急勾配

 

 坂を登りきった先にグラウンドの門に続く小道がある、と語る地図を手にして、新月はアスファルトの道を歩いている。

 最後の勾配を踏み出すと、右手に小径が伸びていた。土の道の両側には針葉樹が並び立っている。

 新月は道の入り口でいったん立ち止まり、緑のアーケードの下で涼しい空気を浴びながら、軽く息を整えた。

 きつい坂道だった。目的地のグラウンドがある、角田監督の母校の中学校は、この山中の高台にそびえている。

 学生時代、監督はこの中学校に30分近くかけて通っていたそうだ。ランニングで。野球部員は自転車の使用を禁止されていたらしい。

 そら、あんだけの坂を毎日走ったら足腰強なるわな。

 新月は、昨日新幹線の中で聞いた監督の語り口を思い出しながら、少し尊敬を覚えた。

 今日は合宿二日目。新島県から京都府へ、一日目は移動に費やしてしまったから、実質今日がスタートの日となる。

 時刻は六時半だが、彼にとって早朝ではない。新月はキャプテンになってもなお、極端な早起きを続けていた。

 引退した三年生に、土方さん、島田さんという人がいた。この先輩たちと新月は毎朝、どちらが早く野球部グラウンドに入れるかを競っていた。負けん気の強い新月は必死の早起きを敢行していたが、結局先輩たちにはかなわなかった。かすかに悔しさは残ったが、おかげで朝型の健康な生活リズムを身につけられたため、今では先輩たちに大いに感謝している。

 さて、小道は少しだけ入り組んでいた。右折、左折、右折。しばらく歩を進めると、新月の目に片方が崩れ落ちているコンクリートの門が移った。

 今日から約八日間の練習場所となる中学校の通用門。その先にはまっさらな……というにはずいぶん荒れ果てた、雑草の点在する地面の硬そうなグラウンドが広がっていた。

「そういうことかいな……」

 新月は静かにつぶやき、今日の練習メニューを思い浮かべた。

 午前中、草むしり。昨晩、急に変更を伝えられたこのメニューに対して、新月は当然監督に質問した。監督は、気にすな、要するにグラウンド整備や、と笑いながら言った。新月はひとまず安心していたのだが、この様子だと本当に部員総出で草むしりをしなければならないだろう。

 門から足を踏み入れる。広い。小規模ながら校舎のそばにバックネットも備わっている。

 ただ、不平を言うのは贅沢なのだが、これだけ広くて外野ネットがないと球がなくなる危険性がある。グラウンドの切れ端からは下向きの斜面が伸びている。相当数の球拾い要員を外野手の後ろに置いておかなければならないだろう。

 ざっと全体を見渡していると、校舎の近く、バックネットを基準にすればライトのポールあたりに、何者かがうごめいているのに気がついた。人影だ。

 もっとよく見ると、バタ西野球部のブレーカーを着た男が二人、腰をかがめている。

 新月は警戒するよりも先に、グラウンドへの一番乗りを逃したことを悔やんだ。とにかく走って近づいていく。

 長方形の頭と丸い頭。身元はすぐに割れた。

「具志堅!張!」

 二人は首だけ回して振り向いた。

「おっす」

「おはようっス、キャプテン!」

 二人の手には草の束が握られている。ありがたいことに、率先して草を抜いてくれていたようだ。

「お、おう。お前ら何時からおったんや?」

「何時から……だったかな?」

 小さなあくびをしながら、具志堅は隣にしゃがむ張にたずねた。

「えーと、確かここについたのが五時半っス」

「五時半!?え、もしかしてずっと草むしりしとんの?」

「はい。これだけ広いとなかなか進まないっスね。一塁線、って言うんスかね、この辺はだいたい終わりそうなんスけど……」

 張はバックネットのほうに目を向けた。抜かれた雑草が小さな山となって列をなしている。荒廃したグラウンドにあって、ところどころガラスの割れた校舎に沿った部分だけが白い土をあらわにしていた。

「いやいや、ようやってくれたわ。こんな仕事、普通はわざと遅れようとするもんやけどな。ちょっと休んどいてももええで。どうせメニューの開始時間はまだやし、俺がやっとくから」

「いや、そういうわけにもいかない」

 機嫌よく話す新月を見上げて具志堅が言った。

「……罰だからな」

「罰?なんで?」

「きのう、ちょっと食いすぎたからその罰」

 具志堅は苦々しく答えた。確かに昨日、この二人は皆が部屋に引き上げてもまだ食堂に居座っていたようだ。いったいいつまで食べ続けていたのか、詳しいところは監督とマネージャー以外誰も知らない。

「でも、おかわり自由っていってたやんな、監督」

 新月自身も、昨日はかなりの量を食べていた。彼が食堂を出たのは最後から三番目、つまり具志堅、張に次ぐ食べ方をしていたことになる。そもそも体格があってエネルギー消費も大きいのだから仕方がない。

 にもかかわらずこの二人だけ罰せられるというのは理不尽だ。そう考えるのは自然なことだったが、実情はどうやら違うらしい。

「それでも限度ってものがあるやろ、って怒られた」

「自分もその通りだと思うっス……」

 反省の色を全身に表して、張はぽつりと言った。具志堅も深くうなずいた。

 新月はこれ以上のフォローが不可能であることを悟った。よほどたくさん食べたのだろう。常軌を逸するほどに。

「ま、まあそういうことやったらしゃあないな。俺もやるわ。どうせ七時からみんなやるから」

「腹減ったな……」

 返事代わりにつぶやく具志堅を見て、新月はふと疑問を感じた。具志堅はこんなに大食いだったか。

 後で聞くところによると、親戚の家に下宿してバタ西に通っている具志堅は、普段腹八分までしか食べていないという。もちろん、下宿先の叔父さん叔母さんは、どんどん食べて、と言ってくれるのだが、どうしても遠慮せずにはいられない。だからいつも、過剰に噛んで満腹中枢を満たしている。

 そういえば、学校で弁当などを食べるとき具志堅の口は良く動いている。一度新月は、そんだけ筋肉あるのに草食動物みたいやな、とからかったことがある。いま考えると少しひどかった。

 そうして平常抑えていた食欲が、「おかわり自由」という魅惑的なキーワードによって一気に開放された。

 人はそれぞれ複雑な事情を抱えている。同じ釜の飯を一週間以上食べ続けるこの合宿、そういった一面がもっと見られるかもしれない、と草をぐいっと引き抜きながら新月は予感するのだった。

 結局、監督の予定していたとおり、バタ西野球部はグラウンドの除草に午前中すべてを費やした。終わったのは昼食の予定時刻を少し過ぎた程だった。それでも監督は、早よ終わったな、と上機嫌だった。

 38人という人数は大きい。今年、こうして初めて合宿を開けるにいたったのも、ひとえに部員数が増えたからだ。昨年の部員数は、今の三年生、二年生を合わせても二十人に満たない。合宿を開催できない人数ではないが、いろいろな面で効率が悪い。

 かがめた姿勢を長時間続けたために痛めた腰をさすりつつ昼食をとった部員たちは整備したてのグラウンドへと走り、待ちかねていた(一部、早くも部屋に帰って休みたい、という顔をしていたものもいたが)練習に取り掛かった。

 ランニング、ストレッチとひとしきりのアップを終えた後、キャプテン新月の指示に従い、実戦打撃からスタートする。はっきり言って唐突なメニューだ。まずはノックあたりから体を慣らし、チームの統率を引き締めなおしていくのが定石なのだが。

 しかし彼は彼なりに考えがあった。移動に疲れ、丸一日も野球から離れているのだから、まずは比較的楽しい練習から入ったほうがええやろ、と。

 部員たちは高校から持ってきたベースを設置し、これも持参の白線引きを使ってダイヤモンドを描いていった。急造フィールドの完成だ。

 マウンドにはバタ西投手陣左の柱、二年生の柴島が登板した。

 彼のピッチングは最近周りからの評価を高めている。もともとサイド気味に腕が出るスリークォーターから放たれる変化球で左打者を打ち取ることを得意としていたが、コーナーへのコントロールを身につけて左右問わず丁寧な投球ができるようになってきた。

 トップバッターにはいきなりバタ西打線の真打ち、右打者の一年生金田貴史が登場したが、三回の打撃機会を与えられて柴島が打たれたヒットは一本だけ。

 その一本もいい当たりではなく、まだ動きのたどたどしい一年生の三遊間を抜けてのヒットだった。後の二本は胸元へのスライダーを詰まらせてのファーストフライと外角直球を引っ掛けてのセカンドゴロ。

 さすがの貴史でも、着いたばかりのトップで打つのはきついか、などとささやく部員もいたが、ここは見事にカウントを取っていった柴島をほめるべきだろう。

 実戦打撃は順調に進んでいった。全員の中で最も早くに起床し、最も草むしりに尽力した具志堅と張も、柴島の変化球に翻弄されつつそれぞれ一本ずつ安打を放った。むしろ早く起きた分、意識が他の選手よりはっきりしていたのかもしれない。

 

 ところで、もう二人の主戦投手、右投げの二年生南条と一年生八重村はいずこへ。

 彼らは監督から別個の指示を受け、山中でさらなるランニングを行っていた。監督の構想では、柴島もこのランニングに加わる予定だったのだが、そうすると実線打撃の場に張りのある投手が残らないため、マウンドに立たざるを得なかった。

 グラウンドでにぎやかな声が上がる中、二人の右投手は起伏のあるコースを黙々と走っていた。川端西高校の裏手にも小さな山があり、よくそこで下半身強化の練習が行われるが、この京都の山の勾配ははるかに厳しい。

 森の風が涼しいとは言えやはり真夏だ。昨日より気温が上がっている。二人の全身から少しずつ、少しずつ汗がにじんできた。

 実際のところ、合宿といっても練習メニューに特別な手が加えられているわけではなく、内容は本校で行っていることとほとんど変わりはない。

 あくまでもこの合宿は、長く練習に専念できる環境に身をおくことで効率を上げ、ともに生活することでチームの団結を強めていくことに主眼が置かれている。

 ただ一点、この山の地形を生かしたランニングに関しては別だ。重力が容赦なく二人の体力を蝕んでいく。

 少し緩めの坂を下り、最低地に差し掛かってきつい上り坂の前が見えたとき、八重村は突如めまいを覚えた。

「な、南条さん……!」

 尋常ではない声で呼ばれて南条は振り返る。八重村すでに距離を開けて後方に止まり、両膝に手を当て息をついていた。

「どうした?大丈夫?」

 きびすを返して八重村のほうに駆け寄る。体調を崩したのだろうか。

「す、すいません……息が切れて……」

「本当に?時間はまだ……四分の一ぐらいしかたってないぞ」

「そんなに!?……無理です。勘弁してください……」

「結構体力あると思ってたんだけどな……」

 事実、八重村のスタミナは一年生の間ではトップクラス、二年生と勝負させても多くの選手に勝るほどだった。アンダースローという体のバランスを維持するのが難しい投法を続けられるだけあって、足腰もそれなりに強かった。

「実は……昨日あんまり寝てないんすよ」

「あー……それは……」

 恐れていた事態が起きた。監督はもちろん、キャプテンの新月も昨日口うるさく警告していたのに。

 ただ、こういう事態は当然あるだろうと予測した上で、新月も部屋割りを決めていた。八重村の部屋は三人部屋、貴史、張と同室だ。

 貴史は野球にすべての行動基準を置く男だから翌日の練習のために早く寝るだろうし、張はめったにないほど律儀で従順だから監督やキャプテンの注意は素直に聞いて夜更かしはしないだろう。

 実際その通りになったのだが、キャプテン新月はそう考えて、投手としてハードな練習を課されるであろう八重村をできるだけ安らかに寝かせるため、二人の選手と同室にしたのだった。

「お前の部屋は、確か貴史と張だろ。どっちかと夜更かししてたのか?」

 少し息が落ち着いてきた八重村はかろうじて顔を上げた。

「いや……二人はさっさと寝ました。張なんかは食堂から帰ってくるなり布団に倒れこんで」

「だろうね」

「でも、なんか目がさえて眠れなくて……二人は起こしたら本気で怒るだろうし、それでほかの部屋に遊びにいったんです」

 そこまで聞けば、話の全容はわかったようなものだった。

 八重村はさらに白状する。板橋、八重村をはじめとした一年生の部屋に行ったのだという。その部屋は、騒いだものをまとめて摘発できるよう要注意人物を一堂に集めておいた部屋だった。ただ昨日は、ブレーキ役となるはずの監督とキャプテンが、慣れない統率作業に心身ともに疲れ果てて寝入ってしまい、せっかくの策略も無駄になってしまった。その部屋の一年生たちは、遊んだり話したりで夜が明けるまで目を覚ましていたという。

「修学旅行の小学生かよ……」

 南条はあきれてため息をついた。

「そういうわけなんで……すみません。引き返していいですか?」

「仕方ないな……気をつけて帰れよ」

 本当に体育会系の先輩なら問答無用でランニングを続けさせる、いやそれどころか自己管理のなさに憤って走行距離を追加しかねない場面だったが、南条はその点甘い。そういえばほかにも眠そうな一年生、いたよな、などとのんきに考えつつ八重村をグラウンドに返した。

 ついでにいうと、南条はぐっすり睡眠を取っていた。

 部屋の顔ぶれを見てみよう。具志堅、刈田はそれなりに分別があるし、南条も周りが行動を起こさない限りむやみに騒いだりはしないから、新月さえ、彼さえおとなしくしていれば何も問題はない。そしてそのキーマンの彼が素早く深い眠りに落ちたのは先述のとおりである。

 南条は不案内な山中を孤独に走る羽目になった。寂しいといえば寂しいが、豊かな自然に一人包まれている感覚というのはなかなか心地のいいものだった。

 先ほど八重村の強靭なスタミナを紹介したが、一応このチームの暫定エースとして、南条はそれ以上の体力を持っている。三年生が抜けた今、まだ正式な競争は行っていないが、部内で持久走をさせれば首位に立つだろう。南条はある程度の余裕を保ちながら起伏を順調に駆けていった。

 時おり、上方に目を向ける。やかましい鳴き声を上げるセミがところどころ張り付いている。鳥が少しだけ飛行している。それほど手入れのされていない木々の葉ずえがざわめいている。

 監督から課せられた時間の、半分を過ぎたころだっただろうか。南条は樹上に何かうごめくものを観測した。うずくまっているように見える。サルだろうか。

 いや違う、人間だ。茶色がかったTシャツを着用している。それにしても、よくあれだけ高いところに登ったものだ。5メートル、いや6メートルはあるだろうか。相当の運動能力がなければ到達できない距離だ。

 南条は感心しながらも見知らぬものにすぐ声をかけるほど社交的な男でもないため、そのまま通り過ぎようとした。

 ふと、樹上の人間が何かを落とした。南条は足を止め、とっさに拾い上げた。黒色をした革の財布だ。

「あ、悪い!ちょっとまって、すぐ行くから!」

 樹上の男はあわてて下を見て叫ぶと、するすると器用に木を降りてきた。適当な高さから飛び降りる瞬間、少し着地に失敗したのか、イタタ、と小さく声を上げて右ひざをさすった。

 メジャーリーグのチームの帽子をかぶって、Tシャツにジーパンという軽装。背格好は南条より少し大きいぐらい。というと、一般的に見れば長身の部類に属している。

「いやあ、ごめんな。ついつい景色に見とれてて」

 男は右手に双眼鏡を持っていた。気づかぬうちにポケットから財布が滑り落ちた、という様子を装っていた。

「あの、バードウォッチングでもしてたんですか?」

 南条は怪しむこともなく尋ねながら財布を差し出した。おおきに、と落し物を受け取って男は答える。

「ああ、まあそんなとこなんやけどな」

 妙なイントネーションだな、と南条は思った。おそらくこの男は関西に来てそう日がたっていない。南条は新月や角田監督という、いわばネイティブスピーカーと一年以上付き合ってるからその辺りの差異がわかる。

「途中で野球の練習が見えてな。君もそうやろう?川端西高校の」

「は、はい」

 返事をしながら内心南条は驚いていた。何で川端西高校という東日本の、全国的にも名を知られていないであろうチームをすぐに判別してしまったのだろうか。

 男はその驚きを察した。

「実はな、俺、高校野球のめっちゃファンやねん」

「あ、そうなんですか」

「君はサードの南条君やな。今年のセンバツでよく打ってたな。二試合やったかな、ピッチャーとしても投げたやろ?あの土方っていうやたらでかい投手の後で」

「すごいですね。よくそんなに……」

 すらすらと出てくる男の高校野球知識に、南条はただただ息をのむ他なかった。そこには南条自身が高校球児のくせに高校野球のチーム状況についてさっぱり知らない、という情けない事情も加味されていた。

「で、南条君は今、どこのポジションやってんの?」

 男はシャツのすそで双眼鏡のレンズを拭きつつ尋ねる。

「今は……まだレギュラーかどうかは決まってないんですけど、ピッチャーです」

「おっ、ピッチャーか。あの土方は確か三年生だったから……ってことは何、エース?」

「うーん……このまま順調に行けば、ですけどね」

「いやいや、南条君だったらいけるやろ。俺もそんなに詳しいわけじゃないし、ほかの二年生にどれだけいい投手がいるか知らんから無責任なことは言えないけどな。あ、確か柴島、ってピッチャーもいたよな。楠葉丘高校相手に投げてた。まあ春の時点では、俺の目から見たら南条君のほうが上だったから。球も速いし、コントロールは同じぐらいだったかな、変化球も……君はフォークが使えるから、きちんとストレートを磨けば……」

 延々としゃべり続ける男に対して、きわめて鈍感な南条もさすがに恐怖のようなものを覚え始めていた。柴島の存在まで覚えているとは。

 さらに南条の球種も記憶している。この男はもしかしたらこの調子で、選抜で出場したバタ西の選手全員の能力を知っているのではないか。

 戦慄して黙りこんでしまった南条を見て、男は言葉を止めた。

「あ、ごめん。ついつい……俺、野球のことになると止まらないねんな」

「いえ……あの、野球をやってるんですか?」

「うん。やるほうもかなり好きやで。とにかく野球は最高。もう野球があったら他のものはいらんな、俺にとっては」

 相変わらずイントネーションのおかしい関西弁でそう語る男の目は輝いていた。

 おそらく、どこかの草野球チームにでも属しているのだろう。これだけの体格、しかもあの高さの木に上るだけの運動神経を持ち合わせているのだから、相当に活躍している選手だと思われる。

「あっと。今ランニング中やってんやろ?」

「……そういえば!」

 南条はあわてて腕時計に視線を落とした。もう十分近くたっている。

「ごめんな、邪魔して。また、双眼鏡で見さしてもらっとくわ」

「あれですね、なんならグラウンドまで直接見に来ませんか?」

「おっ、ええな……いや、やっぱやめとく。遠いし」

 確かにここからグラウンドまでの距離は遠い。いくらなんでも、この人を一緒に走らせるのはまずいだろう。

 失礼します、となぜか一礼して南条は奇妙な野球ファンの元から去った。少しペースをあげないとまずい。八重村は途中でへばったし、自分まで遅れては監督のカミナリが落ちるかもしれない。

「なるほど、おもしろそうなピッチャーだな……」

 男は怪しげな笑みを浮かべながら、ポケットから取り出したメモ帳になにやら書き付けていった。

 

 一風変わった邂逅のあったランニングから南条が帰ってくると、急造フィールドのホームベース付近に部員たちが集まっていた。その前には、例のごとく神妙な顔をした監督が立っていた。

 また、何か急な発表がある。南条はランニングをダッシュに変え、ホームベースに走り寄った。

「……そういうことで、練習試合の相手は……」

「すみません、遅れました!」

 監督の恭しい口調に部員全員がごくりと溜飲を下げる中に南条は駆けいった。

「……あ、南条。遅かったな」

 告知はいったん途切れた。気勢をそがれた監督と部員はなんとなくばつが悪そうに南条のほうを見た。南条は思わず周りに聞く。

「え、、何、これ?なんか発表されるの?」

「あのな……また一から説明せなならんな……」

 監督は少しうんざりした様子で咳払いをひとつし、話していった。

「合宿の発表するとき、京都ならではのスペシャル企画がある、っていってたやろ。覚えてるか?」

「……え、ええ。はい」

「忘れてたやろ」

 監督がすかさず指摘する。一年以上も選手を見ていると反応一つでそれくらいのことは読めてしまうらしい。

「ま、そういうわけで、そのスペシャル企画ってなんや、っちゅうことや。先に答えから言えば、練習試合をやるんやけどな。その相手をこれから言おうとしてたところ」

 一通りの説明を終えると、監督は改めて姿勢を正した。自然、部員たちの背筋も伸びる。

「じゃ、言うで。練習試合の相手は、七条高校や」

 荒れ果てた校舎に見下ろされたグラウンドが、一瞬にして静寂に包まれた。

 七条高校。

 ごく一部の者を除いて、いやそのごく一部の者さえ、この名前を知らないわけではない。

 昨年の夏の甲子園、そして今年の春の甲子園の優勝校。その中心にいるのが、現在二年生になる右腕エース、大河内臥龍。怪我のため今年の夏の甲子園には出場していないとはいえ、現在の高校球界において最高の投手である事は間違いない。

「日時は今から五日後。今回はそんなにギリギリちゃうから安心やな。まだ100%ではないけど大河内の怪我はある程度直ったから登板させる、って相手方の監督さんが言うてはったわ。楽しみやな。でも大河内も復帰後初登板ってことでそれなりに真剣に来るやろから」

「いつでも真剣だよ、あの投手は……」

 部員たちの中で、監督に聞こえないようにつぶやいた者がいた。大河内はどんな相手にも全力で挑んでくる。地方大会の一回戦だろうと、甲子園の決勝戦だろうと、MAX150km/hの豪速球を投げ込みつづける。

「もちろん大河内のピッチングを見るのは楽しみやけど、ミーハー気分で試合に臨もう、なんてヤツは許さんで。あくまでも勝負しにいくんや、自分らの力を出し切ってこい!」

「……はい!」

 なぜ角田監督は合宿地を京都に選んだのか。部員たちの中に募っていた疑問がするりと解けた。

 真紅の優勝旗を手にするための前哨戦、というのは言い過ぎだろうか。とにかく重要な試合であることは確かだ。

 その夜から、就寝時間を越えて目を覚ます部員は一人としていなくなった。

 

 

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