怪物

 

 南条はこの日二つ目の四球を出した。四回の裏、ノーアウトでランナー一塁となったが、見知らぬマウンドに慣れ始めた南条は動じなかった。

 カーブをきっちりと低めに投げ、打者の打ち気を誘う。思わず出したバットから放たれた打球の行方はショート新月の少し横。

 新月は難なく捕球し、一塁に送球。間一髪のタイミングだったが、一塁ランナーは来塁できなかった。ダブルプレーで2アウトランナーなし。

「よっしゃ! ええ動きや!」

 ベンチからバタ西の角田監督が叫ぶ。

「やっぱりあいつも成長しとるなあ。取ってから投げるまでがだいぶ速よなった」

「ずいぶん努力はしてるみたいですからね」

 本人としては悪気がないのだが、監督の傍らでどこか冷たい響きのある論評を加えたのはマネージャーの水本沙織だ。そういう性格だといってしまえばそれまでだ。しかしムダに熱血をたぎらせる新月とどうもウマが合わない、というのが彼女にこういう返答をさせる一因なのだろう。

「なんや、つれないなあ。まあええわ。ところで南条の球数はどれくらいになってる?」

「62球です」

 ノートを開くこともなく沙織は即答した。半年もマネージャーを努めていると監督が質問してくる事項はすぐに引き出せるようにしているようだ。

「そうか……ちょこちょこランナーも出しとるし、そんなもんやろな」

「でも、イニングが進むたびにストライクの割合が高くなってます」

 さすがに今度はノートに目を落としながら沙織は分析した。

「うん、それはええ傾向や」

「この調子だったら、このスコアのまま最後まで投げられそうですね」

「うん……いや、どうやろ。球は見られとるし、タイミングも合わされとるからな」

 ガシャン、と低いバックネットに硬球の当たる音がした。七条の八番打者が真後ろにファールを打ったようだ。

「南条さんほどのピッチャーでも、全国レベルの打者には捕まえられるんですね」

 沙織は少し悔しそうにつぶやいた。手元のスピードガンを見る。今の球速は134キロ。高校野球では快速球といえるレベルの球だ。それでも七条の打者たちは、南条のボールに怯える様子をまったく見せない。

「最近の打者のレベルは高いからなあ。バッティングマシーンも昔に比べればずっと良くなっとるし」

 グラウンドでは見られないが、七条高校ともなれば相当性能のいいマシーンを持っていることだろう。選手たちはマシーンから放たれる140キロ台の速球を日々打ち込んでいるに違いない。

「正直、南条さんってどれぐらいの投手なんですか?」

「なんやて?」

「いえ、全国の基準で見れば、どれぐらいの位置にいるのかなって……」

 沙織は良く考えずにたずねたらしい。少し口ごもって語尾を濁した。

「そやな」

 グラウンドの南条の五球目を見届けてから、監督は答えた。

「本人の調子がよっぽど悪くなくて、天気が雨やなくて、守備がアホなことせんで、打線が相手のピッチャーをそこそこに捉えてて、チームが団結してれば優勝も夢じゃない、ってとこやろ」

「はあ……」

 釈然としない顔をして沙織は監督を見上げた。こんなどっちつかずの答えが返ってくれば、誰でもそんな反応を見せるだろうが。

「でも、高校野球ってそんなもんやで」

「え?」

「いや、決して高校野球をなめて言ってるんやなくてな。もちろん絶対的なエースがいるってことはかなり重要なことで、層の薄い地方やったらそれだけでも優勝できたりする。でもな、全国レベルになるとただピッチャーがええだけでは勝ち進まれへん。大抵はな。グラウンドに出てる選手も出てない選手もフルに力を発揮したチームがトップに立てる。甲子園はそういうところや、ってワシは思うねんけどな」

「……そうですね」

 沙織は今まで見てきたバタ西の、そして他チームの勝利を思い起こした。監督の言うとおりだった。それでも沙織は、どこか納得いかない表情を崩さなかった。

「ただな、何にでも例外ってものはある」

 グラウンドでは八番打者がレフトフライに倒れ、四回の裏が終わっていた。バタ西のナインがベンチに走り帰ってくる。監督は少し声を落とした。

「たまーにやけど、そいつ一人さえおればだいたいの試合は勝ち進める、って投手が現れる。大河内は間違いなく、そういう怪物の一人やろ。それでこれだけのナインがついとるもんやから、普通は手がつけられんわな」

 沙織は黙り込んだ。監督の言葉に反論の余地はまったくない。

 確かに南条さんは怪物じゃないかもしれない。でも……

 

 五回表のマウンドに怪物がゆったりと登っていく。新島から来た挑戦者を軽やかに蹴散らすために。

 四番ファースト具志堅、セカンドゴロ。五番ピッチャー南条、空振り三振。六番キャッチャー後藤、キャッチャーフライ。

 試合が半ばを過ぎてもなお、バタ西の打撃陣は大河内の手のひらから逃れられない。バットが空を切る確率は低くなったものの、何とか当てるのが精一杯だ。

 最高球速は145キロを記録していた。バタ西の選手たちを攻めるのは酷だろうが、これが大河内にとって復帰後初のマウンドだということを、くれぐれも忘れてはいけない。

 その回の裏、南条は七条打線を三者凡退に討ち取った。

 スコアはいまだ動かず0−1。まぎれもなく善戦している。

 これで一本ヒットさえ出れば、監督をはじめバタ西の皆がそう願った六回表、一人の小兵がようやく怪物に一矢報いた。

 1アウトランナーなし、カウント1−1。バッターは八番センター、右打者の板橋。

 もともとグリップを大きく余してバットを握る板橋だったが、この打席ではさらにバットを短く持って大河内に対峙した。そして三球目、板橋は内角の、少し甘めに入ったストレートを無我夢中で叩いた。

「キンッ」

 火を噴くような当たり、とまではいかないが、軽快な打球が大河内のスパイクの真横を抜けていった。セカンドが手を伸ばすも追いつかない。

 板橋は自分でも何が起こったかよくわからず、とりあえず一塁を駆け抜けた。やっと自分の安打に気づいたのは横に広がった審判の両腕を見たときだった。

 バタ西のベンチからは大げさすぎるほどの歓声が沸き起こった。

「ええぞ!ようやった!」

「マジかよ……あいつが初ヒットか……」

 中にはそんな声を漏らすものもいたが、とにもかくにもランナー一塁。

 ここで角田監督が珍しく動いた。高校野球においては異例のことだが、角田監督はほとんどサインを出さない。試合の中での動きは選手たちの準備と判断に任せていて、自ら動くのは明らかに必要な送りバントなど考えるまでもない作戦を出すときや、選手交代のときだけだ。

 角田監督は盗塁のサインを出した。板橋の俊足を信頼しているからこそ取れる作戦だ。一方には、九番打者の刈田が大河内の球を送りバントできるかどうか疑問が残る、という事情もあるのだが。

 右打席の刈田もまたサインを受けて、バントの構えをとったり外したりしてかく乱に出た。

 カウント2−1と追い込まれての第四球目。大河内が完成されたクイックモーションを始動させると同時に、板橋がスタートを切った。

 大河内の放った直球は外角高めのボールゾーンに届いた。つられて振った刈田がアウトを取られる。

 そのまま七条のキャッチャーが正確に送球。チーム二番目の足を持つ板橋とはいえ、ここまで完璧に読まれてしまっては間に合わない。

 バタ西の陽動作戦はあえなく三振ゲッツーに終わり、六回の表も無得点。

「ちくしょう、どうせえっちゅうねん……」

 六回裏の守備に向けレギュラーたちが引き払ったベンチで、監督はいまいましくはき捨てた。

 球速、スタミナ、コントロール、変化球に加え、フィールディング、そしてランナーへの対処も一流。噂に聞いている以上だ。大河内に死角はない。死角はないが、それであきらめてしまってはわざわざ戦う意味もない。テレビの画面を指くわえてみているのと何も変わらないではないか。

 力には力で当たるしかない、しばらく悩んだ末、監督はそう思い至った。残念ながら、大河内に技術で対抗できる選手は、今のバタ西にはひとりしかいない。その一人に何とかつなげたい。

 力……力……

 心の中でつぶやいてベンチのメンバーを見渡す。

「……力!」

 監督は突然丸い男に向かって指をさし、そう口に出した。指名された男、一年生の張は体をビクッと跳ね上がらせて監督の方に顔を向けた。

「……は、はい?」

「じゃなかった、すまん。張、次の回に出すぞ。後藤の代打や。ええな?」

「え……あ、はい! 頑張りまッス!」

 今ベンチにいる選手で一番打球に飛距離があるのはこの張だ。どっしりした胴体に太い腕。まだ腰の回転など改善すべきところはあるが、監督はいったん目をつぶった。

 実際、張を出したところで大河内の球にかするかどうかすらわからない。むしろ当てるだけならレギュラー二番打者の後藤のほうがはるかにうまいだろう。だが、それではいつまでたっても大河内を揺るがすことはできない。こうした閉塞的な状況では、たとえ低い確率でも、間違いが起こりうる選手が必要なのだ。

 張本人にとってはそんな監督の思惑は関係ない。入部テストで驚異的な肩の強さとパンチ力を見せた張だったが、まともな試合で出場するのは今回が初めてだ。張は気がつくとバットを手に持ち、ベンチの後ろで重い素振りを一つしていた。

「うりゃっ!」

「カキンッ!」

「……え?」

 張のスイングと同時に金属音が鳴り渡った。

 南条が打たれたのだ。迎えたバッターは……三番ピッチャー大河内。

 グラウンドの面々が視線を上げる。ネクストバッターズサークルでひざをつく打者だけは、結果を確信してうつむいたままだった。

 白球は飛空し続け、外野フェンス代わりのネットの向こうに落ちた。

 ソロホームラン。スコアは0−2。

 さすがの大河内も、嬉しそうな様子で足を速めてベンチに走っていった。

 マウンドに君臨する不動の怪物をどう崩すか。バタ西のメンバーはそればかりを考え続けていたのだが、残念ながらこの一発で南条の緊張がぷっつりと切れてしまった。

 南条は続く四番の柴にもホームランを浴びた。高めに抜けたストレートが打者の打ちやすいところに入ってしまった。普通の球場ならバックスクリーンに飛び込む大打球。点差は三点に広がった。

 さらに五番の仁戸には2ベースを打たれ、その上三盗を決められた。

 ここで角田監督はタイムを取り、投手の交代を告げた。マウンドにはレフトから左投手の柴島が駆け寄ってくる。

 南条は不平な様子を見せることもなくベンチに帰ってくると、そのまま長いすにへたり込んだ。

「大丈夫ですか?」

 ぐったりと首をうなだれる南条に、マネージャーの沙織が冷たいタオルを持って駆け寄る。

「ああ、ごめん。大丈夫。ちょっと疲れた……」

「すまんな、南条。もう少し早めに降ろすべきやったな」

 角田監督は振り返って南条に声をかけた。六回に入って南条の球威は明らかに落ちていたのだが、大河内の攻略に頭を悩ませていた角田監督は南条の異変に気づかなかった。

 熱さ、重圧、相手の威圧感……南条の体力が切れた原因はいろいろ考えられるだろう。大会になれば簡単に弱音を吐くことは許されないが、今日はあくまで練習試合。無理をしてつぶれてしまっては元も子もない。

 代わった柴島は好投した。左腕から、横手気味のスリークォーターで投げ込むスライダーとカーブを駆使して、六番打者をキャッチャーフライ、七番打者を三振にきってとった。

 八番打者に三遊間を抜けるヒットを打たれ、ランナーが一人帰り四点目を入れられてしまったが、ノーアウト三塁からのリリーフ、一点はある程度仕方がない。柴島は九番打者を落ち着いて一塁ゴロにしとめ、この試合の中ではひどく長く感じられたイニングを終わらせた。

 

 最終的に、0−5でバタ西は負けた。

 夏春連覇を果たした強豪と、地区決勝戦の壁に跳ね返される地方の公立校。絶望的なものでないとはいえ、両者の力の差は大きい。

 七回の表、新月が大河内からこの試合最後となるヒットを放った。三遊間への当たりを七条のショートはうまく回りこんでつかんだのだが、ここは新月の足が勝った。

 そして二番の後藤に出された代打は、対外試合初出場の張。

 角田監督の思惑は当たった。一か八かで出した張のバットが、大河内の直球に見事かち合ったのだ。

 結果は大きなライトフライ。

 力には力で勝負、悪い発想ではないが、両者のレベル差は監督の予想をはるかに上回っていた。

 バタ西の中で唯一球が見えつつある、三番打者の金田貴史に対して、大河内はスライダーを交えてきた。

 甲子園では落差の大きいフォークとともに打者たちのバットを容易く回してきた球だったが、ケガ上がりでキレがそれほどなく、貴史にとっては逆に打ちごろとなった。ただ、当たりは不運にもショートの正面を突き、内野ゴロに終わってしまった。

 その後も、八回裏に七条打線が一点を加えたことを除いては、両者ゼロ行進が続いた。

 この練習試合に意義を見出すことは難しくない。頂点を極めたものの力、これから克服すべき弱点、さまざまな課題が選手たちの視界に浮かび上がってきたことだろう。しかしそれらを克服したところで、この覇者に追いつき追い越すことができるのか、そこまでの確信はまだ持てない。

 

 ホームプレートをはさんで両者が整列し、握手を交わしたとき、大河内は南条に言った。

「いい試合だった。また戦おうな」

 大河内の温和な表情の中で冷たく光る目に、南条はある投手の影を感じ取った。

 こいつの言ったことは、たぶん社交辞令だ。

 南条は汗ばんだ手に少しだけ力を加えて大河内の手を握り返した。

 

 

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