約束

 

「いつかは話さなあかんと思ってたことやからな」

 新月はテレビのスイッチを後ろ手で押して消した。両手を前で組み一息つくと、父親と自分の生い立ちについて語り始めた。

 

 新月の父親は高校球児だった。ポジションはショート、俊足を武器とする一番打者で、夏の甲子園にも一度出場したことがある。そのときチームは初出場で勢いにも乗っていたのだが、惜しくも緒戦で敗れ、父親は二度と甲子園の土を踏むことはなかった。

 新月と同じく自信家だったので高校時代はプロのチームに入団する決意を硬くしていたのだが、特にスカウトから注目されることもなく、家庭の経済的事情で本格的に野球を続けることも難しく、結局地元の工場に勤める工員となった。

 そんな父親が息子に野球を教えたのは必然だった、といっていいだろう。息子――新月誠は父親譲りの、いや父親以上の俊足、強肩を持ち、地元のリトルリーグで小学四年生にして外野手のレギュラーに定着した。六年生の時にはチームのエースピッチャーとなり、ある大会で準優勝に輝いたこともあった。

 新月自身、内野手になろうと思ったことはなかった。ゴロをさばくのが非常に苦手だったのだ。内野手特有の複雑な動きもなかなか覚えられない。

 新月の地元は中学に野球部がない特殊な地域で、また本人がより高いレベルの野球を望んだこともあり、中学時代からリトルシニアのチームで硬式野球をやっていた。ちなみに新島県、南海大付属沢見高校のエース弓射もこのチームに所属していた。

 ここでも新月は、最終的に投手を目指しつつ外野手を務めた。そう、こう見えて野球センスが高く努力を怠らない彼は、一年生で早くもレフトのレギュラーポジションを獲得したのである。

 そんな新月の成長を父親は自分の生きがいにさえしていた。父親は常々、「甲子園はええぞ、あの土は最高やで。絶対いけよ。甲子園」と息子に言っていた。特に酒が入ったときなどはあまりにしつこく繰り返すので鬱陶しく思ったものだったが、新月も甲子園への憧れを強めていった。

 父親が倒れたのは新月が中二の夏、試合を戦っている最中であった。そのとき家から新月にかかってきた電話では、軽い貧血で倒れただけだと伝えられたから、新月はそのまま試合に出続けた。

 その試合、新月はリリーフとして大会でのマウンドに初めて上がっていた。こんな大事な試合を途中で放りだしたら親父は逆に起こってまた倒れるかもしれん、そんな考えもあって新月は投球を続けた。

 検査の結果は違っていた。重度の脳出血。

 数日後に意識は回復したものの、右半身が動かなくなっていた。

 新月は毎日父親の入院する病院に通った。話すのは決まって野球のことだった。成績のことは……逆に病状が悪化するから言うな、と父親自身に止められていた。

 二年夏の大会が終わり三年生が引退すると、新月はここでもチームのエースピッチャーとなった。ちなみに二番手投手は弓射だった。彼はひとまずショートに落ち着き、新月からエースの座を奪うのを虎視眈々と狙っていた。

 

「ま、あいつのことはどうでもええねんけどな」

 新月はいったん首を上げて息をついた。記憶をたどるのに少し疲れたらしい。

 南条、具志堅、刈田はムダ口を叩くこともなく耳をじっと傾けている。新月がこれだけ真剣に話しをする機会はめったにない。

 小休止を終えて、新月は再び口を開いた。

 

 父親は息子がエースになったという知らせを心から喜んで聞いた、ように見えた。

 病状が著しく悪化したのは10月初旬。リハビリを続け、右腕を動かすことができるようにまで回復していた矢先のことだった。

 この時は新月も練習を中断して病院に駆けつけた。医者に聞くと、もって数週間だと覚悟しておいた方がいい、という話だった。

 父親は新月が入ってきたのを見て何かを言おうと口を動かしてが、言葉をはっきり発音できなくなっていた。

 それから五日後の夜だった。夜はつきっきりで父親のそばにいることになっていた新月に対し、父親は必死で口を動かしてこう言った。

「誠……頼みが……ある」

「お、なんや、なんでも言うてくれ」

 突然の言葉に体を乗り出して聞いたものが、父親の最後の言葉になった。

「世界……世界一……ショートに……俺の……代わり……」

 父親はまぶたを下ろし、昏睡状態に入った。

「お、おう! 任しとけ! 親父、大丈夫か!?」

 肩を持って揺さぶりたくなる気持ちを必死で抑え、新月は周りにとめられるまでひたすら声をかけ続けた。

 翌日の昼、新月の父親は逝った。

 

「アホやろ、俺らほんまのアホや。親父も俺も、俺の守備がどんだけマズいかってこと、十分知っとるのにな」

 新月はサバサバとした表情で言った。四年間という歳月が彼の涙を絞りつくしてしまったのだろう。そんな新月の明るい表情が、見ている三人の心を痛めた。

「で、葬式終わったその日からショートに入って猛練習や。監督に事情を話して、ショート以外やったら使ってもらわんで結構ですって言ったら、ほんまにそうしてくれたわ。もちろん、ちゃんと使えるだけの力がついたらにしてくれ、って頼み込んだけどな。そんでひたすら練習して、センスも抜群なもんやから三年になる前にレギュラーになって、弓射はまたレギュラー落ちってことでな、あいつは俺を恨んで会うたびにつっかかってくるんや」

 ははは、と新月はいつも通り軽快に笑ったが、当然ついてくるものは誰もいない。代わりに刈田がたずねた。

「でも、それをちゃんと話してたら弓射だってわかってくれたんじゃ」

「アホッ」

 新月は再び真顔に返った。

「そんなん言うてしまったら、いくらあいつでも俺に遠慮して手抜きするかもしれん。そんなお情けでレギュラーとったら親父にしばかれるわ」

 そう言うと少し背を伸ばし、新月はバタ西に来たいきさつを話し始めた。

 

 新月はショートのレギュラーとして中三の夏を戦った。とりわけ走塁ではチーム一の能力を見せ、地方の野球部からもいくつか誘いを受けた。だが、学費を全額免除、という条件まで出して獲得に乗り出す学校はなかった。

 父を失い、貯金もほとんどない新月の家計は極めて苦しかった。半額免除でも、寮費のかかる地方の私立高校に進学する余裕はなかった。

 かといって大阪の公立高校に入学すると、甲子園への道のりは極めて遠くなってしまう。神奈川と並ぶ全国一の激戦区大阪で、甲子園までたどり着いた公立高校は非常に少ない。

 なんとしても第一の約束、甲子園への出場は果たさなければならない。そこで考え付いたのが、親戚の家に下宿してそこの高校に入学するという奇策だった。

 こうして新月は川端西高校に入学した。野球部に入り、ショートというポジションにこだわりつづけた。

 周りから外野の方が向いていると指摘されても、辛い特別ノックを受けることになっても、エラーで何度もチームに迷惑をかけても。

 

「そういうことやから、ショートのポジションは絶対渡さんで。実際、俺の守備も徐々にうまなってきてるやろ?」

 新月は「守備コーチ」刈田の顔を覗き込んだ。しばらくあごに手を当てて考えてから刈田は答えた。

「まあ、地区大会に出して恥ずかしくないぐらいにはなってると思う」

「……こいつ!」

 新月は立ち上がって刈田を後ろから羽交い絞めにした。いやいやながら、新月の守備は甲子園レベルだと認めるまで、新月は腕をほどこうとしなかった。

 楽しそうに戯れる二人を見て、すっかり目の覚めた南条は思った。どういういきさつであれ、新月はこのチームに来て正解だったのだ、と。

 俺はどうなんだろう。続けて考える。たぶん、間違いではなかったはずだ。あのまま大きな影に押しつぶされそうになりながら野球を続けるより、ずっと気楽で充実しているはずだ。

 ようやく一騒動が収まったころ、南条の胃が大きく音を立てて鳴った。

「……腹減ったなあ」

「そりゃあ飯も食わずに寝てたからな」

 少し眠たそうに目をこすりながら、隣にいる具志堅が指摘した。

「もう食堂行っても飯はないか……」

「台所に残り物ぐらいはあるかもな。つーかまず着替えろ。風呂も入れ。汗くさいぞ」

 南条はあごを下げて自分の衣服を見る。熱戦をともにしたユニフォームを着たまま新月の話を聞いていたことに、ここで初めて気がついた。

 あわてて立ち上がり、バッグのファスナーを開ける。着替えのジャージとTシャツを取り出すと、南条はそそくさと部屋を出て行った。

「あれがエースだもんな……なんというか……」

 そういいながらも、南条の背中を見送る具志堅の表情は温かかった。欠陥のあるエースのほうが、バックとしては支えがいがある。

 南条の寝ていた布団はユニフォームにしみこんだ汗と砂ぼこりですっかり汚れていた。やれやれ、片付けてやるか、と腰を上げかけたとき、

「そういえば新月は」

 ふと思いついて具志堅はそう尋ねた。

「高校ではピッチャーやろうと思わなかったのか? いや、あくまでサブポジションとして」

 中学時代の話とはいえ、一時期は付属沢見のエース弓射をさしおいて背番号1をつけていた新月だ。その気になればそれなりの投球をすることもできるだろう。

「はじめはチラッと考えたけどな。でも入部して初日だったか、谷嶋さんが投げてるのを見て、これはあかんなと思ったわ。一年以上ブランクがある俺が中途半端に手を出しても時間のムダや、って。その後木田さんのピッチングまで見てしまったからなおさらな」

 新月は昨年夏のバタ西を支えた二枚看板の名を出した。確かにこの二人のピッチング、特に直球のスピードと変化球のキレは、新入部員の目にはあまりにまばゆいものだった。

「でも、南条だってかなりブランクあったのに復帰したんだろ。お前もやろうと思えば……」

「いや、あいつとか、柴島とか八重村とかのピッチング見てて思うけどな、肩がちょっと強いだけの俺が下手に投げたところでかなわへんって。なんだかんだいって、あいつらはピッチャーで、俺はショートや」
「そんなもんか……」

「それに、俺には回り道してる余裕がないしな。まだまだ俺の力は足らん。守備はもちろんやけど、バッティングも走塁もまだまだ……」

 新月の目は次第に光を強めていった。

 彼は何の決心もなく、甲子園だ、プロだ、メジャーだと騒いでいるわけではない。彼のビックマウスは、はちきれんばかりの向上心の表れなのだ。

 上の舞台に進むやつっていうのは、こういうやつなんだろうな、と具志堅はなんとなくそう感じた。実際、彼の予感は後々的中することになるのだが、今は一球児の可能性を信じるだけにとどめておこう。

 

 夜の宿。食料を求めて徘徊する一人の大男。

 と書くと少し物々しい雰囲気も漂いそうなものだが、要は寝過ごしてくいっぱぐれた南条がかすかな期待と空っぽの腹を抱えて食堂に向かっているということだ。

 現在時刻は10時少し前。本来の食事の時間から二時間以上たっている。具志堅はまだ残り物があるかもしれないといったが、衛生には最大限気を使わなければならない宿泊施設の厨房だ、大半のものは処分し終えているだろう。

 こんな山の中にコンビニなんかないよなあ、と絶望に打ちひしがれながら、それでも南条は脚を前に進めていく。

 ロビーのあたりに出ると、人の気配がする。何気なく近寄ってみた南条が目にしたのは、ロビーのソファに腰掛けて机をはさんで語らう、角田監督とこの宿の管理人だった。二人は学生時代の同級生で、それが監督がここを合宿所に決めた大きな理由だ。

「おう南条、どうしてん?」

 振り返った監督はビールの350ml缶を手にしていた。旧友といっぱい酌み交わして昔話に花を咲かせていたのだろうか。一応職務中なので好ましいとはいえないが、少しぐらいはかまわないだろう。

「あの……食事時間ってもう終わりましたよね?」

「食いそびれたんやな。目覚ましくらいかけとけや……」

「すみません」

「カッちゃん、なんか残ってないか?」

 監督がたずねると、管理人はすぐさま立ち上がり気前よく請け負った。

「うん。たぶん俺の部屋になんかあるから持ってくるわ」

「すみません……ありがとうございます」

 内心ほっとしながらも、南条は最大限申し訳なさそうな表情をした。

「スミスから聞いたけど、七条相手に六回を投げたんやって? 疲れてるやろなあ」

 スミスというのは角田監督のあだ名だ。前に南条が会った社会人時代の監督のチームメイトもそう呼んでいた。あだ名は意外といろいろなところに残り続ける。

「はい。だいぶん打たれましたけど……」

「いやいや、立派立派。この暑い中でお疲れさん。俺も昔は高校球児やってん、スミスと同じチームでな。どんだけしんどいかよくわかるわ」

「あ、そうなんですか」

「そうそう……ってどっちゃでもええこと言うてる場合ちゃうな。急いで取ってくるから」

 管理人は軽い足取りでその場を後にした。類は友を呼ぶというが、この管理人も角田監督のように気さくな人だ。

 空いた椅子に座るようすすめられ、南条は腰を下ろした。監督もついでに一休み、といったところなのだろうか。酒気の入った顔が随分赤らんでいる。

 一言二言、部屋の選手たちの様子について聞かれたあと、南条は何気なく聞いてみた。新月のいきさつの余韻が、体の中でまだ響き続けていたのだ。

「監督」

「ん?」

「人って、いろんな人生を送ってきてるんですね」

「そうや」

 監督は机に覆いかぶさらんばかりに身を乗り出してきた。教師という職業が関係しているかどうか定かではないが、監督はこういう話しをするのが嫌いではない。

「お前だって今まで、いろんなことがあったやろ?」

「はい」

「ワシもいろいろあった。人は誰でもな、長い長い過去を背負って今を生きとるんや。『平凡な人生』なんかどこにもない。皆、自分と同じかそれ以上に辛い経験をして今に至ってるのに、目の前では何もなかったみたいに笑っとる。だから、絶対に人をバカにしたらあかん。人をバカにするってことはな、その人が生きてきた時間と、そこで関わった全ての人を否定するのと同じなんやで。自分の人生を真っ直ぐ振り返ったら、そんなことは絶対でけへんはずやろ?」

「……監督、かなり酔ってますね?」

「そうや」

 角田監督は赤い顔をからからと動かして笑った。この笑顔の裏にも、忘れてしまいたいような辛い思い出がうずたかく積み重なっているのだろう。南条たちの二倍以上の時間を生きたぶんだけ。


 

 その後3日間、バタ西の選手たちは七条高校戦で見つけた弱点の補強を中心に練習に励んだ。怪我人を出すこともなく有意義な10日間を終え、選手たちは新島へ帰還した。

 ごく少数の選手以外は宿題の存在をすっかり忘れていた。彼らにとっては、合宿帰りの日、8月31日の夜に真の地獄が待ち受けていた。強行スケジュールを立てた角田監督ばかりを恨むわけにはいかない。

 これも将来、かけがえのない経験となって彼らの人生を支えていくはずだ。たぶん。

 

次へ

第六章メニューに戻る

小説目次に戻る

ホームに戻る

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送