセンターの名前を挙げた。島田さんの守備範囲は新島県でも随一といわれていた。足の速い板橋は、打球への反応速度や落下点へ回りこむ精度などで引けをとるものの、島田さんにもそう見劣りしない守備力を持っている。

「ですが、もっと大きな問題は……」

「まあな。こればっかりは今考えてもしゃあない」

 監督はそう言って沙織の言葉を止めた。

 前の正捕手、藤谷さんがバタ西野球部にもたらしていたものは計り知れないほど大きい。こうして引退してみるとそのありがたさがいっそうわかる。

 彼は綿密な、気違いとも思えるほどの膨大なデータ調査を元に、投手のリードだけではなく守備体系、打線の組み方などバタ西野球のあらゆる戦略を支えていた。陰の監督と呼ぶものさえいたほどだ。

 次に捕手となるのは外野手にも名前が上がった二年生の後藤か、一年生の道岡といったところ。身体能力は藤谷さんより高いが、特にリードの面では彼に及ぶべくもない。二人は併用される可能性が高い。

「とりあえず、今年の秋はそろそろ関東に出たいところやな」

 今年二年連続の地区大会優勝にまで「輝いた」夏季に比べ、秋季のバタ西は振るわない。昨年の新島県秋季大会ベスト8が過去最高の成績だ。

 二位までに入れば関東大会に進出できる。そこから勝ち進めば、春のセンバツへの道が開けてくる。

「監督。今からそんな弱気でいては、どうにもなりませんよ。本気で上を目指していかないと、結果がどうなっても何も残らないと思います。そのための合宿じゃないんですか?」

 珍しく沙織に諭されて、監督は思わず頭をかいた。

「そやったな。まずはワシから気合入れていかなな。ここの選手はみな、すごいポテンシャルは持っとるんや。ただ今年の場合、それが発揮されるまでちょっと時間がかかりそう、て思てるだけやから」

 視線を下ろし、眼前に広がる森の闇に目を慣らす。

 ぼんやりと古い校舎が見える、ような気がした。暗いのではっきりとはわからない。民宿の主人によれば、そこには角田監督の母校である中学校があるはずだった。

 母校は過疎化のために統合され、廃校されていた。監督はうまく交渉し、そのグラウンド跡地を9日間使う許可を得ていた。

「一番の問題は、あいつかどれだけチームをまとめられるか、ってことやな」

 監督は首を回し、いま思い浮かべた選手が泊まる部屋の窓を見上げた。

 やはりというかなんというか、明かりは消えていない。就寝時間が過ぎても消えないかもしれない。

 他の部員の悪い手本になるようなことだけは、せんといてくれよ。

 心の中で効果のない忠告をしながら、監督は二人の大食漢に罰を言い渡すためにいすを立った。

 

 

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