偵察の旅

 

 ペースの緩いランニングを終え、ほんのりと上気させた体で、南条はバタ西のグラウンドへ帰ってきた。額の汗を袖でぬぐう。午前中とはいえまだ9月。まだ追い込んで走るには少し暑い気温だ。

 昨日9月9日、このグラウンドで南海大附属沢見高校との練習試合が行われた。昨年の夏以来何度も戦っている相手で、互いの選手同士にも知り合いが多いのだが、秋季大会を一週間後に控えているだけあって私情抜きのごく真剣な練習試合となった。

 結果としてはバタ西が5−3で勝利した。附属沢見は二番手の投手が五回四失点、次いで登板したエース弓射が一失点。バタ西は南条、柴島、八重村と三イニングずつ継投し、それぞれ南条が一点、八重村が二点失った。打線では二本の二塁打で二打点を上げた金田貴史、そしてソロアーチを放った具志堅の三、四番コンビが光った。

 勝利をつないだ三人の投手には今日、大会前最後のちょっとした休暇が与えられている。一応、ランニングや力を抑えた投げ込みなど軽いメニューは課されているが、五時半ごろには帰路につくことになるだろう。

 キャプテン新月がノックする姿を横目に見ながら、南条はベンチの裏にある部室へと向かった。タオルが欲しい。扉を開けると、室内にカタカタと乾いた音が響いていた。

「あっ……」

 空気が張り詰めていた。南条は思わず飛び出しかけていた声を引っ込めてしまった。

 壁際の机上に置かれたノートパソコンに、マネージャーの水本沙織がひたすら何かのデータを打ち込んでいる。その後ろで、学ランを着たメガネの男がモニターをじっと覗き込んでいる。

「あ、南条君。久しぶりですね」

 メガネの男が、立ち尽くす南条に声をかけた。

「ふ、藤谷さん。お久しぶりです」

 南条が戸惑ったのも無理はない。学ランのボタンを一番上まで律儀に止めて、髪をそろえメガネをかけた藤谷さんの姿は、どう見ても体育会系の雰囲気とは縁遠いものだった。今の彼を始めて見る人に、この人はついこの間まで野球部の正捕手だったんですよ、と言ってもすぐには信じてもらえないだろう。

 藤谷さんは、夏の大会最終戦で少しトラブルを起こしたものの、引きずることなく受験生として勉強に専念している。もとより学年でもトップの成績を誇っていた藤谷さんは今、地元の新島大学理学部を目指しているそうだ。合格したあかつきには流体力学をまなんで、変化球の秘密について解明したいと熱く語っていた。

 今日も土曜日ということで本来学校は休みなのだが、補習のために熱心に登校してきている。その合間に、こうして野球部をたずねてきているのだ。

「沙織さんからも聞いたんですけど、昨日の練習試合はどうでしたか?」

 藤谷さんはなぜか後輩に対しても敬語を使う。変わらないなあ、と藤谷さんの姿をしげしげと見つめながら南条は答える。

「そうですね、肩の調子は悪くなかったんですけど、全体的に球が高かったです」

「なるほど。それはこれから最終調整ですね。体のバランスは直りましたか?」

「はい。大丈夫です」

 それから藤谷さんはいくつか立ち入った質問をした。こうして野球の細かい話をしていると、南条は一瞬、藤谷さんがプロテクターを付けミットをはめているような錯覚に陥った。外見がどうあれ藤谷さんは、バタ西野球部の一員だ。

 ここでついでに、野球部を引退した他の三年生たちの近況も記しておこう。

 前キャプテン、角屋さんはすっかり受験生になっている。といっても野球部在籍中から貯金のあった藤谷さんとは違い、慣れない長時間の勉強になかなか苦労しているようだ。スポーツ推薦は受けないんですか、と一人の後輩が尋ねたが、俺にはちょっと無理かなあ、と笑って否定していた。

 島田さんは社会人野球の世界に入る。角田監督のつてをたどって、兵庫の西進鉄鋼に入社する予定だ。チームのスカウトは角田監督から情報を聞き、実際の試合を見て島田さんの高い身体能力を評価した。

 入社の話が来たとき島田さんは、これで勉強しなくてすむ、チームで活躍するためにこれからも野球三昧だ、と大喜びしたのだが、監督にすぐさま止められた。曰く、いまの島田さんでは仕事が勤まらないそうだ。一昔前とは違い、財政的に厳しい今の社会人チームでは、選手たちも一社員としてきちんと仕事をこなさなくてはならない。ときどき野球部に体を動かしに来るものの、とりあえずは次の中間テストに向けて机に張り付く時間が多くなっている。

 土方さんはというと、彼も大学進学に向けて努力している。母子家庭でかつ母親の体調がすぐれないため、奨学金をもらって入学する予定だそうだ。では野球への思いは完全に断ち切ったかと言うと、そうでもないらしい。ひそかに右腕強化のためトレーニングを続けている。

 その他の三年生も、野球一筋の(もちろん、藤谷さんのように野球部のころから将来の準備をしていた者もいるが)高校生活を終え、それぞれ進学に就職に第二のスタートを切っている。

 

 藤谷さんの質問が終わると、南条は自分のロッカーに向かいタオルを取り出した。

「藤谷さん、昨日のデータの整理が終わりました」

 モニターから顔を上げ、南条が入ってきてもかまわずパソコンを操作し続けていた沙織が報告する。彼女の風貌も、ジャージを着ているからかろうじて見分けられるものの、野球部の雰囲気とは少し遠いところにある。

「お疲れ様です。ちょっと貸してください」

 藤谷さんはマウスを動かしてなにやらソフトを操作し始めた。ときどき沙織に問いながら、ふむふむとうなずいて画面上に視線を滑らせていく。

「あの……」

 そんな二人の様子をぽかんとみていた南条がたずねる。

「なんですか、それ」

「これですか」

 藤谷さんは背を伸ばし、誇らしげな様子で南条の方へとモニターを向けた。びっしりと数字や文字の書き込まれた表が映っている。

「必殺諜報台帳って覚えてますよね」

「あ、はい。藤谷さんがノートに相手チームのデータとかを書いてた……」

「それです。沙織さんがExcelに入力してまとめてくれたんですよ。見てください」

 キーボードを叩き、南条君の得意球種、とつぶやきながらデータを入力していった。

「はい。数字が出ました」

 と言われても、南条には表のどこに数字が出たのかわからない。黙って話の続きを聞く。

「高さだけのデータだと、南条君はローボールヒッターだといえますね。安打にした球のうち真ん中から下に65%以上が集まっていますし、特に低めの率が高いです」

「……はあ。すごいですね」

「やっぱりデジタル化すると格段に便利ですね。前はノートを全部参照して処理していたものなんですが、欲しい情報がすぐに出てきますからね。本当は現役時代にやっておきたかった仕事なんですけど、なかなか忙しくて。引退したら引退したでまた時間がなくなりましたし……沙織さんには本当に感謝しないといけません」

「確かに……」

 諜報台帳にどんなデータが入っていたのか、それをどうやってコンピューターに入力したのか、南条に詳しいところはわからなかったが、そのために膨大な労力がかけられたことだけは想像できた。

「いえ、プログラムの枠組みはほとんど藤谷さんが作ったものですし、まだ全部入力し終えたわけではないので……」

 二人の先輩の視線を受けて、沙織は少しうつむいて謙遜した。そうして再びデータ入力に戻ろうとして、ふと気づいたように口を開いた。

「そういえば南条さん、刈田さん見かけませんでした?」

「刈田?刈田は……あっ、そうだ。さっき一年生を連れてランニングに出て行ってた」

「そんなメニューはなかったはずですが……また逃げられました」

「逃げた?」

「今日は練習が少ないので、他校の偵察に行く予定だったんです。私一人ではいろいろと不都合なので、ついてきてもらうつもりだったんですけど……どうしましょう」

 困った様子でつぶやく沙織に、藤谷さんが心配そうに尋ねた。

「刈田君は最近どうなんですか、ちゃんと諜報部の仕事をしてるんですか?」

「いえ、こっちの方にはまったく身が入っていませんね。ほとんど幽霊部員です」

「それはまずいですね。近代野球の要は情報ですよ。後でもう一度、刈田君とじっくり話す必要があるかもしれませんね」

 ちなみに諜報部とは、藤谷さんが勝手に作ったバタ西野球部の内部組織だ。監督から目をつけられながらも後輩を引き入れ、他校の偵察やデータの収集、整理を行っていたのだが、藤谷さんなき後はすっかり沙織が自称しているだけの組織となってしまった。

 刈田も今は副キャプテンなんだから、他の仕事に手を回す余裕がなかなかないんだけどなあ、と南条は内心つぶやきつつも、話がややこしくなりそうなので口を出さないでおいた。

「ではそろそろ……」

 刈田の「処分」については放置して部室を出ようとしたとき、南条は沙織から呼び止められた。

「今日は南条さん、チームで一番メニューが少なかったですよね」

「え、そうだけど」

「ちょっと偵察についてきてくれませんか?」

 嫌な予感はしていたのだが、やはり頼まれた。ためらう南条に、藤谷さんが追い討ちをかける。

「南条君、偵察は自分のためにも役立ちますよ。相手を事前に見ておくか見ておかないかで、実際に対戦するときの対応が全く違ってきますからね」

「はい。それはいいんですけど……」

 問題はそのやり方だ。普通、大会前のチームは他チームからの偵察を好まない。そもそも他の学校の生徒がグラウンド付近をうろついていること自体が怪しいため、まともに練習を見ようとすれば追い出されるのは見えている。そこでバタ西諜報部は、あらゆる手段を駆使して、相手に気づかれないように偵察を行う。

 その具体的な内容はこれから明らかになるのだが、とりあえず刈田が逃げ出したくなるほどの手段だ、ということだけは述べておこう。

 もちろん、それを噂に聞いているだけの南条もすすんで行きたいという気分にはならない。

「じゃあ問題ないですね。行きましょう」

 沙織は突然立ち上がり、珍しく強い口調で南条の前に立つ。

「え、いや、この後投げ込みが……」

「大丈夫です。偵察から帰って、投げ込めるだけの時間は残しておきます。夕方までには終わりますよ」

「でも今日はみんな早く練習終わるから、帰ってきたら球を受ける人が残ってないんじゃ……」

 南条の反論は全くまともなものだったが、彼は一つ、重大なことを忘れていた。

「そんなことはないですよ」

 口ごもる南条の横で穏やかな声があがった。

「今でもミットは常に持ち歩いてますから。僕でよければ帰ってくるまで待ちますよ」

 しまったと後悔しても時すでに遅し。

 こうして南条は、沙織とともに偵察の旅へと出ることになった。

 

「守備はB、というところでしょうか。特に連携がスムーズですね」

 木に背を持たせかけながら、沙織は手元のノートに評価を書き記していく。そうして書いているあいだにも、目は敵チームのグラウンドに絶えず向けられている。そこから読み取れる情報を一つ残らず汲みつくさんとするように。

「あのー……沙織さん?」

 そんな彼女の様子をうかがいながら南条はおずおずとたずねる。

「念のために聞くけど、ここは清学の敷地じゃないよね?」

「いえ、そうですけど」

「やっぱり」

 沙織のあまりにそっけない返事に南条は肩を落とした。

 いま二人は、清駿学園野球部のグラウンド、一塁側のネットに隣接する小さな山に潜んで、チームの動きを偵察している。清駿学園は、新島では陽陵と肩を並べるスポーツ強豪の私立高校だ。

 バタ西や付属沢見、軒峰といった新興勢力が台頭してくる前には、甲子園出場の頻度はむしろ陽陵より多かったほどだが、最近の成績は三年連続地区予選敗退と振るわない。グラウンドの練習からは、そうした不名誉な状況を打ち破ろうとするかのような熱気が伝わってくる。

「それじゃ完全に不法侵入か……まだ人通りが少ないからいいけど、大会一週間前なのに見つかったら」

「それより南条さん」

 沙織は南条の心配をそらそうとするかのように質問する。

「あのピッチャーはどう思いますか?エースが故障していて、大会ではあの背番号4の選手が主戦になるはずなのですが」

「いやだからね、もうそれだけ情報が集まったんなら早めに逃げないと……」

「……一応、私なりに評価はしてみましたけど、あくまで素人の目から見たものですから。やっぱりグラウンドに立つ人の視点が入っていないと、生きた情報にはならないんです」

「うん、それはそうかもしれないけど……」

 それで誰かについてきて欲しいって言ったのか、と南条はここで納得した。沙織の熱意に負け、南条はグラウンドに視線を注ぐ。主戦になるだろうと予想されるピッチャーは、野手の背番号をつけてはいるものの未経験者というわけではないらしい。フォームもまとまったものだし、マウンド上での足運びもなれている。

 だからといって何か際立った特徴があるかといえばそうでもない。清駿学園のエースがどれほどのピッチャーか、南条は知らないが、その故障は大きな痛手となっていることだろう。

「球速は結構出てる」

「130キロぐらいですか?」

「そうだね。少し超えるぐらい。まだ本気じゃないかもしれないからもう少し速いと見ておいていいと思う。ここから見た感じ、球のキレはそれほどでもないかな。ただコーナーへの投げ分けがしっかりしてるから、そこは注意したほうがいいかな」

「コーナー、ですか……」

 それから南条は気づいたことを何点か伝えた。それをすぐさまノートに書き付けていく沙織の様子を見ていると、南条も少し、この偵察に充実感を覚え始めていく気がした。

「じゃあ、そろそろ立ち退こう。結構長い時間ここにいるし……」

 一段落伝え終えると、南条は腰を上げながら切り出した。

「あっ、南条さん、グラウンドで」

「えっ?」

 その言葉につられ、とっさに目を向けてしまったのが間違いだった。

「いまからシートバッティングが始まるみたいなんですけど……」

 沙織はせがむように南条の顔をじっと見上げてくる。困ったな、と心の中ではつぶやくものの、南条はまた分析を続けずにはいられないのだった。

 

 本日の偵察三校目。二人は大樹の上に腰掛けていた。沙織は相変わらずノートとペンを手にしているが、南条は双眼鏡を通して目をこらしていた。

「あ、たぶんあのピッチャーかな」

 確認する声は極めて小さい。それもそのはずで、二人の足元には生徒や地元の人たちが時おり通行しているのだ。妙な物音を立てれば気づかれる危険性がある。

「たぶんそれです。瀬口剛士、二年生。一年生の秋からすでにファーストとしてレギュラーをつとめていたそうですが、この秋から本格的にエースになったそうです」

「へえ……」

 再び双眼鏡に目を戻し、相手投手の観察を続ける。最初はぶつくさと文句を言うものの、南条はいったん相手のペースに巻き込まれてしまうとそこに適応するのも早い。それに彼は周りの視線や評価といったものをあまり気にしないから、こうした任務には案外向いているのかもしれない。

 二人がいま偵察しているのは木根山高校。夏の地区予選では、昨年は一回戦敗退、今年は二回戦敗退と、確実に順位を上げてはいるものの好成績ではない。この高校は野球よりはむしろ、生徒の素行の悪さで有名だ。地元の不良たちからは、よほどのことがない限り木根山には手を出すな、と恐れられている。二人がグラウンドに近づかず、こうして校外の木の上からこそこそと観察をしているのも、この高校の一部勢力に見つかったときのことを恐れているためだ。

 実際に今年の夏予選、木根山高校との戦いが始まる前、沙織は木根山の生徒にデータ集を無理やりのぞかれるという苦い体験をしている。もっとも、そのときは土方さんの機転と威圧感で事なきを得たのだが。

 そんな高校の名前がリストに挙がってきた理由はただ一つ、沙織があげた瀬口というピッチャーの存在だ。数日前、木根山高校は陽陵と練習試合をした。陽陵側としては、格下を相手に控え選手の調整を行う、といった軽い気持ちで試合に臨んだのだが、なんと瀬口に完封を許してしまった。それも、最初から最後まで二番手選手を起用していたのならまだ話はわかるが、途中から主力を投入してなお瀬口を攻略することができなかったのだ。

 瀬口の球のスピードは、双眼鏡を通じてでも南条の目に伝わってきた。フォームは粗い、というより無茶苦茶だが躍動感が感じられる。

「他の様子はどうですか?」

「うーん、そうだな……」

 レンズの向きを変えて、外野手の様子を観察する。遠投の練習をしているが、コースが大きくずれたり、届かなかったりと締りがない。特に野球に力を入れているわけではない公立高校、サッカー部の横で行われているノックでも内野手の落球が目立つ。そもそもノッカーが自分の思うとおりに打球を飛ばせていないようで、白球がたびたびサッカー部のグラウンドに転がり込んでいる。

「よくこれで陽陵に勝てたなあ、ってレベルかな」「守備力はEで評価しますか?」

「そうだね。いや、ちょっと待って」

 南条ははなしかけたレンズの先に、一人軽快な動きをしている野手を見つけた。

 内野手、おそらくショートだろうか、打球に対して果敢に前進し、踊るように送球している男がいる。動きは見るからに不安定だが、球は捕れているし、送球もぶれずしかも速い。勢い余って脱げた帽子の中から金色の髪がのぞいた。

「うわっ、金髪だ」

「え?それって反則になるんじゃ……」

「まあ試合前には染め戻すだろうけどね。なんか、かなりいい動きをしている内野手がいる。守備範囲も広いみたい」

「そういう情報は入ってきていませんが……チェックしておきます」

 沙織はきちんとカテゴリー分けされたノートに文字を書き込んでいく。こうして見ると、彼女は以外にバランス感覚が高い。足で器用に木の枝をはさみながら、文字を巧みに記している。

 チェックが終わると、二人は木根山の偵察を切り上げた。双眼鏡越しでは得られる情報も少ないし、瀬口以外に見るべき点もあまりない。

 周囲の様子を十分に観察して、二人は素早く木のふもとへと降りていった。

 

 木根山高校のあとにもう一校の偵察を終えると、時刻は五時半になっていた。最後の標的は軒峰高校。もとは地区予選でも三回戦出場がやっと、といった公立高校のチームだったが、エース乾の成長とともに躍進し、昨年の秋は県大会優勝、夏はベスト8という実績を上げた。

 とはいえ軒峰高校は攻撃面に弱点があり、勝利も敗戦も僅差の試合が目立っていた。乾の引退とともにチーム力は一気に下がるだろう、と予想されていたのだが、二年生にまたいい投手が現れたらしい。

「吾妻(あづま)、という投手なんですけど、身長187cmと上背があるのにサイドハンドからのスライダーを得意としているそうです。ちょうど南条さんたちが今年の春に戦った、長州学院の草分みたいな感じでしょうか」

「うん、それはいいんだけどね……」

 南条はバツの悪い顔をして言った。

「その吾妻って投手が出てくるまでここで座ってなきゃいけないの?」

「ええ、そうです。この時間なのでもう投げ込みは終わってるかもしれませんが……」

 二人はバス停のベンチに座っている。ここから道路越しに、ネットを通してではあるがブルペンの様子をうかがい知ることができるのだ。

 軒峰高校野球部はグラウンドを他のクラブと共有している。グラウンドは校舎に囲まれているため外から観察するのが非常に難しい。藤谷さんの残した諜報台帳にも、軒峰高校の偵察難易度はAと記されている。

 その中でもなぜかブルペンだけは容易に様子を見ることができる。チームの躍進を機に昨年できたものだというが、土地がなかったためこのように奇妙な位置に作られたのだろう。

「でも、こんなに堂々と座っててバレないかなあ……そのバスも来るだろうし」

「そうですね。次は5時43分に来るそうです」

「43分……ってもうすぐだ!」

「離れましょう」

 沙織がまず立ち上がり素早い身のこなしでバス停から遠ざかる。南条もあわてて付いていくと、案の定次のバスがやってきたが、客がいないと見て通り過ぎた。

「これであと30分は来ません。安心して待っていられますね」

「……いや、待たなくてもよさそう」

 南条の視線の先に、細身で長身の選手が現れた。引き連れてきたキャッチャーを座らせ、ブルペンのマウンドをならしはじめた。

 それを確認すると、二人は再びベンチに腰を下ろした。こうして並んでいると、ただバスを待っている普通の高校生二人……にしては着ているジャージに違和感があるが、それほど怪しまれることもないだろう。

「あっ、そろそろ投げ始めるみたい」

「ですね。最後ですからしっかり見ましょう」

 目を凝らす二人の先で、突然吾妻が意外な言葉を上げ始めた。

『柏木、オーバーで行くぞ!』

『え、ここでか? ちょっと待て、監督に見つかったらヤバいって』

 柏木と呼ばれたキャッチャーは立ち上がって吾妻を止めようとするが、吾妻はかまわず投球フォームに入る。

 両手を頭の後ろまで振りかぶり、腕を大きく使って投げ下ろす。サイドスローの気配など微塵も感じられない完全なオーバースローのフォームだった。

 その後も吾妻はひょろりとした上背を生かしたオーバースローからストレートを投げ続けた。打席に立ってみなければ詳しいところはわからないが、かなり威力のある球であることは間違いない。

『吾妻、そろそろ監督来るって!』

『うるせえ! 実際に受けてるお前が一番わかってるだろ、俺にはオーバーの方が向いてるって』

『そりゃまあ、そう思うけど』

『だったらそのまま座っとけ! 俺はもうあいつのいいなりにはならないからな!』

 激しい言い合いの後も、吾妻はフォームを変える気配はない。そのうちに変化球も交え始めた。球種はよく読み取れないが、球の起動からは打者の手前で落ちる変化球だと見える。

 道路を挟んで見ている沙織はただただ混乱していた。吾妻は今大会最も注目されているサイドスロー投手、とノートには書いてある。情報を確認し間違えたのだろうか。どんなにページをめくってみてもつじつまを合わせることができない。ちなみに南条はその横でポカンと吾妻のピッチングを見つめている。

 異様な雰囲気の漂うブルペンに、一人の乱入者が現れた。

『おい吾妻! なんだその投げ方は!』

 二人ともはっきりとは覚えていないが、口調からしておそらく軒峰の監督なのだろう。しかし吾妻はそれを無視してピッチングを続ける。

『おいこらやめろ! 大会一週間前だぞ、何を考えてるんだ!』

 言葉による制止のきかない吾妻の体を、監督は無理やり押し止めた。

『何ですか、練習の邪魔をしないでください』

『質問に答えろ。大会一週間前なのに、いきなりフォームを変えて投げろなんて誰が指示したんだ?』

『誰にも指示されてませんよ。自分の判断で投げてるんです』

『バカ野郎!』

 監督は吾妻の体を軽く突き飛ばし、声を荒げて続ける。

『あの時のことをまだ引きずってたのか!』

『そりゃそうですよ。あんな言い方じゃ納得できません』

『わかった……フォームを変えるなら変えるでまた考えてやるけどな、大会が終わってからにしろ。いま急にフォームを変えてもまともに投げられるわけがない』

『考えてやる?』

 吾妻は文字通り監督を見下ろし、冷たく言い放った。

『嘘でしょう。選手の言うことを考えるなんて口だけで、どうせまた自分の考えを押し付けて満足するんでしょう?それに、急にフォームを変えるわけでもないですよ』

『何?』

『柏木と二人で、あの後ずっとこのフォームで練習してましたから。もうだいぶ体も慣れてきましたよ』

『……柏木!』

 キャッチャーの方に体を向け、監督は再び怒声を上げた。

『お前も共犯か! なぜ俺に報告しない?』

 キャッチャーはただうつむいて黙っている。彼も内心、監督の方針に納得できない部分があるらしい。

『くそっ、エースに指名してやったとたんつけあがりやがって。乾はこんな風に反抗したことはなかった』

『表向きは、でしょう?』

『裏では陰口を叩いていたとでも言いたいのか? それならそれでいいさ。選手だったら目上の悪口の一つや二つは言うだろう。でもな、あいつは少なくとも決められたメニューはその通りにこなしていた。それがチームの中心者としてどれだけ大事なことかお前にはわからないのか? 全員が規律を守っていかないとチームは動かない。俺が来る前の軒峰は……』

『じゃあお聞きしますけど』

 長い説教を浴びせかけようとする監督に対し、吾妻は早くも勝ち誇った表情を作った。

『監督はいつ、乾さんに高速スライダーを教えたんですか?』

『それは……』

『妙な作り話なんか考えなくていいですよ。乾さんが坂登さんと二人三脚で必死に自主練をして高速スライダーを覚えたってことは、このチームの選手なら誰でも知ってることですよ』

『違う!俺は……』

『監督は結局自分の考えを押し付けてチームを動かそうとしてるだけで、選手の特性なんか何も見ていないんでしょう?乾さんは監督に従ったからあれだけのピッチャーになったんじゃない。監督に従わなかったから自分の特徴を殺さずに済んだんです』

『……うぬぼれるのもいい加減にしろ!』

 声を張り上げてはいるものの、それが追い詰められての虚勢であることは明らかだった。

『お前が自分の力をどれだけ評価しているかは知らんがな、この際はっきり言ってやる。お前には一人でチームを勝たせるだけの力はない。だから勝手な行動は謹んで、チームを一つにする努力が必要なんだ。これから大会まで、フォームを変えるようなことがあったら試合には出さないからな。これは脅しじゃない、本気だ。いいな?』

『……わかりました』

 吾妻は監督に背を向けてブルペンを出て行った。キャッチャーの柏木もあわててついていく。

 一人残された監督は、いまいましそうに帽子の上から頭を押さえ、マウンドの土を強く蹴った。

 そんな深刻な対立の外にあるバス停の二人。

「貴重な情報が得られましたね」

 沙織は大きく表情を崩すこともなく、監督とエースに不和あり、とノートに記していく。横に座る南条にはとてもそんな冷静さはない。あまりに激しい口論に意識をすっかり乱され、今ようやく解放されたような気分になって息をついている。

 南条にとって、選手があれだけ激しく監督に抵抗するというのが何よりショッキングだった。少なくともバタ西では、角屋さんや藤谷さんといった先輩たちがときおり角田監督に意見していた程度の光景しか見られたことはない。

 いつか自分も、ああして角田監督に反抗するときが来るのだろうか。その理由も光景も、とても想像することはできなかった。これまで角田監督の言ってきたことは正しいことだと思うし、選手一人ひとりの考えも尊重してくれている。それに監督は投手としての経験も、プロでの活躍こそないものの実績も卓越している。そんな監督に反抗する要素があるなど、今の南条にとっては考えようもなかった。

 新島県秋季高校野球大会まで、あと一週間。それぞれのチームはさまざまな事情を抱えながら、最終調整へと足を踏み入れていく。

 

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