行路

 

 川端西高校野球部のメンバーはバスに乗り、京都市内に向かう電車の駅に向かっていた。

 8月27日。夏春連覇の押しも押されぬ強豪、七条高校との練習試合当日である。

 この取り組みが発表されてからの5日間、前半は基礎的な練習、後半は実践的な練習を通して、部員たちはコンディションを調整していった。昨日には紅白戦も行った。紅組は右腕の南条、白組は左腕の柴島を先発させ、緊迫した試合を繰り広げた。

 一応結果を書いておくと、4−3で紅組の勝利。6回までは白組が2−3とリードを取っていたが、7回に継投した八重村から紅組四番の金田貴史がホームランを放ち、決勝打となった。

 部員たちは思い思いの格好でバスに揺られ、対戦前のひと時を過ごしていた。スタメン出場を告げられ緊張した面持ちで身をかがめるもの、外を流れる地元とは異なる景色に目を遊ばせるもの、他愛ない会話を続け時間をつぶしているもの。

 その中で一人、こなれた手つきで針と糸を操り作業に取り掛かっている部員がいた。

「……よし、終わった」

 一年生の板橋は最後の一針を通すと小声でつぶやいた。糸の端を結び、手にしていたユニフォームを広げて二、三度はたいてから手渡した。

「お、サンキュー。やっぱお前、器用だよな」

 受け取ったのはこれも一年生の八重村。こちらの感謝の声もごくごく小さい。

「ああ、疲れた。もう着く?」

「もうちょっとだろ。たぶん。ま、これで最後だし」

「これ以上頼まれても絶対やらないからな」

 板橋は右手を軽く振って手首の疲れをほぐした。

 普段の練習の際、バタ西の選手たちは背番号をつけていない。選手たちにようやく背番号が与えられるのは大会の一週間前になってからだ。これはギリギリまで選手たちを競争させようという角田監督の方針で、部員たちも今ではこのやり方にある程度なれている。

 面倒が生じるのはこうした急場の練習試合のときだ。選手たちは急いで、即席のゼッケンをユニフォームの背面に縫い付けなければならない。

 新島県の甲子園常連校、陽陵学園など何度も練習試合を組んでいる相手ならばバタ西の選手についてよく知っているからそれほど問題はないのだが、さすがに初対戦のチームに背中の白いユニフォームで挑むわけにはいかない。選手の見分けがつかずに混乱してしまう危険がある。

 そういうわけで監督は、昨日の紅白戦の後即席の背番号を発表した際、宿舎に帰った後すぐに背番号を縫い付けるよう指示していた。ありがたいことに、裁縫セットは監督が用意していて各自に渡しておいた。

 しかし、一年生のうち数人はその言い付けを実行しなかった。具体的に言うと、張、八重村、道岡、倉西という四人だ。彼らとしてはいろいろと言い分もあるのだが、要は細かい裁縫が面倒なので先延ばしにしているうちに、なんとなく寝てしまったというのが主な理由だ。

 一年生たちは今日の朝こっぴどくしかられ、すぐに裁縫をするよう監督から怒鳴りつけられたものの、準備や練習があるためにすぐには作業に取り掛かれなかった。こうしてまたもや厄介ごとを先延ばしにしているうちに出発の時間が来てしまい、結局バスの中で裁縫をしなくてはならない羽目になった。

 とはいえ、中学校、あるいは小学校の家庭科の授業以来まともに針を握ったことのない彼らがすぐに裁縫をこなせるはずもない。揺れるバスの中では糸を通すことすらままならない。この窮地に助けを求められたのが板橋というわけだ。

 彼は昨日、驚異的な速さで自分のユニフォームに背番号を縫い付けていた。それをたまたま目にしていた八重村が板橋に泣きつくと、とたんに他の三人もユニフォームを押し付けた。監督に見つからないよう、できるだけ静かに。

「なんで昨日のうちにやっとかないんだよ。監督があれだけ言ってたのに」

 無駄とは知りながらも、板橋は今日何度目かの愚痴をこぼさずにはいられなかった。

「いやあ、ごめんごめん。いっつもこういうのって親に任せてるから」

 深く頭を下げ、手まで合わせて八重村は言い訳した。

「ほかの人だって似たようなもんだろ。それでも頑張ってやってたんだから……」

「いや、本当にごめんって。後でなんかおごるからさ、な」

 四人もいるんだから、とんでもないものを請求してやろう。板橋はひそかに決意した。

 板橋の父親は工芸品の職人をやっている。それが遺伝した、わけではないだろうが、彼はきわめて手先が器用だ。それだけでなく、あらゆることに対して適応するのが非常に早い。

 また彼は、どこのグループにでもたいてい一人はいる、いわゆる「断れない人」だ。誰かに何かを頼まれると、ぶつぶつ文句を言いながらも最後には引き受けてしまう。

 そうこうしているうちに、一行の乗ったバスはJRの駅に到着した。ここに来たときと同じく点呼を取って電車に乗り換え、京都市内へ向かう。JRの京都駅からは地下鉄と私鉄を利用して移動することになっている。

 30人を超える大所帯、JRの駅なら何とかなるものの、地下鉄にもぐりこめばかなり窮屈だ。部員たちはキャプテン新月の班と副キャプテン刈田の班に分かれ行動することになった。

 新月の班で早速問題が起こった。ある一年生が、改札口を通り駅の階段を降りきったあと切符をなくしたことに気づいたという。

「……なんや、そんなことか」

 それぐらいでいちいち大げさにさわぐなや、と普段の新月なら言いかねない場面だったが、ここはキャプテンという立場上ぐっとこらえる。

「あとで駅ついてから駅員さんに切符失くした、って謝って金払うたらええやろ」

「それもそうですね。え、でもここの地下鉄は自動改札では……」

「一番端におったやん、駅員さん。あんまり都会に出たことないんか?」

「あ、新月、ちょっとトイレいってくる」

 新月が少し苛立ちながら一年生に対処している間、後ろから誰かの声がした。新月は振り向きもせずに、おう、とだけ答えて、そのまま対処を続けた。

 しばらく、そうして階段のふもとでしどろもどろしていると、ホームのほうから声が飛んできた。

「おーい、新月!もう電車出るぞ!」

「うそっ!?」

 ややキーの高い刈田の声の直後に、ホームのスピーカーがアナウンスを始めた。新月はあわてた。よく考えれば一本ぐらい乗り過ごしても時間のロスはそう大きくないのだが、とにかく遅れる、という焦りだけが先行した。

「おい、急げ!走るで!」

 新月を先頭として班のメンバーたちはいっせいに、今にも閉まろうとする電車のドアに突撃していった。人数を分けたといっても体育会系の高校生が十数人。構内に一瞬、豪快な地響きが鳴り渡った。

 ひとまず階段の下にいたものは全員乗車することができた。

「……よし、とりあえず乗り遅れはないな」

 閉まったドアの内側と外側を確認して、新月はほっと息をついた。トイレに向かった一人の部員のことなど思考のどこにも残されていなかった。

 

「なんだ、騒がしいな?」

 ホームのほうで起こった大量の足音を聞き、怪訝な顔をしてズボンのチャックを閉めたのは南条だった。

 彼にはどうも、緊張感というものが致命的に欠けているようだ。のんびりとハンカチで手を拭きながらトイレを出て、階段を下りていく。

 ホームに足を踏み出すと、さすがの南条でも異変に気づいた。

 部員が、いない。あれだけの人数で移動しているのだからすぐにわかる。

「あれ、みんな……?」

 右、左と首を向けて確認するが、知り合いは一人も見当たらない。もしかしたら一人ぐらいは待っててくれているかも、という期待もむなしく、南条は異郷に一人で取り残された。

「ど、どうしよう……」

 狼狽がひとりでに口をつく。

 目的地の七条高校は私鉄の駅からすぐのところにあるらしい。うまく乗り継いでいけば単独で到着することも不可能ではない。しかしこんな事態になるとは思いもしなかったから、南条は目的の駅や乗り換えの駅の名前をまったく覚えていない。

 きょろきょろと視線を泳がせているうちに、電車がもう一本ホームを滑り出していった。このままではいくらでも遅れてしまう。とりあえず、監督に電話したほうがいいだろう。

 すっかりあおざめて公衆電話を探そうとあたりを見渡したとき、南条は突然声をかけられた。

「おっす、南条君」

 声の主に目を向けると、合宿二日目に山中で出会った男だった。今日もメジャーリーグの野球帽をかぶっている。

「あっ、どうも……えーと……」

 名前を呼ぼうとしたとき、南条は初めて気づいた。そういえばこの人の名前を聞いていないが、今はどうでもいい。この人ならたぶん、ここの地理についてもある程度知っているに違いない。

「ん、どうしたん?」

「あの、いまちょっと七条高校のほうに向かってるんですけど、チームのやつとはぐれてしまったんです。どこの駅か知りませんか?」

「ああ、七条高校か。知ってるよ。というか、俺も今からその辺に向かうところやし」

「え!?そうなんですか」

 面白い偶然もあるものだ。まさかこんなところで、あの辺鄙な山中で一度会っただけの人に遭遇し、その上行き先まで同じだとは。

「うん、まあな……ま、当たり前っちゃ当たり前やけど」

「はい?」

「いやいや、なんでもない。そういうことだったら一緒に行こや」

「あ、ありがとうございます!」

 これでとりあえず、遅れることなく目的地に到着できる。もし携帯電話を持っていたら貸してもらって監督に連絡しよう。南条は孤独から救われた安堵のために、疑うことをすっかり忘れてしまった。

 川端西高校の、これでも一応エースの南条は、そのまま男の名を聞くこともなく七条高校へと向かっていった。

 

 ところで、バタ西一行が南条の不在に気づいたのは地下鉄を降り、私鉄に乗り換えてからだった。ある二年生からハプニングを知らされた新月はようやく思い出した。あの時トイレに行くといっていた声は南条のものだった。

 急いで刈田班のほうに向かい確認させるが、いない。

 困った。これはまずい。一気に跳ね上る動悸を抑えながら、新月はおずおずと監督に報告した。

「何やて!?」

「いや、あの……南条が、その、いないんです」

「ドアホッ!!」

 周りの乗客が一斉に振り向くのもかまわずに、角田監督は新月を一喝した。

「大人数の移動やから気をつけろ、ってあれほど言うたやろ!」

「す、すみません!」

 新月は一言も弁解できずにただうなだれる。乗客の視線がいっそう集まるのを感じて、監督は声を瞬時に落とした。

「まあ、起こってしまったことやからしゃあない。これからの対策を考えよう。ワシの連絡先はしっとるよな?」

「はい。全員に伝えてあります」

「じゃあ、いくらあいつでも連絡ぐらいしてくるやろ。……いや、ちょっと待て、あいつが遅れたんはどこからや?」

「えっと、たぶん最初に地下鉄に乗った駅です」

「そやったら、もうとっくに連絡が来てるはずやろ。ほんまに知らせてあるんか?」

 目が再び鋭くなり、瞬発的な怒りがぶりかえしそうになった時、監督のポケットが振動した。

「あ、たぶん南条ちゃうか」

 携帯電話を取り出し通話を始めると、果たして南条の声が届いた。

「もしもし、角田監督ですか」

 本人としては真剣なのだがどこか抜けた感のある南条の口調を聞いていると、監督はわけもなく内から怒りが込みあがってくるのを感じたが、何とか静める。

「ああ、南条か。話は新月から聞いとる」

「すみません。本当に……」

「いまどこおるんや?」

「地下鉄を乗り換えるところです」

「お前言うとくけどな、試合の開始時刻30分前に間に合んかったら投げささへんぞ」

「……えっ!」

 南条は今日の練習試合で背番号1を与えられていた。つまり先発投手の予定だ。

「当たり前や。普段の大会の時を考えてみい。そりゃあ、頼み込んだら向こうの監督さんも何とか許してくれるかも知れんけどな、ワシは融通きかさんで。自業自得や」

「そ、そんな……」

「ええな。行き方はわかるか?」

「はい。あの一応……」

 七条高校の場所を知っている人につれてもらっているので、という暇もなく、監督は言葉を継いだ。

「じゃあ早よ来いよ。もっとシャキっとせえ!」

 電源ボタンを強めに押して監督は電話を切った。手にしていたのが固定電話の受話器ならば乱暴にたたきつけているところだ。

 本来、角田監督はもっと寛大で楽天的な人柄なのだが、今日は初めての遠征、合宿という特殊な状況と、七条高校という強豪を相手にする重圧から気が立っている。

 そんな監督の全身から発せられる張り詰めたオーラに気おされながら、新月はおそるおそるたずねた。

「あの、南条を投げささへんって……それで試合いけるんですか?」

「いけるとかいけへんとかいう問題ちゃうわ。自己管理がなってない。」

「いや、それはそうですけど……」

 新月はその言葉にグウの音も出ず引き下がった、その後ろから、監督はポツリとつぶやいた。

「それに、別に戦えんこともないやろ。今の南条は他の投手に比べて圧倒的な力を持っている、ってわけでもないからな」

 勢いに任せて監督はつい本音を漏らしてしまった。神経を逆立てたその時の監督は本音の持つ重みに気がつかなかった。

 

 一行は駅を降り、歩いて十分ちょっとで七条高校に到着した。門のそばで出迎えたのは監督一人と部員が三人。あとの部員たちは今、グラウンドで調整を行っているのだという。

 七条高校の監督は久御山(くみやま)監督という。年齢は四十代前半、つまり角田監督と同じぐらいだが、白髪がない分外見は若い。

 細い眼の端が少し下がっていて、本人は何も意識していなくてもかすかに笑っているように見える。この、言うならば人の良さそうなおっちゃんが、就任七年で無名の私立高校を夏春連覇まで導いた、と初対面の人がそう言われてもにわかには信じがたいだろう。

「いやあ、遠路はるばるご苦労様です」

「いえいえ、こっちこそ忙しい中時間を割いていただいて。ほんまにありがとうございます」

「では、グラウンドのほうへ案内しますんで。こちらへどうぞ」

 通り一遍の挨拶を交わしたあと、久御山監督と七条高校の野球部員はバタ西一行を先導し始めた。なぜか、七条の部員のうち一人は不安そうな顔をして門のそばに残っていた。

「キンッ!」

 校舎のゲートをくぐり先頭の角田監督がグラウンドに出た瞬間、軽快な打球音が鳴った。監督と部員たちは反射的に打球の行方を追う。

 白球は見事な放物線を描いて……

「すんません!どいてください!」

 ライトを守っていた野球部員が叫ぶと、あたりの人間が空を見てさっと飛びのいた。打球の落下地点のすぐそばには、バスケットのゴールが設置されていた。

「今日もよう飛ばすなあ、柴(しば)は」

 腕組みをして感心する七条の久御山監督の後ろで、バタ西のメンバーたちはしばらく呆然と立ち尽くしていた。

「あの……いっつも他の部と共同でやってはるんですか?」

 初めに口を開いたのは角田監督だった。甲子園で優勝するほどのチームがこんな環境で練習しているとは。

「まあ、ええ。うちはあんまり予算が無いんで。もちろん、この後の練習試合では貸切でやらせてもらいますよ」

「あ、ああ。それは恐縮です」

「やっぱり、一回優勝すると学校の態度も変わりますわね。昔はこんなに広う使わせてもらえなかったんですよ。うちはサッカー部もそこそこ強いですから」

 久御山監督はレフトの方角に目を向けた。球場ならばレフトポールがある位置より奥に、ゴールポストが設置してあった。七条高校のサッカー部は府大会で何度も上位に入り、一度全国に出場したことがあるという。

「でも、普段練習してて危なないですか?」

「いや、ちょっとは余裕を持たせてありますから。たまーにアホみたいに飛ばしよるやつもおって、そんときは危険ですけどね。いま打ってる柴ってやつがそうなんですけど」

 バッターボックスでは、柴と呼ばれた選手がセンター前に鋭い当たりを放っていた。監督はじめ、ほとんどのバタ西部員たちはその名に聞き覚えがあった。

 柴雅司(しば・まさし)。2004年夏の甲子園では二番、2005年春の甲子園では四番を一年生ながら勤めた強打者だ。特に春には打率6割台、ホームラン三本と爆発し、エースの大河内と共に大車輪としての活躍を見せた。

「今日も出す予定なんで。よろしくお願いしますね」

「え、ええ。はい」

 にこやかに一礼された角田監督は、後ろのバタ西部員たちをちらり振り返った。思った通り、圧倒されている。

 角田監督は頭の隅で考えた。

 もしかしたらこの久御山監督はわざと、柴の打撃練習をバタ西一行の到着にあわせてきたのではないか。だとしたらこの監督、なかなか食えない。角田監督は早くも、栄えある優勝校の力を垣間見た気がした。

 

 そのとき南条は走っていた。野球帽をかぶって付き添ってくれている地元の男も走っていた。なんと南条の荷物の一部まで持ってくれている。

「あと、3分……!着きますか!」

 太陽がギラギラと照りつけている。びっしりと汗を掻きながら、南条は必死の思いで尋ねた。

「うん。このペースやったら、十分間に合う」

 男も汗を大量に掻いていたが、南条同様、いやもしかしたらそれ以上に息が切れていなかった。

「この角、左に曲がったら、あとまっすぐ行くだけ」

 男の指示を聞いて、南条は少し速度を落として左折した。グラブやらスパイクやら着替えやらを入れたバッグが肩にひしひしと食い込む。それでも音を上げるわけには行かない。

 一分もたたないうちに、男の言ったとおり七条高校の正門に着いた。門柱のそばには七条高校のユニフォームを着た小柄な男が立っていた。

「すみません、川端西高校の野球、部員なんですけど」

 おかしな息継ぎをしながら南条は自分の身元を明かした。小柄な男はすぐに了解した。

「あ、はい。練習試合ですね。えーと……ん?」

 突然、小柄な男は南条の後ろにいる付き添いの男に驚きの目を向けた。付き添いの男は南条のバットケースをかけた右手を、よう、と振り上げた。

「が、臥龍さん!なにやってたんですか!?」

 臥龍(がりょう)、という名前を聞いて、この南条もようやく男の正体に感づいた。改めて男の顔を覗き込んで、自分の記憶をたぐり寄せる。

 確かに見たことがある。

 この男は七条高校のエース大河内臥龍だ。

「ああ、ごめんな伏見。ちょっと偵察に行ってて」

「ちょっと、じゃないっすよ。みんな心配してましたよ、まだ病み上がりなのに……」

「だからもう大丈夫やって。何回も言ってるやろ、な」

「あの、それより……」

 慣れた口調で話す二人の間に南条は入り込んだ。

「あなた、大河内……さんですか?」

 同学年と分かったのに、なぜかすぐには敬語が抜けなかった。この男がそれほど華々しい実績と能力を持っていることは、野球知識に著しくうとい南条でも十分知っていた。

「うん?そうやで。そういえばまだ自己紹介してなかったな!ごめんごめん。大河内って言います。ここの高校の野球部員で、まあ多分今日の試合では投げるからよろしく」

 大河内はニカっと笑って手を差し伸べた。

「よ、よろしく」

 すっかり混乱した頭で、南条も手を差し出し、二人はがっちりと握手した。ここに一つ、異例の友情が生まれた……のかもしれない。

 

 南条と大河内、それに伏見という一年生の野球部員は二人の出会いの奇妙さを笑いながらグラウンドへ向かった。

「いやでも、何で大河内君ほどのピッチャーが俺なんかの事を知ってたんだ?」

 この謎は、男の正体が大河内と分かった瞬間からさらに深まっていた。ただの高校野球マニアならまだしもわかるのだが。

「うーん、なんでって……覚えたから、としか言いようがない。さすがに他地区の予選までは見てられないけど、俺と当たる可能性がある選手で甲子園に出た選手は大体全部チェックしてる」

「へえ……」

「すごいでしょう、臥龍さん。うちの部員の成績なんかも、聞いたら全部覚えてるんですよ」

 横から一年生の伏見も大河内の記憶力を褒め称えた。大河内は照れながら、お前はキャッチャーなんだからもっと勉強しろ、と伏見を小突いた。

「でもさ、そういうその、選手とかを覚えることって大体、マネージャーの人とかスコアラーの人がやるんじゃない?」

 南条は至極当然の疑問をぶつけた。実はバタ西にも、藤谷さんという偉大な特例がいたのだが、ひたすらに感動していたそのときの南条には思い浮かばなかった。

「あのな」

 大河内はいきなり真剣な目つきをして南条の方に顔を向けた。

「よく漫画とか小説に出てくる強そうで憎たらしいライバルって、たいてい主人公のことを『お前なんか知らない』って言って、後であっさりやられるやんな。まさかそんなワザがあったとは、とか言って。一回、その主人公の試合とか練習を見たことあっても知らない言うけど、あれってバカじゃない?」

「出た、臥龍理論」

 笑いをこらえる伏見の横槍を無視して、大河内はさらに続けた。

「自分がこれから戦うかもしれない相手のことについて、知ってたほうが有利に決まってるやろ?投げ方打ち方とか、球種とかクセとかって、ちょっと調べて覚えればすむことなんだから覚えたらええやん?」

 サバサバと話す大河内の横顔に、南条はふと底知れない恐ろしさを感じた。

 この大河内は、ただ球が速いとか、ただコントロールがいいとか、それだけの投手じゃない。なにかもっと、得体の知れない力を持っている。

 大河内が独自の理論を披露し終わったころ、三人は七条高校のグラウンドに出た。バタ西の選手たちが調整のためのノックを行っていた。

 南条はふと気づいて角田監督の元に走りよった。当然ひどく怒られた。

 もう試合開始25分前になっていたが、32分前に門には着いていたので、大河内と久御山監督の説得もありなんとか投げさせてもらえることになった。

 両先発の南条と大河内が軽く投球練習を行った後、グラウンドから野球部以外の生徒が立ち退き、試合の体制が整えられた。白線が引かれ、外野にはフェンス代わりのネットが張られていく。

 先攻は川端西高校、後攻は七条高校。両者がホームをはさんで整列し、挨拶をすると、背番号1をつけた大河内は喜々とした表情でマウンドに走っていった。

 キャッチャーの一年生伏見が座ったのを確認すると、ゆったり大きく振りかぶり、しなやかに、力強く投げ込む。練習の時点ではそれほどスピードを上げてこない。

 川端西高校の先頭打者は、ショート新月。

 8月27日、午前12時。

 春から取り組んでいた両打ちをやめ、完全に左打ちに転向した熱いキャプテンが気合十分にバッターボックスへと歩んでいった。

 

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